第20話 動物病院
「結局、リクと二人か」
「嫌なら帰ってもいいけど」
「まさか。土下座するまで文句を言い続けてやる」
「何その喧嘩」
「一応、泣いたら勘弁してやる」
動物病院の前に自転車を停めた僕をあきれた顔で陸香が見る。
「どうしたの?」
「単純なトシが羨ましくって」
「でも、今回は、単純でいいんじゃないの?」
「あのさ、先生、凄くいい人なんだよね。
陸香はお通夜でもあるかのようにしおれている。
「待ってたら? 話つけてくるから」
「ううん。誤解かもしれないから。それに、冷静に話をしたいし。トシだと単なる喧嘩になりそうなだけだから」
「ふぅ。このクラスで一番、冷静沈着な僕に向かってなんて失礼なことを」
「そうね。自己申告することは重要なことだよね」
「ちっとも信用してない」
少しは元気そうになった陸香を見て、僕はガラスの扉を引いて開ける。病院内は白を基調としていた。人間の病院と大差ない。自分が病気になったわけでもないのに病院に来るのは不思議な気分だ。周囲を観察すると、患者さん。いや、この場合は患畜さんが三組待っている。伏せをしているドーベルマンが僕のことをちらりと見るとつまらなそうに目を閉じた。
僕は飛びかかられた時の回避イメージを考えていると、陸香は堂々とした様子でそのまま病院の中に入っていき受付の前に立つ。
「あら、後鷹司さん。何か困ったことでも」
「いえ。ちょっと先生にお伺いしたいことがあるのですが」
「急ぎじゃなければ少し待っていただいてもよろしいですか?」
四、五十代の清楚に見える受付の女性は丁寧だが怪訝そうな顔をする。僕と陸香は動物を連れていない。何をしに来たのかと言いたげだ。でも、僕は気にしない。やるべきことはわかっている。陸香が黒いクッションの長椅子に座ったのをみて横に立つ。
どうやって怒鳴りつけようかと考えていたから、ちょっと拍子抜けした。待たされていると怒りがどんどん溜まっていくタイプと薄まっていくタイプの人間がいるが、僕は後者のようだ。待っている患蓄さんがいなくなる度に落ち着いていくような気がする。横で座っている陸香も同じタイプだろうか。鞄から文庫本を取り出すと表情を変えずに読み始める。その態度からは怒りが全く感じられない。
僕はジロジロと見るのは悪いかと思って真正面を向く。勉強でもしようか。と一瞬だけ考えたが却下した。当初の目的を忘れてしまいそうだから。ただ、やることもなく退屈なので眠くなってくる。だが、眠れるわけでもない。立っているしここは動物病院。犬猫の鳴き声や動物の臭いが少しはあるので頭の回転が少し鈍くなるだけだ。
頭を軽く降ってから少し視線を上げる。受付の上に掛けられている時計を見ると六時を回っている。いつの間にか、僕たち以外には待合室にはいない。記憶でも飛んだかと思うくらい時間が過ぎている。
僕たちが来てからは新しい患畜さんは来ていない。だから、ゆっくり話ができるだろう。最後の患蓄さんが診察室から出てくると、僕は待合室で歩き始める。呼ばれたわけではない。でもじっとしていられなかった。
「ちょっとは落ちついたら?」
陸香は本を膝の上に置いて、うろうろと歩き回っている僕を上目遣いで見る。口では冷静そうだが、文庫本のページが進んでいないことくらい気づいている。多少は神経質になっているのだろう。
僕が立ち止まると文庫本を鞄にしまいこみ、スマホを取り出した。バイブレーション機能だろうか。陸香の手が震えているように見える。誰かから電話でもかかってきたのかと思いきや、陸香は画面とにらめっこしながら指を動かしている。
「何しているの?」
質問すると、リクは怪訝そうに僕を見る。しかし、すぐにスマホに視線を戻して指を動かし始めた。画面に集中しているように見えるが、僕が気になるのだろうか。見えないように携帯の角度を変える。
「リプ書いているのを見られると集中できないじゃない」
「リプ?」
「SNS……ううん、メールくらい知っているでしょ? テレビのドラマとかでもそういう場面があるし」
「うち、テレビなかったからドラマとかあまり見たことないけど」
「トシって本当に現代人?」
「少なくともアウストラロピテクスではないと思う」
「ホモサピエンスになりきれない北京原人さんか」
「もしかして、リクは僕を絶滅させようとしている?」
「お望みとあらば」
スマホを鞄にしまってから、リクは指先をピストルの形にして僕に向ける。バーンと撃ってきた見えない弾丸を僕が
「入ってください」
男性の声で診察室に入ると、触ると痛そうな無精ひげを生やした中年の男性が立っていた。陸香に言われなくてもこの病院の先生だと認識する。
僕は失礼にならないようにあまり頭を動かさずに部屋を見まわす。否応なしに気づくのが部屋の中央にある犬の毛がついた一本足の四角いテーブルだ。腰くらいの高さなのは、きっと動物を乗せる診察台だからだ。
「今日はどうしたんだい?」
先生に先制された。柔らかく穏やかな口調。和んでしまいそうな雰囲気だ。
「実は昨日のことですが……」
陸香からは言い出しにくいと思い、話を切り出した。すると先生も陸香も僕に注視する。上手い言葉を選ぼうとしているときに、背後で甲高い声がする。受付の女性だろうか。トラブルでも起きたのかもしれない。反射的に何事かと思って振り向くと昨日見たおばさんが立っていた。ドアを開いたまま、呼ばれもしないのに勝手に診察室の中に入ってきた。
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