第16話 黒たぬき
朝、目覚ましが鳴る前に起きた。三日目にもなると体が勝手に慣れてくるのだろうか。寝ぼけながらも朝の仕事を終わらして、学校に向かおうとする。自転車をまたいだ時点でオシゲがヘルメットを持ちながら通りかかる。バイクのシートにヘルメットを置くと思い出したことがあると言わんばかりに僕に近づいてきた。
「俊ちゃん。今日の私の色は何色だと思います」
「黒ですね」
オシゲは、まぁ、と言いながら顔を傾げて頬に手を当てる。
「何ですか、その反応。ジャンパーの色を言っただけですよ」
「俊ちゃんは聞いてくれないの?」
「なんだか分かりませんが絶対に聞きませんって」
「でも、言ってしまおうかな。今日は黒イタチさんだって」
「あーあー、聞こえない」
僕は耳を塞ぎながら大きな声をあげる。ここまですれば何もしない。というのはオシゲには通用しない。僕の両手を掴んで目を閉じて口を近づけてくる。
えっ? 朝っぱらから一体……。
動揺したのを想定していたのか、突如、目を開けると同時に僕の両手を耳から剥がす。
「下も揃えた色の黒タヌキさん」
オシゲが耳元で叫んだ。鼓膜が破れたかと思いながら、フラフラと自転車ごと倒れそうになる。左足で踏ん張って転倒しないように頑張っているうちに、キーンという耳鳴りも小さくなってきた。
周囲の音が聞こえるようになると、タロとジロが吼えているのに気づいた。君たちいくらなんでも飼い主に対して不信の吼え方をしちゃ駄目だ。
「ごめんなさい。ちょっと声が大きすぎました」
オシゲに両手で頭を掴まれる。そして、抵抗する間もなく胸の部分に抱き寄せられた。
「元気出してくださいね」
十分に元気が出ましたから放してください。心のなかで叫んでから僕はオシゲを押し返す。
「やっぱり、ジャンパーの上からだと感触が今一ですか」
確かにいつものようなムニムニした軟らかさが……。って誘導尋問? ニヤケ顔にならないように両手で頬を二回叩く。
「ところで、行くのですか?」
眼鏡をしていないオシゲはいつもより大きい瞳で僕を見る。瞳の中に心が吸い取られないように耐えているが、既に心の奥底まで見られてしまっているのかもしれない。
「何のことでしょうか」
「動物病院にです」
「リク……、お嬢様に聞いたのですか?」
「ええ、今日、一人で行くって言っていましたが、つきあいましょうか?」
「大丈夫ですよ」
「困ったことが起きたら連絡してくださいね」
僕が鞄の中から書くものを取り出そうとすると、オシゲが手紙を差し出す。受け取って中を開くと、『頑張れ少年』という言葉と一緒に携帯電話の番号が書かれていた。用意がいいのだが半分くらいは無駄なことに労力をかけている。半分呆れながらオシゲを見るとニカッて笑う。そして、僕の頭を軽く撫でてからフルフェイスのヘルメットをかぶった。ハンドルを片手で握りシートを体ともう片方の手で押さえながらバイクをゆっくりとバックさせる。駐輪スペースから出るとバイクにまたがりエンジンをかけた。オシゲは腹に響き渡るような低音を奏でているバイクに乗りながら、頑張れよと言わんばかりに親指を立てる。
「ありがとうございます」
ヘルメットをしているだけでなくバイクのエンジン音があるから、オシゲには聞こえないことは判っていた。判っていたからこそ素直な言葉が出てきたのかもしれない。僕は照れ隠し代わりに親指を立てる。
オシゲは軽く手を振ってからバイクをスタートさせた。境内をゆっくりと出て行くと、すぐに見えなくなる。ただ、騒がしいエンジン音だけが少しの間聞こえていた。
オシゲが立ち去った後の境内を見回すが誰もいない。陸香はこの時間のバスに乗ると思っていたのだが、いないということは既に出てしまった後だろうか。それとも今日は休むつもりなのだろうか。どちらでもいいや。学校につけば答えは判るのだから。僕はゆっくりとだが自転車を漕ぎ始めた。
教室の後ろ側のドアから入って全体を見回す。陸香の姿は見当たらないし席にもいない。けれどもキョロキョロとするのも気が引けてそのまま席に向かう。先に座席にいた徹に、おはようと挨拶を交わしてから座る。徹と話すために体ごと後ろを向くが、本当は最前列の陸香の座席が気になっていた。とは言えあからさまに振り向くわけにもいかない。
「俺の話聞いてる?」
上の空になっていた僕は徹のその言葉がトリガーになったのか、ふと昨日のことを思い出した。
「お前、犬とか好き?」
「おいおい、いきなり、どうしたんだよ」
「別に意味はないけれど、もし、犬とか猫とか貰ってくれと頼んだら飼う?」
「俺は動物の世話をしたくないから嫌だな。でも、妹は喜ぶかもな。で、貰えって?」
「貰ってくれるのか?」
「マジな話か?」
「いやいや、あくまでもたとえ話だから安心していいよ」
徹は、そうか。と言うと黙ってしまった。もしかして、本当はペットを飼いたかったのだろうか? からかう言葉は思い浮かぶが真剣に話を聞いてくれた友人に対して言うべきでないと僕は黙る。
「二人とも朝っぱらから暗いなぁ」
「俺、朝弱いから詩乃ほどテンション上がらないんだよ」
元気な笑顔をつれて現れた詩乃に対して徹はアクビをしながら返事をする。こちらを向いた詩乃に僕は、おはよ。って挨拶をしてから話を切り出した。
「昨日は母さんが世話になったみたいでごめん」
「どうして謝るかな。そういうの必要ないって」
「でも、無銭飲食だからなぁ。普通に考えれば犯罪だし」
「違うって。食い逃げしたわけじゃないんだから。自分の親をあまり悪く言わないの」
たしなめられて僕は視線を窓の方に向ける。僕はお金にからんだときの母さんのことを思うと複雑な気持ちになるのだ。好きなだけに許せない部分があって怒りを覚えるのだが、そういう感情を持ってしまう自分に嫌悪感が湧き出てくる。
僕は首を振った。あまりネガティブな考えに囚われないようにしないと。
「最近お店は忙しいの?」
「それほどでもないかな。でも、やっぱり土日は来てもらえると助かるけど」
「そっか。平日なら手伝えるかもしれないけど、土日は厳しそうかな」
「なら、木曜日に来てくれない? 町内会の用事があるって困っていたから」
「大将はいるんだよね」
「当たり前じゃない。お父さんいなかったら、誰がラーメン作るのよ」
「じゃあ、五時過ぎに行くようにするから。徹と一緒に」
「えっ? 俺?」
「ほら、土日のバイトにうってつけの人材だし」
「引継ぎするつもり?」
詩乃はハリセンボンのように顔を膨らませる。しかし、すぐに息を吐き出しハリセンボンはいなくなった。
「そうね。徹ならよく知っているから安心かも。私は部活があるから一緒に行けないけど大丈夫だよね」
「まぁ、今更だよな」
笑いかけたその時、背後で扉の開く音が聞こえる。詩乃は慌てて自分の席に戻り、僕は座りなおす。ザビエルと呼ばれている髪の毛が薄い担任は、クラスを一瞥するとホームルームを開始する。ハゲは話が長い。最後まで聞く必要など無いだろう。僕は担任の聞き流しながら、いつの間にか席に座っていた陸香のことを気にしていた。
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