第12話 陸香と猫

 もし、僕の声が聞こえていたのならば、一悶着あっただろう。だが距離があった。僕の呟き程度は聞こえなかった。勿怪の幸い。さっさとその場を逃げ出そうかと思うものの、ふと、セーラー服姿の陸香を見続けてしまう。


 陸香は茶色の洗濯ネットを持っているように見えた。何だろうか。停止していた僕はハンドルのゴムのにぎり部を強く掴みながら目を凝らしてみる。中に生き物が入っているようだ。そうか、あれは、洗濯ネットではなくペット用のソフトケージに違いない。


 ペットなんて飼っていたっけ? ツチノコでも見つけたかのように不思議に感じながら見ていると、陸香が僕のことに気づいた。でも、顔を背けて他人の振りをしようとする。


 そのわざとらしい態度にプライドを傷つけられた気がした。根拠も理由も何にも無い。ある意味気まぐれ。

 僕は自転車を降りてスタンドを立てる。ツカツカと歩いていく。手の届く距離まで近づくとさすがに陸香もしらばっくれることはできないと悟ったか、僕のことを直視する。


「何か御用ですか?」

「ペットなんて飼っていたのですか?」

「これは、預かっている猫です」

「預かった猫をわざわざ動物病院まで?」


 陸香はプイと顔を背けた。その瞬間に持っていたケージが揺れて子猫がふらつく。僕が人差し指を伸ばすと、黒と白のぶち模様の子猫は、小さい声でミーミー鳴きながら近寄ってくる。


「ごめんな。餌は持ってないんだ」


 僕の言葉は通じない。子猫は何が気に入らないのか鳴き続けている。これは困った。ミルクでもあげられればいいのだけれども。


「どうかしたのですか?」


僕が真剣にケージを覗き込んでいると陸香が話しかけてきた。先程より声が弱弱しくなっているように感じる。


「単純にお腹がすいたんだと思います。餌はあるんですか?」

「家に戻らないと……」

「ケージ持ちますよ」

「でも、これは私のケージだから」

「自転車の籠の上に乗せたほうが楽ですよ」

「でも、大変ですから」

「でもは無しです。猫もそっちの方が楽だと思います。だから俺が猫を連れて行きます。俺と一緒に歩くのが気になるのでしたら後からゆっくり帰ってきてください」


 手を伸ばすと陸香は素直にケージを渡してくれた。ケージを受け取り自転車へ歩きだそうとすると動物病院の入り口が五月蝿く閉じられる音がした。


「このドケチ野郎」


 見ると太ったおばさんがケージを持ちながら入り口に向かって唾を飛ばしている。近寄りたくないな。とか考えるとタイミングが悪くおばさんと目が合ってしまう。


「何よ。アンタたち文句あんの?」

「困ったことでもあったのですか?」

「ウチのパピヨンとポメラニアンの子が生まれたんだけど、可愛くないからここに引き取らせようとしたのよ」

「えっ? 何故です? 動物病院ってペットショップじゃないですよね」

「判ってるわよ。でもアタシはこの病院のお得意様なの。ちょっとくらい頼みを聞くのが当然じゃない」


 何を言っているのだ? この雪だるまは。最近の若いもんは……。と年寄りが良く言うが、若くない人間も大概じゃないか。内心呆れながらふと、ケージを見た。犬が三匹も無理やり詰め込まれている。ありえない。思考回路が停止寸前だ。


「あら、あなた、この子引き取ってくれるの? 三匹」

「いえいえ、猫がいますから無理です」

「ケチねぇ。まあいいわ。今日中に何とかするから」


 おばさんは道路にはみ出ている車のトランクを開けてケージを無造作に放り込む。トランクを閉めてから、太った体で運転席に乗り込むとフロント部が重みで沈み込む。ドン引きするわ。と思うと同時に車を急発進させる。


「私、あの人のこと嫌い」


 陸香がボソッと呟いた。

 僕が陸香の方を向くと、地面に視線を落としている。


「お嬢様。元気が無いようですね。催眠術で元気をおすそ分けいたしましょうか?」


 リクは顔を上げて大きな瞳でこちらを見る。いくつかの冗談が思い浮かぶ。だが、僕は躊躇い無難な言葉を口にする。


「帰りましょう」


 自転車の前の籠にケージを置く。と、ケージはずれて斜めに籠の中に入り猫が転がる。


「気をつけてください」

「すいません。でも大丈夫そうです。驚いて目を丸くしているだけです」

「ホントだ。可愛い」


 陸香は近寄ってきてケージの中を覗き込む。


「よろしいですか?」


 僕が声をかけると陸香は僕の存在を思い出したようだ。一歩後ろに下がる。真っ直ぐで透き通った足、細いが芯の通った体。普通に立っているだけなのに見栄えがする。


「どうかしました?」

「何でもありません。では、そろそろ行きますか」


 僕が自転車を押しながら歩くと、陸香は横に並んで歩き出す。これが徹ならば会話が弾むところだけど、僕らは体育祭で無理やり行進させられているときのように無口だ。もしかして、待っているのだろうか陸家は。僕が話しかけるのを。


「ペットっていつから飼っていたのですか?」


 明るい口調で言ったつもりだった。それなのに返事は無い。あれ? どうしてだろうと考えて、質問を少し変えてみる。


「子猫って可愛いですよね」


 これならば絶対に答えが帰ってくると思ったのだが無口のまま。何故なんだ。僕には彼女の考えが判らない。


「猫を飼っているのは秘密なんですか?」


 なんて質問してしまったのは、失敗だった。陸香は頷くと貝になってしまった。突然走り出して逃げ出さないのが不思議なくらい。黙っていいよ。と暗に僕が言ってしまったのに等しい。

 馬鹿な奴。自嘲気味に自己否定したところで進展は無い。陸香に話してもらうにはどうしたらいいのだろうか? 名案などすぐに浮かぶわけも無い。混乱してきた。誰かに脳みそを揉まれているようだ。僕は意味不明だとはわかっていたがこの空気に耐えられなくなって自分のことを語りだした。

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