第8話 学校に行こう

 住み込みしてから初めての学校の日、それでも五時に起きなければならなかった。僕がジャージ姿で境内の掃除をしていると尻尾を立てた三毛猫が目の前を通り過ぎていく。頑張れよ。とでも励ましてくれているのだろうか? いやいや、それより、しっかりやれよと見回りに来たと言うほうが正しいか。


 掃除を終えたらオシゲと台所で朝食をとる。後鷹司家の分はオシゲが用意するだけで、食卓に並べるのは陸香の母の仕事になっている。


「帰りは遅いんですか?」

「なるべく早くに帰ってくるつもりですが、まだ大学に慣れておりませんので勝手がよく分からないのです」


 漠然とした不安が押し寄せてくる。ふざけているようなオシゲを絶大に信頼している自分自身の本心に気がついて僕は驚く。まだ、二日しか経っていないというのに。


「後は、私に任せて自分の仕度をしてください」


 今日のオシゲはメイド服ではない。ジーパンにブラウスのカジュアルな格好。そして、コンタクトなのだろうか眼鏡をしていない。はっきり言って可愛い。年上にもかかわらず頭を撫でてあげたくなる。

 湧き上がる要求を我慢して食器を流しに片付けてから部屋に戻った。歯磨きをして学ランに着替え鞄を持って外に出る。

 駐輪場に行き自転車にまたがろうとすると、ヘルメットを持ったコート姿のオシゲが現れた。


「カッコいいですね」


 お世辞ではない言葉が零れ落ちた。

 オシゲはバイクに乗ろうとしていたのを止めてこちらに来る。何をするのかと思いきや、僕の顔を引っつかみ抱きしめる。ちょ、ちょっと、胸が当たるんですけど。


「ありがとね」


 いやいや、それを言うがために抱きしめなくても。嬉しいけど。


「他の人にもこんなことするんですか?」

「そんなわけありません。俊ちゃんだけですよ」


 嘘くさいと思いながらも、バイクに向かうオシゲに手を振る。オシゲはヘルメットを被り、バイクに乗ると手を振り返して颯爽と走り出した。


 そんなことがあれば、鼻の下を少々伸ばしていたとしても当然だ。だって、男の子なんだもん。

 しかし、そんな様子を見られているのに気づいていないのは最悪だった。まさに、落ちている百円を拾おうとして五百円玉を側溝に落としてしまうような不幸。例えば、電車に乗っていて綺麗な女性が横に座ったかと思ったら、とてつもない臭いオナラをされた挙句に次の駅で女性は降りてしまい、無実なのに乗車客全員から白眼視される悲しさ。そんなようなものに違いない。間違いない。

 自転車のペダルに足をかけたとき陸香がこちらを見ていることに気づいた。セーラー服姿の陸香は可愛らしい人形だった。


「おはようございます。お嬢様」


 目を細めていた陸香に頭を下げると彼女は微笑を作って会釈する。


「バスなんですか?」


 僕が話しかけたが陸香は返事をしない。聞こえなかったのかと思い自転車を押して近づくとあからさまに嫌そうな表情を浮かべる。


「千波君。お互いに係わらないことにしましょうと言いましたよね」

「同級生として聞いただけです。その程度の会話も許されないのですか?」

「そんなつもりはありません。ただ、お互いの立場をわきまえるべきかと」

「そうですね。申し訳ございません。私ごときがお嬢様に話しかける自体が失礼なことでした」

「そんなことは言っていません。ただ、節度を考えてくださいと言っているだけです」

「はいはい。どうせ、僕のような貧乏人がお嬢様と同級生ってことがいけなかったんです。申し訳ございません。気がきかなくて。でも、お金に苦労したことの無いお嬢様の気持ちなんて分かるはずがありませんけどね」

「さっきから、何、訳の分からないこと言ってんの。あなたこそ、姉さんと楽しくやっていればいいでしょ」


 陸香はバス停へ向かって走り出す。

 追いかけるべき。そう思ったし、そうするべきだった。だが、僕は判らなかったんだ。陸香が何に対して怒っているかってことに。


 考え始めると気になってしまて、授業中も最前席に座っている陸香に視線が行ってしまった。彼女が何を考えているのだろうかと表情を盗み見てしまう。ばれないように注意していたつもりであったが、観察力が鋭い人間には分かってしまうわけで。


「まだ寒い春だと言うのに熱い視線を感じたよ。トシ」


 話しかけてきたのは、中学校時代からの級友であり腐れ縁の坂間さかまとおる。普段バカそうで実際バカばっかりやっている悪友であるが、時折、気が利く鼻が利く。


「熱い視線を送っていたのは黒板に対してだ。なんと言っても俺は真面目高校生だからな」

「良く言うよ。トシが真面目って言えるのは世の中から不真面目って言葉が消滅してからの話だ。少なくとも七億年くらいかかると思うぜ」

「ふふん。言いたい放題言ってくれるではないか少年」

「言うのは只だからな。それとも何か奢ってくれるとでも」

「逆さにしても一円玉すら出てくるはずがないことを知っていて何を言うか」


 一触即発、殺気立つ教室の一角。武士同士の命のやり取りがおこなわれようとする昼下がり。傍から見れば犬猿の中に見えなくも無いが、一応、親友だからね。ある意味、運命の糸を感じる。赤くないことだけは祈っているけど。


「はいはい。二人とも昼間っからラブラブだね」


 お弁当を持って現れた元気いっぱいの女子高生が笑いかけてくる。えくぼがチャーミングな彼女は吉野よしの詩乃しの。根っからの茨城県民でありながら雰囲気は江戸っ子だ。男勝りでさばさばしているところがクラスで人気がある。肩までのワンレングス、綺麗な黒髪は近づくと爽やかな匂いがする。


「詩乃。次に徹とラブラブって言ったら、今度お店でどんぶり返却するときにゴキブリを入れておくからな」

「ほほう。トシは今日のお昼ご飯はいらないと言われるか」

「トシとは違って俺は詩乃様の味方でございます」

「この悪徳商人と悪代官め。結託したからと言ってこの桜吹雪の紋所が目に入らぬか」

「それ間違ってるから。しかも日本語としてもおかしいから」


 少し髪の毛の色が薄い女子高生、吉野志乃がお笑い芸人のように表情を緩ませながら突っ込んでくる。


「じゃあ、そういうわけで、昼食にするか」

「もう。全然話が繋がっていないじゃない」


 僕は上手く話を逸らしたつもりであったが詩乃は不機嫌そうな顔をしている。そりゃそうだ。単に近所で幼馴染って言うだけで僕の昼食を作るはめになり、いつの間にか徹の分まで作らされているのだ。二人はもっと感謝するべきだろう。


「いつもサンキューな」

「俺も詩乃の昼食好きだぜ」


 僕が感謝を示すと、徹も負けじと続く。だが徹が好きなのは昼食だけではない。不要な言葉が入っているだろ。この男も煮え切らない奴だ。そう思いつつ詩乃を見ると嬉しそうにサンドイッチのバスケットを並べている。


「また、サンドイッチか。たまには詩乃んちのスタミナラーメン食べたいよ」

「馬鹿。そんなの持ってこれるわけ無いでしょ」

「サンドイッチが食いたくないなら、俺が代わりに食ってやる」

「徹も志乃も学校でまで食べ物を取り合うなんてことして、自宅を思い出させないでください。頼みますから」


 自虐ギャグに二人は笑う。


「そういえば、トシ。バイト始めたんだって? どうしてウチじゃないのよ」

「相変わらず耳が早いなぁ。バイトの話は母さんが勝手に決めたんだよ」

「で、何処で働いているんだ?」


 当然出てくる質問。いやはや困りました。後鷹司家で住み込みで働いているなどと言えるはずが無い。そんなことを言おうものなら、ビーカーにたらしたインクのように噂は広がり、校内に巣食う後鷹司親衛隊に闇討ちを喰らわされることが容易に想像できる。自ら自爆スイッチを押すほど愚かな人間ではないぞ僕は。


「神社よね」


 詩乃が呟くように言う。

 あーあ、この人、ばらしてしまいました。こんな簡単に。


「で、何処の神社なんだ?」


 当然、その質問が来るよな。でも、僕だけでなく詩乃も今度は口を割らないで黙っている。気まずい空気が流れるが一人だけそんなこと関係ない男がいる。


「そうか、そうだったのか。考えるまでも無かったぜ」


 徹は席を立ってお目当ての人を探している。しかし、徹の探している人は教室にいなかった。

 僕はホッとする。と同時に気になる。他のクラスにでも行ったのだろうかって。僕が陸香の席を見ると、置かれていた鞄が無くなっている。ということは、早退したのだろうか? 陸香は病弱と言うことになっているが、今日見ていた限りでは体調が悪い様子など微塵も無かったのだが。もしかして単なるサボり?

 悔しそうな表情で戻ってくる徹を無視してサンドイッチをほおばる。


「あー、何してるんだトシ。俺の狙っていたハムカツサンド食べんじゃねーよ」

「いやいや、これは俺の分だから間違いなく。なっ、詩乃」

「あっ、うん」


 先ほどまでの元気さが無い。どうしたの? と顔を覗き込むと、なんでもない。と空元気。


「もし、昼飯を作るのが大変なら止めてもいいけど」

「あっ、そういうのじゃないから。材料代も貰っているしね」

「そういう笑顔の方が詩乃には似合っているよ」


 僕の言葉で詩乃の作り笑顔はヒマワリのような大きくて明るい笑顔に変わった。

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