第5話 新しい部屋

 僕は自分のことを温厚な方だと思っている。あまり怒らないし大抵のことは許せるつもりだ。けど、今回の一件については鬼にしかなれない。だから、オシゲに向かって怒りをぶつける。


「オシゲさん。酷いですよ。どうしてこんなことするんですか?」

「気にするほどのことじゃありません」


 意に介さないとばかりに答えた。それが非常に腹立たしい。導火線に点いていた火が僕の心の中のダイナマイトを爆発させる。


「ふざけないでくださいッ! あなたに俺の気持ちがわかるんですか?!」


 僕はオシゲの首元を蝶ネクタイごと掴む。自分の感情が抑制できなくなっていく。それでも、殴りかからなかっただけマシだった。


「どうでしょうか。でも、安心してください」


 オシゲはそう言うと僕の手を掴んで捻る。痛みを逃れようとしているうちに、いつの間にかオシゲの前に跪いている格好になっていた。巨大な岩のように存在しているオシゲは僕の立場を思い出させるかのようにたまに捻りを加えてくる。

 しかし、その程度のことで折れる気は無かった。痛みが余計に僕を嚇怒かくどさせる。


「謝ってください。でないと絶対に許しません」

「許さないとどうなるというのですか?」

「帰ります。今すぐ」

「借金はどうするのですか」

「そんなの知りません。母さんが悪いんです。元々、借金は母さんのせいですし。最悪、一家心中するからいいんです」


 僕は投げやりに答えた。どうでもいい。どうにでもなれ。という退廃的な考えが心の中を占有していた。


「俊ちゃん。ごめんね。許してくれる?」


 オシゲが覆いかぶさるように抱きついてきた。耳元で甘い声で囁くように謝ってくる。傍から見れば恋人同士に見えるかもしれない。そんな体勢。


「止めてください。そういうふざけたのが一番嫌なんです」


 両手で押しのけてから立ち上がると、オシゲは伏し目がちな表情をしてから頭を思いっきり下げる。


「申し訳ございません。久しぶりのお客様でテンションが上がり自分を抑えきれなくなりました。そのため変なことを色々としてしまい俊ちゃんにはご迷惑をおかけしてしまいました。本当に申し訳ございません」


 勿論、まだ怒っていた。思いっきり殴りたい衝動に駆られる。もし、ふざけた態度を取ったら間違いなく右拳を使っていたはずだ。けれども、オシゲは頭を下げたまま微動だにしない。


「どうしてオシゲさんはこんな酷いことをするんですか。無茶苦茶ですよ」

「申し訳ございません。ついついやりすぎちゃうんです。自分でもどうすることができなくて。わかってはいるのですが……。申し訳ございません。ご容赦ください」


 実は本気で謝る気など無いのかもしれない。そう思って黙って頭を下げている彼女のことを睨みつける。もし、またふざけた態度をとるのならば、母さんには悪いがここのバイトを辞めるしか無いと思っていた。人間関係が築けない場所で働くのは不可能だから。毎日がこんな調子では働くどころではない。


 両拳に力を入れてオシゲを見ているが、彼女は彫像のように固まっている。十分は経っただろうか、真摯な態度で頭を下げているオシゲを見ている自分のほうが根負けして疲れてきた。時間経過とともにだんだん怒りの気持ちも収まってくる。それに、ここまで謝罪された以上、怒り続けているわけにもいかない。そもそも自分から謝ったら許すと言ったし。


「仕方がないですね。許しますよ。もう、こういうことやらないなら」

「分かりました。なるべくやらないようにしますね」

「なるべくじゃなくって、絶対です」

「ええ、分かりました。比較的前向きに可及的速やかに善処するべく努力することの検討を加速します」


 本当に分かったのかな? と思ったが、誠実そうな声を信用することにする。ただ、故意にやっているのか、天然なのか分からないところが不気味なのであるが。


「それは、そうとして」


 オシゲは僕の目の前に人差し指を立てる。


「母親のことを悪く言うなんていけません」


 僕は頬を軽くだがビンタされた。


「一家心中するなんて気軽に口にしちゃ駄目」


 折り返しでビンタされる。


「母親ってとっても大事なものですから大切にしなきゃ駄目です。そして、命はもっと大事なものですから軽々しく死ぬとか口にしないように。判りましたか? 約束してくれますか?」


 オシゲが喋っている間、僕はずっと往復ビンタをされ続ける。


「わふりまひた。やふほふします」


 僕が答えるとようやくビンタの嵐は停止する。


「うん。よろしい。それじゃあ、ついてきてください」


 オシゲに僕はついていく。なんだか判らないうちに立場が元通りになっていることに納得がいかないものがある。狐につままれたようなとは、こんな時の心情を言うのだろう。


「これが俊ちゃんの部屋の鍵です。無くさないようにしてくださいね」


 神社の裏にある後鷹司家の住居よりさらに奥まった敷地外の場所に二階建て木造のアパートは建っていた。


「自分で鍵を付け替えてもオッケーですか?」

「そんなに警戒しなくても監視カメラは部屋の中に二つしかないから気にする必要はありません」

「いやいや、気になるに決まっているじゃないですか。今すぐ、外してください」

「入り口のは防犯上の理由もあるから外せません」


 オシゲはブーブー文句を言いながら部屋の中に入る。僕も玄関に靴を履き捨ててオシゲに続く。右手に水道とキッチンがある。左手にあるのはユニットバスだろう。ダイニングと居室を分けるふすまを開けると畳っぽい匂いと埃っぽい臭いがした。


「ところで、もう一個のカメラは何処にあるんですか?」

「お風呂場です」

「それ、速攻ではずしてください」

「冗談です」


 この人、何処まで本気で何処からが冗談なのか全く分からない。というか、意味不明だ。


「ほら、そこの右上にあるのが、もう一つの監視カメラです」


 オシゲは部屋の右上を指差す。

 普通の監視カメラだ。別に偽装しているわけでもない。監視していることを主張しているように設置されている。


「何のために存在しているのですか?」

「ここは正月とかの繁忙期のバイト宿泊用に使われていますので、その時のトラブル防止用です。電源コンセントを抜けば止まりますよ」


 それって防犯の意味があるのかな? と思いつつも、抜かれた時点で問題が発生しているって考えればいいのかと納得させる。


「他にも隠しカメラが二十三個あります」

「はぁ? それこそ止めてください」


 僕の必死の訴えにオシゲは、フフフと笑う。


「あるわけ無いじゃないですか。常識的に考えまして」


 本気で怒ってもいいですか?

 オシゲは僕が言葉を失っているのも気にせずに部屋の説明を始めた。


「こちらがユニットバスです。綺麗に使ってください。ちゃんと掃除をしないと駄目ですよ」

「って、こっちのお風呂に入れば良かったじゃないですか」

「一応、水道、電気、ガス各種の手続きで明日からってことになっていますので。普通に使えますけどね」


 筋は通っているけど納得できない。

 僕が渋い顔をしているのも気にせずにオシゲは説明を続ける。ユニットバスのカーテンは風呂桶の中にしないと水が飛び散って意味がないとか、妙に細かい部分まで説明してくれるのは助かる。まるで、おばあさんの知恵袋みたい。

だが、こちらの理解するペースを無視して話を進めていく。だから、僕の頭の中は既に満杯気味。とりあえず、重要そうなことだけを覚えるようにする。


「明日は、五時に部屋の前で待っていてください。朝ですよ」

「判りました」

「ですから、夜這いは十時までにしてください」

「いやいや、そんなことしませんから、安心してください」

「言うのを忘れていました。私の部屋は隣です」


 にっこりと微笑んでオシゲは部屋を出て行く。でも、そんなに強調しなくてもいいのに。と思っていたら、別の考えが浮かんでくる。もしかして、困ったこととか、訊きたいことがあれば十時までに隣の部屋に来て欲しいということかと。

 オシゲの頭の中身を理解しようとしても無駄か。僕はがらんどうの部屋を見回す。テレビだってない。ということは、寝るしかないのだろう。明日は早いし丁度良いか。布団を敷くと悩みがあったはずなのに、すぐに深い眠りに包み込まれた。

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