第2話 太陽の国の仕事 ②
何も起こらなかった。ドアーズのファーストアルバムが一回転するまで、だ。これで終わり、とジム・モリソンが歌って、砂漠に吹き荒れる嵐が止んで暗闇の帳が下りるように音楽が終わっていくと、あたりもまた静寂に包まれた。
音楽が始まる前と、風景は何も変わっていない。パンはゲーム制作に勤しみ、アッカは煙草を咥えながらエレキギターを弾いていて、ルンバは動かない。ジエンからの連絡もない。
俺は立ち上がった。行動に移すのが遅すぎた気はするが、遅刻した社員の到着を待つ時間としては普通と言えなくもない。結局のところまだ10時半だ。
すみません、と俺はアッカに英語で声を掛けた。
完璧なチンピラがそうするように、アッカは軽く、そして低い声で「んあ?」と唸り声をあげて俺を見上げた。
「ジエンがまだ出社しません。連絡も取れません。彼女がどこに行ったのか、分かりますか?」
アッカは唇を曲げて、知らねえ、と言った。
「彼女と連絡はとれますか?」
アッカは首を横に振った。そして再びギターを弾き始めた。
これ以上この件について俺と話す気も考える気もなさそうだった。
俺はパンの席まで歩いていき、彼の隣に立ってデスクの上をとんとんと指で叩いた。ヘッドホンを外してパンが俺を見上げると、俺はさっきと同じセリフを繰り返した。すみません、ジエンがどこに行ったのか、分かりますか?
パンは頬と顎の肉を軽く震わせて頷いた、「私、分かる」
「どこですか?」
パンは自分のデスクの正面のディスプレイの表示をインターネットブラウザに切り替えた。入力スペースに素早くパスワードを打ち込むと、マップが表示された。中央にある赤いマークをパンは指さして、ここ、と言った。
それは携帯電話のGPS機能を利用した位置表示のように見えた。何故パンがジエンの携帯電話を追跡できるのだろう、と俺は思ったが、差し当たってそれより必要なことを訊くことにした。
「ここはどこですか?」
マップに表示されている文字は全てイーア語で、俺には全く読めない。中心市街のどこか大きな建物の中にいるようだったが、そこが何という場所で、ここからどれくらい離れているのか分からない。
「セントラルプラザです。イーアで最も巨大なショッピングセンターです」
「彼女がそこで何をしているのか分かりますか」
いいえ、とパンは答えた。「ところでサイカワさん、質問があります」
「はい、どうぞ」
「昼飯はピザを注文しようと思います。サイカワさんも食べますか?」
俺が曖昧に頷くと、パンはにっこりと微笑んだ。まだ10時半で、俺は昼飯よりジエンのことの方が気になる。ジエンは俺に昨日、9時半にオフィスで会いましょうと言った。しかし大なり小なり事情があってそれが叶わなくなり、別の場所に行くことになった。俺は彼女のことをまだ詳しく知らないが、年下の、それも今までになく年少の同僚の勤務時間内の動向が分からないというのは落ち着かない。
ポケットの中で俺のスマートフォンが振動した。画面に「新着メッセージがあります」のバッジ表示が現れ、俺はそれを開いた。ジエンからのメッセージだった。
〈才川さん、連絡が遅くなり申し訳ありません。私は仕事でセントラルプラザにいます。才川さんと相談したいので、車で迎えに来ていただけないでしょうか。お手間かけて申し訳ありません〉
どうしましたか、とパンが突っ立ったままの俺に言った。「ピザは3枚頼みます。そうするとお得なんです」
嫌な感じのメッセージだ、と俺は思った。俺に対する要望の内容が、ではなく、文章がまとうムードが、だ。10年近くサラリーマンをやっていると、そういう空気には敏感になる。ごく普通の言葉遣いの合間に、隠しきれないガスのような臭いが立ち込めている感じだ。たぶん何かしらトラブルが起きている。
俺はジエンに、何かありましたか、とだけ返信した。そしてパンの方に向きなおった。
「ジエンから連絡がありました。セントラルプラザに車で来てくれと言ってる。タクシーで行ってきます」
「ジエンの言うとおり、車で行けばいい。タクシーではなく。駐車場に車があります」
「車ですか」
「はい、我々の、会社の、車です」、パンは無表情でそう言った。
俺は、ジエンが昨日言った言葉を思い出した。この国のタクシー運転手には、日本語はもちろん英語も全く通じません。そうであるならば、パンの言う通り自分で運転するほうが動きやすいのかも知れなかった。俺は一応日本を出国する前に、国際免許の申請を済ませていたので運転自体に支障はない。問題は、俺がもう10年以上車を運転していないということだった。東京都内で借家住まいをしている独身男性が車を所有している割合はたぶん5%もない。
そして俺の脳裏にはその事実よりも更に重要なビジョンが描き出されていた。昨日ものの見事な交通事故に遭った、あの道の様子だ。ベン・ハーの戦車競走の如くとてつもない勢いで、俺のすぐそばをすべての車とバイクが大河となって走り抜けていく。この巨漢は、昨日来たばかりの俺に、この国で車を運転しろと言うのか?
「俺が運転する」
背後から短くそう言う声が聞こえた。アッカが立ち上がって俺の後ろに立っていて、彼は俺が振り向いて一瞬だけ目を合わせると、すぐにオフィスの出口に向かって歩き出した。
俺がパンを見て、机の上の開きっぱなしのノートパソコンを見て、視線を右往左往させているうちに、既に彼は外に出て行きかけていた。考える余地はなかった。俺は急いでノートパソコンをカバンに差し込んでアッカを追った。
外に出ると、既にあたりは灼熱となっていた。軽く砂ぼこりが舞う、空き地と倉庫しかな風景の中で、俺は周囲を見回してアッカの背中を探した。追いついた彼は倉庫型オフィスの隣のガレージの前に立っていて、シャッターを開くスイッチを押すところだった。
ぎしぎしと錆びた音を立てて開いた埃っぽいガレージの中に、一台の車が置かれていた。オープンカーだった。俺は眉間にしわを寄せて瞬きした。何度瞬きしようと、その一台しか置かれていないから、間違いなくそれが我々の社用車に決まっている。巨大なフロントグリルに疾走する馬のプレートが掲げられ、イエローに輝く体躯の正面で4つの眼が俺を見つめている。フォード・マスタング・コンバーチブルだ。
誰が選んで買ったか知らないが、こんな車を社用車にしている会社はたぶん日本には存在しない。
アッカとともに車に乗り込むと、彼はキーを回した。ガレージの埃が舞い上がるような、V8エンジンの低い唸り声が響き渡る。
俺がシートベルトを装着する直前にアッカはアクセルを踏み込んだが、正直なところ予想していた通り、凄まじい加速だった。俺が座席に背中を押し付けられてシートベルトのフックを引っかけられないうちに、アッカは思い切りハンドルを切って道路に飛び出した。体を右に思い切り引っ張られ、態勢を立て直して正面を向き、シートベルトを着けた時には、既に時速は120キロに到達していた。俺たちの上空に架かる高速道路を走る車を追い越す勢いでV8エンジンが唸りを上げる。音楽を掛けろ、とアッカは言った。俺が頷いてカーステレオのスイッチを押すと、ラジオからエド・シーランの「パーフェクト」が流れ始めた。
「ふざけるな、曲を変えろ」
俺は頷いて自分のスマートフォンをカーステレオのアダプタに接続し、一瞬だけ考えてフー・ファイターズの「ノー・ウェイ・バック」を選曲した。
イエス、とアッカは言った。そしてさらにアクセルを踏み込んで加速した。
俺は座席に背中を押し付けられながら、シートベルトが完璧に装着されていることと、助手席にもエアバッグが装備されていることと、アッカの横顔を確認した。顔に掛けられたサングラスの隙間から彼の目が見えた。まだ若い。俺とほとんど年は変わらないだろう。そして俺は目を細めた。日差しが激しく、目をはっきり開けていられない。
俺はカーステレオに繋がったスマートフォンの画面を切り替えてメモ帳を開き、リストに書き足した。
〈買い物リスト〉
・ジャージ
・帽子
・サングラス
アッカが右に左に車体を激しく振り回すため、ただメモを書くだけの単純な操作にも時間が掛かった。スマートフォンを両手で握りしめて顔を正面に向けると、マスタングは日産のノートやトヨタのアクアやその他よく知らない外国車種をぐんぐん追い抜いていくところだった。日差しのきつさと速度の激しさで俺の眼はどんどん細くなっていき、あたりがよく見えない。港湾エリアの工場以外に特に何もないあたりを走っているのは分かるが、全てがよく見えないまま高速で後ろに吹っ飛んでいくので、脳まで届いて処理される情報量が少ない。細い眼に力を入れて斜め前を見て、時速表示が160キロに到達したのを確認した。
フー・ファイターズが俺は決して屈しないと歌うのを聴いていると、俺は急速に吐き気がしてきて、空を見上げた。市街地に入り、突き抜けるほど青い空の周囲を大量のビルがぎざぎざに縁取っている。ほとんどのビルの壁面には巨大な看板が掲げられている。企業のロゴやシャンプーやスマートフォンの広告、しかし半分以上は、杖を持って立つ、一人の男の巨大な肖像だ。黒い髭をたっぷり蓄え、豪奢な刺繍を施された裾の長い装束を纏い、無表情とも微笑んでいるともつかぬ目で遠くを見つめている。
イーア王だ。
俺はこの国のことをまだほとんど何も知らない。しかしこの王のことは少しだけ知っている。長い戦争をはじめ、そして終わらせた、この国の人間にとって神に等しい存在であると。俺はその王の顔を見つめた。ひょっとしたらそれらの巨大な肖像たちには全て、小説「1984年」のビッグブラザーのように、その眼の裏側に隠しカメラが仕込まれていて、反乱分子の活動を監視しているのかもしれなかった。だがもしそうだとしても、王の眼はどことなく人の心を落ち着かせる眼だった。王と言うよりはラビのような眼だ。俺は高速で右往左往するマスタングに揺られながら、漁師が荒れ狂う海で目印を見定めるように王の眼を見つめ続けた。
マスタングは突然減速した。既に中心市街のど真ん中で、アッカは急に路肩にマスタングを停車させた。すぐ脇を奔流となったバイクと車の群れが駆け抜けていく。俺が眉間にしわを寄せてアッカの方を見ると、彼は尻ポケットからスマートフォンを取り出して誰かと話していた。イーア語で、何を言っているのか全く分からない。
俺は深く息をついた。ここはどこだと思って周囲を見回してみても、昨日カラマックスを売る店と子供を探して回っていた時とほとんど同じような、商店やコンビニや飲食店が並ぶ猥雑な光景で、他の場所との違いが分からなかった。少なくとも、イーアで一番巨大な商業施設だ、というセントラルプラザらしき建物は周囲に見当たらない。とにかくレース場のような凄まじい勢いですぐ横を車たちが突っ走っているだけだ。
仕方なく俺はアッカの横顔を眺め続けた。彼は勢いよく電話に向かって話し続けている。かなり激しい口調だ。表情筋には表れていないが、怒りに近い強い意志が込められた言葉を紡いでいるように見えた。
ひときわ鋭い一言を発声して、彼は電話を切った。そしてドアを開けてマスタングを降りた。彼は閉じたドアに両手を載せて、俺を見下ろした。
「俺は用がある。ここからはお前が運転しろ」
「すいません、もう一度言ってください」と俺は言った。
「俺は用がある、ここからはお前が運転しろ」と全く同じ口調でアッカは繰り返した。
お前ふざけてるのか、と言う代わりに、俺は何と言うべきか考えた。
考え終わる前にアッカがまた口を開いた。
「簡単だ。もう近い。まっすぐ行く。1キロくらい行くと警察署がある。そこを右に曲がる。またしばらく行くと公園がある。左に曲がるとセントラルプラザだ」
俺が、待て、メモするからもう一度言ってくれ、と言い終わる前に、アッカは踵を返して歩道をすたすた歩いて行った。
行動が早すぎる。
何か言おうと思ったが、英語が思いつかない。ウェイト、と言ってもアッカは反応しなかったので、別の言葉を探したが、物騒すぎる言葉しか思いつかない。
結局、俺はただ唖然としてアッカの背中を見送った。彼はすぐに曲がり角の向こうに消えていった。
とりあえず、フー・ファイターズがまだ歌っていたので、俺はそれを停止した。
俺はダッシュボードに両手を置いて、早朝の品川駅のコンコースの質量とスピードを50倍にしたような車の流れを眺めながら、考えた。
アッカの行動はこの国では普通の振る舞いなのだろうか。
さっぱり分からなかったが、考えても仕方ないことはすぐ分かった。普通だろうが異常だろうがどうでもいい。俺が一人で車に取り残されたという現実は、それによって何も変わらない。俺はここからあと少しの道のりを、自分で運転して辿り着かなくてはならない。
アッカの言うとおり、目的地まであと少しならば、車をここにそのまま置いて、歩いていくというのはどうだろうか、と俺は思った。
それも一つのやり方かもしれない。しかし車を放置した間に駐禁を切られたり、誰かに盗まれたりする可能性がどれくらいあるか、俺には全く予測できない。そして万一その事態が起きた時に俺が背負う面倒がどれくらいなのか全く計り知れない。
とりあえず俺はジエンに電話をした。もう十分近づいたのであれば、彼女にここまで歩いてこさせればいい。
10回ほどコールしたところで、電話はイーア語の留守番電話に切り替わった。俺は舌打ちした。俺は留守番電話に伝言を吹き込もうかと考え、そして途中で止めた。
もういい。
シートベルトを外し、もぞもぞと動いて助手席から運転席に座り直した。スマートフォンのマップを開いて、現在地とセントラルプラザの場所を確認した。アッカが最後に言い残した通りの道順だった。真っ直ぐ行って、警察署を右に曲がる。更に行って、公園の角を左に曲がる。そうするとセントラルプラザに辿り着く。
マスタング・コンバーチブルはAT車だった。シフトレバーをDにすれば走り出す。アクセルを踏む。しかるべきタイミングでブレーキを踏んだり、ハンドルを左右に切る。複雑なことは何もない。左ハンドルの車を運転するのは初めてだが、車を運転すること自体が10年振りなのだからそんなことは大事の前の小事以外の何物でもない。
俺はシートベルトを装着し、シフトをPからDに切り替えた。一歩隣を滝のように車が流れてくる後方を確認して、ブレーキから足を離す。V8エンジンの柔らかい鼓動に包まれて、マスタングがゆっくりと滑るように前方に歩み出す。この高速の大縄跳びに途中から入り込むには、一気に行かなくてはならない。俺はウィンカーを出して、2、3回深呼吸を繰り返して、遠くを見ろ、と言い聞かせて一気にアクセルを踏んだ。
車線に入った。前方にはトヨタ・プリウス、後方には薄汚れた軽トラック。急加速したマスタングは一瞬プリウスに近づきすぎた後、直ちに周りのスピードに同調した。日差しは周囲のでこぼこのビルに遮られて届かない。オープンカーの視界は良好過ぎるほど開けていて、あたりにはただ車たちが巻き上げるかすかな砂と埃の匂いだけがする。一瞬で分かったが、マスタングはよく躾けられたサラブレッドのように従順で獰猛だ。いま周りを走るどの車よりも重く速く強く、ガンダムみたいな車だ。だがそれでも俺の体はこわばっていた。どれくらいステアリングを切れば適切な距離の平行移動をしてくれるか全く分からないので、腕が完全に硬直している。とにかく俺は前方のプリウスとの車間距離を保つことと、前方に現れる信号の表示に集中した。だがその瞬間、俺の眼の前にぼこぼこに車体がへこんだトヨタカローラが物凄い勢いで割り込んできた。車間距離は3メートルもない。俺は反射的に、死ね、と言ってアクセルを緩めた。すると直ちに後方の軽トラックがクラクションを鳴らす。黙れ、と俺は呟き、気にするな、と自分に言い聞かせた。柔弱だろうと下手くそだろうと何だろうと、ぶつからなければそれでいい。
木琴の軽快な音が聞こえる。助手席に置きっぱなしのスマートフォンが、電話の着信を知らせているのだった。ジエンだ、と俺は思った。前方に赤信号が近づいてきて、俺はブレーキを踏んで完全に停止したところで電話を取り上げ、もしもし、と言った。
〈才川か? 会社に電話しても日本語話せるやつがいねえぞ〉
俺は反射的に電話を切りそうになった。
ジエンではない。上司の清田だった。
「今、『日本語話せるやつ』を迎えに行くところです」
〈外か? お前オフィスに着いたら報告しろって言っただろ。調査の段取りはつきそうなのか?〉
調査? 調査とはなんだ?
「まだです。この後で準備を始めます」
〈なんの後だか知らんが、お前そっちで仕事は始まってるのか? イーアからの問い合わせ、まだこっちに来ちまってるぞ。早く準備しろよ。お前を送った意味がない〉
信号が青になった。俺は電話を切るかどうか一瞬迷った後で、通話をハンズフリーモードにして助手席にスマートフォンを投げ出し、両手でハンドルを握った。
分かりました、と言って俺はアクセルを踏んだ。
〈お前がいなくなっても、結局こっちの人員は補充されてない。人が足りなくて回らねえんだよ。お前がそっちで仕事さぼってたら、余計にこっちに降りかかってくる。分かってるだろ?〉
分かりました、と俺は言った。
〈東京は今くそ暑いんだよ。熱中症患者がめちゃくちゃ出てる。チョコをどこぞに置きっぱなしにしたら全部溶けたから謝罪しろ、とかいうクレームが昨日だけで10件来た。世の中イカれたやつが多すぎると思わないか?〉
さっき割り込んできたカローラが再び車線変更して前の車を追い抜いていこうとした。だがちょうどその瞬間、俺のすぐ脇を一台のバイクが疾走していく。バイクとカローラが接触しそうになり、二台は震えるように蛇行して間一髪互いを避けた。俺を含めてあたりの車両すべてがクラクションを鳴らして大合奏になる。瞬間的に恐怖で肌が凍り付いた。
そして、分かりました、と俺は言った。
〈なんかそっち凄えうるせえな。しかし変わった国だよな。こっちは昨日カラマックスがマルエツの棚落ち決まったぞ。東日本はいずれ製造中止になるかもな。それなのにそっちの方への輸出は止まらねえ。カラマックス、そっちでは本当に売れてんのか?〉
分かりません、と俺は言った。
分からない。この電話には何か少しでも意味があるのか? こいつは一体何のために電話かけてきたんだ?
「清田さん、今取り込んでいるので、すいませんがご用件を手短にお願いします」
〈お前、今日か明日、亡くなったファン・ドウさんの家に行ってくれ〉
分かりました、と俺は言った。
それは、どのみちそうしようと思っていたことだ。
〈お前が、会社の一応の代表として弔問して欲しい。見舞いの金品とかは後でこっちから直接手配するから、お前はジエンとかいう若い奴を連れて、行って挨拶するだけでいい〉
分かりました、と俺は言った。
詳しくは後でメールする、任せたぞ、じゃあな、と言って清田は電話を切った。
初めからメールしろ、と俺は思った。
俺は警察署の前を通過したところで、右折しなければならないことに気づいた。速度を落とし、ペイントの擦り切れた横断歩道を渡る者もなく、後ろからやってくる自転車やバイクもないことを確認して、ハンドルを切った。3車線の幹線道路から2車線に変わり、車の通行量も一気に減った。俺はゆっくりと息を吐いた。
俺は眉間にしわを寄せた。陽炎が漂う凄まじい日差しの向こう側で、車が渋滞して完全に詰まっている。クラクションの重奏も聞こえる。
直感的に、俺は車線変更するのを止めた。ブレーキを踏み、そのままゆっくりと渋滞の最後尾に並んだ。俺は背筋を伸ばして車列の向こう側をのぞき込もうとした。二車線のうち、俺のいる右の車線はまだ動きが見られるが、左の方は全く動いていない。何があった? また交通事故か?
じりじりと前進していくと、やがて車両の合間に警官の姿が見えた。黒い半袖の制服にサングラスとブラックベレーを被っていて、軍人のようにも見えるが多分警官だろう。ひっきりなしに笛を吹いて、左に曲がるな、前へ進めとハンドジェスチャーで促している。
俺が左に曲がるはずだった交差点に差し掛かる。警官が集まっていて、警棒を振りながら何か叫び続けている。大量の警官たちは全ての車両に殺気の籠った眼を向けている。俺も一人の警官と目が合った。何を言っているのか全く分からないが、ここは絶対に通さんという意志は強烈に伝わってくる。俺は眩しい日差しの中で目を凝らした。警官たちの背後は、黄色いテープで道いっぱいに封鎖線が張られている。俺はそれを横目に見ながら交差点をそのまままっすぐ通り過ぎた。
しばらくまっすぐ進むと、極彩色の寺院のような建物の前にフリーの駐車スペースがあったので、俺はその目の前で停車した。俺は通り過ぎた交差点の方に振り向いた。ただ事ではなさそうだった。昨日、車が接触事故を起こしても、一人としていつまでもやって来る気配がなかった警官が、あれほど大量に動員されているということは、少なくとも交通事故どころではないことが起こったのだろう。
助手席に投げ出していたスマートフォンからまた木琴の軽快な音楽が流れ始めた。表示された番号はさっきと異なる。手に取って、もしもし、と俺は言った。
〈ジエンです。才川さん、今どちらですか〉
「セントラルプラザの近くのお寺の前だ。そっちはどこにいる?」
〈近くにいますので、そちらに行きます〉
「何があった? また誰かに何か難題を押し付けられた?」
〈いえ、違います。いえ、そうかも知れません〉
ジエンは早口でそう言った。
「よく分からないことが起きた?」と俺は訊いた。
〈いえ、起きたことはよく分かってます。よくないことが起きました。盗みです〉
え? と俺は言った。
〈盗み。泥棒です。さっきセントラルプラザに搬入されたカラマックスが盗まれたんです〉
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