第5話 最後のカラマックス ②


 11月、俺は海老を退職した。ささやかに送別会を催してもらい、翌日から無職になった。

 清田課長や部長は俺を引き留めたが、それが本気だったか儀礼的なものだったか俺には判別がつかない。だがそれがどうであれ、俺には辞めるという選択しか最終的に存在しなかった。短期間に合計100万袋のカラマックスをイーアに送り込んだことは、直接的な売り上げ被害だけでなく、他商品の製造ラインにも多大な悪影響を与えていた。事件が世の中からは一瞬で忘れ去られても、一部のユーザーからの海老の責任を問う問い合わせやSNSでの書き込みは細々と継続して止まなかった。大した数ではないが、海老は、TVCMの内容に対するクレームが数件でもあればその放送を再検討するような会社だ。その状況で、俺の社内の居心地がいい訳がない。俺と他の社員との距離は微妙でよそよそしいものにならざるを得なかった。

 それ自体決定的だったが、それ以外にも問題があった。日本に戻ってきて2週間くらい経ったある日、俺は朝目覚めることができなくなったのだ。意識は覚めているのだが、どうしても体が起き上がらない。出社時刻が迫っていたので、それでも無理矢理体を起こすとまず両足が攣り、それが収まると凄まじい吐き気が喉元まで湧き上がってきた。トイレで嘔吐した後で何十回も深呼吸をして、今日は病欠させてほしいと清田課長に連絡した。俺は、自分の精神は安定していると感じていたが、その覚醒時の致命的な吐き気はその後も不定期にやってきた。そして、出社している間は何も起こらないが、一歩会社から外に出ると平衡感覚が失われてまともに歩けなくなるということが時折起きた。電車に乗っていても空気に耐えられなくなって時々途中下車をした。

 部長たちは俺の異動を検討した。地方の事業所に転勤をさせて、色々が落ち着くまで見計らう計画だった。ありがたい申し出だったが、結局は俺はその方が耐えられないだろうと考えて断った。良かれ悪しかれ、俺は自分のことは可能な範囲で自分で選択をしたい性分であり、またそういう年齢になっていた。

 これからどうするつもりだ、と清田課長は訊いた。

 まだ決めてないんですがとりあえず暫く休もうと思います、と俺は言った。

「お前がいていろいろと助かった」と清田課長は最後に言った。

 そんなセリフを清田課長が言うのは初めてで、意外だった。俺は、ありがとうございます、お世話になりました、と礼を言った。イーアへの海老進出は取りやめになって、結果的に何も残らなかったのだから、実際は俺がいて助かったことなど何一つないのだが、お互いそんなことを最後に言っても仕方がない。

 仕事を辞めてしまうと、朝も昼も夜も、東京は恐ろしく静かだった。イーアではいつも人が喋り続け動き続け、いつも風が吹いていた。一晩中車が走り続けていて、窓のないホテルの外から騒音が絶え間なく聞こえ続けていた。それに比べると俺の部屋の中はコルク張りの防音室の如く静寂に包まれていた。俺は貯金はきちんとしていたし、幾ばくか退職金も出たために当分金に困る心配はなかった。もともと、家賃と光熱費以外にはほとんど金を使わない生活をしていたのだ。清田課長に言ったとおり、しばらく静かに生活しようと思った。かつて長い時間に渡って、俺は音楽を聴きながら本を読んだ。せっかくだから、10年に渡って失っていたその時間を取り戻そうと俺は思った。俺はプルーストとジョイスとドストエフスキーとトルストイとピンチョンとたくさんのSF小説を読み、コールドプレイとニール・ヤングとエド・シーランとジョン・メイヤーとパット・メセニーとキース・ジャレットを聴いた。

 おかげで吐き気は収まった。だがその後に憂鬱が来た。

 朝起きて、カーテンを開ける。柔らかい光が部屋の中に差し込んでくる。俺は髭を剃って顔を洗い、歯を磨いて服を着替える。そして本を読んだり部屋の掃除をしたり必要品の買い物に出かけたりする。適当に料理をして食べて食器を洗い、午後は映画を観たりゲームをやったりする。夜は風呂に入って眠くなるまで本を読む。誰にも連絡しないし、誰からも連絡は来ない。静かで、何も問題がない生活だ。実際、俺はしばらくはそれを満喫した。

 だが結局それ以外には何もやることがない。周りには誰もいない。友達も恋人もいない。何かを作ったりすることも伝えたりすることもない。何も起こらず、あまりにも静かすぎる。俺は夜眠れなくなって、夜通し東京の街を歩いた。歩き疲れるまで歩くと、ファミレスでコーヒーを飲み、隣の席で学生たちが就職活動と恋愛とゼミについて話すのを聴いた。信じられないほど退屈な会話で、その退屈ささえ、とりあえず俺の人生からは欠けているのだと思うと寒気がした。簡単だ、と俺は思った。たかだか数週間で、自分の人生がどこに向かっているのか分からなくなる。もともと深く考えてもいなかったのに。

 結局完全にじっとしていたのは2週間程度だった。10年働くうちに、俺は暇を享受しきれない人間になっており、また働く先を探す必要があると分かった。転職サイトに登録して諸々の必要事項を記入したりエージェントと面談したりするうちに年末年始がやってきて、俺は実家に帰省して雑煮とおせち料理を食べた。

 両親に会うのは、俺が広州を経由してイーアから羽田に帰国した日以来だった。その時はあまり会話はできなかったが、正直なところそれで良かった。どうせ両親が俺に言いたいのはたった一つ、いつ結婚するのかということだけだからだ。それは常に答えようがない問いだったが、今はもっと答えられなくなった。

 実家で何もやることがない俺は久しぶりにテレビを見た。両親が未だに取り続けている新聞も読んだ。

 たぶん今日、アジアで戦争は起こっていない。緊張状態が続いている場所はあちこちにあっても、今、具体的に大量に爆弾が落ちている場所はどこにもない。イーアのことはどこにも書かれてさえいない。俺はネットを検索してニュースを調べたが、10月の末頃にデモ隊と軍隊が衝突して大量の逮捕者が出たという記事を最後にほとんどまともな続報が見当たらない。もう少し真剣に検索すれば何か見つかるかもしれなかったが、そうする気になれなかった。やめておこう、と俺は思った。もう俺はあの国と何一つ関係がない。

 年が明けて、東京の自宅に戻り、転職活動は本格的に進んだ。俺の働き先を選ぶ基準は結局10年前と全く変わっていなかった。「働かせてくれる所なら基本的にどこでもいい」、だ。エージェントとの面談を繰り返すと、大量とはいかないが、幾つかはこれまでの経験を生かして働ける場所が見つかりそうだった。俺はこれまでの信条どおり、面接においてはとにかく静かな笑顔を湛え続けて事に当たった。

 そういう合間であれば、本を読んで音楽を聴いてテレビゲームをやって映画を観る生活にも、精神を落ち着かせる作用があった。世の中からすっぱり離れているわけにもいかないので、ネットニュースもSNSも覗くようにした。

 冬がどんどん深まって、雪も降った。テレビゲームメーカーと飲料メーカーの宣伝部の選考が進む中で、ネットで情報収集するうちに、俺は一つのインディーズゲームが話題になっているのを知った。11月にアメリカから発売されたそのゲームは、ほぼたった一人の手で制作されたとのことだったが、それにしては異常に完成度が高く、独特のグラフィックと音楽とゲームシステムで一気に界隈の衆目を集めていた。言語は英語だが、セリフがほとんどなく、あっても簡単なものなので、日本でも評判になりつつあった。

 タイトルは「太陽の少年」と言った。

 俺はWebサイト上で紹介されているそのゲームのスクリーンショットを見て、間違いない、と思った。

 パンが作っていたゲームだ。




 俺は自宅のPCから海外ゲーム配信サイトにアクセスして、パンのゲームをインストールした。「太陽の少年」は動作推奨環境としてそれほど高スペックを要求しておらず、手持ちの普通のウィンドウズPCで事足りた。

 暗闇の中に一人の少年が目覚め、か細い光に向かって歩いていくオープニングシークエンスを操作しながら、俺は数か月前のパンの表情を思い出した。彼の、俺の感想を聞くまで不安そうにしていたあの表情を。良かったな、と俺は思った。事前に少しだけ、ネット上の評判を収集した限りでは、このゲームに対してネガティブな批評はほとんど見当たらなかったのだ。

 ゲームを進めながら、音楽も映像もキャラクターも、シンプルだがすべて優れている、と俺は思った。特に構図がいい。時としてビデオゲームは絵の構図を軽視しがちだ。解像度が上がって、カメラ位置を自由に動かせ、全てを映し出せるようになればなるほどその傾向にある。どこに誰がいて、何があって、どんな姿勢で誰と向かい合っているか。そしてそれはどうしてなのか。パンのゲームは2Dのドットで描かれていて要素がシンプルな分、一つ一つの構図に意味があった。たぶん全シーンに細かい字コンテが存在するだろう。重要なのは単純な美しさや鮮やかさよりも理由や意味や直感の方で、人の想像力を駆動させるのはそちらの方だ。

 俺は月の少女を一人一人解放し、世界に少しずつ光を取り戻した。だが一方で正体不明の「ランドマン」なる人物だか物質だか思念だかがそのたびに勢力を増し、太陽の少年の活動範囲外の闇はどんどん濃くなって行く。太陽の少年の姿は普通の人間には見えない。これは彼が己の体を手に入れる物語でもあるのだった。いかに太陽の少年が光を取り戻しても、それとは無関係に人々の不幸は進行していく。太陽の少年はそのたびに月の少女を捧げて当座の危機をしのぐか、是が非でも守るかの選択を迫られる。

 俺は月の少女を守る方を選択し続けた。

 俺は一日数時間ゲームをプレイして、三日目にラストシークエンスに辿り着いた。数か月前、イーア中が静まり返った日にパンが俺にコントローラーを手渡してプレイさせたあの場面だ。俺にとってはここから先は既に見知った展開だったが、ここまでのパンのセンスと努力と根性に感心した。これほど己のビジョンを徹底して作り込んだゲームだったとは、あの時は分からなかった。

 俺はランドマンとの激しい戦闘に勝利した。大地も空も空間も時間もすべてが壊れるような激しい戦いで、少年の体はランドマンとともに霧散した。いずことも知れぬ場所で、全てが消える。暗闇の中で、月の少女たちは祈りを捧げる。少年と少女たちが通り過ぎてきた人々も祈りを捧げる。草木も動物たちも無言のうちに少年の復活を祈る。

 少年の肉体が再生する。その隣には少女たちがいる。光があふれ、輝ける大地を見下ろして少年と少女たちは並び立つ。

「すべては再生された。僕達は生きている」と少年は宣言した。

 そのままゲームは終わり、エンドロールが流れ始めた。スタッフの数が少しだけ増えていた。

 完璧なハッピーエンドだった。

 そのクレジットを、俺は漠と眺めた。それも流れ終わると、ゲームはタイトル画面に戻り、煌々と輝く「the Boy of the Sun」の文字を眺めた。

 暫くその文字を眺め続けた。なんとなく俺は椅子から立ち上がり、部屋の中を歩いた。そして自分の頭の中の記憶をたどった。

 俺の頭は自然と傾げて、あれ、と言った。

 俺はもう一度パソコンの前に戻った。ゲームは完全に最初のタイトル画面に戻って終了していて、変化がない。俺はセーブデータをロードして、最終戦の直前からゲームをやり直した。そして一つ一つ自分の手順を確認した。数か月前にプレイした時と同じ段取りになっているかどうか。俺は自分に向かって頷いた。俺のプレイは同じだ。ただ、ランドマンを倒した直後からの展開が変わっている。

 俺は自分が何か覚え違いをしている可能性を検証した。首を横に振り、そうではないと思った。間違いない。俺ははっきりと覚えている。

 違う。これは俺が数か月前にやったゲームとは違う。途中から展開が変わっている。数か月前にこのゲームをやった時はこんな結末ではなかった。

 何故か、少年も少女も復活している。数か月前、最後に大地に立つ少年は、たった一人孤独だった。その姿は人間にも神にも見えてどちらか分からなかった。だがこれでは、はっきりと人間になってしまっている。人々も動物も草木も少年のことなど最後まで顧みなかった。彼らは決して少年の復活など祈らなかった。

 なるほど、と俺は思った。何故かパンは結末を変えた。

 俺はそれについて考えた。喉が渇いていたので冷蔵庫に入れていたペットボトルのお茶を飲み、窓を開けて外の空気を吸い込んだ。天井を見上げ、部屋の中を見回した。それで特に考えが進まなかったので、俺は部屋の外に出て街を散歩した。夕暮れが近づいていて、子供たちが意味不明な会話をしながら俺のすぐ傍を駆け抜けていった。20分か30分歩いたところで、俺の腹の底から何かが沸き上がってきた。

 あのデブ、結末を変えやがった。

 俺は早足で家に帰った。靴を脱ぐや否や机の前に座り、パソコンでチャットアプリを立ち上げてすぐに文章を書き始めた。


〈お久しぶりです。才川です。

 約束通り、「太陽の少年」、最初からやってクリアしました。

 なぜ結末を変えた?

 あれではこのゲームが持っていた良さが消えてしまう。良さはたくさんあった。それが全部消える。特に「複雑さ」だ。複雑でよく分からないけれど、論理的な理屈よりも精神的な流れに忠実な素晴らしいゲームだった。少年も少女もリスクなしで何故復活する? 登場人物は誰も少年と少女のことなんて気にも留めていなかったのに何で最後にいきなり祈る? なんでこんなもったいないことをしたんだ?〉


 俺はそう日本語で文章を書くとグーグル翻訳に突っ込んで、吐き出された英語を見返しもせずそのまま本文に貼り付け、日本語と並べてパンのアカウント宛に送信した。

 それはイーアでパンとやり取りする時に使っていた彼のアカウントだったが、もちろんパンがこのメッセージを見るとは思えなかった。彼が今どこにいるのかも分からない。彼は蒸発して、クーデター直後から海老からの連絡にも答えず、結局あれだけ欲しがっていた当月分の給料も受け取らずに消えた。ひょっとしたら既にイーアにはいないかもしれない。だがどうでもよかった。俺はただ、虚空に向かってでも、ふざけるな、と言いたいだけだった。俺の中で怒りが沸き上がって抑えきれなかった。これほど怒りを感じるのは思い出せないほど久しぶりのことで、そしてそれがどうしてなのか自分でもよく分からなかった。

 むしゃくしゃして、俺は風呂に入った。頭の上から熱いシャワーを浴びて、ふざけるな、と何度も呟いた。何が「独特の映像センスと宗教観から紡がれる感動的な物語」だ。

 バスルームから出てタオルで頭を拭きながら部屋に戻って来ると、メッセージの着信表示があった。

 パンからの返信メッセージだった。俺は何も考えずにそのメッセージを開いた。


 〈ゲームの完成後、15人にテストプレイを依頼し、それを分析した結果、このゲームの結末には問題があるという結論に達しました。このゲームの結末を評価したプレイヤーは一人しかいませんでした。それは才川さんです。この結果に従い、私は結末を変更することにしました。私はこれが正しい判断だったと思います。〉


 俺はその短い返信を2回読み、直ちに更なる返信文を書いた。


 〈人に指摘されて結末を変えたのか? それでいいのか?〉


 ただ一行だけそう書いて送信した。

 パンからの返信はすぐに返ってきた。


 〈ゲームは人にやってもらって楽しんでもらわなければ作った意味がありません。才川さん以外の14人はこのゲームの結末を楽しみませんでした。彼らは意味が分からないと言い、納得しませんでした。だから変える必要がありました。そのおかげでこのゲームは私が思っていたよりもたくさん売れました。これからもたくさん売れそうです。〉


 ふざけるな、と俺は思った。俺はバスタオルを腰に巻きなおし、上半身裸で濡れたままの髪をかき上げて文章を打った。


 〈売れればそれでいいのか? あのゲームにはビジョンがあった。よく分からないけど思想があった。それを捨てて金を稼いで何の意味がある? 人から褒められて何の意味がある? 自分の作りたいものを作りたくて作っていたんだろ? 何故それを捨てる?

 キャラクターの不幸がそんなに嫌か?

 キャラクターが死ぬのがそんなに嫌か?

 もし真実が死なら、死ぬしかないだろ? なぜそれを捻じ曲げる?〉


 俺は荒い息をついて送信ボタンをクリックした。


 〈英語の翻訳のせいかもしれませんが、才川さんが何を言っているのか分かりません。正しい答えを探すために人の意見を聴くのが間違っているのでしょうか?

 カラマックスは売れなければ作る意味がありません。それと何が違うのでしょうか?〉


 俺の意見はどうなんだ、と俺は思った。最初にお前のゲームをやって受け止めた俺の意見はどうなる? 15人中1人の俺の意見はどうなる?


 〈何が正しい答えだ。正しい答えはお前しか知らない。お前だって分からないかもしれない。少なくとも、適当に数時間プレイしただけのやつに正しい答えが分かるわけがない。

 ゲームはカラマックスとは違う。真実はカラマックスとは違う。大体カラマックスは全然売れてない。売れてるのはお前らの国だけだ。〉


 パンは再びすぐに返信を返してくる。


 〈才川さん、ありがとうございます。

 でもこうなった以上はもうこの結末がこのゲームの真実です。世の中はそうやって結果が積み重なって出来上がっていきます。それが真実です。そうでしょう?〉


 俺はすぐに返信の文章を書いた。


 〈俺はそうは思わない。たとえ誰も分からなくても、お前自身が分かっていなくても、結果が出なくても、誰にも見られなくても、意味が何もなくても、真実が間違っていても、真実はどこかで生きている。〉


 俺はそう書いた。何か言葉を繋げなくてはいけない気がしたが、もう続きの文章が思いつけなくて、送信ボタンを押した。俺はマウスとキーボードから手を放して、顔を拭った。ぐしゃぐしゃの髪型のまま髪が渇きかけている。


 〈私はそんなものが真実だとは思いません。それは古い種類の真実です。ごく少数の人間だけが分かればいいという真実です。今私たちは、誰かに見て、やってもらわなくては、何も始めることができない。そのためには物語の結末を変えることくらい、大した問題じゃありません。むしろ結末は勝手に変わっていきます。

 才川さんはご存じないかもしれませんが、いま世界中で、誰も意味を深く考えてません。誰も絵を見てません。誰も文字を読んでません。みんなその中で必死で生き残ろうとしています。〉


 俺は首を横に振った。数か月前に誰かが俺に似たようなことを言ったような気がする。


 〈今どこにいるんだ?〉


 俺はそう一行だけ書いて送った。


 〈私はまだイーアにいます。この国はどうやらもうすぐ新しくなるようです。国の形が変わっていくところです。私以外はみんな忙しそうにしています。〉


 〈軍事政権はどうなった? 王様はどうなったんだ?〉


 〈もうすぐそれが決着しそうです。終わったら、未納の給料を入金してください。〉


 〈俺はお前に給料を払えない。俺はもう海老を辞めたから。〉


 〈それは残念です。そう言えばカラマックスの輸入も止まってしまった。〉


 少し迷った後で、俺はこう書いた。


 〈ジエンはどこにいる? アッカは?〉


 〈私はジエンがどこにいるのか知りません。誰も知らないと思います。

 アッカはたぶん処刑されました。彼が逮捕される前にYouTubeに上げた演奏がありますから、見てください。

 才川さんは今、何をしているんですか?〉


 〈転職活動中だ。〉


 〈次は何を売るんですか?〉


 〈ペットボトルのお茶か、ゲームのどちらかになる予定だ。〉


 〈ゲームになったら教えてください。そうなったら「太陽の少年」の日本でのローカライズ販売権は才川さんを優先します。〉


 〈分かった。もしそうなったら日本版のエンディングは前のものに戻す。〉


 〈😂〉


 パンはその顔文字だけを送ってきた。

 それで会話は終わりだった。風呂上がりでずっと裸のままだった俺は小さいくしゃみをして、椅子から立ち上がり、部屋着を着た。体が冷え切ってしまったのでコーヒーを淹れて机に戻ると、パンからメッセージが届いていた。

 一行、YouTubeのURLだけが書かれている。俺はコーヒーを一口飲んでそれにアクセスした。

 Webブラウザが立ち上がり、YouTubeの映像が始まった。エレキベースとそれを爪弾く手元が大きく映し出されている。低く単調なベース音がしばらく続くとカメラが引き、全景が映し出された。イーアの軍服を着た四人が、陽が差し込む倉庫の中でそれぞれ手にした楽器を奏でている。俺にはすぐに分かった。それはあの日の海老の倉庫オフィスでの演奏だった。動画のタイトルは英語で「太陽と月とカラマックス」と名付けられていて、重くゆったりとしたインストゥルメンタルがどこまでも続いていくその演奏は、あの日と同じように意味不明だった。俺はそれを聴きながらコーヒーを飲み続けた。

 やがて映像の中に一人の男が現れた。男は肩をいからせて、ギターを弾くアッカに食って掛かった。俺だ。俺はアッカに向かって何かしゃべっているが、彼が微動だにしないので、やがて諦めて離れた。

 俺は立ち上がって、本棚からヘッセの「ペーター・カーメンチント」を取り出して読み始めた。文章全体に、美しいが、何か物悲しい風が吹いている。俺はその文章を読みながらアッカ達の演奏を聴いた。

 やがて、あの日と同じように演奏が静かに終わっていき、アッカ達は機材を片付け始める。その様子を映しながら映像には影が掛かり、やがて完全にブラックアウトする。

 全ての色と音が消えて、動画の最後に英語の文章が浮かび上がった。

「太陽も月もカラマックスも既に失われた。しかし我々は別の何かを見つけるだろう」

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