第5話 最後のカラマックス
第5話 最後のカラマックス ①
俺は髭を剃りたかった。
首都高のガードレールと緑色の表示が高速でリフレインするのを眺めながら、風呂に入った自分を想像した。鼻の下まで熱い湯に浸かって、髭を剃って顔を洗い、新しい下着に着替えて清潔なシャツを着て、冷房の効いた部屋で冷たい飲み物を飲む。それはビールでも麦茶でも牛乳でも、冷たければ何でもいい。トヨタ・クラウンのタクシーは振動がほとんどなく、目を閉じるとほとんど止まっているように感じて、黙っていると眠ってしまいそうだった。俺はタクシーの運転手に何か話しかけようかと思ったが、何を話せばいいのか分からなかったし、正直なところ一週間くらいもう何もしゃべりたくない気分だった。隣に座っている清田課長もずっと無言だ。
首都高を走っていても、首都高を降りても違和感があった。静かすぎる。車が整然と走り過ぎているし、余計な騒音がないし、道に埃も見えない。元からそうだったのか、たまたま今走っている道がそうなのか上手く思い出せない。暴力的なスピードで走る車はどこを見渡しても見当たらない。そうだ、と俺は思った。これが日本だ。
海老の本社ビルに辿り着いてタクシーを降りると、いやな空気が俺を包み込んだ。暑苦しく湿っていて、呼吸がしにくい。全く夏が終わっていない。俺は受付を通ってエレベーターに乗った。廊下で先輩社員とすれ違い、おお才川、と声を掛けられた。
「大丈夫か。大変だったな。お疲れ様」
大丈夫です、ありがとうございます、と俺は会釈してオフィスの自分の席に向かった。フロアにはあまり人がいない。マーケティング部も、隣接する商品開発部も、多くが出払っているようだった。俺が席にわずかな荷物を置くと、清田課長はすぐに部長に声を掛け、俺達は三人で社長室に向かった。社長室に入るのは思い出すのが難しいほど久しぶりだった。俺は懲戒も褒賞も受けたことが無いので、社長と直接関わることなどほとんどない。
社長は、本当にご苦労だった、と声を掛けた。社長は俺に対する労いと体調を気遣うセリフを言って、俺は羽田のホテルの記者会見で話したのと大体同じ内容を繰り返した。その後は俺はほとんどしゃべらずに、社長と部長と課長の3人で会話が進んだ。イーアと特に関係がない地方流通との商談に関する話だった。
一通り話が済んだところを見計らって俺は口を開いた。
「海老のイーアへの進出はどうなるのでしょうか」
もちろん白紙だ、と社長は答えた。「中国との流通さえ半減以下になっている。この情勢が落ち着いてから再検討する」
「イーアの三人の社員はどうなりますか?」と俺は言った。「ジエンと、パンと、アッカです」
社長は首を横に振った。そして部長が代わりに答えた。
「全員行方が分からない。3人とも、事件が起こってからこちらからの連絡に応えない。蒸発だ。全くひどい話だ」
俺達は社長室を辞した。誰とも連絡がつかないんですか、と下りのエレベーターの中で俺は清田課長に訊いた。ああ、と清田課長が言った。
「クーデターが起こってから、連絡ができたのはお前だけだ」
席に戻ると、才川さん、と経理担当の女性社員が俺に声を掛けた。
「才川さん急いでください。早くしないと間に合いません」
俺は首を傾げて、なんですか、と訊いた。
「才川さんの長期出張報告とその経理処理です。今日は月末です。締め切りの14時をもう過ぎてます。早くしてください」
俺は眉間に皺を寄せた。出張報告って、何を書けばいいんでしたっけ、と訊いた。
出張報告書と精算用の伝票を起票して課長と部長の押印を頂いたらすぐに経理部長に直接お詫びして回付してください、と女性社員は早口で言った。
俺は曖昧に頷いて、久しぶりに自席のデスクトップPCを立ち上げて、報告書を書き始めた。
出張報告書
所属 マーケティング部
氏名 才川 明
期間 9月7日(火)~9月30日(金)
訪問先 イーア国テイン市、中国広州
同行者 なし
目的 海老イーア支店お客様相談室運営 および マーケット調査
内容 当地にて行った主な業務は以下の通り。
(1) 海老商品(主にカラマックス)に関するイーア国のお客様からのお問い合わせに対し、回答スキームの構築および個別の回答を行った。具体的には次の通り。
・カラマックスを探して行方不明になったユーザーの捜索協力
・流通店舗で発生したカラマックスの盗難被害の調査協力
(2) カラマックスを中心とした海老商品マーケティング調査。現地にてカラマックスユーザーのグループインタビューの準備を進めていたが、9月21日にイーア国内で国家非常事態宣言が発令されたため中止となった。また、店頭状況の調査を行っていたが、その調査結果はイーア陸軍にPCを押収されたため紛失した。
(3) イーア王室からの発注により、カラマックス50万袋の納品業務。
9月10日、発注。
9月15日、日本工場からカラマックス発送。
9月20日、中国広州港において、日本発の貨物船とイーア王室手配の輸送船の貨物受け渡しを確認。
9月21日、イーア軍によるイーア王室輸送船攻撃。この過程でカラマックス50万袋は行方不明となる。したがって当発注は9月30日時点で商品未納。
(4) 日本本社及び外務省と連携したイーア陸軍との交渉。9月22日未明、才川はイーア国立競技場を襲撃したイーア陸軍に拘束された。同21時ごろ、陸軍大佐ミンガ氏との交渉開始。ミンガ氏は才川にカラマックス50万袋の納品を要求。才川は行方不明になったカラマックスの所在を関知していないことをミンガ氏に伝えたうえで、改めて日本から同数のカラマックスを納品することを提案。ミンガ氏は商品上代での購入を約束して商談が成立。
9月30日未明、中国広州とイーアの国境付近の沖合をランデブーポイントとしてカラマックス50万食の受け渡し。才川はそのまま広州空港から羽田空港にJAL便にて帰国。
問題がある、と俺は思った。出張報告書の最後には、出張の過程で発生した費用をすべて報告しなければならないが、俺はそれを把握していない。俺が泊まっていたホテルには、あの街から人が全員いなくなった朝の後は一度も戻ることができなかったので、チェックアウトも終わっておらず、精算がどうなったのか分かっていない。俺の私物が詰まった二つのキャリーバッグも置きっぱなしで、俺以外に誰かが補償してくれる可能性があるのかどうかも分からない。そしてもちろんそんなことは大事の前の小事で、今回の俺の長期出張によって海老にどれくらいの被害が発生したのか計り知れない。
経理担当の女性に報告書をチェックしてもらいながらそれについて尋ねると、ホテルのチェックアウトは既に会社のクレジットカードで精算を済ませているから問題ない、私物の被害については海外旅行保険に別途問い合わせしてください、と早口で言った。
「それよりこの『PCの押収』って何ですか」
「海老イーア支店の備品は、私の立会いの下、イーアの陸軍に差し押さえられたんです。PCも、机も、ソファも」と俺は答えた。
「だったらそれは別途、遺失物申請をしてください。早く。時間がないです」
俺は言われたとおりに遺失物申請書のフォーマットに必要事項を記入した。「理由」の欄には「イーア軍が押収したため」と書いた。途中まで清田課長に送り続けていた日報もプリントアウトした。そして清田課長と部長に判を貰い、経理部のフロアまで行って経理部長に書類を提出した。
提出期限を過ぎての申請となり大変申し訳ありません、と俺は完全な無表情で言った。
経理部長は眉間に皺を寄せて判を押し、放り投げるようにデスクの横の書類受けにそれを置いた。次からはもっと早く持って来い、と文句を言われなかっただけましだ、と俺は思った。
席に戻ると、部長と清田課長が立ち上がって話をしていた。深刻そうな雰囲気だった。
「才川」と清田課長が言った。「頼みがある」
はい、と俺は言った。
「今日、横浜で『ポテリッチ』のCM撮影をやってる。マーケティング部の担当者として付けてるのは新人の半田だ。だから補佐で開発部の荒川課長に立ち会ってもらったが、別件で商談先とトラブルがあって、彼に行ってもらう必要がある。それで」
俺は何も考えずに頷いた。
「分かりました。私が代わりに立ち会います」
すまん、俺も部長もこれから別の外せない商談が入ってるんだ、と清田課長は言った。俺は頷いて、CM撮影の詳細資料をプリントアウトした。ノートPCにデータだけ入れて持っていきたいところだったが、俺は今そんな便利なものを持っていない。
急いで行ってくれ、クライアントチェックが止まると、撮影が止まる。その分スタジオレンタル費が余計に請求されかねん。そう清田課長に言われて送り出される直前、俺はふと思い当って言った。
「清田さん、カラマックス余ってませんか。眠気覚ましにタクシーで食べたいです」
清田課長はいくらでも持って行け、と言って窓際に詰まれた段ボールを指し示した。俺は賞味期限の切れかけたカラマックスを二袋掴んでカバンに入れ、ベンダーでペットボトルの麦茶を一本買って、会社を出た。
タクシーの運転手に、横浜の鶴見まで、と伝えると、俺は座席に深く座り込んで、ため息をついてお茶を飲んだ。運転手はちらちらと俺の方を見てくる。
「お客さん、失礼ですが、今朝テレビに出ていらっしゃいませんでしたか」
はい、と俺は言った。
「やっぱりそうですか。あの何とかいう国の。クーデターが起きてどうのこうのとかいうあの。いや本当に大変でしたね。大変だったでしょう」
「そうですね。多少」と俺は言って、カラマックスの袋をカバンから取り出し、運転手に示した。「少し匂うかもしれないが、ちょっと失礼してここで食べていいですか」
ああ構いませんよ、と運転手は言った。「クーデターなんてねえ。やっぱあれですね。東南アジア系の国ってヤバいんですね。私なんかよく知らない国でしたけど、王様も軍も相当粛清とか内乱で人を殺しまくってたらしいですね。お客さんよくご無事でしたねえ」
「こいつのおかげです」と俺は封を開けたカラマックスを運転手に見せて、口に入れた。俺は眉間に皺を寄せた。瞬間的に、顔全体の感覚が辛さだけになる。俺はすぐにお茶を飲んだが、その凄まじい辛味は全く晴れない。後頭部が一瞬のうちに汗まみれになる。
「お客さんそれ凄い匂いですね。こっちまで届きますよ」
「私も不思議なんですが、イーアでは大人気だったんです。王様が買い求めるほど」
「王様、未だに行方不明らしいですねえ」
「そうみたいですね」
「どうなるのか分からないけど、戦争になるんですかね? 中国とアメリカが太平洋と東シナ海でにらめっこしてますよ。やめて欲しいですね。どうなると思います?」
全く分からないですね、と俺は言ってカラマックスを齧った。「イーア人には、分かっているかもしれないけど、アメリカや中国や日本と同じで、たぶん自分たちのことしか考えていないから」
横浜までの道は空いていた。ものの数十分で巨大な倉庫型の撮影スタジオに辿り着き、車寄せでタクシーを降りた。Dスタジオでは撮影が進んでいる。海老の新入社員の半田が俺を出迎え、俺は広告代理店とプロダクションと名刺交換した。
彼らによれば撮影香盤は30分押しで進んでいるが、タレントのリミットである17時までにはタレントパートの撮影は終わるとのことだった。俺は頷いて、チェック用のモニターと、セットが組まれた明るい空間の中でディレクターの指示に頷いているタレントの姿を交互に見た。
演出コンテによるとCMの内容は、疲れ切って家に帰ってきた小学生と高校生とOLが、ざくざくの厚切りポテトチップスを一口食べるとあまりのうまさに謎の踊りを踊り出す、というものだった。商品のターゲットを明確にした、極めてシンプルで平和的なCMだ。その内容の通りに、撮影は極めて穏やかに進んでいるように見えた。
半田は、才川さんお疲れ様です、来てくださってありがとうございます、と言った。
大丈夫、と俺は言った。
「ダンスシーンの撮影は終了したので、あとはタレントの食べカットとシズルだけです」
笑顔でポテリッチを齧る女性タレントの顔を眺めながら、いや、たぶんそれが問題だ、と俺は言った。
俺はコンテに描かれたシズルカットの演出方法をよくよく眺めた。この商品の分厚さ加減を見せて旨さを表現するため、ハイスピードカメラと超クローズアップで、ポテトチップスがどさどさと積み上がり、摘まみ上げられ、割られ、芋の破片が弾けるさまを映し出すのだが、そのカットの撮影はスケジュール上3時間と設定されていた。
最低でも倍の時間が掛かる、と俺は思った。
16時半、和やかな雰囲気のうちにタレント撮影が終了し、スタッフ全員の拍手の中で、半田が広告代理店から受け取った花束をタレントに渡し、ポテリッチや海老のその他の商品が詰まった袋をプレゼントした。もちろんその中にカラマックスは入っていない。間違ってタレントが食べて体調を崩されたら困る。広告代理店の営業が促して、俺と半田はタレントと記念撮影をすることになった。真っ白い肌に透き通った笑顔で微笑むタレントの横に立って、俺は汚い髭面でカメラに向かって微笑んだ。彼女は、いきなり現れたこの不潔な男が何者なのか全く知らないだろう。
撮影はそれから11時間かかった。新入社員の半田は19時で帰らせて、後は俺だけが残った。確認用のモニターの中で、ポテトチップスが完璧なバランスで落下して、積み上がり、美しく破片が弾けたのを確認した時、時刻は午前4時だった。俺は朦朧とする意識の中で、OKです、と言った。ディレクターが力尽きた声で、香盤終了しました、と言うと、何人かが蚊の鳴くようなか細い拍手をした。
タクシーを呼んで自宅まで帰った。運転手に住所を告げると俺の瞼のシャッターは自動的に降り、次の瞬間には自宅前でタクシーに料金を払うところだった。俺は約1ヵ月ぶりに帰る自宅の廊下を暗闇のまま歩き、ベッドに倒れ込んで完全な眠りに落ちた。
痩せたね、と海香は言った。俺は頷いた。体重計にはこの何か月か乗っていないが、たぶん2、3キロは痩せたと思う。
俺達は彼女の自宅近くの笹塚の街を歩いた。来るたびに思うが、特に何もない印象の街だ。全ての要素に既視感があって、入り組んでごちゃごちゃとしている割に目を引くものは何もない。人はそれなりにいるのでさみしい感じはないが、何かせせこましくせわしない生活感だけがあって爽やかさがなく、甲州街道の排気ガスと騒音の気配が遠くからでも伝わって来る。俺は以前からずっと、彼女にとってこの街が良くないと思っていた。もう少し、利便性とかコストパフォーマンスとかだけが評価軸ではない、時間がゆっくりと流れて、精神が落ち着く、日々の穏やかな楽しみのために生活できる街の方が、彼女の健康にとっては良いはずだった。以前そういう話を彼女にしたところ、そんな街が東京にあるのかと問い返された。確かに俺もよく知らなかった。でも多分ここよりはいい街があるだろう、と俺は言った。彼女は自分自身がどうしてここに住んでいるのかも知らないのだ。
俺達はほとんど無言で散歩して、この街に改めて特に見出すものが何もないことを確認して、電車に乗って新宿に出た。日曜日の新宿ほどごちゃごちゃした街もそう無いが、彩がある分笹塚よりはましだった。新宿三丁目のイタリアンでランチを食べて、映画を観た。また「ミッション・インポッシブル」だ。トム・クルーズは未だに現役で走り回り、バイクを駆り、ビルとビルの間を文字通り飛び回っていた。
俺達は紀伊国屋書店で本を買い、喫茶店で紅茶を飲んだ。
「トム・クルーズはビルにぎりぎり飛び移ったシーンで本当に骨折したらしい」と俺はスマートフォンでウィキペディアを見ながら言った。
そうなんだ、と海香は言った。「骨折したことある?」
「いや、ない」
「どんな感じなんだろうね」
「一カ所でも折れたら全く動けなくなるって聞いたことはあるな」
「一昨日帰ってきたんだよね?」
俺は頷いた。「一昨日の朝、羽田に着いた」
海香はぼんやりと頷いた。頷いたのか項垂れたのか分からないような頭の動き方だった。
「眠れてる?」と俺は訊いた。
「変わらない」
店内には音楽が掛かっている。サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」だ。とてつもなく古い。美しく掠れたギターとコーラスが遥か彼方から聞こえてくる。まるで300年位前の音楽のように聞こえる。
「帰ってこないんじゃないかと思ってた」と海香は言った。
「どうして? 帰るって、電話でも話したよ」
「そうだったっけ」
「もともと、駐在扱いじゃなく長期出張ってやつだったんだ。長くても11月には帰ってくることになってた。ずいぶん早まったけど」
「長い時間いなかった感じがする」
「でも、実際にはたった4週間くらいだ」
「早く帰ってこれてよかったね」
ああ、と俺は言った。「4週間で十分だ。そのうち半分くらいは軟禁されてただけだった」
「SNS見た?」
「いや、何も見てない」と俺は言った。
「海老はテロに屈したのと同じだって。軍事政権との交渉に応じたのは国際社会への裏切りだって」
「みんなそう言ってるのか?」
「一部の人だけだよ。でも議論になってた」
「そいつらは俺に死ねって言ってるのか?」
「そうは言えないから議論になるんだと思う」
「死ぬかと思ったよ。何回か死ぬかと思った。交渉すれば生き残れるかもしれないなら、俺は交渉する。でも誰に話が通じるのかも分からなかった。一番話が通じそうな相手を選ぶしかなかっただけだ」
「なんでクーデターが起きたの?」
「全く分からない」と俺は言った。「俺はずっと閉じ込められてたから、事がどう推移したのか、多分みんなより知らない」
「明のニュースだけは報道されたけど、こっちも後はほとんど何も分からない」
「王様はどうなった?」
「イーアに王様がいたことも知らない人が多いと思う」と海香は首を横に振った。
「全員何も分からないのに、どうして国際社会を裏切ったかどうかだけは分かるんだ? と言うか国際社会ってなんだ?」
「明、多分分かってるでしょ?」と海香は言った。「どうでもいいからだよ。どうでもいいからみんな適当なこと言うんだよ。明が帰ってきて2日経ったし、この話題はたぶんもう全員忘れてるよ」
海香、と俺は言った。「病院には行った?」
「病院って何?」
「俺に電話してきてくれただろ、イーアにいる時に。体調は大丈夫?」
「何も問題ないよ」
海香はそう言って、紅茶を飲んだ。俺はポットの紅茶を彼女のカップに注ぎ足した。それは初めての行為だった。5年前に再会して以来、彼女はいつもノンカフェインの飲料しか口にしなかったからだ。
俺は彼女の目を見た。1か月前と何も変わらない表情だった。目の奥が疲れていて、表情がない。
「王様がいたんだ」と俺は言った。「王様はあの国では神様とイコールだった。と言うか神様よりも王様の方が偉かった。俺は裏の神様になるところだった。だからクーデター軍と交渉したんだ」
「よく分からないけど、大変だったってこと?」
「言いたいのはそういうことじゃない。いつからそうなったのか分からないけど、それは俺の責任なのかもしれないけど、誰も彼も、俺には何を言っても構わないと思っている感じだった。今になってみると、かなり昔からそうだった気がする。俺にそうさせる何かがあるのか、世の中やイーアの仕組みがそうだからなのか俺には分からない」
「傷ついた?」
「傷ついてない。それが問題だ」
海香は頷いた。そしてそのまま顔を上げずにスマートフォンのロック画面をじっと見つめた。
「イーアで、よく分からないものを食べたよ。普段の食い物は、米以外はこっちで食べるものと大して変わらないけど、時々変なものに出会った。帰ってきてからそれがなんだったのかだけは最初に調べた」
俺は海香の目を見た。彼女がスマートフォンから顔を上げるのを確認して、続きを話した。
「あれは鳥の血の塊だったんだ。日本以外のアジアの大体の国では、割と牛とか豚とか鴨とかアヒルの血の塊を食べる習慣があるみたいだな。日本に無いのはどうしてだろうな?」
「おいしかった?」
俺は首を横に振った。
「俺には合わなかったよ。でもそれ以外のものは大体旨かった。ほとんど全部のものが、妙に生き生きしてる感じだった。疲れてる食い物が無かった。太陽の光が違うせいなんじゃないかって気がする」
話しながら俺は考えた。
俺は間違いなく目の前にいるこの女を愛していた。少なくともほんの数日前まで。
「南国に旅行したことが無かったから、太陽の光は緯度によってずいぶん違うんだと初めて実感した。あの光だと、日本とは別の植物が育つだろうし、生き物の行動も変わる。長い時間いれば人間の考え方も変わって来るだろうと思う。冬に寒さで死ぬ危険がある国とそうでない国とでは、生き方が変わる。ハワイでもグアムでもどこでもいいけど、南国に行ったことある?」
「ない」と海香は言った。「パスポートも持ってないもの」
「海香はイーアに行ってみるといいかもしれないよ。状勢が落ち着いたら。イーアじゃなくても別の街でもいい。東京とは違うリズムとかルールで動いてる街に」
海香は俺の方を向いて頷いた。そして俺の目を見たり見なかったりした。
なぜ何も言わないのだろう、と俺は思った。
俺に対して疲れているのは分かる。妊娠したというのが嘘だったということも分かる。既に俺を愛していない、ということも分かる。経緯が完全に省略されているのでどうしてそうなったのか分からないが、既に終わった、という結論だけははっきり突き付けられている。
でも、それを全部、顔や雰囲気だけで俺に読み取らせるのか? どうしてそんなに何もしないんだ?
なぜ、全員、俺に何も言わない?
「ほとんど観光とかできなかったけど、一日だけまともな休暇があった。それで海を見に行った。物凄くきれいな海だった。水も綺麗だったけど、それよりも風が違う感じがした。強さは変わらないけど、流れが分厚くて、ゆっくり遠くまで運ばれて行きそうな感じだ。ああいう海がすぐ近くにあったら、俺達の生活はだいぶ変わる気がする」
たぶんもう別の男がいるのだろう。海香は人生で男が途絶えたことがない。別の男がいるから俺を愛さなくなったのか、俺を愛さなくなったから別の男を見つけたのか、因果がどちらなのかは分からない。
俺は数時間前に観た映画のことを思い出した。トム・クルーズは別れた妻を守るために命を懸けてヘリに乗り込んで敵を追跡して、雪山で死にそうになりながら敵を殺した。結局のところトム・クルーズは任務にかまけて妻とその家庭を顧みることができなかった。彼が妻に対して抱く感情は単純ではないはずだった。
俺は人生で初めてトム・クルーズに共感した。俺と海香が初めて一緒にミッション・インポッシブルを観てから10年以上経った。その間、彼が何を考えて生きてきたのか分かる気がした。もちろん俺はトム・クルーズとは全く違う。トム・クルーズも主人公のイーサン・ハントときっとイコールではない。でも彼を見習うことにした。
彼女が何も言わないつもりなら、それを受け入れる。愛の問題ではなく男の問題として。
「明日、始発で出張なんだ」と海香は言った。「帰らないといけない」
俺は頷いた。
彼女は疲れている。俺に何も話したくないと思っている。俺を傷つけるのも俺に傷つけられるのも面倒くさいと思っている。俺はそれ自体を確認するべきかどうか考えた。だがやめておくべきだった。無駄なことだ。単に俺は、来週もう一度彼女に連絡をすればいい。そうすれば、彼女はもう二度と俺に返信しないので、すでに終わっていることが明らかになるだろう。
俺は最後に言おうと思った。
また会える振りをしてくれないか、と。俺達が昔二人で観た映画にそういうセリフがあった。その映画を、彼女は嫌いで、俺は好きだった。
だが結局は言うのをやめた。俺は不思議だった。
何故俺は何も感じないのだろう。
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