第4話 太陽の国の神 ⑤


 俺は映画館の座席のように柔らかいテラス席のシートに身を埋めて、眠りかけていた。腹いっぱいにピザを食べると、ヒットや三振のたびに沸き上がる歓声と爆発音が過去の記憶と重なり、俺を丁度良い眠気に誘うのだった。記憶とはつまり、よくある退屈な映画のことだった。地球の危機に瀕して超大規模な作戦が展開され、爆発とともに大量の瓦礫が舞い、金属と金属がぶつかり合い、無数の銃口から火花が飛び散るとてつもないスペクタクルが展開される、にも関わらず眠くて仕方がないあの映画たちだ。現実生活では決して見ることのない凄まじいイメージがゴージャスに一生懸命に展開されるが、それを目の当たりにしてある時俺達は、よく考えたらどっちが勝とうとどうでもいい、と気が付いてしまい、その瞬間全てが子守唄になって眠ってしまう。

 俺も今、試合の質や内容に関係なく、白いチームが勝とうが黒いチームが勝とうがどっちでも良かったのだ。

「才川さん、寝ないでください」と孫悟空が言った。

 ドラえもんのお面で顔が隠れているのによく分かるな、と思いながら俺は頷いて、「どっちが勝ってますか?」と訊いた。

「25回で、20対15で太陽が優位です。月チームのピッチャーは疲れているようです」

 誰でも疲れるだろう、と俺は思った。無論、25回まで一人のピッチャーがぶっ通しで投げ続けているわけではなく、どちらのチームも継投によってゲームを組み立てているのだったが、それでも最初のピッチャーが交代したのは16回か17回で、その時投球数は300近くになっていたと思う。そんなペースの投球を繰り返して試合したら、肘も肩も近い将来確実に壊れるはずだった。だが、普通のアマチュア野球やプロ野球ならどんな決勝戦の後にも次のシーズンがやって来るが、今ここで試合している人々にとってはこれが生涯最後のゲームなのだから、この試合の後で一球もボールを投げられなくなってもどうでもいいのだろう。

 ピッチャーとキャッチャーは疲れているように見えたが、それ以外の選手たちはそうでもなさそうだった。そしてもっと疲れていないのは観客たちだった。彼らの応援のペースは全く落ちなかった。彼らのテンションは夜通しクラブで踊り続ける人々と同じで、爆竹とロケット花火と発煙筒のストックは無尽蔵だった。まるで麻薬でも打っているような感じがしたが、実際にそうなのかもしれない。だが俺はもう飽きていて、ほとんどゲームに対する集中力を失っていた。俺が考えているのは早く試合が終わってジエンと話すことだけだった。俺は長い試合の途中で、孫悟空たちが席を外したところを見計らってスマートフォンを覗いた。だが、メールを読むことができなかった。清田課長からのメールだと知らせる複数の通知だけは着信していたものの、中身を表示するのにまたデータ通信が必要だったからだ。俺は何度かまたトイレに行って、個室の誰も見ていないところでスマートフォンを開いたが、最初の時と違って圏外表示のままで通信ができなかった。俺は舌打ちをして、あれは一体何だったのだろうと思った。

 俺は時計を見た。時刻は25時を回っており、俺達が球場に着いてから6時間が経った。俺は、セカンドの定位置にいる、最初に見た時から全く姿勢が変わらないジエンを見つめながら、私は月チームを応援したい、と言った。

「私は月チームを応援したい」と俺はダース・ベイダーが構えるカメラに向かってもう一度言った。

「月チームにはまだ勝つチャンスがあると思います」と孫悟空は言った。「月チームにはホームランを打てるバッターが何人もいますし、何人かいいピッチャーが残っています」

「そう、彼らは良く戦っている」と俺は頷いた。「私は月のチームを応援したい。すぐ、傍で。彼らに会いたい。今」

 孫悟空は首を傾げた。

「すぐ傍で?」

「そうです。私は彼らのファンです。彼らに会って、直接、勝利を願っていると伝えたい」

「それは不可能です」と孫悟空は言った。「試合中は彼らに会えません。誰も」

「あなたは取材を頼むことができる」と俺は言った。「試してください」

 孫悟空はカメラを俺に向けたままのダース・ベイダーと顔を見合わせてイーア語で何か話し合った。分かりました、少し待ってください、と孫悟空は言ってテラス席を出て行った。

 後には俺とダース・ベイダーが残された。俺達は彼が担いだビデオカメラを挟んで向かい合った。アイハブ・クエスチョン、とダース・ベイダーが俺に言った。俺は首を傾げた後でうなずいた。イーア語のテンポと発音だったのでイーア語かと思ったが、ただのカタコトの英語だった。

「アイ・ライク・カラマックス」とダース・ベイダーは言った。

 俺は頷いた。

「ドウタ・ライク・カラマックス」

 俺はまた頷いた。

「ギブミー・カラマックス」

 俺は頷いた。そしてラウンジ席に戻ってカバンの中に入れてあったカラマックス一袋を取り出してダース・ベイダーに渡し、ディスイズザラストワン、と言った。サンキュー、とダース・ベイダーは言った。彼がカラマックスを持った手は震えていて、リュックにカラマックスを入れながら、何度も何度もサンキューと言った。ダース・ベイダーはお面の顔を俺に向けて、他にも何か言いたそうだったが、英語が思いつかないようで、ただサンキューと言い続けた。俺は首を横に振って、ノープロブレム、と言った。

「ユーア・ゴッド」とダース・ベイダーが言った。

 孫悟空がテラス席に戻ってきた。

 彼は勢い込んで俺の隣に座り、できない、と言った。

「才川さん、取材はできません。誰もいません」

 俺は首を傾げた。そしてグラウンドを指さした。「みんないる」

 孫悟空は首を横に振った。

「ピカチュウもプーもオプティマス・プライムもみんないない。話す人がいません」

「なぜですか?」

「分かりません」と孫悟空は言った。「いつの間にか、いきなり、いません」

 俺は首を傾げた。いなくなった? 儀式の準備か何かのために席を外したのだろうか。

「他に話せる人はいないのですか?」

「誰もいないので、いません」

 俺は反射的に立ち上がった。まだ考えはまとまっていなかった。しかし直感的には、何の問題もなくむしろ好都合としか思えなかった。

「月チームに会いに行きましょう。私達はピカチュウに頼む必要はない」

 俺はテラス席を出て、カバンを肩にかけ、カラマックスの目録ボードを手に取った。後ろからついてくる孫悟空とダース・ベイダーに振返って、ヒアウィーゴー、と言ってドアを開けた。

 俺はエレベーターに向かって廊下をずかずか歩いた。孫悟空が言うとおり、警備員の姿も王室関係者の姿もない。どこからも声がせず、カーペット敷きの廊下では足音もしないので、あたりはほとんど静寂に近い。

 エレベーターの前の下降ボタンを押して、俺は、選手たちのフロアはどこですか、と孫悟空に訊いた。分かりません、と孫悟空は答えた。俺は頷いて、構わないと思った。時間はいくらでもある。虱潰しに探すだけだ。こういう施設では、来賓フロアと演者のステージは必ずエレベーターで直接繋がっている。

 エレベーターの扉が開いた。今俺達がいるのは3階だ。俺はとりあえず「2」のボタンを押した。音もなくエレベーターは下降し、イーア語のアナウンスとともに扉が開く。

 その瞬間俺のポケットの中でスマートフォンが振動した。俺は反射的にポケットからそれを取り出した。画面に次々にメッセージの受信履歴が表示される。俺は背後の孫悟空とダース・ベイダーに振返った。お面で顔が隠れているのでもちろん全く表情が見えない。俺は瞬間的に考えた。理由よりも、何をするべきかを。そしてカラマックスの巨大なボードを孫悟空に押し付けてエレベーターを降り、スマートフォンを操作して清田課長に電話した。

 呼び出し音が鳴り始めた。あたりは薄暗く、大きな歓声とざわめきだけははっきり聞こえるが人の姿はない。たぶんここはスタジアムの一般観客のフロアだが、座席への導線からは外れていて、どこか奥まった空間で人通りがない。

 電話がつながった。もしもし、と俺は言った。

 だが反応がない。もしもし才川です、と俺はもう一度言って耳を澄ましたが、受話口は無音で何も跳ね返ってこない。俺は耳からスマートフォンを離して表示を見た。通信状況を示す針が1本で、そしてそれも消えて圏外になった。再び受話口を耳に押し当てたが、通話が切れた。

 俺は歩き出した。通行禁止を示す小さな看板とロープを乗り越えて歩いていく。しばらく遅れて孫悟空とダース・ベイダーが早足で俺に付いてくる。薄暗い道を真っ直ぐ行って角を曲がると、広いコンコースが現れた。そして俺は一気に人波に飲み込まれた。試合が行われている真っ最中にも関わらず、道いっぱいが灰色のローブとお面を身に着けた群衆で埋まっている。ビールやスナック菓子やピザやチキンや饅頭が売られる出店が並び、飴やフランクフルトを手に持った子供たちが俺の足元を駆け抜けていく。通信表示の針が1本復活し、そして2本になった瞬間に俺はもう一度清田課長に電話した。

〈才川、大丈夫か?〉

 清田課長は最初のコール音で電話に出た。

「はい、才川です。長い時間電話出られず、大変申し訳ありませんでした」と俺は言って腕時計を見た。日本時間ではもう午前3時だ。「夜分遅くに本当に申し訳ありません」

〈それはどうでもいい。お前無事なんだな?〉

「はい、大丈夫です。体調に問題があったわけではありません。今日、イーアではイベントがあって、ずっと通信ができない状況だったんです」

〈分かってる。お前がとりあえず無事なら問題ない。なんか周りがめちゃくちゃうるさいが、今どこにいるんだ? ヤバいところにいるんじゃないだろうな?〉

 ええっとですね、と俺は言った。「いろいろあって、スタジアムのイベントの手伝いをしています。王室からの依頼で」

〈王室だと?〉と清田課長は言った。〈お前、本当に大丈夫なのか?〉

「今のところ何も問題ないです」と俺は言った。「ただ確認しなくちゃならないことが残っています」

 そしてドラえもんのお面を外した。声がこもって喋りにくい。

「清田さん、私は昨晩清田さんにメールを送りました。カラマックスの輸送にトラブルが発生したかもしれないと。ご覧いただけましたか?」

〈もちろん見てる。しかしヤバいことになったな〉

「それなんですが、まだ確認ができてないんです。中途半端な状況で混乱させるようなメールを送って申し訳ありませんでした。この後ようやくそれの真偽を確認できる予定です」

〈そんなもん今更どうでもいいだろ。お前はとにかく安全なところに待機してろ。イーアの他の社員を頼れ〉

 俺は眉間に皺を寄せた。清田課長の声は今まで聞いたことがない調子だった。妙に優しく、一方で張りつめていて早口だった。

「いや、どうでもいいというわけにいかないです」と俺は言った。「納品は明日です。今日は王室が取り計らって目録ボードで乗り切るんですが、明日には現物が必要です。その段取りは確認する必要があります」

〈どうでもいいと言ったらどうでもいい。こっちは今、外務省通じて何とかお前の帰国ルートを確保しようとしてるところだ。お前は待機場所が確定したら知らせろ。イーア社員の、ジエンだったな? ジエンの家に世話になるのがいいだろう。ホテルだと孤立したり追い出されたりするかもしれん〉

「ちょっと待ってください。帰国? 私は日本に帰るんですか?」

〈当たり前だろうが。業務は終了だ。後は無事に日本に帰ることだけ考えろ〉

 俺は、まさか、と思った。

「清田さんひょっとして、そっちには、日本にはニュースが入ってるんですか?」

 そして周囲を見回した。灰色の装束の観客たちが波のように絶え間なく俺の傍を歩き過ぎていく。ダース・ベイダーの持ったカメラはずっと俺の顔をとらえていて、孫悟空はレコーダーを俺に差し出している。

「カラマックスの輸送船が沈没したっていうニュースが、そっちには伝わってるんですか? やっぱり本当なんですか? そしてそれはそんなにヤバいことになってるんですか?」

〈そんなもんは知らん。今更、船が着こうと着くまいと関係ないだろ?〉

「清田さん、多分なんですが、この国は明日には元通りになります。今日だけ特別なんです。ネットもインフラも仕事も明日には元通りになります。明日には王様の即位式典があります。ですからイーア支店としては納品をきっちり終わらせる必要があります」

〈お前、さっきから何言ってるんだ? 式典なんかあるわけないだろ? 大体誰にカラマックスを納品するつもりだ?〉

「清田さんすいません」と俺は言った。俺の眉間には皺が寄ったままで、さっきからそれはどんどん濃くなっていく一方だった。俺はもうほとんど目を閉じていた。「俺達のお話はかみ合っていないと思います。俺はなぜ仕事を投げ出して日本に帰るんですか?」

〈お前ひょっとしてニュース見てないのか? 何も知らないのか?〉

 はい、と俺は言った。俺が今日見たニュースは、昨日、工事現場の作業着のファッションショーが行われたという映像だけだ。

〈今から7時間前に日本でもニュース速報が入った。今日夕方、イーアの陸軍がイーア王宮を占拠した。彼らはイーアの全政権の掌握を宣言し、同時に国家非常事態宣言を発令した。首謀者は陸軍大将だ〉

 はい、と俺は言った。

〈クーデターだ〉と清田課長は言った。〈クーデターが起きた。どう考えても仕事してる場合じゃねえだろ?〉

 俺は目を開いた。そして再び周囲を見回した。さっきまでと何も変化はない。人々は通り過ぎていき、俺と二人の男だけが道の中央で突っ立っていて、カメラは俺に向けられている。そして遠くから爆竹の音が聞こえる。

 俺は通り過ぎていく人々の顔が見たかったが、お面で隠されていて見えない。

「みんな普通に出歩いてるんですが」

〈詳しい状況はこっちにも全く伝わってない。数時間前に陸軍大将の宣言文と、王宮が破壊された映像が一つ、何回か繰り返し流されただけで、誰も状況が分かってない。そっちの王様がどうなったのかも分かってない。無事なのか、拘束されたのか、殺されたのか。とにかくお前は無事なんだな?〉

 はい、と俺は言った。

〈じゃあ一刻も早く安全なところに避難しろ。絶対に目立つ行動をするな。こっちの段取りが着くまで身を隠せ。社長も役員会も心配してる。お前の安全のためにこっちでできることは全部やる。外部の専門家も使ってな〉

 俺は頷いた。そして首を横に振った。

「清田さん、信じられないです」

〈何がだ?〉

「今ここではお祭りをやってるんです。物凄くでかい祭りです。何万人も参加してる。でもみんな叫んで歌っている。爆竹が爆発して発煙筒が焚かれて花火が打ちあがってる。誰もそんなことが起きたなんて知らないように見える。本当に起きたんですか?」

〈詳しい状況は分からん。だが中国政府が会見を開いて、国防軍が領海に艦隊配置を行った。クーデターが起きたのは本当だ。だからそこにいるやつらが全員知らないか、知ってて無視してるかのどちらかだ〉

 俺は首を横に振った。

 何度も振って、頭の中から言葉がおみくじみたいに出てくるのを待った。だが詰まって出てこなかった。

〈いいから避難しろ。今はそれだけだ。この後何が起こるか分からん。クーデターの目的とか今後の標的とか、まだ誰も何も分かっていない。何万人も集まってるならヤバいだろ。そこが標的になるかもしれん。早く逃げろ〉

 分かりました、と俺は言った。

〈電話とメールの繋がるところにいろ。安全なところでな。そしてこっちから連絡するまで、こっちに連絡するな。イーア国外との通信は軍に傍受されるかもしれん。日本政府だか外務省だかがクーデター政権と話を着けるまで待て。いいな、気を付けろ〉

 分かりました、と俺は言った。

 もう一度、気を付けろ、と清田課長は言い、分かりました、と俺ももう一度言って電話を切った。

 俺は深呼吸した。何度も息を吸って吐いた。孫悟空とダース・ベイダーが俺を見つめている。終わりましたか、と孫悟空が英語で訊いた。

 俺は細かく頷いた。終わった、と俺は言った。

「どんな会話でしたか」

「彼はジエンに会えと私に言った」と俺は言った。

 俺は無意味に何度も周囲を見回し、何度も瞬きをした。

 すぐ傍を通り過ぎていく無数の人々を眺めながら、俺は孫悟空とダース・ベイダーに何を訊き、何を言うべきだろうかと考えた。

 俺は首を横に振った。

 俺は頭の上にずらしていたドラえもんのお面を着け直し、孫悟空に押し付けたままだったカラマックスのボードを返してもらった。そして無言で歩き始めた。

 俺達は無言のままエレベーターに戻った。薄暗い通路を抜けて再び白い箱の中に乗り込むと、俺は地下1階のボタンを押した。1階は2階と同様に一般客のフロアだろうから確認する必要はないと推測してすっ飛ばした。

 エレベーターを降りると、白く明るいエントランスホールが広がっている。イーア王の巨大な絵が掲げられ、太い柱の向こうの奥の壁の角には館内の案内表示が点々と示されているが、イーア語で全く読めない。

「私を、月チームまで、案内してください」と俺は孫悟空に言った。

 孫悟空は頷いて、誰もいない廊下を歩きだした。

 誰も知らない、と俺は思った。誰も何も気付いていない。俺は今ここで、孫悟空とダース・ベイダーに事の真偽を問い質せばどうなるだろうと考えた。きっと、次の瞬間にスタジアム中で大混乱が起こるだろう。俺達は無茶苦茶な人の波に押し流される。俺はジエンに会うことはできなくなる。全員が出口に殺到して押しつぶされ、大量の死者が出るような事態になるかもしれない。

 逆に、もし知っていたらどうする、と俺は思った。

 もしみんな、クーデターが起こったことを知っていて、それでもこの祭りを続けているのだとしたら? 爆弾が炸裂しようと王様が死のうと、この祭りだけは最後までやり切るつもりでいるのだとしたら?

 俺は首を横に振った。

 それを確認する方がずっと恐ろしい。

 間もなく道の向こうからローブ姿の連中が大量に殺到してきた。彼らはゴジラやモスラやよく分からない怪獣のお面を着けていて、どこかへ向かって急いでいるようだったが、俺達に気が付くと足を止めて呼びかけてきた。

 イーア語での会話が孫悟空と怪獣たちとの間で取り交わされる。怪獣たちが何者なのか全く分からないし、彼らが何を言っているのかも分からないが、お前たち誰だ、どこへ行くつもりだ、と問い質してきているのは想像がつく。

「私たちは、王のメッセンジャーだ。王のオーダーで、カラマックスを、納品しに来た」

 俺は英語で、文節をゆっくり区切って、大声でそう言った。ダース・ベイダーがバッグからカラマックスの袋を一つ取り出し、水戸光圀の印籠のように突き付けた。怪獣たちの動作が止まったので、それだけで彼らには大体伝わったように見えたが、孫悟空は俺と手に持ったボードを手で指し示しながら、おそらくだが、付け加えるように俺の言葉をイーア語に翻訳した。

「月のチームのダッグアウトがどこか尋ねてください」

 間髪入れずに俺は孫悟空の耳元でそう言った。孫悟空が頷いてイーア語で怪獣たちに尋ねると、怪獣たちは揃って自分たちの後方を指し示した。

 シアラ、と俺が言うと怪獣たちは頷いて駆け出し、俺達の横を通り抜けて去って行った。

 俺達は再び歩き出した。遠くで巨大な何かが震える音が聞こえる。スタジアムの中からではなく外からだ。それは巨大な花火のようにも稲妻のようにも爆弾のようにも聞こえた。

 通路を曲がって歩いていくと、男たちの声が聞こえてくる。緩いスロープの先に選手のウォーミングアップ用と思しき緑のマットが敷かれた空間が広がっている。その向こうで歓声が大きくなり、光が差し込んでくる。ペットボトルが詰まったかごを片手に持ち、もう片方の手にフルーツが詰まったポリ袋を持った黒いユニフォームの男とすれ違った。近くで見るとそのユニフォームはツナギになっていて、野球用のものというより戦闘服か何かのように見えた。彼は首を傾げて俺達に声を掛けてきた。彼はお面を着けていない。

「許可はある」と俺は英語で言った。

 俺が目録ボードを示し、ダース・ベイダーがカラマックスを掲げるとその選手は頷いて、俺達を先導した。彼について行き、通路を抜けると目の前で一気に光が弾け、男たちの背中がずらりと並ぶのが見えた。

 ベンチ裏は、匂いと熱気が充満していて、俺はお面の下で軽く目を細めた。月チームのベンチは活気づいていて、ほとんど全員が立っていて、選手たちは手を叩き声を上げている。全員フィールドに目を向けていて、まだ誰も俺達に気づかない。俺達を先導してくれた選手は孫悟空に話しかけていて、たぶん、誰にどう話をすればいいのかと確認している。俺は孫悟空に再びボードを押し付けて、ベンチの中を見回した。

 彼女はすぐに見つかった。

 ベンチの後方の隅で、一人だけ小さな体が座っている。

 ジエン、と俺は呼んだ。

 彼女は俺の方に振り向いた。野球帽を被った、お面を着けていないその眼は一瞬少しだけ大きく開かれた。しかしすぐにいつものあの無表情に戻った。俺は彼女に歩み寄った。

「ジエン、話がある」と俺は日本語で言った。

「才川さんはドラえもんにしたんですか」

 そうだ、と俺は言った。「ここはうるさい。ここから出て、少し話す時間をくれ」

「今試合中なので難しいです。もうすぐ私たちの攻撃が終わって、私は守備に就きます」

「じゃあ誰かに交代しろ。大事な話だ」

 それは無理です、とジエンは言った。「才川さんももうきっとご存じのはずです。これは儀式です。私の番はまだ終わってません」

「なぜ何も言わなかった?」

「何をですか?」

 俺はドラえもんのお面の下で眉をしかめた。

「いろいろだ。全部だ」

「才川さん、しばらく待ってください。試合が終わるまで、夜明けまで、まだ時間があります。この儀式を止めることは誰にもできません。絶対に誰にも」

 ふざけんな、と俺は思った。いいから今すぐ立ち上がって俺の話を聞いて俺に説明しろ、と思った。だが俺は息を深く吸い込んで、別のセリフを静かな声で言った。

「ジエン、本当に大切な話だ。それはここでは話せない。そして試合が終わるまでは待てない」

 ジエンは俺の方をじっと見つめた。そして小さな声で、待ってください、と言った。

 彼女は俺から顔を背けて再び正面を向いた。月チームのバッターが打ち取られてスリーアウトになった瞬間、彼女は立ち上がって他の八人の野手とともにフィールドに出て行った。

 俺はそれを見送るしかなかった。残された選手や監督やコーチたちと並んでベンチ前の柵にもたれかかり、セカンドの守備位置に就いたジエンを見つめた。軽く体をひねってストレッチする彼女の姿はさっきまでテラス席から眺めていた時と同様に誰よりも小さかった。

 耳元でイーア語の声が聞こえた。振り向くと、陽に焼けて髭を生やした体の分厚い老人が立っていた。黒いユニフォームに身を包み、穏やかな表情で俺を見てくる。

 彼は再びイーア語で話したが、俺は首を横に振った。

「ウェルカム」と老人は言った。

 シアラ、と俺は答えた。

 チームの中で一人だけ突出して年齢が高い彼はこのチームの監督だろうと俺は推測した。

「私たちは勝つだろう」と彼は英語で言った。

 そしてバックスクリーンを指し示した。29回表、得点は25対23で、月は太陽を追いかけている。

 俺は適当に頷いて、あなたたちは勝てるだろうと言った。

 上空で稲妻が轟く音がした。聞き違いではなく見間違いでもなかった。青白い光が、いつの間にか空を埋め尽くしていた分厚い雲の合間を走って、爆竹と発煙筒の向こうで輝いた。

 そして雨が降り始めた。初めにゆっくりと、音もなく、グラウンドの土に微かな痕だけを残す形でそれは顕れた。ひょっとしたら俺が気付く前から降っていたのかもしれない。マウンド上のピッチャーは首を縦に振る。たぶん試合が始まってから、両チームのピッチャーは一度も首を横に振っていない。そして剛球を投げ込む。近くで見るとその迫力は一段と激しく、150キロくらいは出ているように見える。太陽のバッターは三振して再び爆竹が鳴った。その合間から雷の音が再び聞こえた。

 雨粒がはっきりとその形をとってグラウンドに突き刺さり始めた。次のバッターがバッターボックスに入ったところで、それは一気に勢いを増した。

 俺はこの国に来て初めて雨を見た。

 凄まじい雨だった。俺が呼吸するごとにどんどん勢力が増して、普通の雨から大雨になり、大雨から豪雨に変わるまで2分も掛からなかった。屋根の下にいる俺のスーツの袖が跳ね返った水滴でびしゃびしゃ濡れる。雨粒が大きく密度が濃すぎて、視界が白くなるような奴だ。セカンドにいるジエンすら霞んで見える。誰かが舞台装置のスイッチを押していきなり場面が切り替わったような感じがした。水で煙る視界の中でピッチャーが首を縦に振っている。全身が弓のように弾き絞られ、しなる腕からボールが腕からはじき出されるが、軌道はキャッチャーミットを大きく外れた。

「とても滑るので、これはとても難しいです」と俺の背後で孫悟空が言った。

 俺は頷いて、試合を止めるべきだ、と言った。「野球向けの天気ではない」

「いいえ、試合は続くでしょう」

 孫悟空が言うとおり、雨の勢いが尋常でないまま、真っ白い視界の中でゲームは進行した。審判たちは微動だにせず所定のポジションに立ち尽くしていて、何らかの協議を始める気配もない。グラウンドの芝は既にところどころ水たまりができている。ベンチにも水が流れ込んできていて、俺の革靴に染み込んでくる。このままだと1時間もしないうちにグラウンド全体が大きな池になるだろう。ファーボールでランナーが出塁し、次のバッターにも制球が定まらずに連続でファーボールになった。これは不味いだろうなと思っていると、続くバッターが緩く入ったストレートを痛打した。ジエンの頭上を越えて右中間を破ったボールはフェンス間際に落下してほとんどぴたりと止まり、走者一掃のスリーベースヒットとなった。27対23。雨の中で歓声が響き渡る。むしろ雨が降っていなかった時よりもいっそうその声の量と勢いは増している。スタンドの観客たちが踊り狂っているのが見える。爆竹は使えないが、太鼓は鳴り続け、足音がスタジアムを揺るがしている。

 俺はいらいらした。早く終われ、としか思わなかった。こんな試合はもうどうでもいい。このスタジアムの外で、何が起こっているのか分からないが、俺達は全員、今こそさっさと家に帰るべきだった。俺はすぐにでも振り返って、孫悟空とダース・ベイダーに向かって、クーデターが起きた、と伝えるべきだと思えて仕方がなかった。俺には何も分からない。しかしクーデター軍は王の権威に逆らって反乱を起こしたに違いないわけで、次の王を決めるこの祭りはその恰好の標的になるとしか思えない。次の瞬間にはこのスタジアムにクーデター軍が踏み込んできて制圧されるかもしれない。俺は眉間に皺を寄せた。俺は何も分からない。俺はそれが現実なのかどうか分からない。こんな天気では上空で鳴り続けている雷と爆弾の音の違いが俺には分からない。

 何とか太陽チームの3人目のバッターを三振に打ち取って、ほうほうの体で月チームはベンチに戻ってきた。ジエン、と俺はぐしょ濡れになった彼女に声を掛けた。駆け寄って腕をつかんだが、彼女は首を横に振って俺の手を振りほどいた。私は次のバッターです、と言ってバットを掴んでネクストバッターサークルまで歩いて行った。その動作は確固として、目つきは極限まで集中していて、全く有無を言わさなかった。

 土砂降りの雨の中、ほとんど形の見えなくなったサークルの中で佇むジエンを見つめて、俺は深く息をついた。そして孫悟空とダース・ベイダーに振り向いた。

「クーデターが起きた」

 何ですか? と孫悟空が言った。

「クーデターだ」と俺は言って、頭の中で英語を探った。「軍の、反乱だ。数時間前。日本から私に電話があった。日本はニュースを知っている。中国もアメリカもみんな知っている。知らないのはイーアだけだ」

 孫悟空もダース・ベイダーもお面を着けっぱなしなので、表情が見えない。

「私達はみんな家に帰るべきだ。既に、野球をやる時間じゃない。あなたたちはそれを知っているか? それとも知らないのか?」

 孫悟空とダース・ベイダーは二人ともお面の向こう側から俺を見つめたまま動かなかった。

 やがて孫悟空がゆっくりと首を横に振った。

「問題ありません」と孫悟空は言った。そしてもう一度言った。「問題ありません」

「どういう意味だ?」

「私たちはあなたのすべてを取材します。私たちはそのためにここにいます。それが一番大切です」

「私は重要な人間ではない。私は取材に意味があると思わない」と俺は言って首を横に振った

「あなたは重要な人です。カラマックスを王に届ける人です」

 大雨の中でジエンがバッターボックスに立った。彼女は左打ちだ。黒いユニフォーム姿で、バットを垂直に近く立てて構える彼女の姿は小さなイチローのようだった。

 彼女が大きく外れた初球を見送ると、一塁ランナーが盗塁を仕掛けて成功した。これだけめちゃくちゃな荒天だと、今のところは攻撃側の方が圧倒的に有利に見えた。スコールと呼ぶのも生易しい豪雨の中でジエンは微動だにしていない。彼女が考えていることは極めてシンプルだと俺は思った。打って、出塁して、勝つことしか考えていない。

「カラマックスは届かないかもしれない」と俺は言った。そして、いや違う、と日本語で呟いてから英語で続けた。「クーデターが起きている。だから私は王にカラマックスを届けることはできない。王がどこにいるか分からない」

「王はいます。今ここに」

「今、ここは、どこですか?」

「今、王はスタジアムにいます」

 孫悟空とダース・ベイダーはそれぞれ人差し指を立てて頭上を指し示した。俺はその指の示す方向を目で追ったが、ただベンチ裏の天井があるだけだ。

「王はいない。どこにもいない」

「王はVIPルームで試合を観ています。最初から今まで。私たちがいた部屋の上です」

「本当ですか?」

「今日は一番重要な日です。だから王もここにいます」

 俺は首を横に振った。ありえない、と俺は思った。

 クーデターが起きていて、王宮が破壊された。クーデター軍は政権の掌握を宣言した。その連絡が王に入っていないわけがない。殺すにせよ拘束するにせよ、王様はクーデター軍の最重要ターゲットに間違いない。最高権力者を放置するクーデターはクーデターではないし、そして海外に向かって政権奪取が打電されたのにのんきに野球を見ている最高権力者も存在するわけがない。

「私はいないと思う。数時間前に王はいたかも知れない。でももう今はいない」

 ジエンが振りぬいたバットがボールを捉えた。鋭い音を立ててボールは三遊間を抜けていく。怒号のような歓声の中で、ジエンはクールにエルボーガードを外して一塁ランナーコーチにそれを渡した。バットのフォロースルーから、しなやかに走り出す姿、そして塁上の佇まいまで、何から何までイチローの完全なコピーのようだった。

 たぶん彼女は今自分のことをイチローだと信じている。

「王は今ここにいます」

 孫悟空は再びそう言った。

 俺は首を横に振って、証拠はあるのか、と言った。だが孫悟空もダース・ベイダーも反応しなかった。そんなものはない。俺達はこのスタジアムにやってきてからほとんどずっと一緒にいたのだから、俺が見ていないものは彼らも見ていない。

「もし王がここにいるなら、その方が問題だ。ここは攻撃される。みんな逃げた方がいい」

「才川さん」と孫悟空は言った。静かな声だった。「ここは攻撃されません。試合が終わるまでは。誰一人攻撃はできない。誰もこの試合を止めることはできない。全員そう思っています。私は才川さんもそう思っていると思います」

「私はそんなことを思っていない」

「ではどうしてここにいるんですか、まだ?」

「何も分からないからです」と俺は言った。「ただそれだけです」

「才川さん、私たちはあなたを取材します。それが私たちの仕事です。だから、あなたがこのスタジアムを出て行くなら、私たちはそれについて行きます」

 俺は天を仰いだ。雨の勢いは全く変わっていない。俺は首を横に振った。

「どこに行けばいいのか分からない」

「では、私たちは試合を観ましょう」

 俺は首を横に振った。そしてベンチから足を踏み出し、グラウンドに出た。凄まじい雨が俺の全身を殴りつけてくる。ドラえもんのお面が雨粒で乱打されてバチバチと音を立て、全身が一瞬のうちに水浸しになった。足元も既にぐしゃぐしゃで、俺の靴は完全に水に浸かった天然芝の中に埋もれた。上空からは相変わらず稲妻か爆弾か分からない音が聞こえてくる。スタンドを埋め尽くすお面を着けた観客席からは大合唱が沸き起こっている。月チームの応援歌だ。それは空間全体を包み込み、雨とともに異常気象の一部となったように聞こえる。俺は振り返ってバックネット側を見上げた。俺達がいたテラス席の上、多重の雨のカーテンの向こう側でぼんやりとだが、そこには確かにもう一つ、重厚な構えに囲われた観覧席が見える。俺はそこにいる誰かの影を探した。

 だが誰も見えない。もっと奥まった場所に引っ込んでいるのかもしれないが、とにかく誰の姿もない。

 誰もいない、と俺はカメラに向かって大声で言った。そして観覧席を指さした。「王はどこにいる? 俺は誰にカラマックスを渡せばいい?」

 雷鳴よりも巨大な歓声が爆発した。振り向いた瞬間、白球が凄まじいスピードで雨中を突き破り、レフトスタンドに突き刺さった。三塁走者は飛び上がって喜びながらホームインし、ジエンは悠々とベースを回ってくる。打ったバッターは片手を高々と突き上げながらゆっくりとランニングした。スリーランホームランだ。孫悟空が俺に向かって何か言ったが、太鼓と歓声と雨の音で何も聞こえない。俺は雨の中で、先に本塁に生還したランナーとハイタッチするジエンの姿を見つめていた。月チームはベンチから全員飛び出して、帰還したバッターを大はしゃぎで出迎えた。まだ試合は終わってないし、彼らはまだ27対26で負けているがそんなことは誰も気にしていない様子だった。ジエンは、大喜びでホームランを祝うチームメイトの輪から離れてゆっくりとベンチに向かってくる。俺は、ジエン、と大声で呼んだ。

「ジエン、君は知ってるのか」と俺は言った。「いや、知ってるんだろ」

「何の話ですか?」

「日本から俺に、この国でクーデターが起きたと連絡があった。知ってるか?」

 ジエンは首を横に振った。

「クーデターの意味は分かるか? 軍隊が武力で政権奪取したんだ」

 ジエンは頷いた。

「じゃあ分かるだろ? 野球をやってる場合じゃない。俺達はその真偽を確認しなくちゃならない。それが本当なら、いや本当のはずだが、全部終わりだ。この試合は終わりだし、海老イーア支店の営業も終了だ。俺達はみんな家に帰る。俺は日本に帰ることになる」

「才川さん、何を言ってるんですか?」とジエンは言った。「試合はまだ終わらないです。イニングはあと15回も残っています」

 俺は首を横に振った。

「もうそういうのはいいんだ。もういい」と俺は言った。「俺には分かってる。昨日君は俺にSMSを送ったろ。カラマックスを乗せた船が沈没した、って。君は分かってるはずだ。少なくとも俺よりもずっと」

「私はそんなメッセージは送っていません」とジエンは言った。「私は昨日から、今日のためにスマートフォンを手放しています。もう私には必要ないものだからです。チームメイトたちもそうです。私達はそれぞれのリーチにそれを預けていて、おそらくもう使うことはありません」

 リーチ、と言いながらジエンは俺の背後を指さした。

 振り返ると、俺の喉から、誰にも聞こえない溜息とも呻き声ともつかない息が漏れた。

 三塁線側のフェンス沿いに、仮面を着けた人間たちが並んでいた。俺達が着けている塩化ビニールのお面ではない。仮面だ。あの夜に見た、暗闇の中では木製なのか石製なのかよく分からなかった仮面、何の生き物を象っているのか分からなかった仮面だ。それがグラウンドに向かって一列になって座禅を組んでいる。服装は全員灰色で、雨の中にほとんど溶け込んでいる。仮面の形は全員ばらばらだ。角が二本あるものもいれば三本のものもいるし、顔を全部覆うものもあれば目元しか覆わないものもある。色も全員ばらばらで規則性がない。振り向くと、一塁線側にも同じような格好の連中が同じような姿勢で並んでいる。

 何十人もいて数えきれない。

「いつからいたんだ?」

「さっきからいました。才川さんには見えなかったんですか?」

 見えない、と俺は言った。「こいつら何しに来たんだ? OBの応援団か? あんなところに座ってファールボールでぼこぼこにされたいのか?」

「リーチ全員が集まるのは30年ぶりらしいです。私も見るのは初めてです」とジエンは言った。「才川さん、きっとメッセージを送ったのはリーチです。彼らは才川さんには預言を伝えておきたかったのだと思います」

「だったら次は日本語か英語で送ってくれ」と俺はリーチの仮面を一つ一つ眺めながら言った。「残念だけど、もうイーア語を勉強する機会がなさそうだから」

「いえ、才川さんはこれからイーア語を勉強することになると思います」

「いつか日本とイーアの国交が正常化して、取引が元通りになるときのためにか? ジエンが通信教育で教えてくれるのか?」

「違います。才川さんが日本に帰ることはなく、この試合が終わったら才川さんはリーチになるからです」

 俺は振り向いてジエンを見た。

 だがドラえもんの髭の部分に空いた穴が水で詰まってきてよく見えない。

「あの夜リーチが才川さんに話しかけましたよね? あれが預言だったんです。王がカラマックスを発注したことでそれが確定しました。だからみんな才川さんの周りに集まってお祭りが始まったんです。この孫悟空の記者もダース・ベイダーのカメラマンも、みんなそのために才川さんをずっと取材していたんです。要するに才川さんがこの国の神の一人になる人だからです」

 俺はお面の穴の部分を指で擦った。水の膜が剥がれ、水浸しになったジエンの姿が再びぼんやりと見えた。振り返るとダース・ベイダーは微動だにせず俺にカメラを向けている。

 試合は続いている。月チームは走者一掃後も相手投手の乱調に乗じてヒットとファーボールで出塁し、塁上には二人のランナーの姿が見える。彼らはダブルスチールを仕掛けたが、太陽チームのバッテリーは反応ができない。

 30回裏、ノーアウト、二、三塁。カウントは一ボール。

「だから才川さん、試合を見ていてください。私たちは勝ちます」

 俺のポケットの中から振動が伝わってきた。ぐしゃぐしゃになったスーツのスラックスから俺はスマートフォンを取り出して、何も考えずにその電話に出た。

 もしもし、と俺は言った。

 しばらくの間、電話の向こうは無言だった。だが微かに呼吸が聞こえる。俺はしばらく電話口の向こうの人物とともに、歓声を聴いていた。

〈眠れないの〉と海香が言った。

 腕時計を見た。1時30分。日本時間では3時半だ。

「俺もだ」と俺は言った。

〈物凄くうるさいけど、今どこにいるの?〉

「野球を見てるんだ。でかい大会があって」

〈なんか雑音も凄いけど〉

「大雨が降ってるんだ」

〈声も、こもってる〉

「お面付けてるから」と俺は言った。

〈お面? お面って何?〉

「ドラえもんだ。知ってるだろ?」

〈ドラえもんもお面も分かるけど、何でそれをつけて大雨の真夜中に野球を見なくちゃいけないのか分からない〉

「俺もだ」と俺は言った。「病院には行った?」

〈明日、行く〉

 俺は頷いて、分かった、と言った。「行ったら、教えて欲しい」

〈電話かメールする〉

「電話の方がいい」

〈野球はどっちが勝ってる?〉

 俺は首を横に振った。「今はまだ、太陽のチームが勝ってる。でも、これからどうなるのか分からない」

 俺がそう言った瞬間、ピッチャーの脇を強烈な打球が走り抜けた。センター前ヒットが成立し、2塁と3塁の走者が一気に生還した。センターからのバックホームはぎりぎり間に合わなかった。嵐よりも雷鳴よりもやかましい歓声が轟く。

〈凄い音〉と海香が言った。

「月が逆転した」と俺は言った。

 才川さん、と俺の目の前に立ち尽くしていたジエンが言った。

「王です」

 俺はジエンが指さす方向、バックネット裏の貴賓席を見上げた。

 さっきまで誰もいなかったそこに、誰かが立っている。だが霞んでよく見えない。俺はドラえもんのお面を外した。雨の向こう側で、茶色いローブを身に纏い、真っ白いつるつるの仮面をつけた人物が静かに立っている。白い仮面がゆっくりと手を振ると、スタジアムの全員が立ち上がって拍手と歓声で応えた。

「王様はここにいます。儀式は最後まで執り行われます」とジエンは言った。

「あれじゃ誰だか分からない」と俺は言って首を横に振った。

 俺は目を凝らして、遠くに見える白い仮面を見つめた。だが俺には分からない。一度YouTubeで動いている王の本物を見たことはあるが、頭上に立つ人物がそれと同一なのかどうか判別できない。

〈明〉と海香が俺を呼んだ。〈まだ終わりそうにない?〉

 そうみたいだ、と俺は言った。「でも大丈夫だ。話はできる」

〈そうは思わない〉と海香は言った。〈もう寝た方がいい。明日も仕事でしょ? 私たちはもう寝た方がいい〉

 俺は頷いた。「そうするよ」

〈私も寝る。眠れないけど寝る〉

 分かった、と俺は言った。

 風邪ひかないようにね、と海香は言って電話を切った。

 俺はぐしゃぐしゃのポケットの中にスマートフォンを突っ込んだ。

 そして爆音が鳴り響いた。遥か遠くから聞こえる。何かが激しく砕けて崩れ落ちる音で、俺はそれを稲妻でも花火でもなく爆弾だと思った。

 行くよ、と俺はジエンに言った。「俺はここを出る。このままここにいると、俺は神様にされるんだろ?」

「才川さん、ここにいれば大丈夫です。ここには今、全てのリーチと王がいます。この国で最も安全な場所です。一緒に最後までいてください」

 俺は首を横に振った。

「神様になったらカラマックスを誰にも売れなくなる。クーデター軍は対外的に自分たちの政権の正統性を主張するために、俺を上手く利用するだろう。俺はそれに協力すればいい。しばらく拘束されるかもしれないけど、きっと一生じゃない」

「クーデターなんか起こっていません。夜が明けたら新しい王様が誕生するだけです」

「それは確認しないと分からない」

 俺はドラえもんのお面をジエンに渡してベンチに戻った。俺は孫悟空からカラマックスのボードを奪い取って、来るな、と英語で言ってベンチ裏を出た。孫悟空とダース・ベイダーは俺に付いてきて、孫悟空は早口のイーア語で何か話しかけてきたが、俺は、ギルザイ、と大声で言った。孫悟空とダース・ベイダーは立ち止って動かなくなった。

 俺は通路を通り過ぎてエレベーターに乗り、1Fまで上がった。急速に音が遠ざかる。エレベーターの扉が開いてもその静けさは変わらない。広いフロアには俺以外に誰の姿もない。観客もスタッフも誰もおらず、歓声と雨音が遠くから聞こえるだけだ。歩く俺の全身と手に持ったボードから雨粒が滴り落ちる。メインゲートに幾つも立ち並ぶ回転扉の一つをくぐってスタジアムの外に出た瞬間、雨が俺の全身を叩くよりも早く、前方から凄まじい量の明かりが俺に向かって投射された。

 光で何も見えない。目を開けていられない。足元に四方から振動が伝わってくる。無数の人間が遠くから俺を包囲する気配が伝わって来る。だが何も見えない。俺は、タオルが欲しい、と思った。それも特大でふかふかの奴だ。スーツもシャツも靴下も全部脱ぎ捨てて、その巨大なタオルにくるまって眠りたい。俺は目を閉じたまま光に向かって両手でボードを掲げて、アイハブカラマックス、と大声で言った。

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