第4話 太陽の国の神 ④


 白い方も黒い方も、ピッチャーはかなり速いペースで球を投げ込んでいく。それもほとんどストライクしか狙っていない。バッターも初球からぶんぶんバットを振り回すので、大体一打席五球以内に勝負がつく。ファーボールがほとんどないこと以外はまるで少年野球のようなリズムだった。

 そしてヒットのたびに客席からロケット花火が打ち上げられ、爆竹が炸裂する。発煙筒はひっきりなしにどこかしらで焚かれていて、スタジアム全体が赤く染まっているように見える。煙から遠く距離が離れていても目がチクチクしてくる。打楽器がそこらじゅうで打ち鳴らされていて、それはばらばらなのに妙に一つのグルーヴを成しているように聞こえる。

 白も黒もお互いにピッチャーが剛腕で、ストライクしか投げ込まない分、その球威は相当なものに見える。ほとんどを空振り三振に取り、ヒットを散発的に打たれても、その後さらにギアを上げて抑え込み、なかなか点が入らない。黒いチームのジエンも打ち取られた。彼女は三回裏、黒チームの八番バッターとして登場したが、スライダーか何かで芯を外され、塁上のランナーを進めることはできなかった。彼女のバットの振りは鋭く、一塁までの走塁は相当な早さだったが、それでも周りの選手たちに比べて体の小ささは否めなかった。

 四回裏まで進んでまだ試合は0対0だった。俺は孫悟空がルームサービスで注文したビールを飲み、チキンを食べながら腕時計を見た。まだこの席に着いてから30分くらいしか経っていない。

「才川さん、日本の野球と比べてどう思いますか」と孫悟空が訊いた。

「ストレートな感じがします」と俺は言った。「いろいろな意味で」

「それは良い意味ですか?」

 もちろんです、と俺は言った。

 この調子で試合が進むなら、俺が思っていたよりも早くこのイベントは終わる。野球も、それをビールを飲みながら見るのも別に嫌いではないが、今はそんなことのためにここに来たわけではない。ジエンと話して明日の準備をするために来たのだから、さっさと終わってくれるならその方がありがたい。

「ところで」と俺は言った。「私は、勝った方は神になると聞いた。野球は九人でやる。サブメンバーも含めて十五人とか二十人とかいると思う。全員神になるんですか?」

「そうです。全員です。一チーム十八人いる。勝った十八人が神になります」

「神とはリーチのことですか?」

「違います。リーチはリーチです。神は王の分身(アバター)です。やがて十八人のうちの一人が王になります」

「ジエンが王になるかもしれないということですか?」

「その可能性はあります。今の王が彼女を十八人の中から選べば」

 俺は頷いた。

 そしてこのうちの十八人が神様になる、と思って高速の投手戦が続く様を眺めた。道理でフィールドの全員が異様に真剣な顔をしているように見えるわけだった。観客の熱気も異常だ。選手たちの一挙手一投足に対する反応が激しすぎる。歓声の炸裂が、ハリウッド映画の爆破シーンみたいな気軽さですぐに起こる。

 しばらく野球を眺めているとビールが空になり、俺はトイレに行きたくなってきた。

 席から立ち上がり、孫悟空の前を通ってテラス席から部屋の中に戻ろうとすると、孫悟空が、ウェイト、と言って呼び止めた。

「才川さん、どこへ行くんですか」

「トイレです」

「どうしてですか」

「トイレに行く必要があるからです」

 孫悟空は首を横に振って、それは難しいと思います、と言った。「主任は我々にこの部屋から出るなと言いました。才川さんはそれを思い出せますか」

 それがどうした、と俺は思った。

「思い出せます。しかし私はトイレに行かなくてはならない」

 俺は歩き出し、部屋を横切って廊下に出た。後ろ手にドアを閉めると、歓声が遠ざかる。

 ただちに俺に二人の警備員が寄ってきた。他の全員と同じように灰色のローブを着て、トランスフォーマーのキャラのお面を着けているが、警棒を腰にぶら下げているのだから警備員だろう。彼らは俺の目の前に立ち、イーア語で何か言った。

 俺は首を横に振って、トイレはどこですか、と英語で言った。

 極めて簡単な英語なので、意味は伝わったようだった。あー、と言って、彼らは天を仰いだ。そしてまた首を横に振り、両掌を俺に向かって突き出して部屋に戻れ、というジェスチャーをした。

「ノー、トイレット」とオプティマス・プライムが言った。

 馬鹿馬鹿しい、と俺は思った。ビールを飲みながら野球を9回裏まで見るのに、その間トイレに行っていけないわけがない。俺はエクスキューズミーと言って、二人の間を通りぬけた。

 俺が廊下を歩いて壁にトイレの案内表示がないか探していると、正面からピカチュウ主任が早足に歩いてきた。彼女は俺の前に立ち塞がった。

「あなたは部屋を出てはいけない」とピカチュウが早口で言った。

 俺は首を横に振って、トイレはどこですか、と言った。

 ピカチュウは低く唸るような声を出してから、待ってください、と言った。彼女は俺の背後に付いてきていた警備員に声を掛けて、イーア語で何か指示を出した。

「この二人の警備員があなたと一緒にトイレに行きます。終わったらすぐに部屋に戻ってください」

 彼女は英語でそう言い、俺が分かりましたと答えると、俺に振返りながら立ち去った。俺は前後をオプティマス・プライムとバンブルビーに挟まれ、彼らに誘導されて廊下を歩いた。しばらく歩くと男性トイレと女性トイレのコーナーが見えてきて、三人で並んでトイレに入った。遠くから球場内の歓声と振動が伝わってきて、白と水色の空間の中で反響している。小便器が十基ぐらい並んでいて、俺が奥まで歩いていこうとすると、ノー、とオプティマス・プライムが言って、一番手前の便器を指し示した。

 なんで便器まで指定されなきゃならないんだ、と思いながら、逆らうのも面倒くさいので、了解、と答えて言われたとおりの便器の前で、背後を二人に見張られながら俺はスーツのベルトを外した。

 地鳴りのような振動がさらに激しくなった。トイレの空間全体が小さくびりびり震えている。たぶん、どちらかのチームに得点が入ったのだろう。

 ポケットの中で何かが震えた。

 俺はそれを錯覚かと思った。現代のサラリーマンは全員病気を抱えている。慢性的に、間歇的に、何もないのにポケットの中で携帯電話が震えている気がする病気だ。何か着信したサインかと思ってスラックスのポケットからスマートフォンを取り出して確認してみても、そこには何の表示もない。いつものそれが起きたのだと思った。

 だが、違う、と俺はすぐに思った。錯覚ではない。何度も連続する振動が、俺のずり下がりかけたズボンの左ポケットから伝わって来る。この震え方は電話じゃない、と俺は思った。メールかメッセージを一気に幾つも受信しているので連続で振動しているのだ。

 このトイレは通信回線が生きている。

 俺はそう思った。そして直感的に、俺は今これをポケットから取り出して確認してはいけない、と思った。このバイブレーションの音は、俺の背後に立っている二人のトランスフォーマーに聞こえているだろうか。地鳴りのように遠くからの歓声が響いていて、俺の前では便器の自動洗浄の水が流れる音がしていて、俺自身にも足に震えとして音もなく伝わって来るだけなので、多分聞こえていないはずだ。俺は何もない振りをしてそのまま用を足し終えて、終わった、と二人に言った。

 俺は二人に見張られて洗面台で手を洗い、ズボンの後ろポケットからハンカチを取り出して拭いた。廊下を歩いて308ルームに戻りながら、だからこいつら俺を部屋から出したくなかったのだ、と俺は思った。

 届いたのはきっと日本からのメールだ。おそらく清田課長だろうし、海香かもしれない。それをすぐに確認したかったが、こいつらが見ていないところでそうした方がいい。俺に自由にスマートフォンを使って欲しいなら、初めからVIPルームにWiFiを飛ばしているだろう。そうしていないということは、そうしていない理由があるはずで、俺は先にそれを知るべきだった。

 俺がトランスフォーマーに見送られて308号室のテラス席に戻ると、既に試合は7回裏まで進んでいた。そして座席に座った瞬間、これまでで最大のボリュームの歓声が炸裂した。乾いた音とともに白球が天空に弾き飛ばされ、左翼と中堅の間を破って落下すると、そこらじゅうで爆竹が爆発した。あまりにもやかましくて俺は両耳を抑えた。二人のランナーが本塁に生還して、打ったバッターは二塁上で両腕を高く突き上げた。

 才川さん、月のチームが3点取りました、と孫悟空が耳元で言った。

 バックスクリーンの電光掲示板を見ると、後攻側の得点にその通り、3と刻まれている。先攻の太陽チームにはまだ一点も入っていない。

 俺はポケットに手を突っ込んで、今ここでスマートフォンを取り出して中身を見るべきかどうか考えた。だがよく分からなかった。いろいろと分からない。今朝から死んでいた電話回線が何故VIPルームのトイレから繋がったのか。スタジアム中を見回してみても、遠目にも誰もスマートフォンを使っている様子がない。持ち込み自体禁止されているのかもしれない。今この空間全体はひたすら全員で野球を応援する儀式で、カメラに撮ってそれをSNSに上げるような行為は認められていないのだろう。ピカチュウ主任たちにとっては、どんな行動であれ俺がその儀式を邪魔することが不愉快なのは間違いない。そういう状況だから、この記者達も俺がスマートフォンを使っているのを見たらピカチュウたちに報告するかもしれない。そして俺は彼らに電話を取り上げられるかもしれない。大体、何故彼らが未だに俺の取材を続けているのかよく分からない。今更俺の行動を映像なり文字なりにして、そこに一体何のバリューがあるというのだろう。

 俺は太陽チームのピッチャーがピンチを堪えて打者を三振に打ち取る様子を眺めながら、しかし慌てる必要はないかもしれない、と思った。このペースなら多分あと30分くらいで9回表まで進む。試合が終わってジエンに会えばそれで済むし、逆に会わなければ何も進まない。よく考えたら今清田課長に何か説明しようとしても、カラマックスに関して俺が持っている情報は昨晩から何も更新されていない。

 俺は8回表の太陽チームの攻撃に備えて二塁手のポジションに立つジエンの小さな体を眺めながら、孫悟空に訊いた。

「試合はもうすぐ終わる。私はまだここにいてもいいですか? セレモニーの準備をしなくてもいい?」

 孫悟空は首を傾げた。そして、すいません、もう一度言ってください、と言った。

 彼は記者だ。王室の人間ではない。儀式がどういう段取りになっているのか訊く相手としては適切ではないだろう。だが少なくとも俺よりは今の状況が分かるはずだった。

「試合はもうすぐ終わると思う。私はカラマックスのボードの準備をしなくていいですか?」と俺は言った。

 孫悟空は再び首を傾げ、その後で首を横に振った。

「試合はまだ終わりません。長い時間終わりません。まだ8回です」

「どうしてですか。もう8回です。もうすぐ9回です」

「この試合は9回で終わりません。この決勝戦は46回です」

「46?」

 はい、と孫悟空は言った。「夜明けまでには終わると思います」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る