第4話 太陽の国の神 ③


 アッカ達は去った。

 ちょうど時計が一七時半を示したのと、ほとんど同時だった。演奏は唐突に終わった。無理に断ち切られたというわけではないが、特に象徴やクライマックスも感じさせず、いつの間にか羊を数え終わって眠りに落ちたような感じで、ただ静かに音楽は終わった。アッカ達は手分けしてフロアの奥の戸棚にスピーカー類を押し込み、楽器とそれにつながるコード類を片付け、各々楽器を背負って無言でフロアから出て行った。その間アッカは俺に声を掛けなかったのは勿論、こちらを見もしなかった。

 再びルンバが走り回る音が聞こえる程度の静けさが戻った。俺は周囲を見回して誰もいないのを確認してため息をついた。最初から最後まで彼らが一体何だったのか全く分からないままだった。

 窓から射し込む太陽の光はまだ明るいが、少しずつ傾きかけている。そして特に何も進展していない。肝心のジエンも現れない。本当にただ待っていただけで、状況が朝出社した時から何も変わっていない。

 もうやることがない。俺はアッカ達が音楽を演奏しているうちに海香へのメールを書き終わっただけでなく、何度も推敲した。清田課長に状況を報告する文章も書いた。結局結論として何がどうなっているのか分からないので、最後が「続報を待て」で締められているような仕様もない文章だったが、とにかく最新の状況を伝えられる文章にはした。しかしどちらも、ネット回線が復活するまで送信もできない。

 仕方が無いので俺は冷蔵庫の中から今朝コンビニで買った、パックされた牛丼のようなものを取り出した。たぶん牛丼だと思うが、赤白緑の山菜に過剰に彩られて味付けも醤油ベースではなさそうだった。俺はそれを電子レンジで温め、ターンテーブルが回転する前に立ち尽くしてスマートフォンでシッダールタの続きを読んだ。

 俺は席に戻ってプラスチックのスプーンでソース味の牛丼を食べ、もう片方の手でスマートフォンの画面をフリックしてシッダールタを読んだ。シッダールタは享楽の世界に没入していき、若き日に掴みかけた崇高な悟りのようなものを失いかけている。しかし一方で、逆にその時よりも強く捕まえているようにも見える。意味があったものが無意味になり、無意味だったものが意味を持つという回転をぐるぐると繰り返している。俺は牛丼をがつがつ食べながらペットボトルのお茶を飲み干した。牛肉は筋だらけでぼそぼそしていたが、ソースが濃厚で山菜もしゃきしゃきしているので退屈しない味だった。

 米の最後の一粒まで食べつくして、ごちそうさまでした、と俺は言った。そして立ち上がって、ポリ容器とスプーンをゴミ箱に捨て、冷蔵庫の中からコカコーラゼロのペットボトルを取り出して扉を閉めた。

 席の方に振り向いてすぐ、俺は立ち止った。

 誰かいる。

 冷蔵庫から反対側のオフィス端の、入り口の扉を開けて、白い服の誰かが立っている。初めは一人だった。しかし、ぞろぞろと三人、四人と入って来る。

 俺は反射的に腕時計を見た。午後6時を過ぎている。試しに記憶を遡ってみたところで、今日の6時に来客のアポが入っていた痕跡は全く見当たらない。そして例によって来客たちの姿に見覚えもない。彼らが着ているのは普通の洋服ではなかった。全員、縫い目の見えない一枚布のローブのようなものを身に纏っている。腰のあたりで細い帯が締められており、数日前に聖地の山道で出会ったリーチの格好にそっくりだった。あの何の生き物だか分からない仮面は着けていないが、それ以外はほとんど同じだ。彼らはずかずかと歩いて俺の方に向かってくる。

 誰だ、と俺は言った。

 しかし相手からは反応は無く、歩く速度も緩まない。

 俺はコカコーラゼロのボトルキャップを開けて、ほんの一口だけ飲んだ。二本の指の間にペットボトルの先端を挟んでぶら下げて、俺も来客たちに向かって歩き出した。

 最後にオフィスに入ってきた五人目が、肩にビデオカメラを担いでいる。

 それでやっと分かった。こいつらは見知らぬ客人ではない。俺は彼らを、一応ほぼ全員知っている。

 俺は彼らに歩み寄りながら、途中で歩くコースを変更して、ソファの方に向かった。彼らもそれに付いて来た。彼ら五人のうち四人は知っている。先週まで俺を密着取材していたレポーターと、そのカメラマン。カラマックスの納期交渉で向き合った、王室の何とかいう冷たい目の眼鏡の室長と、何とかいう女の主任の四人だ。刀剣のような鋭い眼をしていたカマグ長官の姿はなく、その代わりにいる五人目は誰だか分からない。カメラマン以外は皆手ぶらだったが、その五人目だけはやたら大きなバッグを両肩に掛けている。

 俺は客人たちとともにソファに座りかける前に「皆さん、何の用ですか」と英語で言った。なんでそんな恰好をしているんですか、という英語が一瞬思いつかなかったのでそう言ったのだが、どちらにしても彼らは何の返答もせず俺に向かい合って座った。三人掛けのソファにレポーターと室長と主任が並んで座り、カメラマンは脇に立って俺たちにカメラを向け、俺の知らない男は肩にかけたバッグを下ろして室長と主任の背後に立っている。

 俺は「椅子に座りますか?」と見知らぬ男の顔を見て言って、社員のデスクからオフィスチェアを引っ張ってこようとしたが、室長が手で制して、ゆっくり首を横に振った。

 俺は鼻で息をついて、座り直した。

「私たちは話せるのですか?」

 室長も主任もレポーターも首を横に振った。背後に立った男から主任が小さめのスケッチブックとペンを受け取り、英語で何事か書きつける。

〈まだ話せません〉

「『まだ』?」と俺は言った。「もうすぐ話せるのですか?」

〈はい〉と主任が書いた。

「いつですか? 1時間後? 明日? 1週間後?」

〈今日、もうすぐ〉と主任が書いた。

「分かりました。では待ちます」と俺は言った。

 するとまた目の前の三人が同時に首を横に振った。

〈我々は待てません。あなたと我々はすぐに出発する必要があります〉

 俺は主任が書く角張ったアルファベットの羅列を見つめながら、departureという単語を睨みつけて声に出した。

「出発? どこに出発するんですか?」

〈我々はあなたに招待状を出しました。あなたはそれを読んだと思います〉

「私はそれを知りません」と俺は言って首を横に振った。

〈必ず今日届いています。メールボックスを確認してください〉

 俺はそこで思い当たった。立ち上がって自席に戻り、今朝郵便受けに届いていた封筒を手に取ってまたソファまで戻った。

「これが招待状ですか?」と俺はソファの間のローテーブルに封筒の中身を取り出して置きながら言った。「イーア語で分からなかった」

〈これが招待状です〉

「今から王宮に行くんですか? 何をしに?」

 俺は瞬間的にのどが渇き始めた。そういうことなのか、と俺は思った。カラマックスを乗せた船が沈んだ。それはやはり本当で、王宮はその事件をとっくに承知していて、それについての落とし前を付けさせるために俺を迎えに来たというのか。

〈王宮ではありません〉と主任は書いた。〈National Stadium〉

 ナショナルスタジアム、と俺は呟いた。

 国立競技場。

「スタジアムで何するんですか? オリンピックでも始まるんですか?」

 主任は俺の声を聞いている風でもなく、文を書き続けた。俺は顔を上げてそれ以外の周囲の四人の顔を見た。全員無表情だった。

〈日没後、この国で最も重要なイベントが始まります。それはセレモニーです。あなたはそれに参加してください。我々はあなたを迎えに来ました〉

「それは難しい。私は今、人を待っています。ジエンです。私は彼女と会う必要がある」

〈あなたは待つ必要はありません。何故ならジエンはスタジアムにいるからです。彼女は参加者です〉

「彼女はスタジアムで何をしているんですか?」

〈それはまだ、話すことも書くこともできません。あなたは行けば分かります。あなたは彼女に会います〉

「私はそこで何をするんですか?」

〈あなたはカラマックスを神に納品します〉

 俺はビジネスマンの顔を保ち続けていた。それは無表情でも笑顔でもしかめっ面でもない、柔和さと威厳を適量ずつ盛った、余裕を装った表情だ。

 だが、堪えきれずに一瞬だけ眉間に皺の亀裂が走った。

「神?」と俺は言った。「国立競技場に神がいるんですか?」

 室長が振返って指で示すと、ソファの背後に立っている男がごそごそと動き、足元から茶色い包装紙に包まれた大きな四角い荷物を拾い上げた。包装紙をびりびりと剥がすと、中から長方形の巨大なボードが現れた。

 男はソファの脇に立って、それを両手で抱えて俺に示した。

 カラマックスのパッケージ写真プリントを背景にして、中央下部に大きく数字が刻まれている。500,000。

〈あなたはスタジアムでこれを神に渡します〉

 俺はその目録代わりのボードをぼんやり眺めた。まるでテレビのお笑い芸人大会の優勝賞品にしか見えない。俺は自分がそれを、誰なのか分からない誰かに渡す様子を想像した。

 神が現物の代わりに目録を受け取るのか?

「どうして私が渡すのですか?」

〈それが王のオーダーです。発注した時から、あなたが商品を納品するという依頼でした。あなたはそれを覚えていますね?〉

「どうやって渡すんですか? 神は人間なんですか? 神には手と足がある?」

 室長と主任は顔を見合わせた。室長が首を横に振り、主任が頷いた。

 彼らは無表情だったが、俺に対して呆れているのは伝わってきた。

〈心配しないでください。時間が来たら案内します。あなたはこのボードをその人に渡してください。その人はそれを受け取ります〉

 主任が書きつける英語の文章を読みながら、俺は頷いて、思った。

 それはそうだ。「その人」。何がどうなのか知らないが、少なくともファイナルファンタジーに出てくる巨大なモンスターのような超存在がいきなりスタジアムに顕現するはずもない。単に「神」役の誰かがそこにいるのだ。俺はこの国の神話体系も今日のイベントの内容もどうなっているのか知らないので、それがあのリーチの代表者のことを示すのか、それとも全然別の神を演じる誰かのことを示すのか分からないが、とにかくそこにいるのは人間だ。

 要するにこれは儀式だが、演劇、ショーだ。

 俺はそれを口にしようかと思ったが、止めた。明らかに室長と主任は既に、物わかりの悪い俺に対して苛ついていて、その確認も挑発としか受け取られないだろう。

 俺をじっと見つめている室長の膝が微かに上下に震えている。きっと、さっさと出発したいのに違いない。

 俺は鼻で息をついた。そしてようやく気が付いた。良かった、と俺は思った。

 カラマックスを乗せた船は沈没していない。

 あのメッセージはやはり誤報だ。何故ならカラマックスを乗せた船は彼ら王室の船籍で、沈没したなら彼らに真っ先に情報が伝わらなければおかしい。それが今こうして平然と、神だか何だか知らないが、商品を渡す手はずについて俺に話している。物事は予定通りに進んでおり、彼らは明日この国にカラマックスが到着することを疑っていない。

 では後は、何故あんなメッセージをジエンが俺に送ったのか、明日の現物受け渡しの段取りをどうするか、ジエンに直接会って確認するだけだ。

「オーケー」と俺は言った。「スタジアムに行きましょう。そこにジエンもいるのですね?」

 室長と主任は頷き、二人同時に振返った。カラマックスのボードを抱えていた男が頷き、別の巨大なナイロンバッグを取り上げてファスナーを開き、テーブルの上に置き、中身を腕で勢いよく掻き出した。

 からからと音を立てて、幾つもの色鮮やかな物体がテーブルに散乱し、一つが俺の足元に零れ落ちた。

 俺はそれを取り上げた。ドラえもんの、塩化ビニール製のお面だった。縁日で屋台の壁に並んでいるあれに似ている。と言うよりそれそのものだった。

 テーブルの上にぶち撒けられているのもすべてお面だ。ウルトラマン、アイアンマン、ヨーダ、アンパンマン、孫悟空、エヴァンゲリオン、きかんしゃトーマス、ヒーロー戦隊、ジバニャン、スティッチ、スパイダーマン、初音ミク、ストームトルーパー、ハローキティ…… 古今東西のキャラクターお面がぐしゃぐしゃに積み上げられている。

 俺がそのお面達を眺めているうちに、目の前の五人は立ち上がってテーブルを取り囲み、少し考える様子でそれぞれにお面を取り上げた。記者が孫悟空を取り、カメラマンがダース・ベイダーを取り、荷物持ちの男が初音ミクを取り、主任がピカチュウを取り、室長がくまのプーさんを取った。

 そして彼らはお面を顔に装着した。

 俺は無表情でそのお面達と見つめあった。

〈選んでください〉とピカチュウ主任がスケッチブックに書いて示した。

 俺は口を半分空けて、choose、の文字をまじまじと見つめた。

 全身を白いローブに包まれ、お面を着けた彼らの姿を見ながら、あの夜に山道で会ったリーチの姿を思い出した。

 スタジアムに行くにはこれが必要なんですか、と俺は訊こうかと思ったがやめた。

 必要に決まっている。

 必要でもないのにあの冷たい目の室長がくまのプーさんのお面を着けるわけがない。

 俺は首を横に振った。そして手に持ったままのお面を見た。

「私はドラえもんでオーケーです」と俺は言った。

 そしてスーツ姿のままドラえもんのお面を被った。ドラえもんの髭の部分に穴がぽつぽつ開いているので正面は見えるが横が見えづらい。プーさん室長が俺と周囲に向かって頷き、初音ミクが残りのお面を再びバッグにしまい直した。ダース・ベイダーが持ったカメラは俺の方に向けられている。

 ピカチュウ主任が腕時計を見て、英語で声に出して言った。

「時間です」




 俺は3列シートのレクサスの2列目右側の席に座って、通り過ぎていく窓の外の景色を眺めた。太陽がガスで煙るビルの向こうに消えて、暗闇の密度がどんどん増していき、もう舞い散る埃も見えない。夜がやってきた。

 レクサスの速度は相当速い。初音ミクの荷物持ちがドライバーで、彼はほとんど救急車みたいな勢いで信号を半分無視して道を走っていく。全員お面を着けっぱなしで、その様子だけ見ると俺達はまるで質の悪い銀行強盗のようだった。ぽつぽつ明かりが灯された建物と街灯の光に照らされ、横を走る車を幾つも追い越してレクサスは大砲の弾丸のように真っすぐ突き進んでいく。

 俺は、ドラえもんのお面を下にずらして窓の外の様子を呆然と眺めた。

 車が走っている。そして道に人も歩いている。どちらも昨日までより数は少ないが、昼の間はどこへ行こうと完全な無人だったのが、ごく普通に人間が活動している。

 俺は後部座席に振り返って孫悟空のレポーターに英語で話しかけた。

「人が道を歩いてる」

「はい、その通りです」と孫悟空が言った。

「誰も歩いてなかった。昼は」

「はい。夜だからです」

「夜は歩いてオーケー?」

 うむむ、と孫悟空は首を傾げて言った。「彼らは少し正しくない」

「静かにしてください」と俺の真後ろに座るピカチュウ主任が言った。「我々はまだ、意味のないことを話してはいけません」

 分かりました、と俺はとりあえず言って口を閉じた。しかし、何に意味がなくて何に意味があるのか俺には分からない。彼らにとってはどうでもいいかもしれないことでも、俺には訊きたいことだらけだった。太陽が沈んで夜になって、人々は外に出てOKになったということは、もうこれで沈黙と無為の時は終わり、明日の朝にはすべての人間活動が復活しているということだろうか? 電車は動き、ネット回線は回復し、コンビニには店員が戻り、ピザ屋はピザを配達するのだろうか? 

 俺はドラえもんのお面をかぶり直した。俺の隣に座るダース・ベイダーは俺に向かってずっとカメラを向けている。

 ずん、ずん、という音が遠くから散発的に聞こえてくる。街灯以外に光は見えないが、どこか遠くで花火でも上がっているのかもしれない。

 レクサスが交差点の信号で停車すると、目の前の横断歩道を列をなした人々が横切っていく。俺の口からかすかに息が漏れた。

 全員、このレクサスの乗員と同じ格好をしている。白い布に身を包んで、お面を着けている。

 俺は少し身を乗り出して、運転席の初音ミクの肩越しにその様子を見つめた。

 アンパンマンとばいきんまんとしょくぱんまんとカレーパンマンたちが、すたすたと道を歩いていく。メロンパンナだけがいないなと思っているうちに、俺は彼らの姿を見失った。その後も顔だけが暗闇の中で浮き上がったキャラクターたちの行進列はずっと続いているのだ。ブルーナやムーミンやサンリオやサンスターや俺の知らないヨーロッパ系の大量のキャラクターたちが目の前を通り過ぎていき、道の角の向こうから現れる。その数はレクサスが信号待ちしているうちにも少しずつ増えていく。

「彼らは全員スタジアムに行くのですか?」

「その通りです」とピカチュウ主任が言った。「彼らは皆、参加者です」

 レクサスがゆっくりと再発進する。幾ばくか進むうちに、目に見えて急激に、顔だけがキャラクターの白い群衆は増えていく。狭い歩道は彼らで埋め尽くされ、車道にまではみ出している。2車線の道はほとんど一方通行になっていて、レクサスは彼らの間を縫って進んでいく。

 俺はぐるぐると周囲を見回しながら気が付いた。彼らは皆こちらを見ている。通り過ぎていく間際に、レクサスに向かって手を振り、窓の向こうから声が聞こえる。最初は静かだったが、やがてそれははっきりと歓声になった。レクサスのスピードはさっきまでに比べてずいぶんゆっくりになっているが、そうしないと車道にはみ出してきた人々にぶつかってしまう。通り過ぎるたびにお面の顔がほとんど全部こちらを向くが、俺には彼らが何を言っているのか全く聞き取れない。言葉達が積み重なってぐしゃぐしゃに潰されてぶつかって来る中で、特に単純な単語の連呼が目立つようには聞こえたが、それは俺がこれまで聞いたことがない言葉だった。顔がお面で隠されて全く見えないのでどんな表情をしているのかももちろん分からない。

 だが、何かを喜んでいるのは間違いなさそうだった。白いキャラクターたちはほとんどみんな飛び跳ねるようにしてレクサスに向かって手を振っている。起こったり悲しんだり苛立ったりしている人間の動きではない。まるでワールドカップの試合に向かうサッカー選手たちを乗せたバスを取り囲むサポーターたちのように、歓喜の波動が伝わって来る。

「彼らは」と俺は言った。英語がうまく思いつかない。「何故喜んでいるんですか?」

「彼らは考えているからです。カラマックス50万が、彼ら全員に配られると」とピカチュウ主任が言った。

「私はそれを今知りました」と俺は言った。

「もちろん誰も知りません。誰も約束はしていません。そうなるに決まっていると彼らが考えているだけです」

 前方の、群衆に覆われた道の向こうがどんどん明るくなっていく。レクサスが走っているのは市街地の中心部に近いはずだった。走る道は少しずつ広くなっているが、それとともに歩く人の数も増えていくのでレクサスの速度はむしろ落ちている。まるで新世紀の初詣みたいな人出だ。ビルの向こう側にぼんやりとした巨大な光の柱が立ち上がっているのが見える。

 その光の頂点で、花火が幾つも打ちあがって炸裂した。爆発する花の形は少し歪んでいて、色数も少ない。ただ数が凄まじい。最初二、三発が断続的に咲いた後、一気に絨毯爆撃のように夜空が光で染め上げられた。

 その光に照らされて、巨大なスタジアムのほぼ全容が見えた。長大な青白いアーチを掲げて、光を煌々と周囲に放つその建造物を俺は細目に見つめた。花火の光と自らの光で無茶苦茶な色になったそれは、空から飛来したばかりのエイリアンの宇宙戦艦のように見える。

 交差点で人々を轢きそうになりながら、レクサスがスタジアムを目前に強引に左折した。人の流れに逆らってレクサスは進んでいく。その理由を特に誰も説明してくれないので、裏側の関係者入り口から入るのだろうと俺は想像した。初音ミクがクラクションを鳴らしながらアクセルをふかしていると、次第に警備員らしき連中が寄ってきて、LEDの誘導灯を振りながら道を開けさせる。

 俺はほんのわずかにレクサスの窓を開け、耳を澄ました。目前に近づいてきたスタジアムの中から、大群衆の歓声が聞こえる。花火が終わり、既に別の何かが始まっている。大音量の音楽に合わせて拍手の音が響く。ホワイト・ストライプスの「セブン・ネイション・アーミー」だ。中でやっているのは儀式じゃなくフェスティバルだと俺は思った。ただの儀式で人々がこれほど盛り上がるはずがない。

 目の前の道いっぱいに検問柵が敷かれている。その向こうにはスタジアムの地下に入り込んでいく入り口が見える。道の両側にも、さっきまでの無法地帯と違って警備用の柵が建てられていて、それをへし折る勢いで群衆が群れ、俺たちに向かって手を振っている。全員がお面を着けているので不気味だ。レクサスがスピードを緩めると警官らしき連中が駆け寄ってきて、初音ミクは窓を開けてハム太郎のお面を着けた警官に大声で何か言った。ハム太郎が一言だけ返答してすぐに踵を返して号令を出すと、他の隊員たちの操作で柵は直ちに収縮して道ができた。群衆たちに大歓声で見送られながら、レクサスはゆっくりと地下駐車場に進入した。

 光量が足りなくて薄暗い広大な駐車場はがらんとして、停まっている車の数は少ない。点々と立つ警備員に誘導されて、レクサスが奥まった場所に駐車すると、全員直ちに降車した。広々とした駐車場を眺め、俺は何となく深呼吸した。むき出しのコンクリートの天井を見上げると、断続的に、遠くで暴風が吹き荒れているような音とともに、みしみしと振動が伝わって来る。

「ハウ・ドゥー・ユー・フィール?」

 孫悟空のレポーターが俺の隣に立って、尋ねてきた。もちろんダース・ベイダーのカメラもずっと俺に向けられている。

「暑い」と俺は言った。

 夜になったが、まだあたりは十分暑苦しい。俺はスーツを着ているし、ドラえもんのお面を着けているから余計だ。俺はジャケットを脱いで脇に抱え、ネクタイを緩めた。

「おそらく我々はこれからVIPルームに行く。そこはエアーコンディショナーがある、だからOKです」と孫悟空が言った。

 初音ミクがレクサスのトランクから荷物を取り出して抱えると、俺達は駐車場の端に向かった。小銃を持ったスヌーピーとチャーリー・ブラウンがエレベーター扉の両脇に立っていて、彼らの敬礼に見送られて俺達はエレベーターに乗った。

 エレベーターの中では全員無言だった。ただ、外からずしん、ずしん、という振動だけが伝わって来る。ピカチュウ主任が腕時計を見たので、俺も時刻を確認した。19時の3分前だった。

 イーア語の案内メッセージを発して停止したエレベーターを降りながら、「我々は間に合いました」とピカチュウ主任が言った。

「我々は十分に間に合っています。これから案内する部屋で、あなたは待ちます」

 主任は言いながら、カーペットの敷かれた廊下を歩いていく。片側の壁には扉が並び、もう片側の壁には抽象絵画が点々と飾られて、まるでホテルの廊下のようだ。

 308、というナンバーが刻まれた扉を主任が開けた。俺が一瞬扉の前で立ち尽くすと、ピカチュウのお面が頷いて、入るように促した。

 そこは空港のVIPラウンジルームのような一室だった。薄暗い、灰色のカーペットが敷き詰められた空間に、石造りのテーブルを挟んでベージュのソファチェアが4基置かれ、巨大な壁かけの液晶ディスプレイがある。正面に巨大な窓と、外に出て行く扉がある。そこから轟音と光が差し込んでくる。俺は部屋を横切り、吸い寄せられるように扉の前に立ち、ドアを押し開いた。音と光が俺の全身を包み込み、俺は細めていた眼を開いた。

 大群衆がスタジアムを覆いつくしている。

 眼下は全方位見渡す限り、灰色のローブを身に纏ってキャラクターのお面を被った観客に埋め尽くされている。

 彼らに取り囲まれ、照明に照らされた緑と茶色の広大なフィールドが、目に突き刺さるほど輝いている。

 そしてそこには真っ黒い服を身に纏ったごく少数の人間が、ぽつぽつと所定の位置に立って何らかの陣形を成している。その中央、こんもりと盛り上がった小さな丘の上で、舞踏を舞うように一人の男が全身をひねって腕を振り上げる。男から数十メートル離れた場所で、男に横向きになって向かい合う真っ白い服の男がいて、彼は一本の木の棒を両手で握りしめている。棒を持った男の横にはまた別の白い服の人物がしゃがみこんでいて、分厚い何かで包み込まれた左手を丘の上に立つ男に向かって差し出している。黒い服の男の腕から白い物体がすさまじい勢いで放たれる。白い服の男が振り回した木の棒と交錯して、白い物体はしゃがみこんだ男の手に包み込まれる。

 凄まじい大歓声が沸き起こって、俺が孫悟空に振り返って、野球だ、と言った声は完全にかき消された。

「これは野球だ」と俺は何度も言った。

 何回目か言ったところで、記者の孫悟空が頷いた。

 そうです、これは野球です、と孫悟空は言った。

 孫悟空は俺に席に座るように促した。ラウンジルームを抜けた向こう、今俺たちが立っているのはテラス席で、足元に観戦用の6基のボックスシートが並んでいるのだ。俺は立ったままで、首を横に振った。そしてそのついでに周囲を見回した。眼下は一般の客席で埋め尽くされているが、同じ目線の高さの左右は俺がいる場所と同じ形状のテラス席がずらりと並んでいて、仮面を着けた人々が拍手しながら下方を見下ろしている。

 俺は空を見上げた。眩しく輝く照明の向こう、空の中心に、完璧に真っ二つに切り取られた上弦の月が見える。空の色は、照明と、さっきまでの花火が残した煙と、雲と、夜の暗闇が混ざり合って灰色に見える。

 フィールドに立つ9人の野手は真っ黒いウェアを身に纏い、バッターボックスに立つ選手だけが純白だ。その服の形状は、普通の野球のユニフォームと少し違うように見えたが、遠くてよく分からない。彼らだけがお面を着けていないが、そんなものを着けたまま球技などできないから当たり前かもしれない。主審と塁審の服は灰色で、彼らは顔面に黒子の頭巾のようなヴェールを被っていた。

 ピカチュウ主任が俺の隣に立ち、耳元で、このゲームを観てください、と言った。

「これがセレモニーですか」と俺は訊いた。

「そうです」

「なぜ野球なんですか」

「もともとは野球とは少し違いました。しかし混ざったのです」と主任は言った。「これは決勝戦(ファイナル)です。今日この場ですべてが決まります」

「もしかして」と俺は日本語で言った。そして頭の中で英語を考えた。「今までの沢山の試合は、全部、この試合のためのプランの一部ですか?」

「そうです。全ての試合はこの試合の予選です」

「この試合が終わると何が起こるんですか」

「勝った方が神になります」

 俺は頷いた。

「試合が終わる前に迎えに来ます」と主任は言った。「ここで試合を観てください。この席でも部屋の中でもどちらでも構いません。この部屋から出ないでください。食事と飲み物はルームサービスで注文できます」

 俺は首を横に振った。

「ジエンはどこですか? 私は彼女に会う必要がある」

 俺がそう言うと、主任はフィールドを指さした。

「彼女のポジションはセカンドです」と主任は言った。

 俺は彼女の指が示す先、一塁と二塁の間をじっと見つめた。

 フィールド上で一際背の低い人物が、身をかがめて守備の構えを取っている。野球帽を目深に被っていて顔がよく見えない。しかしその引き締まった体の線には、遠くからでも見覚えがある。

「彼女はジエンのように見える」と俺は言った。 

「彼女はジエンです」と主任は言った。「そして彼女は試合中です。試合が終わるまで会えません。終わったら会えます」

 俺は主任に振返って、ため息をつきながら頷いた。

 そしてバックスクリーンに表示されたスコアボードを見た。今は二回の表で、まだどちらにも得点は入っていない。

 ピカチュウ主任は踵を返して部屋の中に戻っていった。

 俺はボックスシートに座り込んで、黒いユニフォームのピッチャーが白球を投げ込む様を見つめた。満員の観衆が合唱する。何の歌だか全く分からない。

 俺の隣に座った孫悟空の記者に、この歌は何か、と訊くと、彼は「太陽の歌です」と言った。

「白いチームが太陽で、黒いチームが月です」と彼は言った。「才川さん、どちらが勝つと思いますか?」

「分からない」と俺は言った。

 分かるわけがない。


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