第4話 太陽の国の神 ②
全ての操作が終わり、たった一人分のスタッフクレジットが流れると、俺はコントローラーを置いて体を大きく伸ばした。たった2時間程度のゲームプレイだったが、相当精神力を消費した。
エンディングを終えたのを確認したパンがソファから立ち上がり、緊張した表情で俺の背後に立った。彼が俺の感想を聞きたがっているのは明らかだった。
だが、俺は自分の感想を英語で表現できなかった。
俺には、パンのゲームが、かなり複雑なことを表現しようとしているように見えたからだ。
主人公の「太陽の少年」は不死の存在で、月の少女たちの力を借りて戦う。月の少女たちは全部で46人存在し、太陽の少年が傷つくたびにそのダメージを引き受け、代わりに現実世界から消滅して、あの世のメタファーである月に還る――要するに身代わりになって死ぬ。
敵の名は「ランドマン」。大地にその根をはびこらせる悪で、その正体は、ありとあらゆる人間の魂の中に存在する悪意をクラウドエネルギーとする、無敵かつ地球の根源的存在である。
おそらくゲームの構造上、最良の結末たるトゥルーエンドに到達する方法とは、月の少女を一人も消滅させないで最後まで戦い抜くことだった。そして俺は今回のプレイでそれを達成した。パンが俺にプレイさせたデータは、悪意の結集たるランドマンとの決戦の概ね直前から始まるもので、その時点で月の少女は一人も損なわれていない状態になっていたので達成が容易だったのだ。
だがそれにしては奇妙なことが起きた。太陽の少年はランドマンを倒すが、それと同時に自分の身が消滅してしまうのだ。少年とランドマン、すなわち太陽と地球の命は表裏一体で、片方が失われればもう片方も失われる。世界はそのエネルギーを失って消滅しようとする。その事態を防ぐために、月の少女たちは46人全てがその生命力を結集し、太陽の少年を復活させる。月も月の少女もランドマンも消滅し、少年と大地がその場に残されてゲームは終わる。
少年は名実ともに神になったわけだった。
この筋書きは多分イーアの神話をもとにしているのだろう。そして雰囲気から言ってその何かのオルタナティブであるように思えた。すなわち日本で言えば、天岩戸に引っ込んだが神々に寄ってたかって引っ張り出された天照大神のような、何らかの原作たる元ネタがどこかにあって、パンがそれを別解釈したもののように思える。
それがこのゲームにかなりの複雑さを与えている気がする。頑張って46人の少女を生き残らせても、最後には容赦なく全滅してしまった。元ネタが分からない俺がこのストーリーを表層的に追うと、抗いようのない神のシナリオに沿って死んだ月の少女たちがただ哀れなだけで、少年がたった一人生き残ったところで、虚しさしか残らない。
イーアの文化に全く明るくない俺が感じるところ、パンがこのゲームで意図したものの一つは、果たして人間は誰で、どう生きることができるか、という真摯な探求であるように思えた。月の少女たちは神の意志に沿って消滅したように見えるが、全員が文字通り命を懸けて少年を復活させたのは、彼女たちの人間的な意志の結果にも見える。そして一見、太陽の少年は生贄を得て完全な神になったように見えるが、実際はその逆で、俺には、神が人間になるまでの過酷な物語を描いたもののように見えた。最後にたった一人大地に立った「男」が、神であるか人間であるかというそのぎりぎりの地点で解釈がユーザーに委ねられていて、男がこれからどこに行くのか誰にも分からない。人が神にも人間にもなる、そのシビアな状況を表現し体験することが、パンの意図であり、現代に神話を再生するためのアプローチだと感じた。
パンの体がじりじりとせり出してきて、最早彼は俺のすぐ横に立っている。
「英語がうまくないのでうまく言えない」と俺は言った。「しかし、とても面白い。とても興味深い。いいゲームだと思う」
俺が絞り出すようにそう言うと、パンは笑顔を浮かべた。その笑顔は瞬く間に彼の巨大な顔じゅうに充満し、完全に破顔した。サンキュー、とパンは言った。そして慌てて口を手でふさいだ。それでも彼は笑っていたが、やがて、笑顔が変質した。彼の眉毛と口がへの字になり、疲れ切ったように肩が落ちた。彼は俺の肩に手を置き、がっくりと頭を垂れた。
分かるよ、と俺は言った。「分かると思う」
これほどのゲームは心底真剣に作らなければ完成できない。スタッフクレジットに現れた名前はパン只一人だった。絵もストーリーも音楽もプログラミングもたった一人でここまでやるのには、とてつもない労力を要しただろう。面白いかどうか誰にも約束してもらえない作品を、自分だけを信じて長い時間孤独に作り続けることは、誰にでもできることではない。
ひとしきり俯いた後でパンは顔を上げ、俺に一枚の紙を手渡した。それは手書きのマップだった。道と建物が簡単に描かれ、各ランドマークには英語が書き添えてある。マップの右端には黒丸とともに「マイホーム」の文字があり、左端の方に赤丸とともに「ジエンズホーム」と書かれていた。
シアラ、と俺は言った。
パンは別の紙に文字を書いて俺に渡した。
〈ジエンが今そこにいるかどうかわかりません〉
俺は首を横に振った。どうせ他に行くあてがないのだから構わない。
パンは再び紙に文字を書いた。
〈私のゲームは本当に面白かったですか?〉
発売するなら教えてくれ、買う、と俺は言った。「今度は最初からプレイする」
どこまで行っても誰もいない道をマスタングは上機嫌に疾走し続けた。天気は良いし邪魔者は一人もいないし、これほど快適に走り続けられるのはこの車にとっても初めての経験だろう。だが、久しぶりの赤信号で停車して、俺のサングラスの向こう側の眉毛はどんどん妙な形に曲がっていった。
時速70キロで30分ほど走った程度だが、少し前からあたりはみるみる田舎になっていった。郵便局が交差点に建っている以外、前方を見渡す限り水田が広がり、今日の非常事態に関わらずもともと信号などほとんど必要ないような場所だ。野良犬か飼い犬か分からないが、何匹か犬が田んぼの隅のトラクター置き場の前で寝転がっていて、それ以外には生き物の気配がない。犬、水田、電柱、空、その4要素以外に何も存在しない。海老のイーアオフィスがある湾岸地域も荒涼としていて何もないのは同じだが、ここはまるで日本のど田舎のようで、用水路の上では夜になったらきっと蛍が舞うだろう。
急激に変化した風景の中をマスタングで駆け抜けながら、こんなところに本当にジエンは住んでいるのかと俺は思った。アスファルトもぼこぼこで車体ががたがた揺れる。海老がジエンに払っている給料はイーア人の平均より高いので、その気があれば都市部に住むのに何の支障もないだろうから、それでもこのエリアにいるということはおそらく家族で暮らしているからに違いない。
前方に一本の大きな楠と、その足元に建つ赤い平屋が見えてきた。「郵便局がある交差点を通ってずっと真っすぐ」、確かにパンがマップに書いて示した通りだった。
水田の中にぽつんと立つその家は、赤いレンガ造りの大きな2階建てで、緑と灰色のツタに覆われたグレーのレンガ塀に囲まれていた。敷地の手前でマスタングを停車させてエンジンを切ると、鶏の鳴き声がする。俺は車を降りてサングラスを外し、家と楠と空を見上げた。レンガの壁は、ところどころ表面が剥がれ落ちて、何度も補修された跡が窺え、それなりに年季が入っている。敷地の隅の方には野球のトスバッティングとピッチング練習ができる緑のネットが張られている。空に向かって突き立つ楠からは鳥の鳴き声が聞こえる。しかし人間の気配はしない。白い鉄格子が嵌った窓は全て暗く、中の様子が分からない。敷地に入ってすぐの鶏小屋の前を通り過ぎ、円形の石畳の道を通って、俺は茶色くがっしりした木製の玄関扉の前に立った。イーア語の赤い札が貼られた隣に、Nationalと刻まれた、ボタンだけでマイクがない薄汚れた呼び鈴がある。
俺は軽く肩で息を吸って吐いて、ボタンを押した。
10秒待ったが、反応は無い。そもそもボタンを押しても手ごたえがなく、扉の向こうで音が鳴っている感じがない。2度、3度と押したが、やはり反応は無い。
仕方が無いので俺はパンのマンションと同じように、扉を叩くことにした。
「失礼します。才川です。ジエンはいますか」と、俺は日本語と英語で交互に繰り返した。ドアの叩き方も声も、パンの家の時よりは勢いを遠慮した。年季が入ってはいるがこれほど立派な家なら、誰かが中にいるとしたら、それがジエンだけとは思えなかった。
扉は、音もなくゆっくりと開いた。
最初に見えたのは黒髪の頭部だった。だがそれはずいぶん低い位置にあった。扉が完全に開くと、唇の前に人差し指を立てた少女が現れた。
俺は、ジエンが半分くらいに縮んだのかと思った。俺の前に立つ少女は、艶の入った黒髪も、きりっと引き締まった眉も、頭のよい猫のような目も、そしてなによりもその無表情に近い表情も、ジエンにそっくりだった。彼女は無言で、睨みつけるように俺を見上げてきた。
どう見てもジエンの妹だ。
俺は、ハロー、と言った。
少女は眉間に皺を寄せて、激しく首を横に振った。
黙れ、ということだ。
俺は、分かった、というように何度か無言で頷いた。
少女は手を何度か振って、俺に家の中に入るように促した。玄関の壁に、太陽と月が幾何学パターンで編まれたタペストリーが掛かり、赤い札が貼られ、あちこちに植物の鉢が立っている。ところどころ太陽の光が窓から射し込んでいるが、全体は柔らかい影の中に包まれていた。少女は俺に振返りながら右手にある部屋の方に歩いて行った。
扉をくぐると広いリビングだった。ごつごつした木製のフローリングに玄関のタペストリーと似たような模様の大きなラグマットが敷かれ、壁は背の高い書棚に覆われている。窓際に鉢が並び、赤と青と黄の信号機みたいな花が咲いている。背の高いスピーカーが二基立っていて、テレビは無い。中央に置かれたがっしりした木造りのローテーブルの周囲を藤椅子とソファが取り囲んでいる。
その無音の空間の中で、藤椅子に男が一人だけ腰かけていた。彼は、少女が手を上下に振って近づいてくると、手に持っていた本を閉じてテーブルの上に置き、立ち上がった。
彼は俺に会釈して、ソファの方に座るように促した。
俺は頷いてソファに座り、男と向かい合った。顔の形がどうこうという以前に、雰囲気と状況で分かる。
この男はジエンの父親だ。
かなり若く、体格がいい。たぶん40代前半で、俺と10歳も離れていないかもしれない。髭を生やして良く陽に焼けていて、精悍さと柔和さが同居した顔立ちだった。俺はポケットから名刺を取り出して彼に手渡した。彼はそれを受け取ると、薄く微笑んで頷いた。その表情を見て、俺は反射的に口を開いた。
「日本人ですよね?」
俺は日本語でそう言った。
男は俺の目を見返して、無表情になった。その顔がジエンにそっくりだった。
男は無言で頷いた。
俺も無言で頷き返した。彼の顔形は他のイーア人とそれほど大きく変わらない。陽に焼けた肌や纏う雰囲気は、この南国に完全に馴染んでいて違和感がない。でも彼のような笑顔をこの国に来てから見たことが無かった。日本でしか見たことがない、特に意味のない笑顔だった。
「今日は、話してはいけない日なんです」と男は日本語で、小さな声で言った。
「知っています。よく分からないんですが、知ってはいます」と俺は言った。「しかしちょっと、いやかなり困っています。ジエンさんにお会いしたい。どちらにいらっしゃいますか?」
少女が男の隣に立っていて、俺を睨みつけたまま、口の前に指を立てたまま首を大きく横に振った。男は少女の肩に手を置いて、静かに首を横に振った。少女は不満げな顔で男を見上げた。
「しゃべったらだめだよ」
少女は日本語で、囁くような小さな声でそう言った。男は頷いて立ち上がった。部屋の隅の木造りの机の引き出しを開けて、ノートとペンを持って藤椅子に戻ると、男はノートに書きつけて俺に示した。
〈今日は神の日なので喋れません。あなたが尋ねることに少し日本語で答えるだけにさせてください。神は日本語を上手く聞き取れないから〉
俺は頷いた。男は少女の頭に軽く手を置いて、部屋の外を指し示した。少女は不満げな顔を浮かべ、しぶしぶ頷いて、壁の本棚に駆け寄り、本を一冊取り出した。それは漫画本で、ぼろぼろになった「風の谷のナウシカ」だった。本を持って部屋を出て行く少女の背中を見て、ようやく分かった、と俺は思った。ジエンの日本語が異常に上手い訳が。
「娘さんはお幾つですか?」と俺は訊いた。
「6歳です。ジエンとは12離れています」
「ジエンもあの子もあなたにそっくりですね」
男は微笑んで頷いた。
「名刺の通り、私は海老イーア支社の才川と言います。今日、ジエンさんが出勤していません。今日は誰も出勤しない日なのかもしれないが。でも彼女に訊かなければならないことがあります。どちらにいらっしゃいますか?」
男は首を横に振った。
「家にはいません」
「どこに行ったのか分かりますか?」
男は静かに首を横に振った。
知らないという意味なのか、知っているが言えない、という意味なのか分からない首の振り方だった。
「明日、王宮への重要な納品物が港に到着します。それの引き上げと最終的な王室への納品を、私とジエンさんでやることになっています。その進捗をどうしても彼女に確認する必要があります。知っていることを教えていただけませんか?」
「私にもまだ分からない」と言って、男は唇を一文字に結んだ。「おそらく今日の夜か、明日になれば分かると思います」
「この、みんな黙って引きこもっているのは、今日一日で終わるんですか?」
男は頷いた。そして首を横に振った。
「たぶん終わります。ですがこの日は私も初めてです。私は25年くらい前にこの国にやってきましたが、実際に今日という日がやって来るのは初めてです。ですから私も、本当に今日終わるかどうかは分かりません」
「今日は一体何の日なんですか?」
「神の誕生日です。王の誕生日の前日に神が生まれるのです。とても、とても大切な日です。国中みんな静かにして、神様が起きるのを待っているのです」
「そんな日にどうしてジエンだけが家にいないんでしょうか」
男は首を横に振った。「ジエンだけではないです。明日になればおそらく分かると思います」
俺は眉間に皺を寄せて、止むを得ず頷いた。何か知っていようといまいと、それについては答える気が無いようだった。男の声はどんどん小さくなってきている。これ以上余計なことを話すと「神に聞かれる」のかもしれない。
俺は実際に息は漏らさず、頭の中だけでため息をついた。これはいったい何の祭りで、どうしてここまで大掛かりにやる必要があるのだろう。
たぶん、と俺は推測するしかなかった。ジエンは何かしらその神の誕生日の儀式に関わっていて、今日はその手伝いか何かをしているのかもしれない。そしてそれは女の役割なのかもしれない。ジエンだけでなく、この家には母親の姿も見えないのだ。
「私は待つしかないんでしょうか?」
男は頷いた。
「待っていれば大丈夫だと思います。もともと今日のことは全部決まっていたことですから」
分かりました、と俺は言った。「会社で待ちます。ジエンさんが家に帰ってきたら、才川が会社にいると伝えてください」
男は頷いた。
ここにジエンはいない。男は今日という日に関わることは、自分に話せる範囲で俺に話した。これ以上ここにいる用はない。
だが俺は最後に訊きたかった。
「どうしてこの国に住んでるんですか? 25年間も」
「あの時、私の周りは暗かったんです。自分自身もずいぶん暗かった。心の底から、誰も知らないところに行きたかった。それでいろいろとめぐりめぐって、この国に辿り着きました。別に他の国でも良かった。でもジエンが生まれた」
俺は、なるほど、と言って頷いた。
「今、日本はどうですか?」と男が呟くように訊いた。
「暗いです」と俺は答えた。
倉庫オフィスへの帰り道の途中、俺は赤信号で停車したタイミングでカーステレオを操作して、ラジオを聞いた。どの放送局にチャンネルを合わせたところで、もちろん何を言っているのか全く分からない。それでも俺は、声のトーンから言ってどうやらニュースらしきものを放送しているように思われる番組の音を聞き続けた。アナウンサーは一定の調子で、同じセリフを繰り返しているように聞こえる。それは台風の時に一本調子で延々と流れるNHKのニュースの様子に似ている。東京23区全域に大雨洪水警報が発令され、気象庁は厳重な警戒を呼び掛けています、と同じことを何度も何度も繰り返し告げるあの感じだ。だが今は何を繰り返しているのか分からないのでだんだんいらいらしてくる。
俺はただ時間を無駄にしているのかもしれない。既に時刻は16時を回っていて、夕刻が近づいてきている。依然として電話は復活しておらず、ジエンとも日本本社とも連絡が取れないままで、事態は特に何も進展していない。だがどうしようもない、と俺は思った。既にカラマックスが海の藻屑と消えていて、明日俺達が王様から制裁を受けるにしても、特に問題は起きておらず明朝無事にカラマックスが港に届くにしても、実際のところどちらでも俺にできることは何もない。起こった事実が何であれ、明らかになったところで確認して、それに合わせて対応するほかない。もやもやするし、いらいらもするが、仕方がない。待つのも立派な仕事だと思うしかない。
誰もいないオフィスに戻ってきて、ガレージにマスタングを駐車して、ラジオとエンジンの音が止まったところで、違和感に気が付いた。俺は車を降りてガレージのシャッターを下ろし、オフィスの窓を見上げた。
中から音が聞こえる。
俺は周囲を見回した。もちろん誰もいない。敷地のすぐ外の周囲一杯に散らばったゴミもそのままで、誰かが片づけに来る様子もない。
だが倉庫オフィスの中から音楽が聞こえてくる。
生演奏の音だ。構成はギターとキーボードとドラムとベースで、スローでメローな重低音が壁の向こうから漏れ出てくる。妙にメランコリックで、まるでレッド・ツエッペリンの「オール・マイ・ラブ」のような雰囲気には感じたが、歌は無く、聴いたことのない曲だ。
俺は鍵のかかっていない入り口ドアを開けて、フロアに立ち入った。
オフィスの中央には俺を含めた社員たちのデスクが五つあるが、それを取り囲むように四人のバンドが等間隔に離れて楽器を奏でていた。彼らは円を組んで互いに向かい合い、彼らの傍には小学校高学年くらいの子供の背の高さのスピーカーが四本と巨大なウーファーが配置されていた。ルンバが相変わらず床を走り回っているが、その音は音楽に押されて聞こえない。
彼らは四人とも俯き加減で、俺がオフィスに入ってきても演奏を止める様子が無かった。俺が現れた事に気付いているのか気付いていないのかも分からない。
俺は彼らが誰なのか分からなかった。
全員軍服を着ている。深い紺色のジャケットに肩章と胸ポケットの記章が光り、丈が短めのズボンのすその下に頑丈そうな黒いブーツが見える。軍帽は被っておらず、全員短めの頭髪に鋭い顔をしている。刀剣や銃を所持している風には見えないが、それ以外はどこからどう見ても軍人で、そうでなければ完璧な軍人のコスプレだった。
俺は入り口の前に立ち尽くしたまま、眉間に深い皴を寄せて四人を見つめて、何だこいつら、と思った。
何度か四人の顔を一つ一つ確認しながら、俺はこういう時何と言えばいいのだろうと思った。バジバ、か、ギルザイ、か、そのどちらかを大音量で奏でられる音楽を撥ね退けて大声で叫べばこいつらは何か反応するだろうか。
あ、と俺は呟いた。
ギターを弾いている、髪をオールバックにした男の顔を良く見つめた。切れそうに真っ直ぐな鼻筋と鋭角な顎に見覚えがある。いつもサングラスをかけていて、髪型が普段と違っているから遠目に全く分からなかった。
アッカだ。
他の3人の顔はやはり何度見ても全く見覚えが無かったが、間違いなく彼は彼だった。
道理で鍵をかけていたのにこいつらが勝手にオフィスに入れるわけだった。
俺は脱いだスーツのジャケットを脇に抱えながらアッカに向かって近づいた。だが彼が俺の方を見る様子はない。
おい、と俺は大声で言った。「ここで何してる」
俺は英語でそう言ったが、日本語で同じ言葉を繰り返した。ここで何してる。
アッカは無視してギターを弾き続けた。顔を上げもしない。他の3人も反応する様子がない。
俺はアッカの肩を強く突いた。
ぐらりと彼の体が揺れたがすぐに姿勢を立て直して、演奏を続ける。
「何だお前」と俺は日本語で言った。
俺はアッカに顔を近づけて目の前で睨みつけた。自分の中に急に怒りが充満しているのを感じた。アッカは静かな目で俺を見返してくる。ふざけんな、殴り返して来い、と俺は思った。だがアッカは俺の目を見るだけで弦を爪弾き続けてギターから手を離さなかった。
俺は歯を噛み締めながら深いため息をついた。
そしてフロアの隅の冷蔵庫まで歩いて行った。中からペットボトルのお茶を1本取り出し、歩きながらキャップの蓋を開けて飲んだ。垂直に近いくらいボトルを傾けて、来客打ち合わせ用のソファに腰掛けた時には半分以上中身がなくなっていた。
俺は横目にバンドの演奏する様を見た。虚空に向かって低い調子のテーマが延々と繰り返されて、四人はほとんど静止してその場から動かない。観客が誰もいないのだから当たり前だが、何の反応を期待している様子もなく、かと言って練習の雰囲気もない。音の質は全く違うが、誰もいない教会で奏でられるパイプオルガンのようだ。俺はまだいらいらしていたが、実際に初めてまともに聞いたアッカのギターの音が、技術的に高いレベルのものだということは分かった。ストロークも運指も安定していてほとんどブレがない。相当長い間修練を積まないとこうはならない。
俺は16時半を示す腕時計を見て、こいつらはなんで軍服を着ているんだと思った。海軍時代に結成されたバンドなのか、このバンドの制服なのか知らないが、ドラッギーでジャジーな音の雰囲気と全く合っていない。そしてルールがよく分からない、と俺は思った。何もしてはいけない日だが、無言でありさえすればゲームはやってもいいし音楽を演ってもいいのだろうか。
分かっているのは誰も俺に何も説明する気がないということだけだ。
アッカの横顔は、さっき俺を見返してきた時とずっと変わらなかった。静かに音楽に集中していて、今ここでこうすることが最も自然でふさわしいことなのだという顔をしている。その顔を見ていると、ますますいらいらしてきたが、同時にどんどんどうでもよくなってもいった。どうせ何も分からないのだからそこで座って聴いていろ、と音楽と顔の両方が俺に語り掛けてくる。
少なくとも、カラマックスの船が沈没したという真偽不明のニュースはアッカにも届いていない、と俺は思った。彼の顔は落ち着きすぎていて、内心にトラブルを抱えているにしては音楽に乱れが無さすぎた。アッカのバンドの音楽はさっきから連綿と続いていて止めどがない。何十分経っても一曲も終わらない。まるでキース・ジャレットの即興演奏のように、あるテーマの繰り返しと変奏が展開されるうちに、全然別のテーマに入り込んでまた繰り返しと変奏が続いていく。それがどこまでも続いていく。明日カラマックスが届かずに王様から制裁を受けることを心配している人間にこんな調子でギターが弾けると思えない。
俺は再びため息をついて、待つしかない、と思った。もともと俺が待っていたのはアッカではなくジエンだ。明日までに全てが元通りになるなら、今日こいつらが仕事せずにオフィスでプログレやろうとヘビメタやろうとどうでもいい。
俺はスマートフォンをポケットから取り出した。相変わらず圏外が表示されて、通信機能は回復する様子がない。俺はメモ帳を立ち上げて文章を書き始めた。海香へのメールの続きだ。俺は、この通信が途絶えているうちに、彼女からの連絡が入っているのではないかと思った。最後に彼女から、妊娠したかもしれない、という連絡があってからもう5日経っている。俺は遠く離れた場所にいる彼女の様子を想像しようとした。その像は少しぼやけていて彼女の表情まではっきり見えなかったが、憂鬱さだけは伝わって来る。彼女の沈んだ気持ちが俺の中に入り込む。俺は、大丈夫だ、と文章に書いた。何も慌てることは無いし、ゆっくり落ち着いて考えればいい。俺たちにとってとても大切なことだけど、一番重要なのは、何がどうなったとしても人生は続いていくのと、俺は絶対に君から離れないということだ。
俺は顔を上げた。
アッカ達四人は裏声で一斉に唱和した。キーボード以外の演奏が止まり、マイクの無い生声のファルセットがフロアに響き渡る。その意味のない音は天井に向かっていき、降り注ぐのを押し返すように上下に音階が揺れ動いた。何か生き物が生まれたようで、俺は直感的に、やっと分かった。
神様か王様か他の何かなのかは知らないが、この音楽はその何かへの捧げものだ。
唱和が繰り返されるうちにアッカのギターが復活し、また低音のインストゥルメンタルだけが倉庫の中を覆いつくした。俺は目を閉じて、勝手にしやがれ、と小さな声でつぶやいた。
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