第4話 太陽の国の神

第4話 太陽の国の神 ①


 俺はジャケットを脱いで入念にストレッチした。腰をひねり、頭の裏でひじをもう片方の手でつかみ、前屈して、上体を後ろに反らせて鉄骨がむき出しの天井を仰ぎ見た。足を広げて息が上がるまでスクワットすると、俺は再び椅子に座り込んだ。

 時刻は9時30分になった。だが何も起こらなかった。電話も鳴らなければメールもメッセージも来ない。電話回線もネット回線も死んでいるのだから来る道理がない。社員は誰も出社しないし、その他の訪問客も現れない。相変わらずルンバだけが勢いよくフロアを掃除し続けている。俺は「キャスト・アウェイ」という映画を思い出した。誰もいない無人島に漂着したトム・ハンクスがウィルソンのロゴが入ったバレーボールだけをただ一人の友達にして苦しい孤独に耐える映画で、もしもこの時間が何か月も続いたら俺もルンバを友達だと思うようになるのだろうかと想像した。

 やることが無いので音楽を聞こうかと思ったが、アップルミュージックにはネット接続しなければアクセスできない。内蔵されている目覚まし時計のアラーム音くらいしか鳴らす音楽がない。仕方が無いので、俺は昨日ダウンロードしたヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」の続きを読んだ。シッダールタが世俗の中で彷徨する様子を漠然と追いながら、俺はいま一体何が起こっているのか考えた。


 1 祭り

 2 戦争

 3 疫病

 4 テロ

 5 ゼネスト

 6 天変地異


 少なくとも6ではないな、と俺は思った。俺が寝ていて気が付かない間に大地震とかそういうことがもしあったとして、そんなことがあればむしろ人々は街に出てくるだろう。だが1から5のどれかだとしても、いきなりネット回線が全部落ちて街から人がいなくなるくらいにろくでもないことというのがどんな事態なのか全く想像がつかない。何が起きたのか、誰かにさっさと教えてもらう方が早い。

 10時になった。俺は席から立ち上がった。ここにいても何も起こらない。外に出て誰かや何かを探す。人でもテレビでもWifiでもなんでもいいから、生きているものを探す。俺はジャケットは置きっぱなしにして、カバンを肩にかけて外に出た。熱風が顔に吹き付けてきて、相変わらず十分すぎるほど暑苦しい。

 俺は駅前に向かった。あたりから人間の気配が全くしなかったが、もともとほとんど何もなく、空き地以外には駅前の通りにバイク屋と板金屋とコンビニだけがある場所だ。俺は、何故そもそもこんな場所に地下鉄の駅があるのかすらよく分かっていない。

 板金屋はシャッターが閉じていて、バイク屋は開いてはいたが誰もいない。いつも店の前で上半身裸で煙草を吸っていた老人の姿はどこにもない。薄い埃を纏った原付と250CCくらいのバイクが無言で佇んでいるだけだ。俺はそれを横目に通り過ぎて、足早にコンビニに向かった。少し遠目にも、店が開いているのが分かったからだ。さすがセブン・イレブンだと俺は思った。

 チャイム音とともに自動ドアが開いて、俺は店内に足を踏み入れた。大して広くもない店内に商品がいつも通りぎゅうぎゅう詰めになって並んでいるが、俺はまずレジカウンターしか見なかった。

 店員がいない。つま先立ちになって店の中を見回したが、どこにも客と店員の姿がない。

 すいません、と俺は日本語で大声で言った。日本語だろうとイーア語だろうと英語だろうと誰か人間がいれば反応するだろう。

 だが、冷房がガンガンに効いた店内で、どこからも何の返事もなかった。俺はあたりを見回して、レジ横に新聞を見つけた。ラックから引っ張り出して広げたが、全く何も読めない。写真だけを追いかけても、様々な顔つきの中年の男たちが何かしゃべっていたり、新商品のスマートフォンを手にした女が微笑んでいたり、車の広告が並んでいたりするだけで、普段の新聞の様子と何も変わらないようにしか見えない。

 俺はため息をついて、あたりを見回して、仕方ない、と思った。俺はペットボトルのジュースやサンドイッチやお菓子やできるだけ日持ちしそうな食料をありったけかごに入れて店内を回った。どう考えても異常事態で、いつ食べるものに困窮するか分からない。文字の読めない新聞も一応かごに入れ、レジの向こう側に回ってポリ袋を3枚拝借し、レジの横に十分な金を置いて店を出た。

 再び熱風にさらされて会社への道を戻りながら、俺はバイク屋の前で立ち止まった。音が聞こえる。俺はバイクを避けながら店の奥に向かった。さっきは気が付かなかった。テレビの音だ。埃にまみれて砂が散らばった店の隅に、塗装の表面がはがれたぼろぼろの木製ラックの上に、シャープ製の21インチくらいの薄汚い液晶テレビが置かれている。

 映っているのは子供向けの教育番組だった。緑色の巨大な顔をしたトカゲの着ぐるみが風船を持って飛び跳ねている。アシスタントの男性がさらに大量の風船を持ってきて、トカゲに手渡し、トカゲはイーア語で叫びながら再び跳躍する。要するに風船の浮力でもって飛翔することを目指しているようだったが、トカゲはどうあがいても重力に打ち勝つことができない。

 俺は周囲を見回し、すみません、と再び大声で言った。だが反応がない。俺は勝手にテレビを操作させてもらうことにした。液晶テレビの側面に手を伸ばしてボタンに触れ、小さかった音声ボリュームを上げ、チャンネルを次々に切り替えた。野球、バスケットボール、映画、ドラマ、音楽番組、旅行番組が次々に現れて、そのたびに1秒も待たずに別のチャンネルに切り替えた。ケーブルテレビで、チャンネルの数が多すぎる。

 画面中央に背筋を伸ばした女性が現れたところで、俺は指を止めた。都市の風景が映った巨大なディスプレイを背後に彼女は薄い笑顔を浮かべて語り続け、ツイッターとYouTubeのアカウント名が画面下の帯に書かれている。右下には「LIVE 10:24」の表示がある。生放送のニュース番組だ。俺は眉間に皺を寄せて画面を睨みつけた。VTRが流れ始め、ガスレンジにくべられた鍋が映る。肉とトウモロコシがぐつぐつと茹でられ、子供たちが真剣な顔でそれをのぞき込んでいる。小皿に料理が取り分けられ、子供たちが笑顔でそれを食べて感想らしきものを語る。俺は次のニュースを待った。

 何人かが死んだ様子の交通事故と、晴れマークしかない今日の天気予報が流れた後、画面はCMに切り替わった。航空会社や自動車や家電小売りのCMが流れた後で番組に戻ると、工事現場の作業着を特集したファッションショーの映像が始まり、俺はため息をついた。

 どう見ても、テレビに映るこの国の様子は日常のままだった。俺は一旦会社に戻ることにした。冷蔵庫に食料をしまってから、また別のあてを探す。

 指に引っかかる大量のレジ袋の重みを感じて歩きながら俺は考えた。この状況は、あと何時間、何日続くのだろうか。何が起こっているのか全く分からないが、少なくとも冗談とは思えない。異常なことが起こっていて、それが何であれ当座俺が考えなくてはならないのはこれからどうするかだった。人がどこにもおらず、電話にもネットにも繋がらず、社員は一人も出社しない。カラマックスの王様への納期は明日で、俺は早朝から港でジエンやパンらとともにカラマックスを引き取って業者に渡し、そのまま王宮に納品報告をしに行くことになっている。カラマックスが沈没しているならもちろんそんな仕事は成立しないし、もし沈没していなくても、港に行って貨物船の到着を待ち、言葉の通じない連中から荷受けをして業者に受け渡すやり取りを一人でやることになる。それが俺にできるかどうか以前に、この人間が一人も見当たらない状況で、その業務のあらゆる関係者が明日本当に港にやって来るのかどうかも疑わしい。もしカラマックスを納品できなかったら、俺と海老はどうなるのだろうか?

 たぶんこの状況は、他の国ならば大使館に行って状況を相談すべき事態だった。もちろんこの国にそんなものは無い。俺はパスポートをビザ代わりにこの国に滞在しており、90日以内に日本に帰国することになっている以外に日本ともイーアとも何の約束もない。イーアを管轄するのは中国の日本大使館だが、電話が繋がらなければそことも連絡が取れない。

 誰もいない風の吹きすさぶ道を歩いて倉庫オフィスに辿り着き、入り口ドアを開けたところで俺は立ち止った。ドアの向こう側にポリ袋を一度下ろし、ドア脇の宅配ボックスのダイヤル錠の番号を合わせて箱を開いた。海老イーア支社への配達物は全てここに届けられる。経理関連の書類もお客様からのお問い合わせも全てだ。

 茶色い封筒が一通入っている。

 宛名も差出人名義も全てイーア語で読めない。直筆で書かれていて、切手が貼られていない。中身は薄い。1枚か2枚の紙が入っている程度だ。

 ポリ袋を再び掴み上げて後ろ足で扉を閉じ、菓子も弁当も全部まとめて冷蔵庫にしまい込むと、俺は自分の席で封筒を開いた。

 中身は1枚の折りたたまれた手紙だった。宛名と同じ筆致でイーア語の文章が書かれている。それほど長くなく、10行程度しかない。俺は目を細めてその文字列を見つめたが、瞼の形をどう変化させたところで文章は全く解読できなかった。

 俺はこの文章の醸し出す雰囲気をよく知っていた。これらの手紙はほとんどの場合に生真面目で、礼儀をわきまえていると同時に、あくまでも自己中心的な香りを放っている。つまり、お客様相談室に寄せられるお問い合わせのお手紙と同じだ。デジタルとネットが隆盛を極めても、何パーセントかの割合でこうして直筆の手紙がやってくる。

 しかしもちろんこの手紙は不自然だった。封筒に切手が貼られていないのだ。誰かが昨日から今日にかけて直接宅配ボックスに投函したのであり、イーアでもそんな手紙はこれまでで初めてだ。そしてそれは電話とネットがストップした当日にわざわざ届けられた。

 この問い合わせは何だ?

 俺は首を横に振った。差出人も理由も中身も何もかも分からないが、何にしても一つ具体的な今日の仕事ができた、と俺は思った。このメッセージの示すものが何であれ、これに答えるのが俺の仕事だった。

 やはりジエンを探さなくてはならなかった。時刻は11時を回っていた。俺は冷蔵庫に一旦しまい込んだサンドイッチを取り出して、封筒とともにカバンに入れ、入り口脇に掛けてあるマスタングのキーを取って外に出た。




 いつも通り晴れ渡る空の下でマスタングは快調に前進し続けた。何しろ人が全くいない。道に一切の車が走っていない。いかに俺の運転が下手でも、誰もいない道で事故を起こす心配はほとんどない。俺は2車線の真ん中を悠々と走った。

 俺が目指しているのはジエンの自宅ではなかった。俺は彼女の家の住所を知らないのだ。正確に言えば、知ってはいるがそれはノートPCに他の社員のプロフィールと同様にイーア語で保存されているだけで、グーグルマップが使えなければそれがどこなのか分からない。だからまず向かうべきはパンの自宅だった。一度行っただけの場所だが大体覚えている。彼にジエンの居場所を聞く。そして今何が起きているのか訊く。正直なところ誰でもいいから家のドアを叩いて今ここで何が起きているのか問い質したいところだったが、まずそれはパンに対して行うべきだった。そういえば俺は支社長になっていたので、少なくとも彼に無断欠勤の理由を問い質す権利と義務はある。

 古びた青い壁のマンションの前に堂々と路上駐車して俺はマスタングを降りた。誰もいない管理人室の前を通り過ぎ、この前よりも一段と暗い気がする廊下を通り抜けてエレベーターの前に立つ。エレベーターの前のドラセナははっきりと枯れている。介護が必要そうな足腰ががたがたのエレベーターで7階まで登り、俺は704号室の扉のインターホンのボタンを迷わず押した。

 反応は無い。

 俺は握りこぶしをつくってドアを叩いた。ずどんずどんと巨大な音が外廊下に響き渡り、その残響が消え去る前に俺はノックを繰り返した。まるで俺はヤクザの取り立て屋で、相手は部屋の中で一切身動きしまいと身を潜めているようだった。

 俺は茶色い薄汚い扉を見つめて、パンはここにいる、と思った。根拠は何もない。気配を感じるわけでもない。汚れて散らかり切った部屋の中で、必死に息をひそめているパンの姿が想像できただけだった。

 何故必死になる? と俺は勝手に想像して、勝手に苛ついた。

 何度ノックしてもパンは現れない。俺は息を吸い込んだ。

「パン、この扉を開けなければ私はあなたを解雇する」

 俺は英語で大声でそう言った。5秒待ったが反応が無いので、俺は再び、私はあなたを解雇する、と言った。そしてドアを強く叩いた。

 私はあなたを解雇する、私はあなたを解雇する、私はあなたを解雇する、俺はそう何度も繰り返した。どれだけそう繰り返しても、どれだけドアを叩いても、目の前の扉が動かないのは勿論、うるせえぞと言って近くの部屋の扉を開けて文句を言いに出てくる住民もいない。だが俺はそれを繰り返した。クイーンの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」と同じような調子で、ワン、ツー、スリー、私はあなたを解雇する、私はあなたを解雇する、私はあなたを解雇する、と繰り返してドアを叩き続けた。俺は30分でも1時間でもそうし続けるつもりだった。

 だがせいぜい5分くらいだった。ばきっ、と音を立てて微かに扉が内側に開いて、俺はドアを殴るのと叫ぶのを止めた。殴り過ぎたせいで鍵が壊れたのかと思ったが、そうではなく単に立て付けが悪いだけだった。白く太い腕が、開いたドアの隙間の暗闇からゆっくりと伸びてきた。

 その手は紙きれを握っていた。俺はその折りたたまれた紙を受け取って開き、ペンで書かれた、引きつった英語の文字列を読んだ。


 Today is the day we must do nothing.


 俺はそれを小さな声で読み上げ、今日は私たちは何もしてはいけない日です、と日本語で呟いた。

 俺は顔を上げた。白い腕が引っ込み、かすかにドアが閉まりかけている。俺は足をドアに突っ込んで、体当たりする勢いで押し開いた。重い体に衝突したが、構わずそのまま押し込んだ。

 ドアを後ろ手に閉じると、目の前でパンが尻もちをついて、無言で首を横に振り続けている。人間がいる、と俺は思った。当たり前だ。地球から人類がそう簡単に消滅するわけがない。

 俺は相変わらず恐ろしく汚い部屋の中を見回して、何があった、と英語で言った。

「誰もいない。誰も会社に来ない。誰もいない。何があった」

 パンは座り込んだままで首を横に振った。何か言え、と俺は思った。そして実際にそう口に出した。

「何か言え。どうして誰もいない。ジエンはどこだ」

 パンは首を横に振った。そして俺が手に持った紙切れを指さした。

 今日は私たちは何もしてはいけない日です。

「これは何なんだ」と俺はゆっくり英語で言った。単純な言葉も頭の中ですぐに英訳できないのは焦っているからではなく、もともと英語力が無さすぎるからだ。「私たちは何もしてはいけないというのはどういう意味だ」

 パンは首を横に振るだけだった。そして、自分の口の前に人差し指を立てて、その指を必死で震わせながら俺を見上げた。

 静かにしろ、と言いたいようだった。

 俺は眉間に皺を寄せて、両手で持った紙切れを睨みつけた。

 何もしてはいけないということは、喋ってもいけないということか?

 パンはよろよろ立ち上がり、俺の肩に手を置いた。そしてもう片方の手のひらを上に向けて、扉の方を示した。

 帰れ、と言いたいようだった。

 俺は首を横に振って、肩に置かれた手を払った。

 帰れるわけがない。

 俺は頭の中で訊くべきこと言うべきことを考えた。山ほど喋ることがある。カラマックスを乗せた船は今どうなっているのか、明日の納品の段取りは問題ないのか、ジエンはどこにいるのか、あなたたちは何故出社しないのか、この町中が無人のありさまは一体何なのか。それを全部英語に翻訳できたとして、この巨漢は答えるだろうか。パンは俺から目をそらし続けている。彼はあまりにも俺がうるさいから仕方なく部屋の中に入れただけで、俺と会話する気などない。

 俺は手に持ったパンの英文メモに再び目を落とした。

 何もしてはいけない「日」。

「これはお前たちにとって予定通りなのか?」

 俺がそう聞いても、パンは反応せず俯いていた。

 俺は自分に確認するように何度か頷いた。今のこの状態は、イーア国民にとっては予定されていたということか。つまりテロや戦争や疫病などの緊急の外圧のためにシステムダウンが起きたのではなく、何らかの国家的あるいは宗教的行事の遂行のために意図的に自己凍結しているのだ。そのために、仕事も会話も遊びも、他人に関わることは何もしない。

 要するに今日は「祭り」なのだろう。その祭りが何なのか、王の即位祝賀と関係しているのか別のものなのか、何のために何もしないのか全く分からないが、「何もしてはいけない日」というのは、たぶんそういうことだ。

「明日、これは終わるのか?」

 俺はパンにそう訊いた。パンは首を横にも縦にも振らなかった。

「何故誰も私に教えなかった?」

 パンは動かなかった。

「カラマックスの船がOKかOKでないか知っているか?」

 パンは動かない。

 俺はパンにスマートフォンを突き付け、「カラマックスを乗せた船が沈没した」というジエンからのメッセージを見せ、海老オフィスに届いたイーア語の手紙を見せた。

 パンは目をきつく閉じて首を横に振った。俺から顔を背け、手のひらを見せてばたばたと振った。

 俺も目をきつく閉じた。

「一つだけ教えてくれ。ジエンはどこだ? それだけ教えてくれ」

 パンは首を横に振った。

 俺はため息をついた。そして声に出さずに、分かった、と思った。知っていてもいなくても今日は決して答えないのだということと、それを冗談でやっているわけではないことが分かった。

「少し休ませてくれ。考える時間が欲しい」

 俺はパンの反応を伺わずに彼の脇を通って、雑誌や菓子袋が放り捨てられているソファに腰掛けて、深く息を吸って吐いた。

 俺は頭をかいて、自分が今何を分かっていて何を分かっていないのか考えた。これは俺にとっての非日常であるだけで、おそらくイーア人にとってはそれほどでもないと分かったのは一つの前進ではある。だがそれだけで、別に何も解決していない。カラマックスがどうなったのかも明日の納品が無事に進むのかも分からない。

 おそらく俺は待つしかないのだろう、と思った。パンは俺の来訪に困っているだけで、特にこの事態に怯えていない。これがいつ終わるのか分からなかったら誰もがおとなしく家で閉じこもっているわけがない。そして多分それは今日だけだ。明日には全員また街に出て動き出すに違いない。明日この国で最も重要だという即位式典があると前々から分かっていたのに、全ての準備を無駄にしてナッシングの日にわざわざぶつける理由があると思えない。

 ということは、俺が考えるべきなのはカラマックスを乗せた船についてだった。あのジエンからのイーア語のメッセージはこの今の無人の状況とたぶん何の関係もない。俺は中国と戦争でも起きて船も沈んだのかと思ったが、そうではない。船は船、無人は無人だ。そしてパンはこの件について何も知らない。パンがこれについて知っていたら、何よりも王を恐れる彼が慌てないはずがない。知らないから答えないか、沈んでいないと知っているから動じないかのどちらかだ。カラマックスの船はまだ沈んでいません、とわざわざ報道されるはずもないので、少なくとも誰もが知るようなニュースにもなっていない。

 だがもし誰も知らないところで本当に沈んでいたら、俺たちは相当に面倒くさいことになる。終末戦争が起こって世界が終わっているならカラマックスを乗せた船の一隻や二隻沈んだどころで最早どうでもいいかもしれないが、もし式典が予定通り行われ、そこにカラマックスが無いとなったら、話は振出しに戻る。海老と俺たち社員4人は制裁を――その中身が未だ分からない制裁を――受けることになる。少なくともその結果社員3人は路頭に迷い、俺は日本に強制送還されるくらいのことにはなるだろう。

 俺は俯いていた顔を上げた。パンは大量のディスプレイを並べたデスクに座っている。この「無為」がどれほど重要でどんな意味のある行事か知らないが、俺はまだただ待つことはできない。仕事をしなくてはならない。

「頼む。ジエンの居場所を教えてくれ。本当に重要なことだ」

 俺はパンの目を見つめてそう言った。とにかく彼女に会わなければ何も始まらない。

 パンは太い腕を組んで、腸蠕動音のような低い唸り声を鼻から絞り出した。彼は立ち上がり、すぐ外が隣のマンションの壁になっている窓の向こうを眺めて、むむむ、と唸り続けた。

 そしてまた椅子に腰かけた。彼は汚いデスクの端から紙とペンを取り上げて何か書き始めた。少し書くとペンの尻で眉間を突き、唸り声を上げながら少しずつ書き進めた。

 やがて彼はその紙を俺に差し出した。俺は直ちに立ち上がってその紙を受け取った。

 俺の眉間に深い皴が寄った。俺は彼がジエンの家のマップを書いてくれていると思い込んでいたが、そこに書かれていたのは全く別のことだった。


 If you play my game, I will tell you her address.


 私のゲームをプレイしたら、彼女の住所を教えます。

 俺は眉間に皺を寄せたまま、パンとPCディスプレイを見つめた。暗い画面にPRESS ANY KEYの文字とともに大きく横書きにゲームタイトルが書かれている。


 The Boy of the Sun


「完成したのか?」と俺は訊いた。

 パンは笑顔で頷いた。彼は椅子から立ち上がり、PCの本体に繋がったコントローラーを俺に手渡した。

 俺はそれを受け取りながら、何もしてはいけない日だったんじゃないのか、と思った。だがパンの目を見ると、そうは言えなかった。彼の目は輝いていた。いつも濁っているから変化が分かりやすい。その眼は俺に真っすぐ訴えかけていた。

 ゲームをやってほしい。

 彼はただとにかく純粋に、完成したゲームを誰かにやってもらいたいようだった。そして今日が何の日であれ、それを我慢できないので、そのためならルールを破ってもいいというわけだった。

 これは関係ない、と俺は思った。これは、今日が何の日かということも、ジエンの居場所にも、明日が王様の即位式典だということも、カラマックスの行方にも、あらゆる現状に何も関係がない。

 ゲームなんかやっている暇はもちろんない。いいからさっさと住所を教えろと俺は言うべきだった。

 だが俺はパンに訊いた。

「プレイに何時間かかる?」

 パンは再び紙に英語で書いて俺に渡した。そこには「最後のパートだけやってほしい。たぶん2時間くらいです」と書かれていた。

 俺は頷いて椅子に腰かけ、コントローラーを両手で握った。

 ただ座って唸っているだけで事態が何も進展しないくらいなら、そしてこれが彼の精いっぱいの妥協なら、さっさと受け入れようと俺は思った。

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