第3話 太陽の国の王 ③


 俺とジエンは、ジエンの運転するフォードマスタングに乗って市の中心街を通り抜け、工場街とショッピング街の境に向かった。パンが住んでいるマンションはそこにある。彼女は次々に車線変更して他の車を追い抜いた。これまでの彼女の運転より、ずっとスピードが速い。

 横顔を見なくても、彼女が心底イラついているのはその運転で車体から伝わってきた。眩しく照らす空からの光と町中の埃を切り裂いて、マスタングは疾走する。その光景を遠くから見ると、たぶんウェス・アンダーソンの「ダージリン急行」のオープニングみたいに見えるだろう。

 なので俺はマスタングの助手席に乗っている間、ジエンに一言も話しかけなかった。人類の歴史上、イライラしている女に男が話しかけて事態が好転したことは一度もない。カーステレオさえ黙って何の音楽も流さずにいるのだから、俺は肩に首を埋めて腕を組んでいるしかなかった。

「才川さん、日本から連絡はありましたか? カラマックスは間に合いそうですか?」とジエンが早口で言った。

「いや、まだ連絡はない。この後追跡する」

「急いだほうがいいです。このままだと、明日にはアッカもリスクを承知で辞めると言い出すかもしれません」

 十階建ての青いマンションの目の前の道にマスタングを停車すると、ジエンは早足で歩きだした。雑誌を読んでいる管理人の受付前を無言で通り過ぎ、薄暗い廊下を通り抜けてエレベーターのボタンを押した。ボタンの下にはドラセナの鉢が置かれていたが、光も水も致命的に不足しているようで、ほとんど枯れかけている。俺はエレベーターを待つ間、左足のかかとを小刻みに揺らし続けているジエンの隣で、その枯れかけた葉をじっと見つめていた。

 照明が点滅し、壁も天井も床も何もかも薄汚れた、がたがた揺れる小さなエレベーターに乗って俺たちは7階まで登った。扉が、プログラムに失敗したポリゴンモデルのように震えながら開くと、ジエンは再び早足で歩きだし、704号室の前で立ち止まるや否や呼び鈴を押した。びいいいっという、呼び出し音と言うより警告音のような強い音が鳴った。ジエンはそれを二度三度鳴らした。

 10秒待って何の反応も無いので、ジエンは拳の裏でごんごんと青い扉を叩いた。途中で止めたりせずに100BPMくらいの一定のリズムで叩き続けた。途中で手が痛くなってきたのか、叩くのを靴のつま先に切り替えて、また一定のリズムで蹴り続けた。

 やがて、扉がゆっくりと内側に開き始めた。眼鏡をかけたパンの青白い顔が扉の隙間から現れたところで、ジエンは足を隙間に突っ込み、指を扉にかけて押し開いた。

 どわっ、とパンが悲鳴を上げ、慌てて扉を押し戻そうとした。ジエンがイーア語で叫ぶと、パンもイーア語で言い返した。二人の間で会話の応酬があり、俺にはその意味が分からなかったが、各々の単語の短さから判断して、複雑な話をしているようには見受けられなかった。たぶん、開けろ、止めろ、と言いあっているだけだ。俺はそれをただ横から見ていた。正直な感覚として、どちらの味方をしたらいいのかよく分からなかった。

 やがてパンが負け、ジエンが勝った。扉が開け放たれ、玄関に立ったパンの全身が現れた。パンは白いランニングシャツに緑のショートパンツという、はち切れそうに太った白い体躯がほぼむき出しになった格好で、休日に芝生の横のデッキチェアでコーラを飲みながらだらだらしているアメリカの中年男性みたいな雰囲気だった。

 パンが叫び、ジエンがそれに言い返した。ジエンはパンをにらみつけていたが、パンは俯いていた。二人が何度かやり取りするうち、パンは俺の方を見て話すようになった。彼の目は泳いでいて、救いを求めるような声色だった。

 ジエンが言葉を止めて、深いため息をついた。彼女は俺の方に振り向いた。

「才川さん」とジエンは言った。「パンは才川さんに話したいそうです。私に家に入ってこられると困るから、才川さんとだけ話したい、と言ってます。それでいいでしょうか?」

 分かった、と俺は言って頷いた。「とりあえずパンの言い分を聞くよ。細かい話はその後にしよう」

「お願いします、私は外の車で待ってます」とジエンは言って立ち去った。

 パンは踵を返して部屋の奥に引っ込んでいった。

 俺は部屋に入り、扉を後ろ手に閉じて、玄関マットの上で靴を脱いだ。これまで訪れた他のイーアの住居と同様、入るとすぐにリビングになっている。

 部屋の中を見回すと、なんとなく予想していた通り、恐ろしく散らかって汚れていた。10畳くらいの空間の中央にテレビとテーブルと一人掛けのソファーチェアが置かれていて、その周囲は全てゴミで覆われている。スナック菓子、ふたの開いたゲームのケース、山積みの漫画本や雑誌、青や黒や白の電気コード類、打ち捨てられた下着や衣服、そして大量の蓋が開いた段ボール。ひょっとしたらそれらは全て、パンの生活を支えるべく現在進行形で運用されている物品なのかもしれなかったが、傍目にはどう見てもゴミでしかなかった。

 この光景をジエンに見られるのを嫌がったということは、彼にも一応若い女に対する見栄とか羞恥心というものがあるのだろう。

 俺がどこに座ろうか迷っていると、パンが腕をくいくいと振って、ソファに座るように促した。染みと模様が判別不可能になった迷彩柄のカーキ色のカバーのソファに腰掛けると、パンは斜め前の雑誌の山に腰掛けた。崩れ落ちる紙束の上に足を開いたパンの巨躯が鎮座すると、集めた財宝の山の上に腰掛ける洞窟の奥のトロルのように自然な感じがした。

 ウェル、と俺は言った。ジエンはいない。俺たちはお互いに下手くそな英語で話し合うしかないのだ。

「パン、あなたはどうして辞めるんですか?」

「私は、気が付いた」とパンは言った。「自分がやらなければならない仕事がある。私はそれに気が付いた」

「それは何ですか?」

「才川さんも知っている。私はビデオゲームを作っている。私はそれを世界に送らなくてはならない。これは素晴らしいゲームです。才川さんはゲームは好きですか?」

「はい、好きです」

「あなたには意味が分かる。私はゲームを完成させなくてはならない。それは私にとって一番重要な仕事です。ゲームはもうすぐ完成します。みんなが私を待っています。だから私は海老を辞めます」

 俺は首を傾げた。

「あなたに質問があります。あなたは毎日ゲームを作っている。海老の仕事をしながら、いつもゲームを作っています。そうですね?」

「はい、そうです」

「私は思う。あなたはいつもゲームを作っている。仕事をしながらゲームを作る。仕事をしないでゲームを作る。私にはそれらは同じことのように思える。あなたが創作に使う時間はどちらも変わらない。だからあなたは海老を辞める必要はない。だから何も問題はない」

 パンは口を開けて、あー、と呻いた。洞窟の奥のトロルのような呻き声だった。

「私はそうは思わない」とパンは突き出た腹を撫でながら言った。

「どうして?」

「なぜなら」とパンは言った。そう言ってから沈黙した。腹を掻きながら、俺から視線をそらして、埃まみれの窓を眺めた。窓の外のすぐ向こうには別のマンションの壁があるので、情報的には部屋の壁を見るのとほとんど何も変わらない。

「なぜなら、私の集中力は違います。私の集中力は、この部屋で3倍になります。海老では私は集中できません」

 俺は頷いた。まるで、試験勉強をしない中学生の言い訳を聞いているようだった。

 仕方ない、と俺は思った。

「分かりました。それではあなたはこの部屋で仕事してください」

「なんですって?」

「あなたはこの部屋なら集中できると言った。ですから、あなたはオフィスに来なくてオーケーです。あなたはこの部屋からリモートワークしてください。仕事はネット会議とメールでやりましょう。問題ないですね?」

 パンは首を横に振った。顔の肉が震えるほど激しく振って、ノー、と言った。

「いいえ、問題があります」とパンは肉を震わせながら言った。

「それはどんな問題ですか?」

 パンは雑誌の山から立ち上がった。そしてのしのしと歩いて部屋の隅に向かった。見てください、見てください、とパンは言って、部屋の隅に置かれたデスクとパソコンを指し示した。仕方が無いので俺は立ち上がってパンのところに向かった。

 机の上には、海老のオフィスでそうであったのと同様に、3つのディスプレイが並んでいる。パンはマウスを操作して、ディスプレイの表示を切り替えた。滑らかな2Dドットで表現されたキャラクターが、刃物を構えた相手に向かってゆっくりと歩いていく。ゲームの実動作画面のようだった。荒野に立つ二人のキャラクターはどちらも無表情で、空虚に開かれた眼はどこかしら悲しみのようなものを湛えていた。

「このゲームは、もう完成する。完成しなければならない。このとても悲しい物語は、私のフルスロットルを待っている」

「そうだろうと思います」と俺は言った。

「そうです。とても重要な仕事です。完成したら、才川さんもこのゲームをやってください。私はあなたがとても満足すると思います」

「私はきっと満足するでしょう。しかしあなたは私の質問に答えていない。あなたは海老のオフィスでずっとゲームを作っていた。8時間働いているうち7時間はゲームを作っていた。だからゲームを作る時間は変わらない。リモートワークすれば問題ない。そうですね?」

 パンは俺の方を見た。まなじりが垂れた、げっそりとした目だった。

「才川さん、私は怖い」

「何が怖いんですか?」

「王様が怖い。カラマックスは届かない」

「私は、カラマックスは届くと思う。金があって、輸送方法があって、日本ではカラマックスが売れずに残っている。届ける方法は必ずある」

「届かなかったら才川さんはどうしますか?」

「解雇されます。それは大きな問題ではない。パンもジエンもアッカも、責任は無い。私はイーアからいなくなる。これはイーアと海老の問題です。あなたたちの問題ではない。海老は必ず最終的に解決方法を考えます」

 パンは鼻でため息をついて、俺から視線をそらした。そしてイーア語で何か呟いた。

 俺にはその内容の想像がついた。パンは「ラーパ」がどうのこうのと言った。その単語はこれまで何回も聞いた。ラーパというのは「日本」のことだ。その後に続く言葉はごく短かった。だからたぶんパンが言ったのは、日本ヤバい、か、日本怖い、のどちらかだ。




 マスタングの助手席で、俺は清田課長に電話した。無論、カラマックスの状況を聞くためだ。だが清田は離席中で、携帯もコール音を十回鳴らせた後で留守番電話になった。俺は息をついてバックミラーを眺めた。後部座席で、両脇にPCの詰まった段ボールを抱えたパンが、足を広げて憂鬱そうな顔で座っている。結局、即時の退職もリモートワークも両方諦めて会社に戻ることにしたのだ。ジエンはずっと無言だった。服を着替えたパンが部屋を出てきて、三人でパンのPCを運び、マスタングに積んで出発するまで、一言も話さなかった。ただ、さっきよりは運転の速度が若干マイルドになっていた。

 海老のオフィスが近づいてきたところで三回目の電話をすると、清田課長に繋がった。

 まだ調整がついてない、と清田課長は言った。〈今日中には結論を出す。通関業者と輸送業者を探しておけ〉

「それは既に決まっています。王室御用達ですから、手続きは事後処理にされて、おそらく一瞬で税関を通過します。カラマックスが港に届きさえすれば、それがほとんどゴールです」

〈便利な国だな。こっちは小売りの欠品をどうするかが決まってない。大口だから下手をこくと今後の取引に響く。役員が対応してる。もう少し待て〉

「よろしくお願いします。もし納品に失敗したら、多分こっちの三人の社員は全員辞めます。私もこの国でまともに働くのは無理になるでしょう。まだここに来てから一週間しか経っていませんが」

〈それで脅しのつもりか?〉と清田は言った。〈状況は分かった。お前そうなったら、そのまま船に乗って帰って来い〉

「全く笑えないですね」

〈こっちも笑えねえ状況なんだよ。次に電話する時は必ず出ろ。結論の連絡になる〉

 俺が電話を切るのと、運転席のジエンと後部座席のパンが声を上げたのはほとんど同時だった。

 俺も、何だ、とほとんど無意識で呟いた。

 海老イーア支店のオフィスが目前に近づいている。だが様子がおかしい。

 倉庫オフィスの前のだだっ広い道に、青や赤や黄のテントが幾つも並んで張られている。色を除けば、町内会のお祭りに使われるようなのと同じで、屋根だけあって足がむき出しの奴だ。人々がたむろしてその間を行き来している。いくつかのテントはオフィスの敷地スペースに入り込んでいる。バンが何台も停まっていて、今も新たな車が停車して、男がリアトランクから大量の荷物を取り出しているところだった。

「何ですか、あいつら」とジエンが言った。

 俺は首を横に振った。ジエンが分からないのに、俺に分かるはずもない。

「運動会には見えない」

 俺がそう呟くと、ジエンは舌打ちして、心持ちアクセルを強く踏んで、オフィス前に突っ込んでいった。敷地の前でたむろする人々が悲鳴を上げてマスタングを避ける。シャッターが下りたままの倉庫横のガレージ前にマスタングを停車すると、ジエンは大声を上げながら車を降りた。その声を合図にしたように、テントから駆け寄ってくる者があった。

 彼らの正体はすぐに分かった。彼らは例によって、肩にカメラを担ぎ、手にマイクや携帯レコーダーを持っている。またマスコミだ。

 彼らは、敷地外で張り込みをする作戦に切り替えたのだ、と俺は思った。

 だが様子がおかしかった。やって来る数が少ない。道を占拠する連中は少なく見積もっても五〇人はいるが、声を上げたジエンに近づいてくるのは、たった三人で、カメラも一台だけだった。それ以外の連中は、テントの下で俺たちの方を遠くから見ているだけだった。

 近づいてきた三人は、カメラとレコーダーを持ってはいるが、それを俺たちに向けてはこない。ジエンがイーア語で話しかけると、緑色のシャツを着た男がゆっくり落ち着いた調子で応えた。男の声に合わせて、ジエンの声も静かで落ち着いたトーンになって行った。これまでと様子が違う。俺とパンは顔を見合わせた。イーア語が分かっているパンの顔を見ても、顔面じゅうに一杯の汗をかいているという以外に特に情報はなく、ジエンと男がどんな話をしているのかヒントが見つからなかった。

 仕方なく、俺はパンに小声の英語で話しかけた。

「彼らが何を話してるか分かりますか?」

「彼らはブロードキャストする」とパンは言った。「カラマックスの物語を。王様に50万個のカラマックスが届くまでの物語です。この国の全員が知りたがっています」

 分かりました、と俺は言い、なるほど、と思ってため息をついた。

 男との会話を終えたジエンが俺に振り向いた。

「才川さん、マスコミは我々の仕事を嗅ぎつけました。王様に50万袋のカラマックスをお届けするという仕事が無事に間に合うかどうか、これから数日間、24時間張り付いて番組にするそうです。王室にも警察にも許可を取っていて、このオフィスの前の道に、解決まで居座ることになりました。我々の仕事の邪魔はしないそうです。朝と夕方の一日二回だけ、ショートインタビューに応えて欲しいと言ってます」

 分かった、と俺は言った。そう答えるしかなかった。

「イーアのマスコミは、暇なのか?」

「イーアの報道には、事件報道とスポーツ報道に加えてもう一つ軸があって、それが王室報道です。王様に関する情報は極めて関心が高く、その取材班が大量に動員されているんです。しばらく前に、王様の飼っていた鳥が王宮から脱走して、追跡に警察とボランティアが大量に駆り出されて、それが24時間報道されたことがありました。戦争報道部隊が、戦争が終わって仕事がなくなったので、全部王室担当に回ったからこの体制が可能なのだと聞いたことがあります」

 なるほど、と俺は言った。

 三人のマスコミは既にテントの方に引き返していくところだった。相変わらず、立っているだけで汗が出てくる。既にパンは暑さでふらふらしかけていた。俺たちはマスタングの後部座席のパンの荷物を分担して両手に抱え、足で扉を開けながらオフィスに入っていった。

「それで、王様の鳥は捕まった?」と俺はジエンに訊いた。

 いいえ、とジエンは言った。「結局捕まらなかったので、王室庭園管理局の上層部全員がクビになりました」

 ジエンが突然立ち止まった。

 どうした、と俺は訊いた。だが、彼女の視線を追ってオフィスの中を眺めて、すぐに理由が分かった。

 フロアの中央脇、応接用のソファに見覚えのない誰かが座っている。人数は3人。男が2人で、もう1人は背を向けているが、線の細い女に見える。

 アポなしの客に事欠かないオフィスだ、と俺は思った。

 俺たちは段ボールを抱えてパンのデスクまで歩いた。俺は客の姿を横目に眺めたが、彼らは外にいた取材班たちではないように見えた。男は二人ともネイビーのスーツを着ている。俺はこの国でスーツを着た男を見るのは初めてだった。二人は俺を見ると微笑んで立ち上がった。

 アッカが席にいて、彼は相変わらずデスクの上に足を投げ出して本を読んでいる。客だ、とアッカは俺たちに英語で言い、すぐに本に目を落とした。

 パンのデスクの上に段ボールを下ろし、俺とジエンは3人の来訪客のところまで歩いて行った。だが、客の3人目、女がこちらに振り向いたとき、俺は途中で立ち止まりそうになった。

 ジエンは実際に立ち止まった。彼女は、うっ、と呻くような声を上げた。

「彼女はアム・リアです才川さん」

 俺は頷いた。俺は勿論そんな名前の女は知らない。

 だが彼女がにっこり微笑んで俺の目を見た時、俺もジエンと全く同じような声色で、うっ、と呻いた。

「アム・リアはイーアの人気ナンバーワン女優で、歌手です。この国のスーパースターです」

 ジエンの声が、これまで聞いたことがないほどふわふわ浮ついている。

 俺は頷いて、きっとそうだろうと思う、と言った。

 そして彼女を見た。信じられないほど美しい女が俺の目の前に立っている。恐ろしく長い脚とか俺の半分くらいしかないであろう顔とか鏡のように輝く黒髪とか、そういう個々の要素を切り取る以前に、全体的な解像度が普通の人間と違い過ぎる。全身が輝いている。道を歩いていて、熊とか横綱とか戦車とかがいきなり現れたら立ちすくむしかないのと同じような、問答無用の非日常感だった。女は俺の目を見たままゆっくりとソファの脇まで歩いた。その動きもやたらしなやかで水のようだ。一人だけ解像度とフレームレートが周りと違い過ぎて、スーパーファミコンの世界にいきなりプレイステーション5のキャラクターが入り込んだような感じだった。

 俺はこれまで日本で、TVコマーシャルの撮影やイベントで何人かのずば抜けて美しい女優やタレントに会う機会があったが、その経験があっても、今目の前にいる女の美しさは度を越しているように感じられた。根本的に流れている血が違うので、自分の存在の果てしない延長線上にあるようにも思えず、妖精のように見えるのだ。

 俺はジエンの横顔を見た。彼女の頬は紅潮しかけているが、体は少し震えているように見える。多分、俺と思っていることはほとんど同じだ。

 スターがいきなりこんなところに何しに来た?

 男二人が俺に手を差し伸べ、はじめまして、と日本語で言った。俺は握手して、私は才川です、とイーア語で言った。男二人はジエンに、プロダクションの社長とマネージャーだとそれぞれ名乗った。アム・リアは相変わらず自然に微笑んでいる。白い上品なスカートスーツを着た彼女の周りだけがやたらきらきらと光っている。

 俺とジエン、社長とマネージャーとアム・リアはソファに並んで向かい合った。スーツの3人と、Tシャツにハーフパンツという格好の俺とジエンとでは、装いに明らかな隔たりがあった。家庭崩壊した生徒の家に、突然校長と担任教師がカウンセラーを連れてやってきたような感じだ。

 隣のジエンが俺から話し出してもらいたがっているのが伝わってきたので、俺は、本日はどういったご用件でしょうか、と日本語で言った。

 ジエンが翻訳し、社長がにこやかな表情で答えた。カラマックス、日本、という単語だけが断片的に聞き取れる。社長の声は張りと親しみの両方があり、今にも幸福な何かが始まりそうな雰囲気があった。

 だが雰囲気だけだ。その雰囲気の声には聞き覚えがあった。当然、彼らは仕事の話をしに来たわけで、俺はこの社長が何を言いたがっているのか、すぐに見当が付き始めた。カラマックスで、女優で、仕事、となると、結び付くのはあれしかない。

 ジエンが応答して、何度かやり取りした後、才川さん、と彼女は言った。

「才川さん、アム・リアはカラマックスの広告キャラクターになりたいそうです。彼女は、化粧品、車、保険、飲料、IT、医薬品、不動産、アミューズメント施設他、ほとんどのカテゴリーで契約済みですが、食品は空いているそうです。ぜひカラマックスの広告キャラクターに採用してほしい、とのことです」

 俺は、自分の目が細くなっていくのを感じた。

「お声がけありがとうございます。ただ、カラマックスはまだ、イーアでの事業展開を行うかどうか決定していないんです」

 ジエンが翻訳する。見る見るうちに社長とマネージャーの目が丸く開かれる。彼らは俺とジエンを交互に見て、手を大きく開いて俺たちに語り掛けてきた。身振り手振りが割と鋭く激しいのがこの国のビジネスマンの特徴のようだった。アム・リアだけが静かに微笑んで俺を見つめている。それをまともに見返すと一瞬で吸い込まれそうだったので、俺は視線をそらして、社長の眉毛が繋がりかけた眉間に意識を集中した。濃く焼けた肌と黒い眉毛が良くなじんで、眉毛が繋がっていても繋がらなくても、どっちにしてもほとんど既に一本の直線に見える。

「王様がお取り寄せまでするほどなのに、何故まだイーアで製造する予定がないのか、よろしければ教えて欲しい、と社長は言っています」とジエンが翻訳した。

「今検討中なのです。海老は事業投資に当たっては非常に慎重な会社です。皆さんから見れば亀の歩みに見えることでしょうが、それで300年やってきましたので、なかなか急に体質が変わりません。イーアの皆さんにはもう少しお待ちいただけるとありがたいです」

 ジエンが翻訳すると、また社長たちは目を開いた。

 創業300年というのに驚いたようだった。

「それ程非常に長い歴史を持つ企業がイーアに進出するとなれば、やはり広告には当地のトップスターが欠かせません。アム・リアは問答無用のナンバーワンです。YouTubeの動画再生数は毎回2000万を超え、アップルミュージックの再生回数でもこの2年間常にトップです。彼女が出演するテレビドラマも映画も、トップ以外取ったことがありません。彼女は若く、ずば抜けて美しく、賢く、急激に成長するこの国の象徴的存在です。カラマックスがイーアで広告を行うと決まった際には、ぜひアム・リアをご指名ください。それまで他の食品メーカーとの契約は行わずに空けておきます」

 社長は熱っぽく語り、ジエンは少し怯えたような声色でそれを翻訳する。まだ何一つ決まっていないにも関わらず、社長はほとんど約束を求めている。社長の話し方から高圧的な雰囲気はほとんど感じず、むしろ神父が神の声を伝えるような柔らかい声色だが、裏を返せばそれは未来の決定事項を通達するような一種宗教的な不可逆性を纏っていた。やり方はそれぞれ違うにせよ、今まで会ったイーアの男たちはみんなこういう、自分は自分にとっての真実に対して不退転であるという話し方をする。

 俺は鼻からため息をつき、アム・リアがKISSのコスプレをして「I Was Made For Lovin' You」の替え歌を熱唱する様を思い浮かべた。それは上手くやれば馬鹿馬鹿しくも親しみある、CMらしいCMになる気もしたが、顔面をおどろおどろしい悪魔メイクに仕立てられるのをアム・リアが許容するとも思えなかったし、もし許容したとしても元の顔がどうでもよくなるのでわざわざアム・リアを起用する必要が無いようにも思えた。

「ありがたいお申し出、大変嬉しく思います。日本本社にはこのことを伝えさせていただき、事業計画が定まった際には改めて検討させていただきます」

 俺はそう言うしかなかった。

 ジエンが翻訳すると、社長は笑顔を浮かべ、傍らのマネージャーを促した。マネージャーはカバンから紙の束を取り出して、俺たちの間に置かれた木造りのコーヒーテーブルの上に一枚差し出した。

 それはイラストだった。宇宙空間と思しき異星を背景にして、画面の中央左、銀色のスーツに身を包んだ美しい女が身を丸めて逆さまになって浮かんでいて、異星の背後には薄暗がりの中でフードを被った男が不敵に微笑んでいる。まるで女はジェーン・フォンダの「バーバレラ」のオープニングのようで、フードの男は「帝国の逆襲」のダース・ベイダーのポスターのようだ。

 よく見ると、さかさまになった女は片手にカラマックスの袋を抱え、もう片方の手でポテトチップスを一枚摘んでいる。

 俺が無表情でその絵を眺めていると、マネージャーはそのイラストの隣に別の紙を差し出した。細かくコマ割りされた四角の中に、フルカラーでイラストが描かれており、細かいイーア語の文字が内に外に羅列されている。絵コンテだ。文字が全く読めないので何が書いてあるのかはほとんど分からなかったが、内容は大体は分かる。宇宙の片隅で激しい攻防戦が繰り広げられている中、トレジャーハンターかバウンティハンターか分からないが、銀河の女傑たるアム・リアが現れる。彼女は宇宙の秘宝カラマックスを巡って悪との激しい戦いを繰り広げ、宇宙の市民にカラマックスを解放する。

 その大冒険活劇を描いた絵コンテは何枚も続いていた。

「カラマックスのTVCM案です。日本ならきっとこれくらい簡単に作れるでしょう、と言っています」とジエンが言った。

 社長もマネージャーもアム・リアもきらきら笑っている。彼らがいったい何本のCMを作るつもりなのか分からなかったし、これを作ったら何億円かかるのか想像もつかなかった。彼らが今のカラマックスの日本国内での売り上げが年間幾らで、利益率が何%なのか知ったらすぐに席を立つだろうと俺は思った。

「参考にさせていただきます。ありがとうございました」

 俺はそう言った。俺たちはこの商談をすぐに終わらせるべきだった。これ以上、彼らにとってのプロジェクト、俺たちにとっての妄想を、無責任に拡大させるべきではない。それに、さっきから俺の尻ポケットの中で携帯電話が鳴っている。その電話は清田課長かもしれない。

 失礼、と英語で言って俺はソファを立ち上がって電話に出た。

 電話に出る寸前に見えた番号表示は、清田課長のものではなかった。

〈もしもし、今話せる?〉

 海香だった。

 ああ、大丈夫だ、と俺は言った。

 俺は反射的に、そう答えた。そう言うしかない。海香が業務時間中に電話をかけてくることは滅多にない。ざっと3年ぶりだ。その3年前の電話は、極めてシリアスな電話だった。心療内科に掛かった彼女の診断結果がはっきり医者から通達された時だった。

〈妊娠したかもしれない〉

 彼女はそう言った。遅くも早くもなく、小さくも大きくもない声だった。

 受話口の向こうから風の音が聞こえた。彼女は外にいるのかもしれない。

 俺は無言で頷いた。だが正直に言って最初の数秒、ニンシン、という言葉の漢字が思い浮かばなかった。彼女の声の調子があまりにも普通過ぎたからかもしれない。アクセントが何か変だったのかもしれない。このニンシンがあの妊娠であると結びつくまでに、音が意味の配送先を見つける時間が掛かった。

 俺はできる限り静かに息を吸い込んだ。何を言うのが最善か分からない。それを見つけるのに時間をかけてもいけない。だが最初の言葉が肝心なのは分かっていた。

「体は大丈夫?」

〈少し熱っぽくて、まだ生理が来ない〉

「今どこにいるんだ?」

〈近所の公園。めちゃくちゃ暑いけど、家の中にいたくなくて〉

 そうか、と俺は言った。「病院に行ったりとか、検査薬使ったりとかはした?」

〈まだ。だからまだ分からない。勘違いかもしれない。でも、基礎体温は習慣的にかなりちゃんと測ってきたし、生理が一週間以上遅れたことなんてこれまで一度もない。

 だから怖くて確認できない〉

 そうか、と俺は言った。「本当に妊娠したかどうか、確認した方がいいとは思う。でもそれより体調に気を付けて。たぶんそっちも外は物凄く暑いはずだ」

〈怖くないの?〉

「俺は怖くないよ。君の体が心配なだけだ」

〈本当に妊娠してたらどうする?〉

「俺の答えは決まってるよ」

 俺は会話の途中からソファを離れ、窓際まで近づいて電話していたが、俺の雰囲気の異常さが伝わるのか、フロアの全員が俺の方を見てくる。社長もマネージャーもアム・リアも、サングラスをかけたアッカも、ヘッドホンを外したパンもこちらを見ている。中でもジエンは、俺の声が聞こえているだけでなく会話の意味まで察しているかもしれない。俺の方を見ながら何か耳打ちするように目の前の来訪客3人に語り掛けている。

 俺はムードとか体裁とかそういうものをあまり重視しないタイプの人間ではある。しかしこの訳の分からない状況で、結婚しよう、と言うのだけはさすがに避けたかった。

 それに俺は、そもそも彼女が出産したがっているか分からなかった。これまでも彼女が将来についてどう考えているのか分からなかったが、この電話によって余計に分からなくなった。明らかに彼女が自分自身でもどうしたいのか分かっていないことが、声から伝わってくるのだ。

「俺の答えは決まってる。全部受け入れる。でもそれを君に押し付けたくない。だから、君がゆっくり考えて、検査を受けて、結果が出たらまた話し合わないか」

〈子供、欲しい?〉

 俺は目をきつく閉じて、思い切り眉間に皺を寄せた。

 どう答えるべきか瞬間的に高速で考えた。自分の気持ち自体ははっきりしている。俺は海香を愛していたし、子供が欲しかった。もうとっくに30を過ぎているのだからその準備はできている。しかし彼女に対してそれを言えば、彼女の意志を無視して答えが決定してしまう。そうなったときに彼女がどうなるのかが、俺にはまだ分からなかった。

「俺は子供が欲しい。でもそれが今かどうかは君と一緒に考えたい」

〈分かった〉と海香は小さな声で言い、しばらく間を置いた。〈考える。考えたらまた連絡するから、待ってて〉

 俺は頷いた。「ゆっくり考えて大丈夫だ。いつでも連絡してくれていいから」

 俺はそう言って電話を切り、大変失礼しました、と言ってソファの方に戻っていった。

 だが俺は眉をひそめた。

 ソファの四人が全員立ち上がっている。アッカも足を机から降ろして立ち上がり、パンもゆっくりと巨体を椅子から持ち上げた。

 そして社長が満面の笑顔で俺に向かって拍手し始めると、それに全員が続いた。アッティーガ、アッティーガ、と彼らは言い、俺がソファまで戻ると、社長はアッティーガと言いながら握手を求めてきた。続いてマネージャーと握手し、アム・リアも笑顔で白く細い手を差し出した。どうも、とか何とか言いながら俺はおそろしく小さく柔らかいその手を握り返した。

「才川さん、『おめでとう』という意味です」とジエンが微笑んで言い、俺に手を差し出した。

 なんとなく分かる、と俺はジエンと握手しながら細かく頷いて言った。「なんでみんながおめでとうと言うのかは分からない」

「とぼけなくていいですよ才川さん。お子さんが生まれるんですよね。聞こえました」

 俺はため息をついた。

 この国の人間は、とにかく全員耳がいい。

「まだ決まってない。本当に子供ができたかどうかも分からないし、産むことにするかどうかも分からない」

「いや、決まっていますよ才川さん。赤ちゃんは生まれます。きっとそうなります」

「そうかな」

「大丈夫ですよ。才川さんはどうしてもっと喜ばないんですか?」

「いや、まだ決まってないからだよ」

「きっと生まれます。みんなそう思っています。だから喜んで大丈夫ですよ」

 俺は曖昧に頷いた。よく分からない問答だった。

 社長が笑いながら話して、お子さんが生まれたら贈り物をお届けします、とジエンが翻訳したが、俺はもう聞いていなかった。適当に頷いてありがとうございますと言い、外から聞こえる音に耳を澄ました。人の声と、打楽器の音だ。海香と電話をしている時から既に聞こえてはいたが、どんどんボリュームが大きくなってきている。俺はフロアの端まで歩いて行って、窓の外を眺めた。

 俺は窓を開いて、ため息をついた。

 倉庫オフィスの前の道路と周囲の空き地が人混みでいっぱいになっている。さっきまではマスコミが張ったテントや車だけだったのが、キッチントラックや飲食スペースが見渡す限り広がり、子供から老人まで人々が練り歩き、オフィスを背景に写真を撮っている。がやがやと騒ぐ人々の合間を縫って、ガムランみたいな打楽器を肩から下げた集団が列をなし、右から左へ行進していく。恐ろしい数の人で、何千人いるのか分からない。まるでフジロックフェスティバルでも始まったかのようだ。だが海老のオフィス前の敷地だけはぽっかりと空いて、誰も足を踏み入れない。敷地と道路の境に、簡易の柵が敷かれ、肩にライフルを提げた警察官が十人ほど立ち並んでいて、人が入らないように警備しているのだ。

 何だこれ、と俺は呟いた。

 群衆から歓声が沸き起こる。オフィスのドアを開けて社長とマネージャーとアム・リアが外に出たからだった。俺が窓から首を出してその様子を眺めると、サングラスをかけたアム・リアは手を振りながら社長とマネージャーとともに、彼らが乗ってきたレクサスまで歩み寄っていく。慌てた様子で、警官の許可を得てカメラを抱えた記者たちが3人、アム・リアたちのところまでやって来る。マネージャーがアム・リアの頭上に日傘をさし、マイクとカメラに向かって彼らは何事か語りだす。

 ジエンが俺の隣にやってきて、俺は、何だこれ、ともう一度言った。

「見ての通りです」とジエンは言った。

「見ても分からない」

「お祭りですよ」とジエンは言った。「才川さん。これはもうお祭りなんです」

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