第3話 太陽の国の王 ②
俺は、まだ日が落ち切らない街をゆっくりと歩いた。いろいろと調査や問い合わせに関する仕事は進めたが、結局肝心のカラマックス50万袋の発注に関しては何も進展せず、できることがなくなって今日はほとんど定時で解散となったのだった。俺はオフィスの最寄りの駅から電車に乗ったが、途中の大きな駅で降車して、散歩しながら帰ることにした。
この街は幾つかのシンプルなエリアにくっきりと分かれている。住宅街エリア、ビジネス街エリア、ショッピングエリア、工場エリア、そして海老のオフィスがあるような、何もないエリア。どこの国でも似たようなものかもしれないが、同じ種類のエリアではどこに行っても風景にあまり違いがない。俺が歩いているのは今まで来たことのないショッピングエリアのはずだったが、数日前にどこかで見た光景と変わりない。汚れた壁と汚い窓ガラスのビルに、めちゃくちゃに絆創膏を貼り付けた子供の指先のように無制限に看板が掲げられ、どこまで行っても薄い埃が立ち込め、仕事や学校帰りの人々で道はあふれかえっている。大音量で音楽が掛かっていて、巨大な交差点の一角にある空き地で若者たちが踊っている。俺は通りかかったドリンクスタンドでオレンジアイスティーを買い、ぐびぐびと飲みながら、相変わらず怒涛のように通り過ぎていく車の群れを眺め、海香のことを考えた。彼女と最後に会ってからまだ1週間しか経っていなかったが、もっとずっと長い時間が過ぎているように感じられた。
俺は海香に電話することにした。彼女が出るかどうか分からなかったが、俺たちはそろそろひさしぶりに直接話してもいいだろうと思った。
俺はスマートフォンをポケットから取り出して、幹線道路から直角にしばらくまっすぐ歩いた。まだ音楽も車も人々もすぐ近くにあって、電話するにはあまりにもうるさ過ぎる。少しだけ静かなところへ行きたい。西日が突き刺さり、Tシャツが汗で湿っていくうちに、俺は小さな公園を見つけた。端の方に大きな樫の木が一本立っていて、タイヤ型のブランコとシーソーが置かれただけの小さな公園だった。人は誰もいない。俺はその公園の真ん中に立って、樫の木を見上げながら海香に電話した。
〈もしもし?〉
5回のコール音の後、その小さな声が聞こえた。
「もしもし、明です」
〈ああ、明。元気?〉
「元気だよ。そっちは大丈夫?」
〈大丈夫だけど、良くはない〉と海香は言った。
「薬は飲んだ? 無理して出社したりしてないよな」
〈まだ会社にいる。私以外は誰もいないけど〉
俺は腕時計を見た。午後6時半。日本時間では8時半のはずだ。
「もう帰った方がいいよ。体に障る」
〈うん。もう少しで帰る。明もまだ仕事?〉
「いや、俺の方はもう今日は終わった」
〈仕事は順調?〉
「ああ、上手く行ってる」と俺は言った。「メールにも書いたけど、こっちには物凄く日本語の上手い社員がいる。その子にほとんど助けられてる」
〈そのメール見てないな〉
「そうか。でも見なくて大丈夫だよ。いつも通り大したこと書いてないから。イーアはやたら暑い、とかそういうどうでもいいことばっかりだ。日本はどう?」
〈日本? 日本もめちゃくちゃ暑いよ。狂ったように暑い。熱中症でばたばた人が死んでる〉
「暑さもそうなんだけど、何て言うか全体的な様子はどう?」
〈よく分からないけど相変わらず狂ってると思うよ〉と海香は言った。〈イーアはどう?〉
「こっちもよく分からないけど、なんとなく気に入ったよ」
〈どんなところが?〉
「取り敢えず信号が気に入ったよ」
〈信号?〉
「うん、歩行者信号」と俺は言った。「日本と同じ、人のピクトグラムが描かれてて、赤が『止まれ』で青が『進め』で、青から赤に切り替わるときに点滅するのも同じなんだけど、イーアの信号はアニメーションなんだ。青になると棒人間がアニメで歩くんだけど、点滅状態になると、それがパタパタ走り出すんだよ」
〈それの何が面白いの?〉
「俺小学校の時、信号が点滅したら渡ってる途中でも引き返せ、って教えられたんだよ。その時から馬鹿馬鹿しいと思ってた。そんなことしてる奴、生まれてから一回も見たことがない。でもこっちは違う。アニメが走り出すのは、ぐずぐずすんな、急いで渡れ、って意味だ。そうやって、はっきりちゃんとしているのが気に入った」
〈そうなんだ〉と海香は言った。〈結構普通に生活してるんだね〉
「うん、大きな問題はない。言葉が分からないから小さな問題はたくさんあるけど」
〈ニュース見てると、もっと大変なのかと思った〉
「ニュース? どんなニュース?」
〈イーアが中国と領海を争ってるところで、中国の軍船がイーアの漁船にぶつかって沈没させたって〉
「それ、いつの話?」
〈昨日。結構こっちでも大きなニュースになってたよ。そっちは大丈夫?〉
「いや、特に問題ない。大丈夫だ」
俺は首を横に振った。そんな事件は初めて聞いた。こちらに来てから毎朝イーアのポータルサイトはチェックして、文字が読めないなりに写真と動画ニュースだけは見ていたが、そんな物騒な出来事は見かけなかった。
「そういうのは結構こっちでは日常茶飯事なのかもしれない。こっちではみんな落ち着いた感じだ」
〈そう、それなら良かった〉と海香は言った。〈ねえ明。私、仕事を辞めようかと思ってる〉
俺は海香の息が消えていく音を聞いて、頷いてから言った。
「いい考えだと思う」
〈いい考えかな? 悪い考えのような気がする〉
「悪いわけ無いよ。そうするのも一つのいい方法だと、ずっと思ってた。環境を変えて、もう少し負荷が少ない仕事をやるのはいいことだ」
〈辞めて、再就職先見つかるかな〉
「見つかるよ。心配することない。俺は三か月後には日本に戻る。そこから一緒に仕事を探したっていい」
〈三か月後っていつだっけ?〉
「十二月だ」
〈十二月か。冬だね。いやな季節だ〉と海香は言った。〈じゃあそろそろ切るね。帰るまでに、メールをあと十通返さないと〉
「分かった。また電話する。気を付けて」
大丈夫、と言って海香は電話を切った。消えそうな声で、その残響を聞いているとすぐにもう一度電話したい気分になった。
俺は顔を空に向けて、鼻で深呼吸した。まだ空は闇に包まれ切っていない。樫の木が風に揺れていて、バイクと車が行き交う音が遠くから聞こえる。俺は公園を出て歩き始めた。
まだホテルに真っすぐ帰る気分になれず、俺は道を歩いて最初に見つけた料理屋に入った。どんな料理かは全く分からないが、漂う油っぽい匂いから判断して、何かしら人が食べられるものを出してくれることだけは間違いない。開け放たれた扉をくぐって汚れたエプロンの店主に迎え入れられると、俺は二人掛けのテーブル席に座った。リノリウムの床はこびりついた油と埃でくすんだ色で、天井の蛍光灯の一つが点滅していた。全体的に料理店というよりまるでモグリの病院の受付みたいな雰囲気と色合いだった。俺は店主に出されたメニューを見たが、全てイーア語の文字だけで書かれていて、英語のフォローも写真も無いのでどんな料理なのか全く分からない。俺は10秒考え、横に書かれた料金だけを基準にして後はただの勘で、三種類の料理を指さし注文した。店主が復唱して俺に確認したので、俺は頷いた。そしてこう付け加えた。
「アイ・ウォントゥ・ドリンク・ビア」
1分後、ハイネケンの瓶とグラスが運ばれてきた。俺はグラスにハイネケンを注いで飲みながら、12年前に海香に会い、5年前に再会したことについて考えた。
12年前は、俺と海香は友人として出会った。俺たちが知り合ったのは映画撮影の現場だった。とある邦画のプロジェクトで何人かの丁稚を探しており、俺と海香はそこで同時にアルバイトとして雇われたのだった。あらゆるハラスメントが常習化した厳しい現場で、助監督たちは常に監督に殴られていたが、アルバイトの俺は単に忙しいだけで暴力に見舞われることはなかった。殴られた助監督Aに指示されて文房具屋に資材を買いに行ったり、蹴飛ばされた助監督Bに頼まれて櫓を組むのを手伝ったり、朝から晩までひたすら走り回っていただけだった。
バイトを始めて三日後に海香が俺に言った。
「今日から一緒に帰ってくれない?」
「いいよ。どうしたの?」
「カメラマンに、酒にしつこく誘われてて」
そして俺たちは一緒に帰った。何となく帰り道に映画館に行ってミッション・インポッシブル3を二人で見た。映画の内容は見終わって1日も経たないうちに忘れてしまったが、その日彼女が俺に言ったことは今でも覚えている。
「トム・クルーズがぶっ壊したあの車も、女優が着てたあの服も、あの音楽も、全部誰かがこの映画のために作ったんだね」
俺も全く同じことを思っていたところだったので、俺たちは友達になった。
俺達は20歳だった。そして二人とも映画や物語や音楽やゲームが好きで、話がよく合った。20歳の文化芸術を愛好する者たちは、孤立しているか、それぞれ意識しないうちに志向が偏っているために交じり合うことが少ない。俺と海香とは、珍しく傾向がだいたい合致していた。合わなかったのは、彼女がウディ・アレンが好きで俺は嫌いだったことと、俺がクリント・イーストウッドが好きで彼女が嫌いだったことくらいだ。
だが俺達は付き合いはしなかった。そもそも海香にはその当時恋人がいたので付き合うはずがなかったのだが、それ以前にお互いにそういう気持ちにはならなかった。理由を人に説明するのは難しいが、向かい合っていると感触で分かる。俺たちは恋人よりも友人が欲しかった。そして海香の恋人が大して映画好きではなかったので、たまに一緒に映画を見に行って感想を語り合う、そういう関係に留まった。
大学を卒業して働き始めるとその関係も終わった。海香は映像制作会社のプロダクションマネージャーとして働き始め、あっという間にとてつもない激務の海に飲み込まれていった。俺は俺で海老のマーケティング部に配属されて猛烈に忙しくなり、上と下と横の調整と突き上げと突き落としに、生きる時間の大半を費やすことになった。その結果自分の自由時間はほとんどなくなり、海香を含むほとんどの友人と連絡を取り合うことがなくなった。俺はマーケティング部からお客様相談室に異動し、さらに数年後にまたマーケティング部に戻った。激務に耐えきれずに人が何人も辞めて、俺にまたお鉢が回ってきたのだった。
海香に再会したのはその直後だった。俺はその時「が~りっと」ブランドの担当になっていて、その日は久しぶりのCM撮影だった。その撮影の立会いで朝から横浜のスタジオに入り、若い女性タレントに挨拶し、ワンカットずつゆっくり進んでいく撮影を眺めた。ほとんど広告代理店が事前に説明したとおりに進んでいくものだから、俺が確認しなくてはならないのは、タレントが綺麗にうまそうにお菓子を食べている画が撮れているか、くらいだ。だから大半の時間はただの暇な待ち時間で、俺はスタジオに飛ぶWiFiを使ってノートPCで会社の仕事を進めていた。海香に気づいたのは、ここで昼休憩に入ります、交代でケータリングのランチお願いします、という彼女の声が聞こえた時だった。
少し遠くから見る彼女は、大学生の時とあまり変わっていなかった。Tシャツにコットンパンツにスニーカー。CM制作会社のプロダクションマネージャーは、現場で動きやすいようにみんな大学生のような恰好をしているからだ。しかし顔は少し変わっていた。長かった髪はうなじがギリギリ見えるくらいに短くなり、化粧も大人らしくなっていた。
彼女はひっきりなしにスタジオを歩き回っていたが、俺はそれが落ち着いたタイミングを見計らって声を掛けた。
そうやって俺たちは再会した。正面から見る海香の顔が、化粧の問題ではなく学生時代から全く変わっているのはすぐに分かった。
あの顔は本当に心底疲れている人間の顔だった、と俺は思った。俺はため息をついた。あの顔を思い出すと今でも鼻からため息が出る。それはまるでその時の俺の顔にそっくりだったからだ。俺はビールの続きを飲もうとして、グラスが空になっているのに気が付いた。
ハイネケンを注ぎ足してグラスを傾けると、陽に焼けた店主の腕が目の前に現れて、山盛りの料理が盛り付けられた皿がテーブルに置かれた。三つの皿は、それぞれ物凄い色をしている。一つは大量の牡蠣の山盛り、もう一つは何らかの虫の卵と山菜の和え物の山盛り、そして最後の一つは、何なのかよく分からない何かの山盛り。
俺はビールを飲みながら眉間に皺を寄せ、その最後の一つの正体が何なのか考えた。だが全く見当がつかない。その濃い赤紫色の直方体が積み重なった様は、染色された豆腐のように見えるが、箸で突いてみると豆腐よりはるかに硬く弾力がある。匂いをかいでみても、甘いとか香ばしいとかいった焦点が特に見つからない。あえて言うなら血の匂いがするので、何らかの哺乳類の臓器や肉に関わる何かなのだろうと思ったが、それ以上推理が進まない。俺は箸でつまみ上げるとぷるぷると震えるそれを、止むを得ず口に運んだ。かすかに生臭い。しかしそれ以外は何の味もしない。こんにゃくのような感じだが、原料は芋とは全く違う何かだ。
俺はその謎のこんにゃくと、ソースに浸された牡蠣と、虫の卵サラダを順々に箸でつまみ、スプーンで掬って食べた。牡蠣は想像通り旨く、虫の卵も見た目に反して活き活きとして旨い。こんにゃくだけがどれだけ食べてもよく分からない。
俺と海香が再会して最初に食べたのは、タカノフルーツパーラーのパフェだった。CM撮影を終えたあとの最初の週末に、待ち合わせした新宿でそれを食べた。俺達はお互いに、強烈に甘いものが食べたかったのだ。海香がメロンパフェを注文し、俺は普通のパフェを頼んだ。
俺達は互いに今の仕事の状況や、これまでのことについて話した。映画や本や音楽やゲームの話もしたが、お互いに労働時間が長すぎて、あまり新しい作品に触れる余裕がなく、昔観たものの話が中心だった。
ハリウッド映画は凄い、と海香は言った。「何も考えなくても見れるのは凄い。今はハリウッドの大作映画しか見れない」
俺は頷いた。俺も同じだったし、そうでない休息時間はひたすら家でサッカーゲームをやっているだけだったからだ。俺たちはお互いに、何も考えない時間を必要としていたわけだった。
そして話していくとお互いに、どうしても人生に、そうではない時間を求めていることも分かった。俺たちは何かを考えたかったし、何かをしたかった。俺達はリハビリする必要があるということで、見解が一致した。
それから俺たちは毎週末会って、映画を観たり、美術館を巡ったり、海を見たり、山に登ったり、喫茶店で静かに本を読んだりした。半強制的に会うことで、お互いにただ寝ているだけの週末を別のものに無理矢理切り替えるという戦略だった。海香は俺よりも更に厳しい長時間労働環境下にあり、土日であっても働いていることがままあったが、そういう場合は俺が時間を合わせて平日の夜に会ったりした。
俺達は会っている間、あまり会話はしなかった。映画館で上映中におしゃべりする人間はいないが、俺たちの場合は映画が終わった後もずっとそれが続いているような感じだった。劇場の中であれ外であれ、二人でいる間は目の前にあるものは全て物語であり、それをじっと見るだけの時間だった。それは学生の頃によく似ていた。あの頃も俺たちはそれほど話し合わなかった。お互いが、自分が目の前にあるものを見ていることに対する証人のような感じだった。
だが、俺の感情は学生の頃とは違った。俺は既に海香のことを単なる友達だとは思っていなかった。彼女がダメージを受けていることは分かっていて、そのために俺ができることがあれば何かしたいと思っていた。俺は大人になり、誰かを助けることも、誰かを愛することもできるはずで、そしてそうするべき時は今なのだと強く感じていた。
俺達はやがて毎日連絡を取り合い、週末に抱き合うようになった。だがどれだけ抱きしめても、海香の顔には何かのヴェールが掛かり続けていた。俺はそのヴェールが消えるのを長い時間待ち続けた。俺が彼女の顔にへばりついたそれを無理矢理剥がそうとしたら、顔が壊れてしまうだろうと思った。俺は覚悟を決めていて、それがたとえどれだけ長い時間でも待ち続けるつもりだった。
そうやって5年が経った。
俺はため息をついた。
目の前には赤黒い謎のこんにゃくがまだ小さな山のまま残っている。俺はこれをどうやっても最後まで食べきることができない。虫の卵も牡蠣も全部食べた。しかしこれはもう無理だった。腹の中が血の臭いでいっぱいになって今にも鼻血が出そうだった。
目が覚めて、身支度をして、電車に乗って、出社するまで、俺は何度もスマートフォンのメッセージとメールボックスを確認したが、何の知らせもなかった。
今日がタイムリミットだろうと俺は思った。今日、50万袋のカラマックスを手配する段取りが付かなければ、来週の王様への献上はまず間に合わない。正確には、おそらく今から作ったところで間に合わないので、他の流通へ回す予定だった分をイーア用にあてがう判断をするリミットが今日だ。イーアを優先し、他は追加製造で納期を遅らせて対応する。
果たして海老の部長陣、経営陣はそういう判断をするだろうか。俺には読めなかった。個々の流通に対して欠品連絡を入れて交渉をするのは恐ろしく面倒な作業だ。既に週末のチラシなどに掲載されることが決まっていたりすれば、欠品は完全な事故である。そうした事故は今後の海老商品の配架に影響する可能性があり、然るべき誰かが責任を取らされることも考えられる。だがもちろん、海の向こう側にいる俺にはどうすることもできない。俺にとって今の客はイーア王で、責任を負うのもこの仕事だけだ。日本の小売りを取るか、イーア王を取るか判断するのは俺ではなく経営陣の役目だった。
倉庫オフィスの入り口ドアを開けると、相変わらずルンバが広大なフロアの掃除を続けている。ルンバは昨日の夜から充電を挟んでずっと動きっぱなしだろう。全てを掃除しきる前に、次の埃が積もっていき、それは永遠に終わることがない。
デスクにはジエンの姿だけがあって、ほかの二人はいない。
俺と目が合うよりも早く、ジエンが立ち上がった。
才川さん、とジエンは俺を呼んだ。彼女は俺の方に駆け寄ってくる。
その声の響きと言い、走り方と言い、嫌な予感しかしない。
「パンから私と才川さんあてにメールが来ました」とジエンは俺と並んで歩きながら言った。「見ましたか?」
「いや、まだ見てない」
「すみませんが、すぐ見て頂けますか」
俺はジエンに促されて、小走りに自分の席に座り、スリープ状態にしていたノートPCを立ち上げた。メーラーを立ち上げて開く。
先頭に、パンからのメールがあった。そこには短い日本語と英語で次のように書かれていた。
親愛なる 才川様 ジエン様
こんにちは。
私は個人的な都合でKAIROUを辞めます。今月まで給料を払ってください。
あなたと一緒に仕事をして光栄です。
パン
俺は、鼻でため息をついた。
「これは、退職届?」
「そうです」
「理由も何も書いてないな。見当はつくけど」
「そうです。王様の仕事にビビったんです。あのデブ、逃げました」
「それと、給料を払えと言ってるけど、辞める時期が書いてない。海老の労働法がどうなってるか分からないけど、退職届を出したその日に退職するなんて可能なのか?」
「いえ、無理です。退職を申請して28日後にしか退職できません。でも、パンはそれまで有給休暇と病気欠勤で乗り切るつもりでしょう」
判断の早い男だ、と俺は思った。50万食のカラマックスの手配が昨日中に進まなかったことで、王様の希望する納期に間に合わせるのはもう不可能だと計算したに違いない。
ジエンは首を横に振った。
「あのデブは分かってません。今さら逃げたところで、より追い込まれる。王様のお仕事の責任から逃れたつもりなんでしょうが、王室にはもう私たち4人とも目を付けられています。私たちがこの仕事に失敗したら、その制裁は逃げたパンにも降りかかる。あるいは残った私たち以上に。イーア人は卑怯者が大嫌いですから。あいつには次の就職先は無いでしょう」
なるほど、と俺は言った。「その危険よりも目の前の危機の方が恐ろしかったんだろう。それとも彼には何か再就職の当てがあるのかもしれない」
「どっちにしても、来月ならともかく今辞めることを許すことはできません。パンがいないと調査も進められないし、50万カラマックスの国内輸送の手配も手伝ってもらう必要があります。それにあの男、PCを勝手に持って行ってます。あれは海老の持ち物です。返却させないといけません」
俺はパンのデスクを見た。3台あったモニターもPC本体も、机の傍らに積み上げられていたスナック菓子もなくなっている。残っているのはお菓子の袋の抜け殻の山だけだった。
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