第3話 太陽の国の王

第3話 太陽の国の王 ①


 今日の昼食はデリバリーのハンバーガーだった。倉庫オフィスの周辺には、駅前のコンビニ以外にまともな食料を売っている店が無いので、好むと好まざるとに関わらずランチはデリバリーを頼むしかないのだが、イーアではその選択肢が豊穣だった。月曜日はピザ、火曜日は弁当、水曜日は冷麺、木曜日はカレー、金曜日はハンバーガー。食料班長のパンが俺に示したリストによれば、俺たちは最低でも一か月間は被りが無くクオリティの高いデリバリーランチを楽しめるということだった。今日のハンバーガーも実に旨い。肉厚でよく火の通ったハンバーグは表面が軽く焦げていて、濃厚なソースと、今朝畑で取れたかのような活き活きしたレタスと絡んで申し分なかった。

 だが今日、俺と同様にハンバーガーを齧る他の三人の表情は冴えなかった。ジエンもパンもアッカも、あからさまに陰鬱と言うか、生命力のオーラが減衰しているように見えた。当然、俺の表情も彼らに近いものではあったろう。あの、極めて面倒で、解決できるかどうかがまだ分からず、それでいて重大で緊急な仕事だけが持つ特有のプレッシャーは、勿論俺にも重くのしかかっていた。実際これは、展開によっては俺のこれまでの仕事の中でも特大の面倒臭い軌跡を描く可能性がある。だが、いま彼らの肩を押さえつけている空気の重さは俺の比ではないように見えた。もともと精神的に動揺しやすいように見えるパンと、基本的には冷静沈着であってもまだ若いジエンはともかく、あのアッカまで心底憂鬱そうに見えるのは何故なのだろう。

 正直なところ、垂直に落ち込みそうだった俺のテンションは、彼ら3人のあまりに暗い顔を見たところで落下を止めたのだった。たとえ事態が何も解決していなくとも、自分より辛そうにしている他人を見ると、人間にはその差分の元気が湧いてくるものだ。

 俺は午後の仕事の支度をすることにした。王様への納品とは別の仕事だ。ポテトスティックを齧りながら、パンからメールで送られてきたスクリーニング条件案を確認した。カラマックスのマーケット調査の一環で行うグループインタビューについて、どんな属性の人に参加してもらうか、の条件を書いた案だ。


 女性 35歳~50歳

 世帯年収 3万ギン~5万ギン

 月3回以上菓子類をスーパーにて購入する人

 カラマックスの喫食経験あり


 たぶん、彼が示すこのとおりの条件で、正しいのだろう。イーア人の老若男女がカラマックスを食べる以上、本来であれば全性年代に調査をする必要があるが、定性調査にそこまでかける時間と費用の余裕がない。女性の労働人口の割合はイーアも日本もそれほど変わりがなく、イーアでも現状は、食卓の財布を握っているのは主婦になるようだから、すくなくとも初回の調査は彼女たちに対して行うのが良いはずだった。

 だが、そもそもこうした調査は、もはやほとんど意味がないのかもしれない。

 現実の方が先に進み過ぎている。既にカラマックスはイーア中で争奪戦になっており、王様がテレビ会見でそれを諫め、さらに王様自身が50万袋を買うと言っている現状を普通に斟酌すると、結論は既に出ていて今更調査も何もない。明日にでも本格的な直接輸出と工場ラインの立ち上げを開始すべきだった。おそらく、調査をやってみたところで結果は燃え盛る山火事を見るよりも明らかで、導かれる結論は「ほとんどのイーア人はカラマックスが好き」か、「ほとんどのイーア人は物凄くカラマックスが好き」のどちらかにしかならないだろう。

 だがそれでも俺は、この与えられた仕事をスケジュール通り進めることに問題はないと思った。「今すぐ投資すべき」か「今すぐ全力で投資すべき」かには大きな違いがあり、その判断基準になるものには意味がある。それに、後から事業やブランドの成長を振り返る必要が出たときのために、そもそもの最初はどうだったのか、という情報を残しておくことは重要だ。

 俺はジエンとそういう話をしようと思った。彼女は既に食事を終えていたが、足を伸ばして腹に手を当てて休憩しているところだった。ランチタイムは日本人だろうとイーア人だろうと重要な時間で、できることなら休憩を含めてきちんと1時間取った方がいい。スピーカーから流れる音楽のボリュームも既に元に戻っていた。ボン・イヴェールはずいぶん前に終わり、今は恐ろしく懐かしいストロークスのファーストアルバムが掛かっている。俺は「ベアリー・リーガル」が終わるのを待とうと思ったが、その前にジエンが話しかけてきた。

「才川さん、日本から続報はありましたか」

「いや、まだ特に無いよ。とりあえず待つしかない」

 そうですか、とジエンは言って、腹に手を当てたまま俯いた。

 結局彼女が今考えられることは一つしかないのだ。一週間以内に50万袋のカラマックスが無事に王宮に辿り着くかどうか。

「ジエン、とりあえず待てば大丈夫だ。既に本社に50万袋の発注連絡は入れた。海老の生産部隊と営業部隊のトップが話し合っていて、どうやれば間に合うか協議してる。こちら側がどう動くべきかは日本から指示が来る。俺たちに今すぐにできることは特にない」

「間に合うんでしょうか?」

「正直難しいところだ。50万袋を生産すること自体は可能かもしれないが、作った分は全部イーアに回さなくちゃならないだろう。そうなると日本国内のカラマックスはしばらく欠品する。あるいはイーア以外の輸出先で欠品する。どっちにしてもそれは営業部にとって恐ろしく頭の痛い話だ。それと勿論一番大きな問題は輸送だ。日本とイーアには直接の輸送路がまだほとんどなくて、大半が中国経由のはずだ。空輸で運べる物量でもないから、今から船を手配しなくちゃならないが、それが都合のいい日取りで走ってくれるかどうかは難しい。こっちの港に辿り着いてからも、50万袋を王宮まで運ぶトラックを用意しなくちゃならない。それは俺たちの仕事だけど」

「間に合わなかったら、困りますね」

「そうだね、俺たちはとても困る。だけど責任は俺達じゃなく、海老日本本社にある。ジエンが今、そう深く抱え込む必要はない」

 俺がそう言うと、ジエンは首を横に振った。

「映像が頭から離れないんです」

「どんな映像?」

「玉座です。玉座に座ったイーア王の前に、私たちが跪いている映像です。王室の担当者は、私たちに直接カラマックスをお持ちするように言いました。ですからそれは妄想ではなく私たちの一週間後の現実です」

「そうか。だとしたら、俺たちは何を着て行ったらいいんだろうな? 日本から持ってきたスーツで良いのだろうか」

「才川さんには分からないと思います。王様にお会いすることはこの国で最も栄誉あることです。でもそれは、物事が上手くいった場合だけです。上手くいかなかった場合に王様に会うことを考えると、恐ろしくて仕方ありません。パンもアッカもそうだと思います。パンはデブで見苦しいという理由だけで牢屋に入れられるかもしれません」

 ため息をつくジエンを見て、俺は「上手くいかなかった場合」のことを考えた。つまり、俺たちが期日までのカラマックスの納品に失敗した場合ということだが、納品できないわけだから王様に会いに行くこともないのではないのだろうか。のこのこ王宮まで出て行って、「すいません間に合いませんでした」と王様に直接謝りに行く必要があるとは思えない。たぶん海老にはこの国での有形無形の重いペナルティが課せられるのだろうが、それはさっきジエンが受け取ったように担当者からの電話か、通信か、あるいは村八分的な無言の断絶か、いずれにしても冷たい通達によって伝えられるのではないか。

 だが、俺はそうジエンに冷静に問い質してみる気にならなかった。彼女の顔の暗さは本物で、パンもアッカも同じ顔をしている理由が分かったからだ。この国では王様に関する問題はあらゆる意味で決してジョークにはならない、と。

「たぶん、日本本社はあらゆる手段を使ってカラマックスを用意すると思う。海老は良かれ悪しかれそういう会社だ。いつも内側を向いている反動で、外からの刺激には過剰と言っていいほど丁重に対応する。納期だけが問題だけど、それは今俺たちが考えても仕方ない。こういう時はコミュニケーションを切らさないようにしよう。今後は王室の担当者に、こちらの動きや予定を定期的に共有する。こちらの事情が分かれば、相手としても動きやすいだろうし、注文もできるだろうし、良くないことが起こった時も納得してもらえる可能性が上がると思わないか?」

 俺がそう言うと、ジエンは頷いた。

 そして俺たちは、ノートPCのディスプレイに表示されたスクリーニング条件表を二人で覗き込んで内容を確認しあった。仕事は続く。いついかなる時も続く。必ず複数が同時に進む。一つの仕事、それもとてつもなくドでかい仕事が現れたところで、代わりに他の仕事が消えたりすることはない。俺たちは常にそれを並行して乗りこなしていく必要がある。




 俺のポケットの中で電話が着信した。スマートフォンのバイブレータの振動の仕方は誰からかかってきても全く同じ設定のはずだが、サラリーマンを10年も続けていると、その電話が誰からかかってきたのか、何故か画面を見る前に大体分かるようになる。

 清田課長だ。

 もしもし、と言って俺は電話に出た。

〈お前、なんかトラブルの花とか家で育ててんじゃないのか? トラブルのサボテンとか、トラブルのカイワレ大根とか、よく分かんねえけど、身の回りに置いておくだけで、トラブルを引き起こす素になるようなやつをよ〉

「すいません、何の話ですか?」

〈話は二つある。一つはそっちの王様の話だ。50万食のカラマックスの製造の目途がまだ立たない。資材が足りんからだ。納期を引っ張る交渉をしとけ〉

「どれくらいかかりそうですか?」

〈まだ分からん。製造の目途も立ってなければ、その後の輸送の手はずが付くかどうかも分かってない。二週間後かもしれんし一か月後かもしれん〉

「それだと交渉はできないです。相手は小売じゃなくて王様ですから、納期不明で交渉するのは無理です。課長が百人の奥さんに、『今日は帰れるかどうかわからんけど飯を作って待っておけ』と言うようなものだと思ってください。それに今回は、私からイーア語で直接交渉することができなくて、現地のジエンかアッカが話すことになりますから猶のこと無理です。彼らにとってのイーア王の存在感は課長が想像しているよりもずっと重いものです。目途が見えたらご連絡ください」

〈分かった。お前日本にいなくて良かったな。お前のおかげで会社は今めちゃくちゃになってるから、たぶん社内をまともに歩けねえぞ〉

「それで、お話の二つ目は何ですか?」

〈怪文書が来た〉

 俺はまばたきをした。

「カイブンショ? なんですか?」

〈お前宛ての手紙だよ。正確には会社宛てで、中の文面でお前のことが書かれていた。今朝こっちのお客様相談室宛てに届いた。部長が中身を改めたところで、俺に回してきたんだ。中身は部長と俺しか知らない。とりあえずそれは安心しろ〉

「安心しろと言われてもよく分からないです。その中身は何なんですか?」

〈差出人名の書かれてないその手紙によると『才川明は人ではない』だそうだ〉と清田は言った。〈お前がしてきたことをすべて知っている、と手紙には書かれている。お前が過去にやってきた、人の道を外れた行いについて全て知っているから、海老はすぐにお前をクビにすることを勧める、だそうだ。お前、何か性犯罪でもやったのか?〉

 俺はいいえ、と言った。

「クビになるような犯罪には心当たりがないです」

〈まあそうだろうな。本当にお前の犯罪を訴えたいなら海老じゃなく警察に行けばいい。手紙では、すべてを知ってると言いながら、具体的なその内容については一切触れられてない。いたずらで客相に送られてくる奴の典型的なパターンではある。ただ、この手紙、日本語が変なんだよ。異様にカタコトで、意味は通っているけど全くこなれていない。単にちょっと頭がヤバい奴が書いた手紙かもしれんし、翻訳ツールを使った文章にも見える。後者だとしたら、イーアから送られてきたとも考えられる。消印は東京だけどな。どっちにしても良くあるやり口だから、それ以上はお前に心当たりがなければノーヒントだ。どうだ? 犯罪には心当たり無くても、脅されることに見当はつかないか?〉

 俺は数秒間考えて、分かりません、と言った。

「分かりません。日本でもそうだし、イーアでも同じです。見当つきません。お手数ですが、その手紙をスキャンしたものをメールで送ってもらえませんか?」

〈分かった。こっちとしては、差出人が誰かも分からないし、今のところは何の被害もないからとりあえず放っておく。もしまた続報があったら伝えるし、対処する〉

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

〈才川、お前気を付けた方がいいぞ〉

「はい、そうします。何に気を付ければいいか分かりませんが」

〈違う。それだ。その、分かってねえのがヤバい。俺の勘だけど、これたぶん女が絡んでるぞ。女には気を付けろ〉

「どうしてそう思うんですか」

〈シャーロック・ホームズが言ってただろ。すべての論理が通らない場合、原因は女だと。とにかく女関係は一回全部洗ってみろ。俺からのアドバイスだ〉

 俺は、分かりました、と言って電話を切った。

 そしてため息をついた。

 俺は自分がこれまでやってきた、「人の道を外れた行い」を思い出した。差出人は、俺が燃えるゴミの日に空き缶を入れて出したとか、アマゾンで買った荷物の不在連絡票が何通も来ているのに無視し続けたとか、そういうことをすべて把握しているということだろうか。そうだとしたらそれはただのストーカーだが、俺のような秀でたところが何もないサラリーマンへのストーカーなどいるものだろうか。

 女、と言われても、俺の人生にいま関わっている女と言えば、海香とジエンの二人しかいない。そして俺はその二人から脅迫状を送られる心当たりが全くない。

 俺は1分ほど考え、この件を忘れることにした。考えても分からないし、手紙は遥か海の向こう日本に届いたもので、海老は現時点で俺をクビにするつもりがない。特に対処のしようがない。

 俺は周囲を見回して、気が付いた。

 ジエンがいない。

 アッカはいつもの調子でノートPCをいじっているが、パンは少し背筋を伸ばして顔を左右にきょろきょろしている。きょろきょろしているだけで何もしていない。

 オフィスの入り口扉が開け放たれていて、すぐ外に人だかりができているようだった。俺は立ち上がり、パンの隣に立って「何かありましたか?」と英語で訊いた。

「分かりません、分かりません」と言って、パンは再び肉に埋もれた首を左右に振った。

 俺は扉の外に向かって歩いて行った。ジエンの背中が見える。彼女は人に取り囲まれていて、イーア語で話し続けている。

 一瞬彼女が俺の方に振り向いて、あっ、と言った。

「才川さん、今来ないでください」

 彼女がそう言った瞬間、彼女を取り囲む人々の背後にカメラが構えられているのが見えた。カメラは一瞬のうちに俺の方を向き、ジエンに話しかけていた連中は彼女を押しのけ、ドアをくぐって俺に殺到した。

 また記者だ。彼らはマイクやレコーダーを俺に付きつけ、イーア語で一気に話しかけてきた。彼らの顔面の大汗や口から放たれる唾が俺に吹きかかりそうだった。もちろん相変わらず何を言っているのか全く分からない。俺が直立不動で目を細めていると、記者達を突き飛ばしてジエンが俺の隣に立った。

「何があった?」と俺はジエンに訊いた。

「取材です。カラマックスがイーアで製造開始するという噂だが本当か、と言ってます」

 俺はため息をついた。

 王様が海老にカラマックスを発注したという情報が直ちに漏れ、更に一瞬のうちにねじれまくってそういう噂になったのだろう。この国にはきっと、コンプライアンスとかガバナンスとか機密保持契約とか、そういうものは存在しないのに違いない。

「ジエン、いったん皆さん帰ってもらうように言ってくれ。海老の業務内容に関してはイーア支店では日本本社との規定上コメントできない。それに極少人数で業務にあたっているから、全ての取材に対応することはできない。取材を希望の場合は専用のフォームから連絡するようにお願いして」

 分かりました、とジエンは言って、記者たちに向かって説明を始めた。だが直ちに記者たちの間から不満の反駁が立ち上がった。引き続きマイクとレコーダーは俺とジエンに向かって突き付けられ、カメラは俺たちの顔面を真正面からとらえていた。

 俺は顔に近づきすぎたマイクを手で押しのけ、こいつらには論理は通用しないようだと思った。それ以外の手段を取る必要がある。

 そう思った時、俺とジエンの背後に既にアッカが立っていた。

 アッカは俺達と記者たちの間に強引に割って入った。アッカは突き付けられたマイクを叩き落として記者たちをにらみつけた。

「バジバ!」

 記者たち全員の体が一瞬びくりと震えて停止した。後ろに立っている俺達も震えるような声だった。声にも彼の背中にも本気の殺気が充満していた。アッカはマイクとレコーダーをすべて叩き落し、向けられたカメラを手のひらで突き飛ばした。記者たちはマイクを拾いながら身をひるがえして次々にドアから出て行く。動きの遅い記者たちはアッカに尻を蹴り飛ばされて駆け出し、10秒もしないうちに全員いなくなった。

「サンキュー」と俺はアッカに言った。

「次から自分で言え。バジバ、あるいは、ギルザイ」とアッカは言った。

「二つの意味の違いは?」

「意味なんかどうでもいい。どっちでも、大声で言えば全員いなくなる」

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