第2話 太陽の国の仕事 ⑥


 馬鹿げたアイデアだとは思った。とは言え、それをやるにあたって費用はゼロだし他に大した方法も思いつかない。

 俺はこの行為について海老の本社に了解を得なければならなかった。一社員が社名を背負ってインターネットメディアで情報発信する行為は、日本の上場企業ではほとんど認められていない。フェイスブックやツイッターでの書き込みも許されていない。企業の対外的なメッセージ発信を社員が直接動画配信サイトで行うこと自体ほとんど前例がない。だから俺は、この承認作業は、俺がCSR広報部に想定原稿を送ってそれが役員会に決裁されるまでの10くらいある壁の2つ目くらいで頓挫する、と思った。俺が何を喋るにしても、その影響とリスクは計り知れないもの、と判断されるだろう。

 だから俺は翌日夕方に清田課長から、承認が降りた、と連絡が来た時、マジですか、と応えた。

 YouTubeでの発信を行うにあたって、海老本社からの条件は3つあった。

 ・全編イーア語で発信すること。

 ・公開範囲をイーア国内に限定すること。

 ・発信する情報は、状況を伝え、広く情報提供を募ることに限定し、イーア国民感情を毀損するものでないこと。

 これらは、もともと俺が海老に上申した際に付けた実施条件そのままだった。

 ジエンとアッカによれば、イーアでは企業の広報宣伝担当者がYouTubeで情報発信を行う行為は広く一般的に行われている行為で、特別な行動ではない。それは要するに、顔と声が付いていること以外、ニュースリリースを自社サイトに掲載することと変わりない。イーア国民は基本的にはテキストを読まず、口承を好む傾向がある。政府も警察も王室も預言者も、リリースは口伝が基本で、テキストはあっても後からついてくる。なのでイーアではこれに関する違和感やリスクは無い。

 カラマックスの窃盗事件が頻発しているのは事実で、それに対して会社として何らの見解も発表しないことは逆にイーアでの海老のイメージを毀損する。

 日本本社は、アッカ達のそのような意見を受け入れたわけだったが、俺にとっては驚くべきことだった。一方で、あくまで自分の意志より傾向に迎合する海老らしい判断だとも思ったし、結局のところ、この小国で起こることなど彼らにとって遠く些末な事象なのだ、と俺は思った。俺は、喋るのは本当に俺でいいのか、とジエンとアッカに確認した。

「俺はイーア語の表音文字が何種類あるのかも知らない。そんな奴が本当にイーア語で喋るのか?」

 大丈夫です、とジエンは言った。「発音はすべて、私が唱えたものを復唱してください。それを動画で編集して、全部イーア語の字幕を付けます」

 倉庫オフィスの中央にソファが据えられ、パンがスマートフォンのカメラに広角レンズと集音マイクを付けて構え、ジエンがスケッチブックのカンニングペーパーを抱え、アッカが煙草を吸って煙を吐き出し、白いシャツを着た俺はソファに腰掛けた。

 俺は語り始めた。自分が書いた原稿はジエンとアッカが大幅に添削してイーア語に翻訳された。彼女が読み上げるそれを復唱するのだった。

「皆さん初めまして。私は株式会社海老イーア支店の才川明です。みなさんよく聞いてください。私はこれから本当のことを話します」

 俺はゆっくりとイーア語で話した。我ながらどう聞いてもめちゃくちゃな発音だったが、ジエンもアッカも、それでいい、と言った。

 子供に言い聞かせるように話せ、とアッカは言った。「お前は俺達の上にも下にもいない。しかし言葉が上から降って来るのだ。そういう感じで話せ」

 俺は頷いて、ジエンがスケッチブックにカタカナで書いたイーア語を見ながら、彼女の言葉の復唱を続けた。

「私達はカラマックスを盗まれました。私達はカラマックスを盗まれて困っています。私たちも困っていますが、私たちの取引先も困っています。取引先は、カラマックスは盗まれてばかりいるからもう仕入れたくないと言っています。私も同じ気持ちです。私達の会社の本社は日本にあります。日本は平和を愛する国です。日本は平和をとてつもなく愛しています。日本では平和がすべてに優先します。でもお金を払われずに商品が盗まれることは、平和ではありません。平和でない国でカラマックスを売るのは難しいことです。

 だからカラマックスを盗まないでください。もし盗んだ人がこれを見たなら、カラマックスを返してください。あなたが盗んでいないなら、盗んだ人間に返すように言ってください。私は先日リーチに会いました。リーチは私を気遣ってくれました。リーチは、待っていれば解決すると言いました。いつか、カラマックスを盗んだ人がカラマックスを返してくれるという意味だと思います。私はそれまで待ちます。でもそれほど時間はありません。残された時間はあと5日間です。あと5日のうちにカラマックスが戻らなかったら、この国でカラマックスが売られることはなくなります。

 覚えておいてください。カラマックスは永遠にこの国で食べられなくなります。ほんのわずかな人々が、お金を払わずに盗んだせいで。私たちはそのように発表するでしょう。イーアの人々がカラマックスのことが本当に大好きなことはよく分かっています。残念ですが仕方ありません。イーアではとても大きなニュースになると思います。そしてみんなこう思うでしょう、『犯人は誰だ』と。それがあなたではないことを願っています」

 この短いメッセージを撮り終えるのに、リテイクを繰り返して1時間くらいかかった。俺の発音がさすがに悪すぎたのと、表情や姿勢が良くないというアッカ監督のリテイク要請を何度も受けたせいだ。

 堂々としろ、とアッカは言った。「まるで神様か王様のように。そうでなければ信用されない」

 俺は一応頷いたが、実際には俺は神でも王でもなく、役すら付いていないサラリーマンに過ぎないのでかなり難しかった。

 それに何より文章の内容が気になった。かなり気になる。俺が最初に書いた文章と全く違う。俺は単に、カラマックスが各店舗から盗まれているので海老として対策を施したく、そのために広く情報提供を募ります、という文章を書いたのだが、ジエンとアッカの強烈なダメ出しに遭ってほとんど全く違うメッセージになった。才川の文案だと弱すぎて何も伝わらない、という彼らの見解のもと、俺からすればまるで脅迫状のようなアナウンスが出来上がった。

「全く問題ない。馬鹿どもにははっきり言わないと伝わらないし、これでも弱すぎるくらいだ」とアッカは言った。

 そしてパンが編集を行い、動画はYouTubeにその日のうちにアップロードされた。ジエンとパンは手分けをしてリリース文と動画URLをイーアの各種通信社やニュースサイトに送り付けた。

 俺は清田課長に完成した動画のデータを送って報告した。喋っている言葉も字幕も全部イーア語なので、彼らには俺が何を言っているのか分からない。イーア国内でしか見れない設定にしたので、YouTube上の状況も日本からは見れない。俺は顔を撫でてため息をついて、YouTubeの画面を閉じた。閉じる直前、まだアップしてから1時間も経っていないのに再生回数が5万回に達しているのが見えた。




 日曜日、俺は何のロゴも付いていない野球帽を被り、サングラスを着け、日焼け止めを薄く全身に塗り、映画「ジョーズ」のTシャツとナイキのポリエステルのハーフパンツを着て、スタジアムの外野席でペットボトルのお茶を飲んだ。外野席と言っても椅子は無く、ところどころ剥げた芝生の丘がレフトスタンドからライトスタンドまで広がっている。初めは芝生の上で寝転がって半裸で日光浴している近所の住民が多かったが、俺とジエンが観戦するうちにどんどん普通の観客で埋まってきた。両チームの応援団も相当数入っていて、左右の内野席に集中している。彼らが何を言っているかはもちろん分からないが、攻撃側が応援するというルールは日本と変わらない。監督のオガ・ドウだけがベンチの前に出てしきりに手を叩いているが、あれが目に入るとピッチャーは気が散るだろう。サングラスを外して空を見上げると相変わらず冗談みたいに晴れていて、世界全体がブルーに覆われ、グラウンドの土の茶色さえブルーに見える。

 おそろしく暑い。だがここの方が風が吹いていて、ましだ。俺たちは最初、オガ・ドウにベンチに座っているように言われたが、風も通らないし、汗だくの男たちが忙しく行き交いする臭気で空気が重い空間で、じわじわ全身に汗をかきながら野球を観戦するのは軽い地獄だった。俺以上にジエンがそれを嫌がった。ジエンはむさ苦しい空間も嫌だったし、それ以上に男たちに話しかけられたくもなかったのだった。18歳で会社勤めをしている女自体はそれほど珍しくなくとも、それが日本企業ということになればイーアでも相当稀少だ。オガ・ドウのチームは全員が小売業者で構成されていて、日本語が話せるジエンには誰もが興味を持つようだった。しかも彼女は高校時代から相当強い野球チームに所属して有名だったらしい。オガ・ドウとその一派にとってあらゆる話題に事欠かなかったわけだが、そういう馴れ馴れしい連中がジエンは苦手らしかった。

 異国にやってきて初めての休日を、アマチュア野球を見ながら過ごすというのも妙なものだった。俺は中学時代を思い出した。日本の郊外の市には大体こういうそれなりに立派な野球場が一つあって、週末になると大会が催されて子供たちが白球を追いかける。ナイター設備も内外野のスタンドもあって、バックスクリーンには手動のスコア掲示板がある。その様子とほとんど何も変わらない。違うのは、応援が歌やブラスバンドではなく打楽器中心であることと、ユニフォームの色がやたら鮮やかなことくらいだ。凄まじい暑さも、この競技に対する人々の異様な熱心さも良く似ている。

 ジエンによれば、この大会はイーア全土の全野球チームが参加するオープントーナメントで、イーアプロ野球のペナントリーグ戦と並んでこの国の人々が最も重要視する大会らしい。高校生だろうと女だろうとおっさんだろうと、イーア野球協会に加盟登録が許されればどんなチームでも参加可能なこの大会では、しばしばアップセットが起きてニュースになるそうだ。

「じゃあ君も出ている?」と俺が訊くと、ジエンは頷いた。

「イーアで野球をやるものなら誰もが出ます。私は昨日が試合でした」

 オガ・ドウは本気で優勝を目指しているようだった。イーア全土から有望な選手を集め、普段は給料を払って仕事をさせ、週末は野球の大会に参加している。それが彼の人生の情熱であるらしかった。オガ・ドウのチームメンバーがそれなりに粒揃いであることは、2、3回の攻防で見て取れた。両軍ともピッチャーの速球は軽く140キロ以上は出ているように見えたし、守備では三遊間の厳しい当たりも併殺にした。ゲームは四回の裏、オガ・ドウのチーム「シャル・ドラゴンズ」は守備に入ったところだったが、お互いの守備力が高いために締まった試合になっており、得点は未だ0対0のままだった。

「思っていたより遥かにいい試合だ」と俺は言った。

「両方とも守備がいいですね。日本と比べてどうですか?」

「イーアが上かもしれない。日本では学生たちやプロが物凄く熱心にやるけど、一方で仕事を持つようになるとほとんどの人が止めてしまう。こんな風に大人たちがちゃんと練習してレベルの高い試合をやるのは凄い」

「みんな日本の野球が目標なんです。もちろんアメリカが凄いのは分かっていますが、体格が近いのは日本だから。自分たちとそう変わらない体つきの選手が物凄いプレーをする。特にイチローは、イーアでは神様に近い存在です。才川さんはイチローに会ったことありますか?」

 残念ながら無い、と俺は答えた。

「そうですか、やっぱり日本人でも簡単にはイチローに会えないんですね。イーア人でイチローに会ったことがある人間は一人もいないはずですが、会えたら多分一生自慢できると思います。この国でそれを超えるのは王様に会うことくらいです」

「ジエンもイチローに会いたい?」

「もちろんです。私の初恋の人です」

 俺は頷いた。そしてジエンが毎日カレーを作ってイチローに食べさせる様子を想像しようとしたが、どうも上手くいかなかった。ジエンが料理をしている姿自体想像できなかった。

 カウント2‐2、ドラゴンズのピッチャーがセットポジションからボールを投じる。鋭く振りぬかれたバットが乾いた大きな音を立て、白球が天高く舞い上がった。それは俺たちのいるレフトスタンドにぐんぐんと迫ってきて、レフトの守備を越え、フェンスの手前で落ちた。歓声の中でランナーがダイヤモンドを疾走する。二塁にいたランナーが本塁生還し、この試合で初めての得点が「アンヴィルズ」に入る。バッターランナーは二塁に到達した。

 大歓声とともに一塁側内野席で太鼓が大きく打ち鳴らされ、爆竹が炸裂した。小型の長筒の花火が何発も打ち鳴らされ、光と白い煙が空で弾けた。凄まじい音と光で、俺は思わず笑った。アンヴィルズのベンチでは全員が外に出て、遠くからでもはっきりと見えるほどの満面の笑顔で、ホームインしたランナーをハイタッチで出迎え、ドラゴンズの方ではベンチの外に出ていたオガ・ドウが激怒しているのが見える。二塁上で打者が拳を突き上げ、マウンド上ではピッチャーが肩を落としている。取った方も取られた方もたった1点が重すぎる、と俺は思った。

 俺は爆音のせいでポケットの中のスマートフォンが振動しているのにしばらく気が付かなかった。取り出して見てみると、そこにはカタカナで「パン」と書かれている。それはもちろんあの巨漢のイーア支社社員のパンのことだったが、俺は怪訝に思いながら電話に出た。今日は休日だ。何故彼から電話がかかって来るのだろう?

「もしもし」と俺は言った。

 おお、と電話の向こうでパンが言った。そして日本語で続けた。〈才川さん、もしもし、言う。日本人言う、もしもし。私はパンです。もしもし〉

 パンは楽しそうに笑っていた。俺がもしもし、と言ったのがおかしかったらしい。考えてみると確かに響きも意味も奇妙な言葉だ。

「それで、どうかしましたか?」と俺はオアシスの「スタンド・バイ・ミー」の英語歌詞をそのまま言った。

〈たくさん、カラマックス〉とパンは英語で言った。〈私見つけた、たくさんカラマックス。たくさんカラマックスが、会社にある。カラマックス、私食べる。OK?〉

 俺は眩しい日差しの中で眉間に皺を寄せて、What? と言った。

「カラマックス? どうして、カラマックスが、会社にあるんですか?」

 俺はゆっくり英語で訊いた。

 ああー、とパンは言い、イーア語でぶつぶつ呟いた後、英語で話し出した。〈カラマックス盗んだ人、死刑。今日、王様がそう決めた。だからカラマックスが返ってきた。私はそう思う〉

 俺の眉間の皺がさらに深くなった。言葉の意味は分かっても、何を言っているのか全く理解できない。パンはどうして休日に会社にいる? 死刑だって? 今、本当に死刑と言ったか? 俺はスマートフォンを耳から離し、ハンズフリーモードに切り替えてジエンにも聞こえるようにした。

「パン、もう一度言ってください。カラマックスが返ってきた?」

〈そう。会社にカラマックスが沢山ある。私食べる。OK?〉

「食べるな」とジエンが英語で即座に言った。「一つも食べるな」

〈誰? ジエン?〉

 イエス、とジエンは言った。そしてイーア語で一気にまくし立てた。それと対照的におどおどとしたパンの回答があって、その声をすり潰すような勢いでまたジエンが問い質した。

 それが何度か繰り返される。二人が電話で話しているうちに、二塁にいたランナーがピッチャーのモーションを盗んでヘッドスライディングで三塁への盗塁を決めた。また凄まじい歓声が起こる。マウンド上のピッチャーは明らかに動揺している。オガ・ドウが腕をTの字にして主審に声を掛け、マウンドに向かって歩いていく。俺の目にはピッチャーは精神的に弱いタイプのように見える。オガ・ドウが高圧的に話しかけても動揺がひどくなるだけで、たぶん二点目が入るだろう。

 マウンド上に内野守備陣が集結し、オガ・ドウが激しい身振り手振りでピッチャーに何事か語り掛けると、才川さんカラマックスが戻ってきたみたいです、とジエンが緊張とも興奮ともつかない声色で言った。

 俺のスマートフォンはジエンの操作でテレビ電話モードに切り替わっていた。激しく手振れしながら、海老イーア支社の倉庫オフィスが映し出されている。画面の中でパンは喋り続けている。イーア語なので俺には何を言っているのか分からなかったが、とりあえず言葉は必要なかった。オフィスの隅に段ボール箱が山のように積まれている。それは俺にとって見慣れた、茶色い段ボール地に黒と濃い赤の2色刷りでJANコードや海老のロゴが印字された、一箱12袋入りの、カラマックスのケースだった。俺はそのボリュームを大雑把に数えようとしたが、工場や問屋でよく見た過去の光景や習慣が、計算するよりも速く直感となり、300ケース以上だと俺に伝えた。積み上げられた段ボールケースは、俺たちの倉庫型のオフィスにやっとふさわしいものが置かれた風情で馴染んでいた。まるで禁酒法下のアメリカで、アル・カポネの一味によってありったけの酒を貯め込まれた秘密の倉庫がエリオット・ネスに暴かれた瞬間のように。

 カラマックスです、とジエンは言った。

 カラマックスだ、と俺は呟いた。「どうして?」

「盗んだ連中が返しに来たんです。パンは休日もゲームを作るために会社に出社してきていた。そこに連中がやってきた。パンは入ってきた連中にいきなりヘッドホンを外されて死ぬほど驚いたそうです。彼らは、カラマックスを返すから受け取れ、と言った。そして次から次にカラマックスがオフィスの中に運び込まれていき、連中はあっという間に去って行ったそうです」

「どうして連中は返しに来た?」

「王様のおかげです」とジエンは言った。「王様が今朝、御言葉を下されたのです。私たちが、この世界の果てのような野球場までドライブしていた間のことです」

「さっき一瞬パンが言っていたのは本当だったのか。王様が、カラマックスを盗んだやつは死刑にすると決めたって」

「それは強く言い過ぎです。王様が仰ったのは、『海外からやってきた品は誰もが法に則って取り扱い、皆で分かち合うように』ということだけです。法令ではありません。訓話です」

 ジエンはそう言って、自分のスマートフォンを操作して、パンがまだ積みあがったカラマックスの様子を映して喋り続けている俺のスマートフォンの上に、重ねた。YouTubeの動画ニュースが流れていて、濃紺の絹地に金銀の刺繍が入った服を身に纏った初老の男が静かに話している。

 イーア王だ。

「王様はこうして月に一度程度、イーアの人々に語り掛けます。大体は、時節の事柄に応じてイーア国民が健やかにあることを願われるだけですが、時々危惧を示されることがあります。その危惧自体には何の強制力もありません。しかし、ほとんどみんなそれを守ります。王様は本当に尊敬されていますし、王様の言葉自体には強制力がなくとも、王様の言葉を受けて国会が法律を強化することが多いからです。だから泥棒たちはカラマックスを返しに来たし、パンはカラマックスを盗んだものは死刑だと考えたのだと思います」

「ひょっとして王様は俺達のYouTube動画を観たのか? まさかたったそれだけで、わざわざ王様が何か言う必要があるほどの大きな問題になってないよな」

 分かりません、とジエンは言った。「可能性はたくさんあります。でもまだ可能性だけです。それより才川さん、私たちはこれからすぐ会社に行った方がいいと思います。私たちはこの大量のカラマックスを管理する必要があります。パンが盗み食いする前に」




 セントラルプラザの店長は俺に手を差し出した。俺がそれを握ると、彼は力強く握り返してきて、完璧に陽に焼けた顔の皴を深くして微笑んだ。彼が、カラマックスを積んだ最後のトラックに続いて赤いアウディに乗って去っていくのを、俺とジエンは並んで見送った。

 車が空き地の向こうに消えていく更に先で、日曜日の太陽が傾いていく。俺もジエンも、同時に深くため息をついた。暑苦しい風が吹いていたが、俺たちはもう汗も出なかった。

「終わりました」とジエンが力の抜けた顔で言った。

 ああ終わった、と俺は言った。「俺たちの休日も終わった」

「才川さん、私はビールが飲みたいです。休日が完全に終わる前に」

 分かった、と俺は言った。

 俺達は事務所に鍵をかけ、呼びつけたタクシーに乗った。ジエンが行き先を告げ、車が走り出すと、俺はジエンに言った。

「パンとアッカにも一応連絡してくれ。もし良かったら、これから会社の金で飲もうって」

 ジエンは頷いた。そしてその後で首を傾げた。

「いいんですか。一人、物凄く食べるやつがいますけど」

 大丈夫だ、と俺は言った。何しろ物価が日本の三分の一だ。何をどれだけ食おうと、日本でミシュランの星付きの寿司屋に行くよりは絶対に安い金額にしかならない。

 ジエンが選んだ店は、通りに面した無国籍風の居酒屋だった。俺たちは扇風機に囲まれたテラス席に通され、パラソルの下の頑丈なテーブルを挟んで座った。店員にメニュー表を渡されたが、勿論俺は全く読めないので、全てジエンに任せた。

 最初にビールがやってきて、俺たちはグラスを手に取った。

「『乾杯』はイーア語で何て言う?」

「ルーベ、と言います」

 ルーベ、と俺は言ってジエンとグラスを重ねた。

 パンとアッカはそれからすぐにやってきた。パンは席に着くや否やメニュー表を探して取り上げ、店員を呼んで勝手に注文し始めた。ジエンがそれに文句を言ったが、俺は構わないと言った。アッカはいつも通りサングラスをかけていて、無言で席に着いた。正直なところ、彼が誘いに応じてやって来たのは意外だった。

 そして次々に料理が運ばれてきた。山盛りの野菜の炒め物、山盛りの串焼き、山盛りのチキンや豚の揚げ物、鍋一杯のパエリアに似た魚介の盛り合わせ、巨大なピザ、そして追加のビール。特に肉とビールが目立つ。陽が陰り、夕暮れの中で料理の油が輝いている。これで俺たち4人が手をつないで、ファミリーのために、と唱えれば、そのまま「ワイルドスピード」のエンディングみたいな光景だった。賑わった食膳はどう見ても既に十人前くらいに達していたが、パンを筆頭に、俺たちはひるまなかった。箸やフォークや素手で次々に肉と野菜と魚をつかみ取って噛み砕き嚥下した。油もソースも塩もチーズも、日本で食べるものとは何かが違う。すべてが内側に熱を持っている感じがして、濃厚で香ばしい。

「本当に今日のうちに終わるとは思わなかった」と俺は言った。

「みんな、一刻も早く売りたかったんでしょう」とジエンは頷いて言った。

 昼、野球場から会社に戻った俺とジエンは、まずカラマックスのケースの正確な数を数えた。326ケース。そして同時にパンに、最近カラマックスの強盗被害に遭った店舗を調べさせた。パンは、該当の店舗が6軒あるということだけでなく、それぞれの店舗がどれだけの量のカラマックスを盗まれたかまですぐに調べ上げた。それらを合計すると326ケースを優に超える数に達したが、幾らかは既に闇市で売られたということだろう。ジエンとパンは6店舗の窓口に連絡を入れ、盗まれたカラマックスを幾ばくか回収したので取りに来てもらえれば返却する、と伝えた。そしてその日のうちに全ての店舗の担当者がトラックに乗って海老イーア支店までやってきた。俺とジエンはそのたびに、店舗ごとに割り当てた分量のカラマックスをトラックに入れる作業を手伝った。一つ一つは空気のように軽いケースだが、何度も何度も往復するうちに俺たちは汗だくになった。

「セントラルプラザの店長は、笑ってた。これで解決なんだろうか」

「そうだと思います」とジエンがエビの皮を剥きながら言った。

「でも犯人は捕まらなかった」と俺は串焼きに齧りついてソースで口と指をべとべとにしながら言った。

「でも、カラマックスは返ってきました。だからいいんだと思います。この国の人たちはみんないい加減なんです。大体OKなら、それでOKなんです」

 俺は頷いて、そういうのも嫌いじゃない、と言った。この串焼きのようなものだろう。火の通りもまちまちだし、肉や野菜の形や大きさも一様でないが、とりあえず旨ければそれでいい。

「きっと王様は、リーチが才川さんに言った言葉を聞いたんだと思います」とジエンが呟くように言った。「リーチが才川さんに話して、才川さんが取材されて。それが王様の耳に入ったんだと思います。王様はリーチの声を尊重しますから」

 俺は頷いた。そして暗闇の中に浮かび上がったリーチの白い仮面を思い出した。

「才川さん」とパンが英語で言った。「私たちは報酬が欲しい。私も、アッカも、ジエンも」

 ああ分かってる、と俺は言った。そしてカバンを開けてカラマックスを3袋取り出した。袋を破り、空になったピザの大皿の上に中身を全部開けた。

 俺たち4人はカラマックスを摘んで食べた。舌から脳天に向かって電撃が走り、喉が痛むような辛さで俺は眉間に皺を寄せたが、3人は笑顔だった。

「王様に」とパンが英語で言って、ビールの入ったグラスを掲げた。

 王様に、と俺たちは唱和してグラスを掲げた。

 俺はビールを飲み干した。カラマックスはビールに合う。辛さで麻痺した舌に冷たい苦みが染み渡って絶妙なのだ。酔いの中で辛さだけが鋭敏に突き刺さる感覚はこの組み合わせにしかなく、もう一枚、もう一杯とそれぞれに手が伸びる。

「才川さん、オガ・ドウからメッセージが来ました」とジエンがスマートフォンを示しながら言った。「あの後ピッチャーを交代させて、延長10回裏で逆転勝ちしたそうです」

「それは素晴らしい」と俺は言った。

「来週まで勝ち残るつもりなので、また才川さんに観に来て欲しいと言ってます」

 俺は首を横に振った。「野球もいいけど、せっかくこの国に来たんだから、休日に野球以外のものも見てみたい。自然とか文化財とか、そういう分かりやすく美しいものを」

「だったら、ジリク海岸をお勧めします。ここからそれほど遠くないですし」

「どんな場所?」

「イーアで一番透明な海です。エメラルドグリーンとサファイアブルーの中間で、全部が透き通っています。ぜひ行ってみてください。物凄く美しいので、神様がお休みになる場所と言われています」

 行ってみたい、と俺は言った。考えてみたら、もう何年もまともな海を見ていない。最後に観た海は台場の、殺し屋が死体を沈める場所に使いそうな汚い海だった。俺は海香と二人でその海沿いを歩いていた。海も暗かったが、俺たちの話も明るいとは言えなかった。彼女の具合はなかなか良くならず、俺たちの会話は、極端に広いコートで行われるテニスのラリーか、押すボタンの反応が狂ったテレビゲームみたいに、聞こえてくる言葉がお互いの思考から遅れたり速すぎたりしていた。そのイーアの海がジエンが言うように、本当に神が休むほど美しい海なら、見るべきなのは俺よりも海香だろうと俺は思った。

 陽が沈み、風が吹き、粒の大きな星が輝き始めた。アッカは黙々と酒を飲み、うろうろしていた店飼いの犬に時々具材を選別して料理を食べさせている。パンはひたすらカラマックスと追加のピザを食べていて、ほとんど一人で食べきりそうな勢いだった。俺はカラマックスをもう一枚だけ齧った。

 何度食っても、異常に辛い。




 月曜日、俺はTシャツとハーフパンツを着て出社した。ここでは他の日本人の海老社員に会うことも、クライアントに会うことも無いのだから、まともなシャツを着たりスラックスを穿いたところでクリーニングの手間が増えることにしかならない。

 俺の今日の午前中の仕事はこれまでで最も落ち着いたものになるはずだった。つまり、日本への報告書を書き、ジエンと連携してユーザーの問い合わせに対する返答をすることだ。報告書は、先週の泥棒騒ぎが片付いたことでかなり簡潔で明瞭なものになるはずだったし、問い合わせの回答は既に要領が判明しつつある。日本でもイーアでも本質的にユーザーが尋ねてくることは変わらないということが分かってしまえば、俺にとってこれほど慣れた仕事もない。そして午後にはマーケット調査のためのグループインタビューの下準備をする手はずになっている。

 この倉庫オフィスでは、ジエンとアッカのどちらか先に出社した方が、流す音楽を決める権利があるようだった。そしてそれは今日はジエンで、彼女が選んだのはボン・イヴェールだった。冷たい水がせせらぎとなって流れ、枯れ葉がその上にひらひら舞い降りていくような音がオフィスを覆う。ボン・イヴェールの音楽は確か、一人の男が雪が降りしきる山小屋でひっそりと孤独に言葉と音を紡いで始まったはずで、それは今俺たちがいるおそろしく暑い地点から見て地球の反対のような場所だったが、別に違和感はなかった。アメリカの中西部から果てしなく離れていることに関してはイーアも日本も全く変わらない。きっと今、世界中で若者はみな同じ音楽を聞いている。

 オフィスの電話が鳴り、ジエンがボン・イヴェールのボリュームを下げて受話器を取った。俺の方は報告書が書き終わりそうだった。いくつかの小売店でカラマックスが盗難されたという報告が上がったが、有志によって海老イーア支店に返却され、被害に遭った小売店に分配が完了。今週から本格的にカラマックスの市場調査に入る。俺は書き終えた報告書を何度か読み返してから、それを日本の清田課長にメールした。一部、経過が省略され過ぎているような気もしたが、訊かれてから答えればいいだろう。そして清田は特に何も質問しないはずだった。清田に必要なのは結果だけで、しかもそれが本来俺がこの国でやるよう求められていた仕事とあまり関係がないとなれば、彼にとって訊く必要性がない。

 俺はジエンの方を見た。まだ今日の分のユーザーからの問い合わせの翻訳が、俺のところに来ていなかったのだ。彼女がさっき取った電話の会話は終わっていたが、まだボン・イヴェールの音楽はボリュームが下がったままで元に戻っていなかった。

 ジエンは無表情でノートPCのモニターを見つめていた。彼女の横顔は青白いように見えたし、体は全く動いていなかった。

 どうした、と俺は訊いた。

「王室から電話がありました」とジエンは言った。

「オウシツ?」

「王様です。イーア国王です」

「王様っていうのはあの、昨日YouTubeで話していたあの王様?」

「そうです。イーア国王です」

「その王様がなんだって?」

「王様は、カラマックスをお求めです」

 ジエンの表情は完全に凍り付いていた。目が大きく開いて、唇が渇いている。指先でつついたら体が粉々に砕け散りそうだった。

 とりあえず、俺は訊くべきことを訊いた。

「納期と数量は?」

「一週間後です。50万袋のカラマックスを、私たちが王室に直接献上するように仰っています」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る