第3話 太陽の国の王 ④
俺たちは今日のランチを、普段のようにネット注文して取り寄せる必要がなかった。十二時になると、外にテントを連ねた屋台の店主たちがやってきて、次々に勝手に料理を運び込んできたのだ。しっかりとご飯を食べてお仕事頑張ってください、と言ってにこやかにチキンやらポテトやら何かよく分からない揚げ物を載せた寿司やらを持ってくる店主たちに、俺とジエンは、四人しかいないからもういいです、と言ってほとんどを断った。
俺たちは静かに昼食を摂った。俺は胡麻のソースで和えた赤い麺をずるずるすすりながら、外の鳴り止まないがやがやに耳を澄ました。まるでビルの周囲をデモ隊に取り囲まれた官僚の気分だった。
外の騒がしさと対照的に、オフィスの空気は沈んでいた。三人とも、相変わらず表情が暗い。ジエンは深刻な顔でPCのディスプレイを見つめ、アッカは煙草を吸うペースが異常に早く、パンはゲーム制作をせずに昼飯とお菓子を交互に食べ続けている。
俺もイーアのニュースサイトを流し見した。いくつかの見出しを転々とすると、俺の顔写真が現れた。無論何が書かれているのか分からないが、最早何が書かれていても不思議ではない。俺のキャリアや学歴について書いてあるのかもしれないし、好きな食べ物や趣味について適当なことが書いてあるのかもしれないし、ついさっきの、海香の妊娠の可能性について書いてあったとしても何ら不思議は無い。俺たちはそれについて何もしゃべっていないが、帰り際にインタビューを受けていたアム・リアや社長たちが、あることないこと勝手に記者に話す様子が、むしろごく自然なものとしてイメージできた。
俺の顔写真の下の方には、ジエンとアッカとパンの写真も並んでいる。王様の勅命を受けた四人の生贄たちの紹介というわけだった。
俺たちはもう、四人とも逃げられない。
俺は海香にメールを書いた。
〈さっきは連絡ありがとう。電話ですぐに相談してもらえて嬉しかった。君が大変な時に遠くにいてごめん。
体調は大丈夫ですか? 俺はそれが心配です。
君が良ければ今日の夜またゆっくり話したい〉
それだけ書いたところで俺は文章に詰まり、唇に指をあてて続く言葉を思案するうちに電話が鳴った。
清田課長の電話だった。俺はこれまでで最も早くその電話に出た。
「どうなりましたか」と俺はすぐに訊いた。
〈国内の納期を遅らせる調整は終わった。その分をそっちに回すから数量は確保した。だが思ってた通り輸送が厄介だ。そもそも日本とイーアを直接結ぶ船便は今存在しない。途中で中継して船を替える必要があるが、そいつの調整が難しい〉
「すみません、はっきり言っていただけますか」
〈納期に間に合わせるのは無理だ〉
俺は静かに頷いた。
「どれくらい遅れそうですか?」
〈12日かかる。明日発送してから4日で中国に日本からの便が着く。そこから港で荷受けして別の船を待って乗り換えるのに4日、イーアに実際に辿り着くのにさらに4日で、12日だ〉
俺は頭の中で計算した。既に期限まであと5日しかない。今日を起点にして12日かかるということは、納期には7日遅れるということだ。
「厳しいですね」
〈悪いがこれが限界だ。王様に交渉してきてくれ〉
「分かりました。やってみます」と俺は静かな声で言った。
〈行けそうか?〉
「全く想像がつきません。おそらく駄目だと思いますが、どれくらい駄目なのかも分からないので、とにかく話をしてみます」
〈言っておくがこれは限界で最速のルートだ。ここから、1日2日くらいの調整がどうにかなると思わずに交渉して来いよ〉
分かりました、と俺は言った。
自分で言ったとおり、まったく相手側がどういう反応をするか読めなかったが、とにかくカラマックスは待てばいずれ届くのだから、完全なゼロよりはましだ。
〈それと、いい知らせが一つある。お前、今日からイーア支社長だ〉
「なんですかそれは?」
〈王様に相対するのが平社員というわけにいかんだろうという役員会の判断だ。夕方、たぶん今から3時間後くらいに辞令が出る。これからはそう名乗れ〉
「変わるのは肩書だけで、給料が変わるわけじゃないんですよね」
〈当たり前だろ〉
「一応確認してみたんです。こちら側の貨物を引き受ける港の情報は昨日ジエンからメールしたとおりですから、その辺の調整はお願いします」
俺は電話を切り、深く呼吸した。
ジエンもアッカもパンも俺に注目している。
「ジエン、王様に連絡しよう。『カラマックスは届く。でも届くのは今日から12日後になる』と」
ジエンは、しばらくその言葉の意味を考える風で、やがて無表情で小さく頷いた。
「どうやって連絡しますか?」
俺も彼女の言葉と表情の意味を考えて、言った。「電話やメールじゃ伝えるのが難しいと思う?」
はい、とジエンは小さな声で言った。「メールは王室がどういう反応を示すか私には全く想定できません。電話だと、相手に何を言われても私には答えられません」
「ということは、直接会って話すしかない?」
はい、とジエンはさらに小さな声で言った。「王宮に行って、才川さんに直接話していただくのが良いと思います」
「分かった」と俺は言った。その意味を深く考える前に反射的にそう言った。「先方に連絡してくれ。報告したいことがあるのでお会いする時間が欲しい、と。時間は早ければ早いほどいい」
分かりました、とジエンは言って、一つ深い呼吸をしてから携帯電話を手に取った。
俺はアッカの隣に立って、煙草を一本くれ、と英語で言った。アッカは俺に煙草を手渡し、俺が咥えた煙草に火を点けた。シアラ、と俺は言って、やたら濃い煙を口と鼻から吐き出した。効果は覿面だった。甘ったるい煙に顔面が包まれ、頭がくらくらして指先がしびれる。煙草を吸うのは5年ぶりだった。海香に再会してから吸うのを止めたのだ。
「カラマックスが間に合わなかったらどうなるか分かってるか」とアッカが俺に訊いた。
「分からない」と俺は答えた。
「その通りだ」とアッカは言った。「王の命令に背いたやつがどうなるかは誰も知らない」
俺は煙草の煙でぼんやりする頭で頷いた。
ジエンが電話を終えてこちらに振返った。
「17時に副長官が会うそうです」
「17時って、今日のことか? 早ければ早いほどいいとは言ったけど」
「そうです。どうしましょうか」
俺は腕時計を見た。あと3時間しかない。ジエンはさっきからずっと表情が凍り付いて変わっていない。機械になってしまったように感情が見えない。もう自分で判断したり考えたりするのを止めたのだろう。
「分かった」と俺は言った。「行くのは俺とジエンでいいか?」
ジエンが翻訳しようともしないので、やむを得ず俺は言葉を続けた。
「ジエン、スーツか何かしらの正装は持ってるか? さすがに俺はこの格好で王宮に行くわけにいかないだろうから、ホテルに着替えに戻る。車を出してくれ。着替えたらそのまま王宮に行こう」
ジエンは真っすぐ小さく頷いて立ち上がった。
アッカのデスクの上の灰皿で煙草の煙を消し、俺たちは簡単に荷物をまとめてすぐにオフィスを出た。相変わらず外では群衆たちが思い思いの場所と手段で興じていて、その数は変わらないどころかむしろどんどん増えている。銅鑼や花火の音に交じってスピーカーから流された大音量の歌が聞こえる。きゃりーぱみゅぱみゅの「にんじゃりばんばん」だ。ガレージのシャッターを開ける間に、カメラを担いだ男とレコーダーを持った記者がまた駆け寄ってきた。
レコーダーを持った方とジエンが受け答えする。その間に俺はマスタングのエンジンをかけてガレージの外に出し、車を降りてシャッターを閉じた。
「それで、今度は何だって?」と俺は、眩しい太陽の光に目を細めながら、ジエンに言った。
「彼らは密着取材を依頼しています」
「密着取材ってなんだ?」
「つまり、今から、王宮に行って我々が交渉する一部始終をカメラに収めたいそうです。王室側の許可は既に取ってあるそうです」
俺は駆け寄ってきた記者2人を細目に眺めた。彼らは既にカメラを俺とジエンに向けている。
「俺たちはそれを断れるのか?」
「いえ。それはあまり得策ではないと思います。そうなれば彼らは私たちに取材を断られたことを報道するでしょう。それはイーア中に伝わります」
「分かった。でも条件がある。その映像を絶対に日本で観れる形で流すな、と伝えてくれ。誰かがYouTubeに上げたら意味ないのは分かっているけど、海老本社にこんなことを説明して理解させる暇がない」
分かりました、とジエンは言った。
俺がマスタングの助手席に座ろうとすると、記者2人とジエンが一斉に首を横に振った。
「才川さんは後部座席に座ってください。助手席だとカメラで撮りにくいらしいです」
俺は適当に頷いて後部座席に座った。すぐに隣にレコーダーを持った記者が乗り込んできた。助手席にはカメラマンが座り、振り返って俺にカメラを構える。ジエンがアクセルを踏んでマスタングが動き出すと、俺はカメラに向かって無表情でピースサインをした。「にんじゃりばんばん」が鳴り響き、群衆が俺達に手を振る中を潜り抜け、マスタングは埃を巻き上げて走った。
俺とジエンは駐車場に車を停めて降りた後、ほとんど無言で歩いた。カメラがずっと俺たちの方を向いているので、喋りづらいのだ。よくドキュメンタリー映像で被写体がべらべらと喋り続けている様子を見るが、あれは彼らが勝手に喋り出しているわけではなく、要するにインタビュアーの質問に答えている様子を切り取っているのだろう。記者は俺に向かってしきりに話しかけてきたが、イーア語なので何を訊いているのか全く分からない。仕方なく記者はジエンに語り掛けたが、彼女は緊張している様子で、極めて短い相槌程度の反応しかしなかった。
駐車場から出ると、王宮の広大な敷地は目前だった。黄金の尖塔が何本も生え、庭園が広がっていると思しき背の高い広葉樹林の頭だけが見える。全容は良く見えない。広すぎるし、衛兵が何人も立つ白く高い壁に一帯が囲われて、中の様子が分からないのだった。
俺はネイビーブルーのスーツにグレーのグレンチェックのネクタイという、どこからどう見てもサラリーマンの衣装で身を包んでいた。王宮に馳せ参じる際にふさわしい服装なのかどうか分からなかったが、スーツもネクタイもこれしか持ってきていないので仕方がない。相変わらず脱水症状になりそうな暑さで、俺は結局そのジャケットも脱いで歩いた。ジエンもジャケットを着ていたが、肩に羽織るだけで袖に腕を通していない。
やたら長い城壁の下を延々歩くと、巨大な門が見えてきた。天を衝く尖塔の細かい金細工に覆われた派手な門は太陽の光で煌々と輝いていて、俺は目がくらみそうになった。分厚く巨大で、日光東照宮を縦に引き伸ばしてもっと黄金にしたような感じだ。俺たちが門をくぐると両脇に立つ儀仗兵が飾り付きの槍を垂直に構え直した。セキュリティチェックのゲートがあり、ジエンが衛兵に話しかけるとすぐにゲートが開いた。一人ずつ、全身丹念なボディチェックを受けて通り抜ける。
一直線の石畳の太い道のはるか向こうに、黄金に輝く宮殿が見える。3本の塔を中央にして広大な居館を左右に広げた建造物で、翼を羽ばたかせた巨大な鷲のような恰好だった。だがそれより俺が息を飲んだのは、その王宮に至る道の両脇にずらりと立ち並ぶ塔を見てだった。色も細工もばらばらで、丸い頭のものもいれば尖がったものもいる。青い細かいタイルで装飾されたものもあれば、赤い木材で建てられたものもある。ナイトマーケットのテントのように色がばらばらだ。物凄い数で、まるで巨人が居並んで神の城を警護しているような雰囲気だった。
「46本です」とジエンが汗だくの顔で言った。
「この塔の数?」
「そうです。この国を守護するリーチの数です」
俺はぼんやりと頷いて、居並ぶ塔に見下ろされながら道を歩いた。やたら静かだ。点々と衛兵が立っている以外は人がおらず、俺たちの足音以外に物音が全くしない。どこに行っても騒がしいこの国の中で、ここだけが台風の目のように静寂に包まれているようだった。そのせいで余計に巨人のような塔たちの威圧感が物凄い。
俺は腕時計を見た。約束の時間まで15分だった。王室に呼び出されて宮内庁の副長官に会うための到着時間として早すぎるのか遅すぎるのかよく分からなかったが、俺は早足で歩いた。
「俺たちはあのでかい宮殿のどこで打ち合わせするのかな?」
俺はジエンにそう訊いたが、彼女は首を横に振った。もちろん、彼女がそんなことを知るわけがないのだった。その素早い首の動きの感じから、彼女の緊張が伝わって来る。振り返ると、カメラマンと記者の二人も動作と表情が硬く、緊張しているように見えた。勿論俺もかなり緊張していた。この後どんな人物が出てきて、何をどう話して、その結果何が起こるのか全く分からない。そしてそれがどうなるにしても結果がイーア中に報道され、俺と3人の社員の命運は大きく変わっていくだろう。俺がこれから話すことや一挙手一投足は、全てこの後の状況を大きく左右する。
だが同時に、俺は完全には緊張しきれなかった。正直なところ、何もかも、俺が考えたところでどうしようもないものとも思えるのだった。人に説明されたところで、この国の王様が持つ権力や威光のリアリティが結局まだ俺には無かったし、俺はただのお客様相談室員で、大したことは何もできない。聞かれたことに応え、起こったことを伝えるしかない。威圧感のある周囲の風景を眺めていると、ここで致命的なことが起こるようにも夢の中のようにも見える。俺の心臓は緊張したり弛緩したりを交互に繰り返して奇妙なビートを刻んでいる。
記者が何かをジエンに話しかける。
「交渉は成功するでしょうか」とジエンが翻訳して俺に言った。
「全く分かりません」と俺は言った。「でも経験的に言って、最初から成功を目指すとあまりいいことは起こらないです。成功するかどうかより重要なのは、お互いに納得できるかどうかです。納得できるといいですね」
ジエンが短く翻訳した。頭の、分からない、という部分だけ伝えたのだろう。別にそれで構わなかった。彼女はこの後に向けてあらゆる体力を温存したいようだった。
宮殿の入り口で再び衛兵にジエンが声を掛け、俺たちは巨大な広間の隅に置かれた椅子で待つように告げられた。太い円柱が何本も立ち、巨大な床画が描かれた空間は、外以上に物音がしない。俺は足先に広がるその巨大な絵を見つめた。人物か神か獣か分からないが、大量のキャラクターがひしめき合って描かれている。曼荼羅ともキリスト教の天井画とも似ていない。もっと雑然としていて、もっと原色に近い色合いで、群衆がひしめき合う漫画のワンカットのようだった。ここに描かれているのはリーチたちだろうと推測した。姿かたちや色合いがそれぞれ異なるのは外の塔の群れと同じだ。石画はぴかぴかに磨かれていて、この絵はたぶん誰も踏んではならない絵だろうと俺は思った。
記者が俺に英語で話しかけてきた。ジエンがまともに翻訳をしないので、直接話すことにしたのだろう。この宮殿に来たのは初めてか、と彼は俺に聞いた。そうだ、と俺は答えた。俺は5日前に初めてこの国にやってきたのだ。一般公開もされていない宮殿にやって来るような用件などあるわけがない。
「あなたはこの国が好きですか?」
記者が俺にそう訊いた。
唐突な質問だった。何故そんなことを訊くのか分からなかったが、たぶん、緊張して他に訊くことが思いつかなかったのだろう。
「好きです」と俺は答えた。「ご飯はおいしいし、人々は親切だし、いつも天気がいい。国中がエネルギーに満ちてる」
頭の中で瞬間的に計算が働いた結果の回答だった。「好き」と言う以外ありえない。ここで、やたら埃っぽいとかどこに行ってもうるさいとか車の運転が荒すぎるとか言っても何の意味もない。日本にやってきたアスリートやミュージシャンがインタビューに答えて、日本は最高の国だと言うのと同じことだった。何も知らないのに最高の国かどうか分かるわけがないが、適当にそう言っておけば誰も困らない。
だが実際、少なくとも嫌いではなかった。まだ俺はこの国のことを何も知らない。この国にどんな問題があって、子供たちはどんな夢を持って生きていて、貧富の格差がどうなっているのかよく分かっておらず、社会保障や教育がどうなっているかも何もかも知らず、この国の人間と、感情や感覚や人間関係の基本的なルールにおいてどこまで共通認識を持てるのか分からない。しかし自分が反射的に言ったとおり、この国は何かエネルギーに満ちている。海老のオフィスの前は広大な空き地だ。ああいう場所は日本にはもうあまりない。今の見た目としては同じ空間でも、日本ではそういう場所はもう永久に空き地である一方、海老の前の土地は、近い将来に施設や住居で埋め尽くされるだろう。今日、どこからともなく大量の人々が集まって騒ぎ始めたように。日本が劇的に成長することはもうないが、イーアには何かが描かれるべきキャンバスの空白が大量に残っている。長く生活する場合、きっとその差は大きい。
「日本には死刑がありますか?」と記者が言った。
「死刑?」
「イーアでは1年に30人以上死刑になります。多いと思いますか?」
何故いきなりそんなことを訊くのだろう。さっきの質問からの脈絡が分からない。記者の肩はかすかに震えているように見えた。
俺が記者の目の色を見ているうちに、隣に座っていたジエンが立ち上がった。記者も、カメラマンも椅子から立った。振り向くと目の前に男が二人立っていて、俺たちに声を掛けた。宮廷の官吏だか事務員だか分からないが、襟が立ったカーキ色のジャケットのボタンを一番上まで止めた、しかめっ面の二人で、特に俺たちの返答を求める風でもなく踵を返して歩き出した。
背の高い窓から射し込む光が、ゴールドとグレーのパターンの石張りの廊下を照らしている。カメラはずっと俺の方に向けられている。俺は自分がどんな表情をしているのか分からなかった。俺はやっと、人の数が少なすぎることに気が付いた。さっきから全く人とすれ違わない。そういうものなのかもしれないが、国の最高権力者の執政施設にしては静かすぎる気がする。ここが、俺たちのようにこうして、王室からの発注物についての交渉をしに来る商談の場所であるなら、もっと大量の人間がいてもおかしくないが、官吏や衛兵以外に人がいない。スケジュールや導線が厳格に管理されていて、客同士も職員たちも鉢合わせしないようになっているのかもしれないが、王宮外のこの国のいい加減さからすると不自然に感じる。
官吏に案内されて入った部屋は、壁に王の肖像画が掛かっている以外は、若干古めかしいくらいのごく普通のオフィスだった。黒い革張りの椅子が並び、その間に分厚い会議テーブルが置かれている。海老の役員会議室に似ている。その部屋には王の肖像画の代わりに巨大なエビの日本画が飾られている。俺は椅子の中央に座って深く呼吸した。香のような、花のような、少し甘い匂いがする。
官吏は去り、俺とジエンとカメラマンと記者の4人だけが残された。俺とジエンだけがテーブルの前の椅子に座り、カメラマンは向かって斜め前に立って俺たちにカメラを向け、記者は腕を組んで立っている。隣に座っているジエンの体ははっきりと震えている。部屋の中は全く何の物音もしないので、その震える音さえ聞こえてきそうだった。横目に見る彼女はまるで子供のようだった。
もちろん、彼女はまだほとんど子供だ。
「ジエン、『スラムダンク』読んだことあるよな? 漫画の」
ジエンは無言で頷いた。
「神宗一郎ってキャラがいるだろ。スリーポイントシュートがめちゃくちゃ上手い奴。毎日必ず500回シュート練習してああなったんだ。君の日本語はあれぐらい上手い。普通に話せば、後は特に何も考えなくて大丈夫だ」
ジエンはぼんやり頷いた。
背後でドアが開き、男が二人と女が一人、部屋に入ってきた。俺とジエンは立ち上がった。3人ともさっきの官吏と同じように襟が高いジャケットを着ていて、一人だけその色が純白だった。腕も腹も首もレスラーみたいに膨れていて、宮廷管理官というよりは軍人に見えた。顔も彫りが深く厳つい。どう見てもその男が3人の中で最も役職が上だった。
初めまして、株式会社海老イーア支社長の才川です、と俺は薄く笑みを湛えて挨拶した。
たぶん、それで間違っていないはずだった。清田の言った通りなら、多分数分前に日本で辞令が出て、俺は支社長になっている。
ジエンが翻訳して、目の前の二人の男のうち一方が短く何か言い、それを受けて脇の女が俺の目を見て話した。
「才川さん、宮内庁長官のカマグさんと、第3室長のロサさんと、主任のテテさんです。時間が無いそうなので手短にお願いしたいとのことです」
俺は頷いて、よろしくお願いします、と言った。
促されて椅子に座り直しながら、長官? と俺は頭の中で思った。確かに目の前の男の迫力は、ナンバー2の雰囲気ではないので納得だったが、出てくるのは副長官だと聞いていた。3時間前にアポの相談をしていきなりトップが出てきたわけで、その理由は、腰が軽いか、暇か、この件が彼らにとっても極めて重要かのどれかだろうが、流石に多分前者の二つではないだろう。
俺はそれをジエンに確認する気にはなれなかった。彼女は背筋が伸びて完全に硬直している。カマグ長官の眼光は、俺が今まで会った人間の中でも最高級に鋭かった。日本の宮内庁長官には会ったこともないし名前も顔も知らないが、絶対にこんな顔はしていない。非日常的な感じがする。日本でのお客様相談室時代に、自宅に呼び出してきて菓子袋を投げつけてきたクレーマーの顔も非日常的だったが、あれはただの狂犬で、こちらは虎だった。彼はたぶん、ほぼ間違いなく、元軍人で、戦争が終わって役職が変わったのだろう。
場は、分かりやすすぎるほど張り詰めている。目の前の3人とも顔面の筋肉が一切動かず、ジャングルのブッシュで動くものがないか全身の神経を研ぎ澄ましているような感じがする。俺がよろしくお願いします、と言った後は誰も喋り出さないので、あたりはデイビッド・リンチの映画の廊下みたいに無音よりも激しい静寂に包まれている。これは多分だいぶ厳しいな、と俺は思った。この役人たちは俺が舐めたことを言うのを絶対に許さないだろう。何を言ってもその瞬間に射殺されるような気がする。
しかし隣にジエンがいる。彼女は緊張どころか呼吸が止まっているので、これ以上沈黙が続いたら窒息する。相手が望む内容であろうとなかろうと、話を始めるしかない。
「この度はイーア王陛下に弊社のカラマックスをご発注いただき誠にありがとうございました。海老を代表して深くお礼申し上げます。この国の皆さんにもカラマックスを大変ご愛顧いただき、社員一同大変喜んでおります」
ジエンがゆっくりと翻訳する。その声は出始めはかすれていたが、声の調子自体は落ち着いているように聞こえる。俺は薄い笑顔のまま3人の顔を眺めた。とにかく情報が欲しい。まだ出会って一分も経っておらず、相手の流儀もどんな人間かも全く分からないので、彼らがどんな会話の進め方を望んでいるか判断ができない。世間話でもしながら徐々に本題に入った方がいいのか、いきなり結論を告げるべきなのか。忙しいから端的に話せ、というのを字義通りに受け取るべきなのかどうか。
ジエンが訳し終わって、6秒待ったが全く反応が無いので、俺はすぐに結論を告げる道を選んだ。
「ご発注いただいたカラマックスですが、本日、50万食分の手配が整いました。本日からイーアに向けて輸送準備を開始しております。ただし、日本からイーアへの直通の船便がございませんので、中国を経由し、到着までに12日を要します。大変申し訳ございません。何卒ご了承ください」
俺は長官のハゲタカのような眼を見ながらゆっくりそう話した。笑顔は消し、眉間に心持ち皺を寄せ、低い声のトーンでそう話した。だが頭は下げなかった。そうするべきでないように感じた。長官は部屋に入ってきた瞬間から今まで、一言も発していない。この部屋の空気は真空に近く、空気以外のものもほとんど何もないが、その中でも特に優しさは無い。どうせもっと決定的なところで謝るのだから、今頭を下げても意味がない。
ジエンが抑揚のないトーンで淡々と翻訳した。それでいい、と俺は思った。これでジエンが感情を込めて話すと、彼女に注目が行き、おそらくは怒りも彼女に注がれてしまう。目の前の3人と、斜め前のカメラは俺をじっと見ている。
ジエンが訳し終えると、そのまま沈黙が部屋中を包んだ。耳が痛くなるような沈黙だった。壁に掛かった王の肖像画が俺達を静かに見下ろしている。
反応が無いので、俺は重ねて何か話したい欲求に駆られた。だが我慢した。切られて殺されるならともかく、自爆するのだけは避けなくてはならない。
虎が身じろぎするようにのっそり、長官が動いた。彼は俺たちの目の前のテーブルの上に何かを置いた。それは包丁くらいの大きさの剣だった。皮に金細工の装飾が施された鞘はくすんだ光を放っている。
俺はその剣と、長官の顔を交互に見た。
長官はついに口を開き、低い声で何か言った。
「その剣は、長官が王様から10年前に頂いたものだそうです」とジエンが翻訳した。「長官は戦争で命を懸けてイーアのために戦い、どのような命令も全うした褒美に、リーチが加護する火のお守りと、この小剣を授かりました。王様の命令は絶対で、何としてもそれを守らなくてはなりません。納品に2週間かかることは、その命令の通りではありません」
なるほど、と俺は呟いた。
「私の祖父は日本とも戦った。日本兵は残酷で勇敢で統率が取れていて、手ごわい相手だった。彼らはいつも死を覚悟していた。だから祖父も覚悟したし、私もかつて覚悟して戦った。いかなる戦いでも覚悟が必要だ。それが支社長の覚悟ですか」
俺は長官の目を見た。俺の過去のどこを探っても、これと同じ眼を見た記憶はなかった。鋭さは獲物を狩る狼のようだったが、同時に京都の寺の壁に掛けられた観世音菩薩の絵のように静かでもあった。
なるほど、と俺は思った。
「私は私にできることを致します」
俺は普通の調子でそう言った。自分でも驚くほど普通の声だった。
仕事には、閾値というか、限界点がある。
たとえ何年仕事をしていようと、どんなプロフェッショナルになっても、突き詰めて仕事をしている限り、必ず抜き差しならない瞬間がやって来る。商品の中に異物が混入したり、企画した広告が社会的な批判を浴びたり、社員が犯罪を犯したり、巨大な発注ミスが起きたりする。そういう事態に出くわしたときには俺を含めてほとんどの人間が精神的に追い込まれる。しかしそれにも限度がある。いきなり王宮に呼び出されて腹を切れ、と言われても、俺はつい五日前にこの国にやってきたのだ。今ここで殺されても、飛行機が墜落して死ぬのと変わりがない。
だが、ジエンの口が動かなかった。
俺が横目に彼女の顔を見ると、顔面が真っ白で震えていた。唇も震えていて端から泡が出てきそうだった。俺は彼女の肩に手を置いて、大丈夫だ、と言った。何が大丈夫か全く分からなかったが、話はまだ終わっておらず、少なくともそこまでは大丈夫なのは間違いない。
カマグ長官は厳かに口を開き、俺の目を睨みつけたまま話した。俺はジエンの肩に手を置きっぱなしで、彼女がゆっくりと話し始めると手を離した。
「納期は今日から5日後です。それ以上は一切待てないそうです」とジエンが翻訳した。
俺は首を横に振った。
「申し訳ありませんが、納期は今日から12日後になります。それ以上は早めることができません。便が中国を経由する必要があるので、それだけかかるのです」
長官は首を横に振った。
「この国で最も重要な祭りが来週行われます。カラマックスはそこまでには絶対間に合わせなくてはならない。間に合わないという事態は考えていません」
そう言ったのはカマグ長官の隣にいたもう一人の男だった。なんとかいう室長だ。眼鏡をかけた彼の声は早口で、冷徹な感じに均質だった。いかにも副官という感じがした。
「祭りというのは何ですか?」と俺は訊いた。
「王の即位30年を祝う祭りです。この国にとってスーパーボウルよりもワールドカップ決勝よりもコンクラーベよりも重要です。そのためにはすべてが完璧でなくてはならない。カラマックスはその祝い品です。失敗は許されません」
ジエンが室長の言葉を翻訳したのを聞いて、なるほど、と俺は呟いた。
「ご事情は分かりました。しかし弊社からのご手配ではこれが精いっぱいなのです。ご承知の通り、弊社とイーアではまだ定期的なお取引が始まっておらず、流通経路が整備されておりません。今回はその中で特別に用意した輸送方法です。これ以外の手段や期日でお取り寄せをお望みの場合は、現状の商社経由での調整をお願いできないでしょうか」
「それが間に合うようであれば海老に依頼はしていません。5日後に納品してください」と室長が言った。
俺の首は、自然と傾げた。
一方の望みと、他方の回答がほぼ完全に食い違っており、互いに妥協点を見出す気がない。どちらも絶対に譲ることができず、相手側の方が自分の都合を理解して解決策を見出すように望んでいる。
だがこれは、どんな交渉であれ、よくある流れだった。こういう時は実は、相手側が自分たちの主張を飲み込むことができないことは、お互いに分かっている。こういう事態を解決する手段は、ほとんど決まっている。ゴールをずらしてお互いに妥協することだ。しかしそれには、二者が対等でなくてはならない。どちらかが明確な上位に立っている限り、物事は前に進まない。
そして彼らは自分たちが上にいると思っている。少なくとも、上にいると見せることによってこちらの譲歩や解決策の提案を望んでいる。だがこの件に限っては実際にはそうではない。カラマックスが欲しいのは彼らだし、急に欲しいと言ったのも彼らだ。50万袋ばかりのカラマックスが来週売れようが売れまいが、海老にとっても俺にとってもビジネスインパクトはそこまでない。頼むのも譲歩するのも実際には彼らの方だ。
俺は恐ろしかった。訳が分からないが、訳が分からないなりに、強面の連中に権力を笠に迫られ、次の展開が全く読めなくて緊張している。解読が間に合わないプレッシャーが全身に掛かり、体が硬くて、唇が既にかさかさに乾いている。だが俺がそう感じている限り、相手も俺も俺の方が下だと思っている限り、このまま行っても死ぬ。
「才川さん」とジエンが小さな声で呟いた。「即位30年の祭りは今日から10日後です。5日後じゃありません」
ジエンはテーブルに置かれた俺の手をじっと見つめていた。
俺は頷いた。そして瞬間的に頭の中で考えた。
「納期をお急ぎであるならば、もっと早めにご発注を頂く必要がありました。我々は1週間で届けられるというお約束を差し上げておりません。まずそれをご理解いただけるようお願いします。なぜこれほど納期が急になってしまったのでしょうか」
俺がそう言い、ジエンが翻訳すると、部屋の中を沈黙が包んだ。
目の前の3人は、押し黙ってしまった。
長官は相変わらずの眼光で俺の方を見ているが、室長の方が微かに長官の顔を横目に見たのに俺は気が付いた。室長はかすかに口を開き、そしてすぐに閉じた。
「やむを得ない事情です。理解してください」
ジエンが室長の言葉を俺の目を見ながら翻訳した。沈黙の空気圧の方向はさっきまでと変わっている。それはごく微妙な変化だった。だが、この張り詰めた空間でははっきりと感じ取れた。
俺は今すぐ決めるしかなかった。自分の仮説を信じるかどうか。
この国の人間は、上から下まで全員いい加減な連中だ、という仮説を。
彼らは発注ミスをしたのだ。
当然、祭りの予定はずっと前から決まっていたし、カラマックスを奉納物とすることも数か月前から決まっていた。だがその商社経由での手配にミスがあったのだ。発注をし忘れたか、手配の数量にミスがあったか。日本の皇室や政府や官公庁の案件では到底起こりえなさそうな事態だ。だがたぶんこの国では起こり得る。
長官の目を見返しながら俺は考え続けた。祭りが10日後なら、俺たちの予定である12日後の納品ではどのみちスケジュールアウトしていて、実際には無駄かもしれない。しかし交渉においてはその5日間の差は重要だ。それは彼らが何かを隠し、自分たちの武器として隠し持っている5日間なのだから。
俺は慎重でなくてはならなかった。権力の尾を踏むことなく、逆に自分がそれを助ける存在であると認識してもらう必要がある。例えば彼らが俺を何らかの刑に処したとしても、海老も日本政府も俺に何もしてくれることはないだろう。きっと報道されることすらない。俺が女子大生だったり俳優だったりするならともかく、ただの30歳過ぎの独身サラリーマンが一人や二人、よく分からない国で消息を絶ったところで、解決するメリットもニュースバリューも全くない。俺が、大使館もないこの国で、徹底的に孤独で、圧倒的に不利な立場にいるのは変わりない。一時的に論破して勝ったところで、あらゆる面で何の意味もない。
海老のスローガンにある。「献身と思いやり」。常に相手の気持ちと、その人のためにできることを考えて働け、という、60年前に海老の中興の祖たる3代前の社長が掲げたありがたい言葉だ。情けは人のためならず、みたいな言葉と同じ意味で、要するに相手に親切にするとそれが最終的には事業のためになるというビジョンである。海老の仕事がそんな綺麗ごとだけで成立しているとは俺には思えなかったが、一時的に自己満足を得ても結局何もならないという思想には同意する。
俺はビジネスを成立させるためにここにいるのだ。
「ご提案があります」と俺は言った。「私たちの船は中国を経由して荷を移し替える必要がありますが、そこでどうしても4日間のタイムラグが発生する。中国の船が手配されるのを待たなければならないからです。しかし、もし、皆さんの船がその荷を引き受けて頂けたら、中継の時間は縮まります。
イーアの貨物船を中国に手配していただけませんか。
日本から中国まで4日、中国で荷の移し替えに1日、中国からイーアまで4日。9日でこの国にカラマックスが着く。これでは間に合いませんか」
俺はゆっくりとそう話し、ジエンもゆっくりと翻訳した。
沈黙の後で、室長は深く息をつき、カマグ長官は鼻からかすかに息を吐きだした。
もちろんその船代は純然たるコストだ。カラマックスともども空気を運ぶために中国までのそれなりに長い航路を往復するのだから、少なくとも片道分はただの無駄である。彼らはただでさえ既に自分たちのミスで予算を無駄にしている。そのコストがさらに積み増されるのだから、彼らにとっては避けたかった道に違いない。そしておそらくもっと大きな問題は、王国籍の船を手配することによって、王様にこの問題がばれてしまうということだ。彼らはどうにか王に隠し遂せたままカラマックスを納品する道を探っていた。そうしないと誰かが粛清される。報告はしないで解決したい。
だが、そうするしかない、と彼らの顔が言っている。
部屋の隅で記者が笑顔を浮かべている。カメラマンはゆっくりと歩いて部屋の全員の表情を映し、最後に俺にカメラを向けて止めた。俺は表情を変えないように意識した。笑ったり安心した表情を見せたら、どんな風に報道されるか分からない。あくまで真摯な「献身と思いやり」の表情でいる必要がある。ここを出るまでこの表情をキープする。この建物を出たらすぐ、全身にとてつもない疲れがやって来るだろう。
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