第2話 太陽の国の仕事 ④




 オレンジ色の光が点々と灯る幹線道を、弔問客たちの車が列を成して走っていく。俺たちはその最後尾にいる。明かりの外側には木々や水道や水田が広がるだけで、人家の気配は減っていく。それでも、昼の交通量ほどではないが、幾つもの車が爆発的なスピードですぐ脇を追い抜いていく。まるで真夜中になると峠を攻めにいく無軌道な若者たちのようだと思った。

 腕時計を見ると21時を過ぎている。俺達はもう既に1時間くらいドライブしている。

 昼の後、何も食べていなかったので、マスタングの助手席で俺はファン・ドウの葬儀の場から拝借してきたチキンを頬張った。ジエンがカーステレオでかけている音楽はザック・アベルで、オープンカーが切る夜風にしっくり馴染んでいた。たぶん風景になじんでいると言うよりジエンに馴染んでいるのだと俺は思った。

 私たちは聖地に行きます、とジエンは1時間前に言った。

 火葬場がそこにあると言うのだった。日が暮れて、仕事を終えた俺達が亡きファン・ドウの自宅で執り行われていた葬儀の場に立ち会うと、ほとんど直ちに出棺が始まり、俺達は彼の親類に促されてそのまま火葬の場に同行することになった。

 イーアには国の各地に聖地とされる場所があり、多くの火葬場はその近くに建てられているのだという。夜に火葬をするのは不思議な感じがしたが、火葬場は24時間営業なので珍しいことではなく、夜は死の世界に近いから悪いことでもないらしい。

 道々、俺はジエンに聖地のことを訊いた。どんな場所で、何があるのか。ジエンは、うまく言えません、と言った。

「たぶん、才川さんには何もない場所に見えると思います。最後の一か所を除いた45カ所は誰でも訪れていいことになっているので、子供のころからみんな遠足で行ったり時々こうしてお祈りに行ったりするんですけど、何故ここが聖地なのか見た目だけではよく分かりませんでした。なんにもないんです。建物も像も魔法陣も、目立つものは何もありません。ちょっと石が積んであるだけです。場所によって聖地があるところの風景も全然違うので、基準とか規則性もよく分かっていません。とにかく遥か昔にリーチがここが聖地だと決めたんです」

 それからジエンは一つ神話を語った。

「リーチは一子相伝です。北斗神拳とか陸奥圓明流と同じですね。でも昔、46人のリーチが全員いなくなったことがあるそうです。1000年以上昔、ある時突然です。異常気象で国中が飢えて、それに伝染病が重なって、物凄い数の人が死んでいった時でした。46人のリーチが王様のところにやってきて、『天地の怒りを鎮めるために自分たちは全員生贄になる』と宣言しました。そして国中の46カ所に散らばり、それぞれの場所で全員焼身自殺しました。それが今の聖地です。それからしばらくして雨が降り始めました。異常過ぎた暑さも少しだけ和らぎ、風が南から吹くようになったといいます。人々は生命力を取り戻していき、以来この国は基本的に飢えたことがありません。少し歩けば道端にバナナやマンゴーが生っていますからね。飢えようがありません。これが多分この国にとって決定的な出来事だったと思います」

「じゃあ、今いるリーチは誰なんだ? 一子相伝なのに一度みんな死んでしまって」

「それがこの神話のポイントです。王様はリーチを永遠に称える詔勅を出し、全国民に毎日陽が沈むたびに北極星に向かって祈るように義務付けました。みんなその通りにしました。お爺さんから言葉が喋れるか喋れないかくらいの赤ん坊まで。そうしたらある日突然リーチがみんな帰ってきたんです。いなくなっていたことも忘れてしまうくらいごく自然に道を歩くリーチが国中で発見されました。リーチたちは全員、いなくなった時と全く同じ格好をしていたそうです」

「それはもう神様だね」

「そうですね、リーチは神です。もう誰も、どこまで本当の話か分かりません。普通に考えれば、誰も初めから自殺してなくてしばらくどこかに隠れていただけなのかもしれません。時が巡ってたまたま気候がうまく回るようになっただけなのかもしれません。でもこの国の人たちはどこかでこの伝説を信じている気がします。みんな未だに、夜眠る前は北極星に少しだけお祈りします。私も」

 ジエン以外はみなスピード狂なので、俺たちはだいぶ先行する車列から引き離された。しかしマスタングとはエンジンの馬力が違うので、山道を登るうちに彼らの背中が見えてきた。唸りを上げてきびきびと暗い山道を登っていき、駐車場に着いた時にはほとんどタイムラグがなかった。確かにジエンが言っていた通り、道中の道は完全に舗装されていた。周囲を鬱蒼とした森に囲まれ、白い光を放つ街灯が立ち並び、広々とした駐車場は高速道路のサービスエリアのようで、我々以外にも幾つもの車が停まっていた。看板が立ち並び、土産やファーストフードを売る売店の明かりが見える。俺は腕時計を見た。午後10時を過ぎている。

 ファン・ドウの遺体が入った棺桶を男たちが運んでいく。売店の隣に道があって、その奥には煙がもくもくと噴き上げる煙突が3本見える。火葬場だ。森をくりぬいたような細い道を通って火葬場に辿り着くと、ファン・ドウの奥さんが受付に行った。俺は3本の四角い煙突を見上げて火葬場全体を見渡した。明かりが足りなくてよく見えないが、白く高い壁が左右に広がり、シャッターの開いた倉庫には大量の薪が積まれていて、まるで巨大な銭湯のような感じがした。

 ファン・ドウの弔問客たちが順々に火葬場の建物に入っていくのを、煙草に火を点けたファン・ドウの兄が見守っていた。名前はオガ・ドウと言う。彼は異常なほど弟に似ていた。俺がチャットアプリでファン・ドウとやり取りしていた時に見た彼の写真に瓜二つで、造形も脂ぎった肌色も全く同じだった。一卵性双生児なのだろうが、ジエンもあまりの相似性に驚いていた。オガ・ドウは全員が建物に入ったのを確認すると、俺の隣にやってきて話しかけた。ジャケットのポケットに突っ込んでいたウイスキーのスキットルを取り出して飲むと、酒臭い息が俺の鼻孔に突き刺さった。

「ファン・ドウはいい弟だった。少し注意力がない奴だったが、死んだのは残念だ。日本から来てくれてありがとうと言ってます」とジエンは言った。

「私もファン・ドウさんとお話できなかったのは残念です。これから一緒にたくさん仕事ができると思っていたんですが」

 ジエンが翻訳すると、オガ・ドウは頷き、作り笑いっぽい笑顔を浮かべて何か言った。

「代わりに私と一緒に仕事をしましょう。私も輸入取引業をやっていて、海老の商品は取り扱っているので、と言ってます」

 そうですか、贔屓にしていただいてありがとうございます、と俺は言った。

「海老の商品は本当に売れる。物凄く売れる。国中の食品メーカーが作り方を盗みたいと思っている。でもどうしても真似できない」とジエンが翻訳した。「特にカラマックスは凄い。もっと供給量を増やしてもらわないと」

 俺は頷き、反射的に思い当たったことを言った。

「今、カラマックスを狙った窃盗団がいるみたいなんです。集団で、計画的に、カラマックスを取り扱っている店舗から強盗を繰り返している奴らが。オガ・ドウさんも気を付けてください」

 ジエンが翻訳すると、オガ・ドウは眉毛を歪めた。

 そして腕を組み、考え込むように俯いた。

 ジエンの方を向いて何かやり取りする。ジエンが首を横に振ると、オガ・ドウはまた俺の肩を叩いて俺に話しかけた。

「聖地に行こう、と言ってます」とジエンは言った。

 え? と俺は言った。

「遺体が全部焼けるまでにこれから1時間半くらいかかります。それを待つ間に聖地に行ってお祈りしよう、ここから近いから、と言ってます」とジエンが翻訳した。

「さっき言ってた、リーチが焼身自殺した場所のこと?」

 そうです、とジエンが言う声に被さって、オガ・ドウの話は続いていた。

「カラマックス泥棒はこの国にとって大きな問題だから、海老だけの問題ではない。リーチはきっと聞いてくださる、と言ってます」

「なるほど」と俺は言って頭を巡らせた。「困ったことがあると、この国ではみんな聖地に行ってお祈りするんだね? 日本で神社に行って神頼みしたり、占い師に占ってもらうように、リーチに相談するわけだ」

「半分は合っていますけど、半分はそうじゃありません」とジエンは言った。「みんなお祈りに行くのはその通りなんですけど、行ってもそこにリーチはいません。彼らは常に国中を歩き回っているので、聖地には誰もいません。だから行っても別に答えは何もありません。ただ、不幸が解決するように祈るだけです」

「分かった。それで、これは、行った方がいいのかな?」

「そうですね、この国の人間なら、確かにこういう時は聖地に行くと思います。こういう、解決の仕方が全く分からない問題にぶつかったときは」

 俺は考えた。オガ・ドウは俺の方を見つめ続けていて、何事か言っている。すぐに行こう行こうと促しているのだと思う。そうすれば物事が良い方向に進むから、と。酔っぱらった顔でどこまで正気か読み取れなかったが、少なくとも悪意は感じられない。

 彼は輸入業を営んでいると言っていた。ということは何かしらこの街やこの国にネットワークを持っている可能性がある。俺は支社の3人以外、この国で何も繋がりを持っていない。「聖地」とかいう場所が何なのか全く分からないし、要は神頼みなわけで何も解決はしないだろうが、役に立つにせよ立たないにせよ、彼との今後の会話が可能な関係を構築しておくだけでも無意味ではない気がする。

 俺が頷くと、オガ・ドウは満足そうに微笑んで、俺の肩をばしばしと叩いた。彼を先頭に、俺とジエンは並んで歩き出した。

 駐車場までいったん戻り、売店の反対側に回り込んだ。そこには標識看板とともに、また異なる小道への入り口があった。石畳が敷かれているが、火葬場までの道よりももっと細く、人がぎりぎりすれ違うことができるくらいの幅しかない。木々が屋根のように覆いかぶさり、先の方は明かりがなくほとんど見えない。

 スマートフォンのバックライトを明かりにしてオガ・ドウが先導した。俺は足元に注意して一歩一歩踏み出した。石畳がずっと続いているようだが、時々石がうまく嵌っておらずぐずぐずしている。暗いので高低差も分かりにくい。人の気配がなくやたら静かだが、遠くから聞いたことのない虫の鳴き声がする。虫よけスプレーでも振ってこればよかったかもしれない。

「さすがに少し視界が悪いですね。才川さん、転ばないように注意してください」

「ジエンはこの聖地には来たことがあるんだね?」

「一度だけ。でもずいぶん昔です。小学生の頃に遠足で来ました」

 オガ・ドウが振り向いて何か言った。ジエンがそれに応える。

「昔ファン・ドウとここで遊んでいたら、かくれんぼしているうちに彼がいなくなって丸二日見つからなかったことがあったそうです」

 昼間の暑さは完全に消し飛んで、森の中はひんやりとしている。俺は昔行った、京都の伏見稲荷を思い出した。どこまでも立ち並ぶ無数の鳥居の門を潜り抜けていくうちに、洞窟に入り込んだような気分になったのだが、森のトンネルはそれと似たような感覚がした。昼間にやって来るならば、木洩れ日と爽やかに木々をそよぐ風に包まれ、きっと良いハイキングコースに違いないが、何しろ今は暗くてほとんど何も見えない。

「才川さん、言い忘れていたことがありました。ここでは虫は殺さないでください」とジエンは言った。「リーチは様々な手段で未来の言葉を我々に伝えますが、千年前にこの聖地で焼身自殺したリーチの場合は、動物や虫や植物の声が聞こえたらしいです。鳥や虫の鳴き声や、木々がざわめく音を聞いて、私たちに行くべき道を預言するわけです。ですからここでは虫も植物も神聖な存在です」

「分かった、気を付ける。日本の神社でも、敷地内で殺生は厳禁だ」

 道の幅が少しずつ膨らんでくる。石畳が途切れ、足音が砂利のざくざく言う音に変わる。道の脇に並ぶ木々の背が徐々に高くなり、合間にはっきりと夜空が見え始めた。異様なほど眩い星空だ。俺はこんなに明るい星空を見るのは久しぶりで、見上げているうちに道に躓きそうになった。見下ろすと星空のおかげで暗闇にかなり目が慣れて、あたりの様子がだいぶ見えるようになった。枝葉を自由にうねらせた大きなガジュマルの木々が、どこまでも続いている。視覚のおかげで水の気配のような何か湿った空気が身近になり、森の底を這う虫や爬虫類の存在を遠からず感じる。最初ぼんやりと、そしてすぐにはっきりと、道の向こうに光が見えた。それはこちらに向かってゆっくりと近づいてくる。

 別の参拝客たちだった。がやがやと喋りながら、旗と懐中電灯を持った中年女性を先頭に、十人以上の男女がやってきた。彼らは崩れた二列縦隊を形成して俺たちとすれ違った。すれ違いながら、彼らがナコン、と声を掛けてくると、オガ・ドウもジエンも同じ言葉で答えた。

 俺もナコン、と言った。たぶん、こんばんはとか、ごきげんようとかそういう意味だ。

 大声でしゃべりながら彼らが通り過ぎて行き、気配が完全に遠ざかると、周囲は風と俺たちの足の音だけになった。

 そしてまた道が細くなる。ガジュマルの枝が天井を覆い、夜空が遠ざかる。少し勾配がきつくなり、オガ・ドウの呼吸が荒くなってきた。呼吸と言うよりほとんど言葉に出して、ふうふうと言っている。それほど人のことは言えないが、この体型だと完全に運動不足だろう。イーアの男は引き締まって鍛えられた体格か、緩んでだらしない体をしているか、極端に分かれているように見える。

 突然、何もないところでオガ・ドウが立ち止まった。俺はぶつかりそうになりながら踏みとどまった。

 オガ・ドウはスマートフォンのライトを消して、膝に両手をあて、深呼吸を繰り返している。もう限界なのか、と俺は思った。

「着きました」とジエンが言った。

「え?」と俺は言った。

 俺はあたりを見回した。

 特に何もない。

 何もないと言うか、さっきまでと何の変化もない。緩い坂道はまだずっと先まで続いていて、ガジュマルやアカギやその他名前を知らない木々も同じ調子で並んでいる。暗闇の中で、特に広がりも収縮点もなく、代わり映えのしない森のハイキングコースの途中にしか見えなかった。

「ここが聖地?」

「そうです」とジエンは言った。「言ったでしょう、何も無いって」

 俺はぼんやりと頷いた。だがそれにしても何も無さすぎる。

「やっぱり平日の夜中だと人がいませんね。よかったです。ここは狭いので、昼間だとこうして立ち止まることもできません。いつもはみんな通り過ぎながら一瞬だけお祈りしていくんです。今日はゆっくりお祈りしていきましょう」

 俺は頷いた。

 だが、何も無いので何に向かって祈ったらいいのか分からなかった。

「お祈りって、どうしたらいい?」

 ジエンがオガ・ドウの方を手で示した。彼はさっきと同じ姿勢で、両ひざに手を当てて俯いたままだった。彼は小さな声で何かつぶやき続けている。彼は疲れてそうしているのかと思ったが、そうではなかった。

 オガ・ドウが頭を垂れるすぐ先、ガジュマルの根元でツタが這う合間に、石が二つ置かれていた。角が丸くて平たい、大きめの漬物石くらいの石だ。無造作に横たわるその石は、一方は土に埋もれ、それにもう一方が斜めにもたれかかり、周囲の森の景色に完全に溶け込んでいた。

「みんなあの石に向かってお祈りするんです」

「あれは何なんだ? リーチのお墓?」

 ジエンは首を横に振った。

「分かりません。リーチは、千年前も、今も、死んでもお墓には入りません。あの石が何なのかはよく分かっていません。もともとはリーチが星を生んだ時に分かれた欠片だとか、リーチがこの地の安寧を願って作った石人形だとか、いろいろな説があるのですが、答えが何であれ、今のあの石はそのいずれでもありません。あの石は30年前にここに置かれました」

「結構最近なんだね」

「その前のものは台風に流されたんです。その前のものも、その前の前のものも。無くなったり盗まれたり割れたりするたびに、リーチが新しい石をどこかから持ってきてここに置きます。この石はただの目印で、何の意味もないという学者もいます」

 俺は無言で頷いた。

「一応確からしいのは、1000年前にリーチがこのあたりで死んだということだけです。獣道をかき分けて、何故かここと定めてリーチは自分の体を焼きました。その時はきっとこのガジュマルの木も無かったでしょう」

 俺は暗闇の中で目を凝らして、ほとんど無造作に転がった、何の変哲もないただの石を見つめた。そこに神聖性があると言われればそうかも知れなかったし、曰くがあると言われれば幾らでも意味を読み取れるような気もした。だが、そのような見方は、世の中のほとんどすべての物事に神秘性や重大な意味が込められていることになるのと同じことだった。それは一つの真実かも知れなかったが、その代わり、他と明確に異なる意味を見出すのは限りなく難しくなる。石は、見れば見るほどただの石ころとなって行った。

 だが俺は頭を垂れた。オガ・ドウと同じ格好で、少し足を開いて膝に手をつき、目を閉じて俯いた。神聖であろうとなかろうと、石が置かれたのが1000年前だろうと30年前だろうと、俺が何か感じようと感じまいと、オガ・ドウとジエンがこの地が聖地だと言うなら俺がそれを尊重しない理由は何もなかった。昨日この国にやってきたばかりの人間にできるのは、理解ではなく想像することだけだった。1000年前にここで一人のリーチなる者が死んだ。俺はベトナムのラビのように体を燃やすその炎を想像した。その時その火は燃え広がってこの森の木々を一度焼き尽くしたかもしれない。

 カラマックスを盗んだ泥棒が捕まりますように、と俺は祈った。それしか祈らなかった。これからのこの国での俺の身の安全や、海香の心身の健康や、海老のビジネスの成功など、祈ることはいくらでもあるかもしれない。だが多分イーアの神も日本語で複雑な願い事をされてもよく分からないだろう。

 しばらくして俺が顔を上げると、オガ・ドウもジエンもまだ祈り続けていた。がさがさという音が聞こえて、俺はあたりを見回した。3回首を振ったところで気が付いた。木々の奥に鹿がいる。小さな鹿だ。こちらを向いていて、星明りに照らされて目が光っている。俺はしばらくその鹿と見つめあった。

 鹿がふと走り去ると、ジエンは顔を上げ、オガ・ドウも低くうなりながら祈りを終えた。オガ・ドウは眦を指で拭い、大きく息をついて俺に話しかけてきた。

「リーチは答えてくれましたか、と」とジエンが言った。

「はい、たぶん」と俺は曖昧に言った。

 ジエンが翻訳すると、オガ・ドウは声を上げて笑った。

「リーチはいつでもここにいるし、どこにもいないし、どこにでもいる。この国で困ったときはこの聖地のことを思い出して、この方向に祈ると良い、と言ってます」

 ジエンがそう翻訳して、俺は分かりました、と言った。

「戻りましょうか。戻るときにはちょうど火葬も終わるころだろうと思います」

 俺は頷いて腕時計を見た。10時45分。

 帰りのなだらかな坂道を下りながら、俺は深呼吸をした。目が完全に夜に慣れて、スマートフォンのライトがもう必要ないほどで、静寂に包まれた森の様子がはっきりと見える。俺は背後の聖地に振り返った。だがどう目を凝らしても、さっきまでの場所が、他とどう違っているのかは分からなかった。

 オガ・ドウが引き続き先頭に立って歩いていて、彼は俺とジエンの方に振返りながらしきりに何か話しかけた。ジエンが適当な感じで答え、そのたびに会話は途切れたが、オガ・ドウは何度も話しかけてきた。

「どんな話をしてる?」と俺は訊いた。

「才川さん、野球はやりますか?」

「子供のころはやったけど」と俺は言った。「野球がどうかした?」

「この国では野球が物凄く盛んです。小学生から社会人まで、大体みんなどこかの野球チームに所属しています。中でも王様の名前を冠した大きな大会があって、それがもうすぐ開催されるんです。自分の会社のチームに入らないかと言ってます。ファン・ドウが亡くなって欠員が出てしまったから代わりのメンバーを探していて、才川さんは日本人だから、野球が結構うまいんじゃないかと思っているみたいです」

「残念だけど運動不足で、現役で練習し続けてる人の助けにはなれないだろうな」

 ジエンが翻訳して、オガ・ドウが残念そうなため息をついた。

「海老も野球チームを作るべきだと言ってます。強くなれば宣伝にもなるから、と」

「メンバーが足りなさすぎるな。ジエン、君も野球をやるだろ?」

 はい、とジエンは言った。「でも私は既に別のチームに入っているので無理ですね」

 そうだろうと思った、と俺が言った瞬間、オガ・ドウとジエンがいきなりその場にしゃがみこんだ。

 え、と俺は反射的に呟いた。

 二人の動きは一瞬で、ほとんど同時だった。俺は二人の背中を見下ろした。ジエンもオガ・ドウもその場に両ひざをついて俯いていて、ぴくりとも動かない。

 なんだ、と俺は声に出した。だがジエンもオガ・ドウも何の反応もしない。いきなり電源コードを引き抜かれた掃除機のように。

 俺は周囲を見回した。空気も景色もさっきまでと何も変わらない。何か危なっかしい野生動物でも現れたのかもしれない。だが俺には森の中に何も見えない。

 どうした? と俺は身を屈めてジエンの耳元で囁いた。

 ジエンの唇が小さく動いた。何か言ったようだったが、声が小さすぎて聞き取れない。俺は首を横に振って、聞こえない、と言った。

「リーチです」とジエンはかすれた小さな声で言った。

 俺は顔を上げて正面を見た。そして全身に鳥肌が立った。

 暗い道の向こうにぼんやりと、一体の影が立っていた。さっき慌てて首を振った時には何も見えなかった。だが改めて見ると、それははっきりとそこにいた。風景にほとんど溶け込んでいる、影の塊のような何かが。その影の天辺には何か動物の生首のようなものが掲げられている。動物の首に影がぶら下がっている。

 そしてそれはゆっくりとこちらに近づいてくる。濃い色の布に全身を覆われていて足が見えず、足音も無い。ゆらゆら動いているようにも全くぶれないようにも見える静かな歩き方だった。暗い森の道の真ん中を、黒い空気の塊がゆっくりと移動してくるような感じがする。

 近づくにつれはっきりと見えてきた。動物の生首に見えたのは、大きな仮面だった。何を象ったものなのかよく分からない。鹿か牛か何かの有蹄類をモチーフにした印象だったが、縦長で小さな耳がついているからそう感じただけで、そのT型の亀裂が刻み込まれた白い顔が、実際は動物なのか人間の別の姿なのか神なのか分からない。仮面の周囲は何かツタのような植物で覆われている。何の飾りも無い、濃い黒か灰色の装束は、壁にかかったカーテンのように足元まで垂れ下がって縫い目がない。

 俺は立ち尽くしていた。ジエンもオガ・ドウも全く体を動かさなかった。じっと俯いたままで、まるで大名行列に出会った農民のようにほとんどひれ伏している。俺も二人と同じように跪くのが正しかったのかもしれないが、体が動かなかった。近づいてくる仮面から目を逸らせずに、リーチはどこにでもいて、いつもこの国中を歩き回っている、というジエンの言葉を思い出した。

 あれがそうなのかと俺は思った。たぶん、ジエンに言葉で教えられなくても、先に姿が見えていたら俺にも分かっただろう。たとえ30分前にこの国に着いたばかりだったとしても、普通の人間ではないということだけは分かる。普通の人間と違うと言うより、人間でないものに見える。

 何も音がしなくなったような感じがして息が詰まり、俺は深呼吸した。

 俺が深呼吸を繰り返すうちに、リーチはあっさりと俺たちの目の前に立っていた。立ち止まって、仮面の顔を俺の方に向けた。俺は無意識のうちにまた息を飲んだ。通り過ぎると思い込んでいた。

 リーチは小さな体で、仮面だけが異様に大きかった。俺はその仮面と真っすぐに向かい合った。T字の亀裂の向こうに目があるはずだったが、暗闇に隠れて何も見えない。

 だが俺を見ているということは分かる。

 仮面の人物は俺に向かって語り掛けた。落ち着いた、イーア語の声だった。早くも遅くもなく、大きくも小さくもない声だった。

 そして女の声だった。

 年齢は分からない。俺とそれほど変わらないようにも、もっとずっと年を取っているようにも聞こえる。そして何を言っているのかももちろん全く分からない。これまでと同じ調子で安易に相槌を打つように頷きそうになったが、そうするのが躊躇われた。

 ジエン、と俺は呼んだ。「ジエン。翻訳してくれ」

 だがジエンは動かなかった。ひれ伏したままで、その頭はリーチの方を向いてさえいない。オガ・ドウも同じだった。

 俺は迷った。リーチがこうして個人に語り掛けるということが普通のことなのか例外的なことなのかすら分からない。黙って言葉を承ればそれでよく、反応など求められていないのかもしれない。俺は適当に、シアラ、と言って頭を下げればいいのかもしれない。

 だが俺はもう一度言った。

「ジエン、頼む。翻訳してくれ」

 ジエンはゆっくりと顔を上げた。だがその顔は俺の方もリーチの方も向いていない。

「才川さんを歓迎すると仰っています。太陽と雨の恵みが才川さんにあるように、と」

「ありがとうございます」と俺は言って、シアラ、と付け足した。

 リーチは微動だにしないまま、再び静かな声で語った。

「困難は誰にでも訪れる。待つべき時がある。たとえ孤独でも」とジエンは翻訳した。

「分かりました」

 俺がそう言うと、リーチは足音を立てずに俺の目の前を通り過ぎた。風が通り過ぎるような感じだった。

 俺は首を動かしてその背中を目で追うことができなかった。呼吸も何となく憚られた。ゆっくり5つ数えて、大きく息を吐きだした。

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