第1話 太陽の国、初日 ③


 ジエンがヒアリングしたところ、孫の行動履歴と人物像は次のようなものだった。

 孫は午前11時に家を出た。このマンションから徒歩圏内に輸入品のカラマックスを取り扱っているデパートがあり、孫は100ギン(約350円)を持ってそこに向かったはずだったが、昼ご飯の時間を過ぎても帰ってこない。孫はどこに遊びに行っても必ず昼ご飯は食べに帰ってくる習慣がある。それに昼ご飯は孫の好きなギオミン(日本の焼きそばのようなものらしい)だと言っておいたから、帰ってこないのは余計におかしい。老夫婦はデパートに行ってみたが、そこに孫の姿はなかった。息子夫婦や警察に連絡をとり、近所の知り合いにも協力を仰いだが、今もって何の手掛かりもなく、見つかる気配はない。息子の嫁、つまり孫の母親は今も町中を走り回って孫を探している。

 孫の服装は、ゲームのキャラクター(ジエンが詳しく聞き出したところ、おそらくは「ボンバーマン」)がプリントされたTシャツとハーフパンツとサンダル。短髪で、肌は比較的色黒で、大きなくりくりとした目をしている。やせ形で活発で物おじせず、人見知りと言うものを知らない。テレビやスマートフォンでのゲームやサッカーが好きで、毎日そこらじゅうで遊びまわっている。

 なるほど、と言いながら俺は、そんな子供はさっきここに来るまでにすれ違った子供たちをはじめとして、この国に幾らでもいるように思えた。

 時刻は午後5時を回ったところだった。孫がいなくなってから既に6時間が経ち、そして俺がこの国に着いてからまだ3時間しか経っていないわけだった。

 ジエンは最後に老人のスマートフォンから孫の写真を転送してもらって受け取った。分かりました、探しに行ってきます、と言って俺とジエンはアパートを出た。夕方が近づいているというのに、相変わらず凄まじい日差しだった。相変わらず子供たちが車道で汗をかきながらサッカーに勤しんでいた。

「どうしますか?」とジエンは俺に聞いた。

「私も同じことを聞こうと思ったところだ」と俺はサッカーに興じる子供たちを眺めながら言った。「さっきの情報に少しでも手がかりがあったんだろうか? あまりにも一般的すぎて、個人の行動を特定できるようなヒントに欠けていたように思える」

「私にも分かりません。でも、あのお爺さんとお婆さんは、結構たくさんの人に相談しているようです。この周辺は、既にかなり細かく探されているんじゃないでしょうか。だから私たちはそれとは違う場所を探すべきなんじゃないかと思います」

 まあそうだろうね、と俺は同意した。俺は自分のスマートフォンにも転送された孫の顔写真を見つめながら、しかしそれは一体どんな場所だろう、と思った。どこへ行こうと、俺にとってはこの国の全てが未知の場所だ。

 俺たちは何となく、どこへともなく歩き出した。突っ立って日差しに打たれていると汗がだらだらと噴き出してくるので、日陰を選んで進んだ。

「ジエン、君はどんな子供だった?」

「どうして今そんなことを聞くんですか?」

「この国の子供が行きそうな場所が全然見当がつかない。この国では子供は何を考えて生きているんだろう?」

「子供のころのことはあまり覚えてないですね」

 ほんの数年前まで子供だっただろう、と思いながら、どんなことでも構わないよ、と俺は言った。「私は子供のことだけじゃなく、この国のことも知らなすぎるんだ」

「そうだなあ」とジエンは言って、空を仰ぎ、うつむいた。「私は勉強するか野球をするかしかしてませんでした。それ以外のことは特に何もしてなかったような気がします。今でもそうです。才川さんはどうですか?」

「私は、大体、本読んだりゲームやったり映画観たりしていたよ。ときどきはさっきすれ違った子供たちと同じように、サッカーやったり野球したりしていたかな。でも今は、私よりこの国の人のヒントが欲しいよ」

「いや、たぶん同じですよ。私は日本の漫画をたくさん読んだから大体想像がつくんですが、イーアの子供と日本の子供は結構似てます。それぞれは違うことをやっていても、群衆になると大体同じものが好きですよ。テレビゲーム、漫画、サッカーや野球。ポケモンもドラえもんもアベンジャーズもみんな大好きです。どちらかと言えば、勉強をしない子とする子の差が日本よりも大きいかもしれません。イーアは学歴があまり意味を持たなくて、EQや技能の方に意味があるから、頭のいい奴はどんどん上に行き、勉強しない奴はとことんやらなくなるんです。でもたぶん違いはそれくらいです」

「と言うことは、私たちは私たちの子供のころを思い出せば、それだけ孫に近づけるのかな」

 そう考えるしかないですね、とジエンは言った。

 俺たちは大通りに出て、目の前に立つ巨大なデパートのビルを見上げた。その通りはデパート以外にも喫茶店やパブや高級衣料品店が軒を連ねる繁華街だった。そして相変わらず猛烈な勢いで車とバイクが行き交っている。そこまで所得が高い人たちが住んでいると思えない住宅街と繁華街がほとんど隣接しているのだ。

「あのデパートですよ、孫がカラマックスを買いに行ったのは」

 ジエンがそう言い、俺は頷き、そして俺たちは吸い込まれるようにそのデパートに入っていった。行くところが他にないのだからどうしようもない。化粧品売り場が並ぶ1階フロアの中央にエスカレーターがあり、そこを下っていくと食料品売り場になっている。日本のデパートの構造と全く同じだった。

 ジエンが慣れた足取りで棚の間をかき分けていくのに俺は付き従った。お茶や調味料が並ぶ棚の向こうに、お菓子売り場があり、その一角でジエンは立ち止った。彼女の目の前の棚は、その部分だけぽっかりと空洞になっていた。

「ご覧の通りです」とジエンは言った。「みんながここにカラマックスを買いにやってくる。しかしこうしてあっという間に売り切れる。常に品切れ状態です。どこのデパートでも似たようなものです。見てください、周りに置いてある別の海老の商品も、他のお菓子に比べて減りが早い。みんなカラマックスに飢えていて、仕方なくそうしているんです。でも、ヘロインを切らした麻薬中毒者が安い合成麻薬で欲求を誤魔化すようなもので、根本的な解決にはなりません。ヘロインの禁断症状はヘロインでしか解決しないんです」

「何故この国の人はそんなにカラマックスが好きなんだろう」と俺は棚の空洞を見つめながら呟いた。

「私にも分かりません。他に絶対に無い味なのは間違いないですけど、なぜここまで誰もがはまってしまうのかは分かりません。好きな理由が完全に分析できてしまうものに人ははまらないでしょう? 元の国よりも海外だけで異常に人気が出る俳優がいたりしますけど、それと似たようなものなんでしょうか」

「君もカラマックスが好き?」

「当たり前じゃないですか」とジエンは俺の質問が終わりきる前に答えた。「私が海老に入った理由の半分くらいは、カラマックスが幾らでも食べられると思ったからです。ただ、その当てはかなり外れましたけど。実際こうして店であっという間に売り切れてしまうので、サンプル品として大量に会社に蓄えておくような余裕もないし、会社に在庫を置いておくと、直接買いに来たり盗もうとするやつらがいるからです。いざという時の商談や調査用のためのものしかなくて、それも銀行の貸金庫に保管されています」

 なるほど、と俺は呟いて思案した。「それで、孫はどこに行ったと思う? 彼はカラマックスを買えただろうか?」

「いや、駄目だったんじゃないでしょうか。カラマックスが日本からやってきて入荷されるのは、問屋からのルートにもよりますけど、2週間に一回くらいで、このデパートは今日その周期に無い。買えなかったんじゃないかと思います」

「だとすると、多分カラマックスが大好きな少年だったら、多分別の店に探しに行くと思う。私が子供だったらそうする」

 そのとおりですね、とジエンは深く頷いた。「才川さんちょっと待ってください。助けを頼みます」

 ジエンはスマートフォンを手に取って電話を掛けた。何拍か待って出た相手に、ジエンは短く何かを告げた。二言三言会話するうちに、すぐに通話は終わった。ジエンがまだ話している途中で、相手が電話を切ったようで、ジエンは眉間にしわを寄せて唇を尖らせた。

「今のは、うちの社員?」と俺は訊いた。

「そうです。こいつは電話が嫌いなんですよ」とジエンは液晶の消えたスマートフォンを指さして言った。「でも技術はあるというか、仕事はできます。やる気がないことは全くやらないですけど。ウチの調査担当の、パンと言います」

「気難しい人みたいだね」

「気難しいというかそれ以前に物凄いデブです」とジエンは言った。「イーア人であれほどのデブは珍しいです。会ったらたぶんびっくりしますよ」

 俺はとりあえず頷いた。気性の問題よりも体型の問題の方が先立つと言うジエンの発言のニュアンスはよく分からなかったが、確かに、今のところ俺がすれ違ったイーア人は大体みんなやせ形で、せいぜい小太りくらいの恰幅の人物にしか巡り合っていない。

 どうしてこの国の人はだいたい痩せているのか、と訊こうとする前に、ジエンのスマートフォンにメッセージが着信した。ジエンがメッセージを開くと、そこにはマップが表示されていた。マップの幾つかの場所に赤いピンが立っている。

「パンから情報が来ました。これは、このあたりでカラマックスを取り扱っている店舗を地図に表示したものです。ここはこの国でも中心街と言ってもいい地域だから、まあまあ輸入品を取り扱っている店が多いですね」

「物凄く仕事が早いね」

「パンの仕事は極端なんですよ。こうして一瞬で片づけることもあれば、一週間かかっても全く進めていないこともある。デブの考えることはよく分かりません」

「とにかくこれは頼りになる」と俺は言った。「どうだろう、手分けして探すのが効率がよさそうだが」

 ジエンは頷いた。

 俺はジエンにマップの情報を共有してもらい、協議の結果、俺がここから東、ジエンが西の地点の店舗を探すことにした。とりあえず2時間探す。手がかりがあっても無くても2時間経ったら連絡を取り合い、老夫婦に進捗を報告することにする。俺たちはそう決めてデパートを出た。




 俺が辿り着いた三店舗目は菓子や茶や調味料などの大量の輸入品を取り扱う路面店で、そこにもカラマックスは無かった。棚の文字が読めないので、もともと取り扱っているのかどうか本来俺には分からないはずだったが、前の2店舗と同じように、スナック菓子が居並ぶ、狭くぎゅうぎゅう詰めの棚の途中で不自然にぽっかりと空洞ができている場所が一か所だけあり、そこが失われたカラマックスの席なのは明らかだった。

 俺は小さく首を横に振った。俺は海老日本本社のカラマックス担当営業にこの光景を見せてやりたいと思った。日本とはまったく事情が逆だ。日本ではむしろ、カラマックスは棚落ちして取り扱われない危機に瀕しているというのに、ここでは月に1~2度のカラマックスの補充を誰もが今か今かと待っている。大作テレビゲームの発売日を一日千秋待ちわびている少年たちのように。

 イーアの人々のカラマックスに対する情熱はどこから来ているのだろうか? そしてそれは果たしてどれくらい持続するのだろうか? もちろんもっと時間をかけて、いろいろな人の話を聞かなければならなかったが、直感的に俺は、これは決定的で運命的な執着なのではないかと思った。燃焼によって炭素と酸素が決定的に結合するように、イーア人とカラマックスは互いを求めあって分かち難い関係になりつつあるのではないか。

 俺はマップに表示された四店舗目に向かった。どんな建物の中も冷房ががんがんに効いているため、外との気温差が尋常ではなく、俺はぐしゃぐしゃに汗をかくのとそれを一気に冷やされるのをさっきから何度も繰り返している。四店舗目は商業施設の集合したビルのようだった。近づいていくと、ビルの足元は各店舗の商品陳列が大きく張り出して、一面露店に囲われているようになっている。やたら古びたビルだ。茶色というか黒というか灰色というか、要するに古びて汚れているのだが単純な色で言い表せない。背が低く幅広で、形は新橋のニュー新橋ビルに似ているが、それをさらに二〇年くらい掃除せずに放っておいたらこうなるのではないかと思った。

 ディズニーや日本の漫画キャラがプリントされたTシャツが並ぶ露店や、粗雑な印刷でスタジオジブリのキャラクターが刻印されたスマートフォンケースが大量に吊り下げられた店や、大量のチープカシオの腕時計の模造品が並ぶ店を、俺は足早に通り抜けた。東南アジア圏内であればどの国でもよくある光景だろうが、何もかもコピー品だらけだ。どの店にも客引きがいて、やる気があるのかないのかよく分からない張りのない声で俺に声を掛けてきた。だが何を言っているのか分からないし、今はトトロとミッキーマウスが並んで肩を組むスマートフォンケースをお土産に買っている場合ではなかったので、手を振って通り過ぎた。

 露店の群れを通り過ぎてビルに入った時、俺は反射的に口を押えた。妙な臭いがしたからだ。今まで嗅いだことのない臭いで、一言では妙としか言いようがない。多分何かが黴ついたか発酵したかした臭いなのだが、その何かが生物なのか、鉱物なのか、植物なのかも分からない。あえて言うなら冷えた血の臭いのような感じだったが、その血は俺が知っている動物の血ではない。

 それにやたらと埃っぽい。ビルは入口から入ってすぐ十字路になっていて、携帯電話や派手なサテン生地の洋服や瓶詰の薬を売る商店がずらりと並んでいたが、俺はそれらを眺めるよりも、この臭いと埃っぽさは何なのかが気になった。一方の正体はすぐに分かった。歩いていくと床には実際にうっすらと埃が積もっていて、無数の見分けがつかない足跡で埋め尽くされている。さっきのデパートは品がよく小綺麗だったから例外もあるのだろうが、この国の多くの場所では定期的な掃除という習慣が無いようだった。だから町全体の色数が少ないように見えるのだ。

 俺はマップに従って歩みを進めた。それぞれ5メートル四方くらいの売り場を構えたテナントたちの前を通り抜けて、俺は上階に上るエスカレーターを探した。俺の目当ての輸入食料品店は2階にあるはずだった。ビルの中にはあまり人が歩いていない。いるのはテナントの売り子だけで、外の露店と同じように俺が通り過ぎるたびに義務的に声を掛けてくる。俺には、横目に見るだけではこのビルの商売が繁盛しているのかどうか分からなかった。

 俺は辿り着いたエスカレーターに足を踏み出したが、動いていない。動いていないので、エスカレーターではなく階段である。例の気持ち悪い歩幅で俺は一歩ずつ段を登った。それより気になったのは、エスカレーターの溝という溝に充満したゴミと埃だった。あえて、何かの目的をもって多数の人間が協力し合ってこのように仕上げたとしか思えないほど、紙くずやガムの包み紙や髪の毛や菓子やパンの食べ残しといった多様で多重なゴミが敷き詰められている。俺は人生でこんなに汚いエスカレーターを見たのは初めてだった。

 2階は閑散としていた。客が歩いていないのは一階と同じだったが、空きテナントがずいぶんある。カラオケボックスとUFOキャッチャーをいくつも構えた店が明るい照明を明滅させているが、がらんどうの空間に向かって照射されているので逆にさみしい印象しか受けない。その光を通り抜けて、真っ直ぐ行った突き当りに俺の目当ての店はあった。

 赤や黄や緑の色とりどりのパッケージに包まれた菓子や茶がぎゅうぎゅうに詰め込まれたそのテナントは、日本の「ドンキホーテ」の食料品コーナーだけを切り取ったようなタイトなスペースだった。日本の品だけでなく、中国のお茶やフランスのチョコレートやスペインのワインや、アジアとヨーロッパを問わず様々な飲料食料が集まっている。俺は入り口付近にいた店員に会釈して店の奥に入っていった。

 きょろきょろ棚を見回して狭い通路を抜けていきながら、俺は感心した。これほど大量に世界各地から食料品を集めて取り扱っている店は、日本にも勿論似たような店はあるにはあるが、少なくともこんな小さなテナントでそれをやっているのは初めて見た。今にも棚から瓶詰やチョコレートの箱が崩れ落ちてきそうで、俺はぶつからないように注意しながらスナック菓子のコーナーに辿り着いた。そこには先客がいた。

 子供だった。少年の二人組だ。小学生になったかならないか、それぐらいの年のころだった。どちらもTシャツにハーフパンツという格好で、一方はLAPDとプリントされたシャツを、もう一方はサッカーブラジル代表のユニフォームを模したシャツを着ていた。彼らは正面の棚を真っ直ぐに見つめて、微動だにせず立っていた。そして、彼らの姿を見かけた瞬間に反射的に予想されたことだったが、彼らが見つめているのは何もない空間だった。

 俺は、彼ら二人と、これほどモノで敷き詰められた店内でそこだけ不自然に何もない空間とを、交互に見つめた。少年二人はどちらも俺が探している「孫」ではなかった。そして、彼らが探しているのはカラマックスに違いなかった。空白に向けられた無言で失望に満ちた視線がまぎれもなくそうだと語っている。

 俺は軽くため息をついた。ここにも孫はいなかったし、カラマックスもなかった。パンという社員が送ってきたカラマックスの取扱店舗が、あといくつ残っているのかまだ数えていなかったが、次の場所に行く前に、少しどこかで座って休憩したい気分だった。腹もかなり減ってきた。俺は機内でサンドイッチを二つ食べた後は、まだまともに食事をしていない。

 俺は適当に棚にあったクッキーとチョコレートを手に取り、店の入り口近くにあったエビアンのペットボトルを一本持ってレジに向かった。眠そうな目をした店員に、支払いを、と英語で言ったが、多分通じていないだろう。とにかく俺は空港で両替したギンで料金を支払って店を出た。そして、動いていないエスカレーターの近くにあった長椅子に腰掛けてクッキーを齧った。適度に塩味の効いた美味いクッキーだった。汗をかいて疲れている体にはちょうどいい。

 クッキーを齧っていると、食料品店からさっきの二人の少年が出てきた。二人の足取りは重く、明らかに意気消沈していた。お互いを見ず下を向きながら何かを話しあっていて、彼らにとってのこの世の終わり、すなわちいきなり親にテレビゲームを取り上げられたか、応援しているサッカーチームが5対0で負けたかのどちらかが起こったかのような暗い表情だった。時間が経つとどうでもいいことなのだが、その瞬間にはこの世で最も重要なこと、というものをどんな少年もたくさん抱えている。そして決まって、大人になるとその重要だったはずの物事はきれいさっぱり失われる。

 彼らが俺の前を通り過ぎ、あと一歩で動かないエスカレーターに足を踏み出すという時、俺は、ねえ、と二人に声を掛けた。

 最初にブラジル代表のシャツの少年が振り向いて、次にLAPDが振り向いた。

 俺は軽く微笑んだ。

 そして、どうするつもりだろう、と自分自身に思った。

 俺はどうするつもりだろう。相手に英語も日本語も通じないし、俺はイーア語が全く分からないというのに。二人は俺の方を見ていて、ブラジル代表が何か小さな声で言った。クッキーは要らないよ、とでも言ったのだろうか。

 俺は首を横に振った。これを出せば会話は要らないはずだった。

 俺はリュックから、深紅の光沢の包装紙に包まれた菓子を取り出した。その袋には、赤い香辛料がまぶされたポテトチップスの写真を背景に、少年と犬が並んで口から火を噴いている漫画イラストが描かれ、彼らの頭上には巨大なギザギザの書体でこう書かれている。

〈カラマックス〉

 俺はその菓子を、彼らに向かって差し出した。彼らが探し求めてやまないもの、そのものを。

 二人は同時にうわああ、と叫び、次の瞬間には俺の目の前にいた。ブラジル代表は何度もジャンプを繰り返して奇声を発し、LAPDは眉間にしわを寄せて何度も同じ単語を繰り返した。彼らの視線は俺の顔とカラマックスを何度も高速で往復し、そしてやがて振り子が収束するようにカラマックスだけを凝視するようになった。LAPDはずっと同じ言葉を繰り返し続けている。

 ああマジだ、と俺は言った。「正真正銘、本物のカラマックスだ。日本から少しだけ持ってきたんだ。君らにあげる」

 俺が二人に押し付けるようにカラマックスを改めて差し出すと、二人は同時にポケットに手を突っ込んで、同時に紙幣を取り出した。

 俺は首を横に振った。

「今日は要らないよ。そんなにカラマックスを好きでいてくれてありがとう。カラマックスの開発担当や営業が君らの様子を見たら大喜びするだろう。俺が代わりに礼を言うよ。本当にありがとう。だから今日はお金は要らない」

 ブラジル代表とLAPDは首を傾げた。もちろん何を言っているか全く伝わっていない。子供相手では英語で言い直したところで同じだろう。

 仕方がないので、俺はカラマックスの包装をその場で開いた。その瞬間、ビルに満ちた慣れない異臭や埃っぽさを圧倒して、あの独特のハードな香辛料の香りがあたりに花開いた。日本にいる間、毎日何度も何度も嗅ぎ続けたおなじみの匂いだったが、何故か昨日までと違う感覚がした。鳥かごにとらわれていた野鳥が、本来棲むべきジャングルの中で生き生きと飛び回って極彩色に溶け込むように、きつすぎる香りがあたりのムードにしっくりと馴染んでいた。

 そして俺は再び二人に向かってカラマックスを差し出した。

 ブラジル代表とLAPDは順番に袋の中に手を差し込んで、一枚ずつカラマックスを取り出した。赤く染まったポテトチップスを、二人はほとんど同時に口にした。

 俺は以前、何かの映像で、生まれて初めてアイスクリームを食べる子供の様子を見たことがあった。二人の表情はそれと全く同じだった。まるで今ここが極楽浄土と化したかのような、欠けるものがない完璧な幸福そのものの笑顔だ。俺はこの菓子を満面の笑みで食べる人間を初めて見た。海老の社内でも、何人かはこの菓子を苦虫を噛むように食うものがいる。日本の小中学生はカラマックスをまともに食わず、友達との罰ゲーム用にしか買っていないと揶揄されている。だが彼らの一切嘘がない笑顔は、それとは真逆だった。俺は自分が突然ばいきんまんからアンパンマンに変身した気分だった。俺がカラマックスを袋ごと受け取るよう改めて促すと、ブラジル代表がやっと手に取った。

 ありがと、とLAPDが言った。日本語だった。

 どういたしまして、と俺は言った。

 そのとき彼らの背後に別の少年の姿が見えた。ブラジル代表たちよりもさらに小さい、幼稚園児くらいの少年だ。見えた直後には、彼は小動物のように素早く駆け寄ってきて、ブラジル代表とLAPDの背後に立って甲高い声を上げた。彼に続いて、停止したエスカレーターを何人かの子供が駆け上がってくるのが見えた。少年はその子供たちに振返って勢いよく手招きした。

 集まった彼らはカラマックスを指さし、大声で叫んだ。そして、カラマックス、と合唱した。ブラジル代表とLAPDは戸惑った表情で、俺の方をじっと見つめていた。

 まずいな、と俺は率直に思った。俺はすぐに立ち去ったほうがいいかもしれない。必要ならば、ブラジル代表とLAPDの手を引いて。だが、それは既に不可能だった。俺は長椅子に座ったままで、立ち上がれなかった。俺の背中に小さな女の子がのしかかっていて、肩越しにブラジル代表とLAPDが手に持ったカラマックスの袋だけを凝視していたのだ。振り返ると、俺の背後は既に更に別の子供たちに取り囲まれていた。

 あっという間に俺は子供たちに包囲された。カラマックス、カラマックス、の合唱に合わせて、子供たちは更に集まってきた。既に何人いるのか数えられない。一体彼らはこのビルのどこに潜んでいたのだろう。たまたまかくれんぼをして遊んでいた連中が匂いにつられて一気に集まってきたとしか思えない。彼らは半分は大騒ぎし、もう半分は無言で立ち尽くしていたが、正直言って、彼らは犬や猫にそっくりだと思った。行儀の良し悪しはともかく、ごちそうにありつきたいという目的は全員何も変わらない。

 かなりまずい、と俺は考えた。リュックに入れて持ってきたカラマックスは一つしかなく、飢えた狼たち全員の胃袋を満たすには数が足りなさすぎる。俺は周囲を見回して、誰か大人を見つけだして事態を収拾してもらえないかと思った。だがまともな大人はどこにもいない。さっきの食料品店の店員も、そういうリーダーシップがあるような目には見えなかった。

 右往左往する俺の視線が、俺を取り囲むうちの一人の少年の顔の前で止まった。

 くりくりの大きな黒い眼をした彼は満面の笑顔で、ひときわ激しく飛び跳ねていて、カラマックス、カラマックス、と誰よりも大きく叫び続けていた。彼は荒いドットで描かれたボンバーマンのTシャツを着て、ハーフパンツにサンダルを履いていた。

 俺はしばらくその少年の笑顔を見つめたあとで、あ、と言った。

 俺はポケットからスマートフォンを取り出して、写真フォルダを開いて確認した。目の前で、画像と同じ笑顔をした少年が笑っている。

 見つけた。

 間違いない。孫だ。

 ちょっと待って、と俺は言った。「ちょっとだけ静かにして。俺はその子に話がある。その子を探してた」

 だが誰も聞かなかった。まともな状況でも話など全く通じないというのに、完全な非常事態の今、俺の声に耳を傾ける者などいるはずがない。彼らが待っているのはただ一つ、「汝ら全員にカラマックスを与える」という一言だけだ。その言葉であれば言語の壁を越えて俺たちは理解しあえるが、そうでもないメッセージなど彼らにとって心底どうでもいいものに違いない。

 それに俺は孫に向かって結局何を言えばいいのか分からなかった。よく考えたらその通り、彼には俺の言葉が全く通じない。どうやって祖父母のもとに連れて行けばいいのだろう。「お爺さんお婆さんに頼まれて、君を探しにここに来た。二人が晩御飯を作って君の帰りを待っている。今から俺と一緒に帰ろう」、そうイーア語では何と言えばいい?

 自分でそれを言う必要はない、ということに気が付くまで、俺は子供たちに耳元で騒がれたり、服の袖を引っ張られたり、居心地の悪そうなブラジル代表とLAPDの視線にさらされていた。唐突に大量の小動物たちに取り囲まれたことで、一時的に判断機能がダウンしたのだ。

 俺はスマートフォンでジエンに電話した。4回目のコールで彼女が電話に出ると、俺は一方的に喋った。

「孫を見つけた。今俺の目の前にいる。いや違う、彼が俺を見つけた。俺が隠し持っていたカラマックスの匂いを嗅ぎつけたんだ。この電話をテレビ電話モードにするから、この子に、イーア語で、俺と一緒に家に帰るように説明してくれ。お爺さんお婆さんが心配しているから一緒に帰ろうって」




「才川さん、結婚はしていますか?」

 ジエンが俺の耳元でそう聞いた。俺がぼんやりと首を横に振って、どうして、と聞き返すとジエンは苦笑いした。

「あちらの女性が、才川さんに女性を紹介したいと言ってます。街で一番の美女だそうです」

 俺がグラスから口を離してジエンが手を示す方を見ると、中年の女性がにこにこと微笑んで俺を見つめていた。

 俺は再び首を横に振った、「すみませんが、日本に恋人がいるので勘弁してください、と伝えてください」

 ジエンが頷いて、女性に向かって話しかけると、彼女は残念そうな顔で大きく体を反らして、ああ、と言った。彼女の周りの女性が彼女の肩を叩きながら、俺の方に向かって何か言った。

 ジエンが俺の方に振返って口を開いたので、翻訳しなくていい、と言った。「その代わり、イーア語で『すいません』って何て言うか教えてくれ」

 ザオリ、です、とジエンは言った。

「ザオリ」と俺は女性たちに向かって復唱した。

 その間にも俺が手に持ったグラスには新たな酒が注がれていた。俺は唇の端を無理矢理上げて、酒を注いでくれた男に微笑んだ。

 この部屋の中にいったい何人の人間がいるのか俺は数えることができなかった。さっきから出入りが激しく、すぐに人が入れ替わり、そして合計としてはどんどん増えている。座りっぱなしのは俺とジエンと老人と老婆、そして孫の父親だけで、それ以外の人々は大体立って酒を飲んだり料理をつまんだりしている。誰一人何を言っているのか全く分からないし、自分が何の酒を飲んでいるのかも分からない。匂いは紹興酒に似ていたが、舌触りは似て非なる、やたらきつい酒だった。

 さっきまでいた孫はどこにもいなくなっていた。最初に孫の少年や、知りもしない子供たちが順々に俺にお礼を言ってそのたびに俺が頭をなでてやるという儀式が執り行われたが、それが終わると子供たちはいなくなり、すぐに見知らぬ男と女の集団に取り囲まれた完全な大宴会が始まった。最初の酒は、俺とジエンが孫を連れ帰ってから30分も経たないうちに注がれた。俺は酒を飲み続け、イーア料理の麺やスープや肉を食わされ続けた。きつい味付けのものはなく、日本人の俺の舌に合っていた。野菜も肉も麺もそのまま煮込んだりさっと揚げたりした素朴な料理が大半だったように思うが、次から次に食わされたために、正直言って何がどういう味でどういう料理かよく分からなかった。

 数時間前、孫を見つけたビルで俺と合流したジエンが、喜ぶより先に俺に「才川さん、覚悟した方がいいです。全員出てきます」と言った意味がようやく分かった。

 俺はその時、全員出てくるとはどういう意味かとそのまま訊き返した。

「全員というのは、家族だけじゃなく、あのお爺さんとお婆さんに関わる人たち全員です。間違いなく、あの人たちは物凄く大喜びして、才川さんに対する感謝の気持ちを表すことに惜しむところがないでしょう」

 まさしくその通りだった。ごくわずかな時間のうちに、老夫婦の一族郎党どころか、どう見ても何の関係もない人間たちまでもが集結して、次々と俺に対して称賛と感謝を告げていき、その波は止まることが無かった。俺はまるでワールドカップ決勝でゴールを決めたサッカー選手のようで、彼らはそれに群がるファンのようだった。

 俺は既に2時間以上愛想笑いをしっぱなしで、頬の筋肉が痙攣しそうになっていた。きつい酒が回り過ぎて頭がくらくらするので、ジエンに冷茶を持ってきてもらい、俺はそれをちびちび口に含んだ。そのジエンもさっきからノンストップで酒を飲まされ続けている。イーアの飲酒ルールがどうなっているか知らないが、明らかな子供以外はこの部屋にいる全員酒を飲んでいる。

 俺の目の前に座っている孫の父親がうつむいていた。彼の肩は震えていた。泣いているようだった。そして何かを呟くと、隣に座っていた彼の妻が肩を抱き、彼女も泣き始めた。

 どうしたのかな、と俺はジエンに訊いた。

「感動で泣いているみたいです。私達は、ただでさえ人に助けてもらうことをありがたがりますけど、日本人に助けられるなんて誰も経験していませんから、本当に嬉しいんでしょう。気持ちは分かります」

「そんな大したことしたかな」

「しましたよ、才川さん。この国で一番大切なのは誰かを助けることです。そしてそれは誰でもできることじゃありません。見ず知らずの人ならなおさら凄いことです。日本でもそうじゃありませんか?」

 俺は、とりあえず頷いた。

 孫の父親は顔を上げ、涙をぬぐって笑顔を浮かべ、俺のグラスに酒を注ぎながら何かを語りかけてきた。長い言葉の合間に、シアラ、と彼は何度も言った。この数時間のうちに、彼以外の人も何度も繰り返しその単語を言ったので、流石に訊かなくても意味は分かる。

「ありがとう」だ。

 俺は頑張って口角を上げて微笑んだ。そしてまたきつい地酒を飲んだ。俺は決して酒に強い方ではなかった。大人数に取り囲まれた緊張感で押さえつけられていた酔いも、どんどん全身に回って手足の先が熱くなってきた。やがて誰かが歌い始めて、それはあっという間に合唱となった。ジエンを含めて部屋の中の全員が歌いだした。俺は最初それが何の歌か分からずイーアの歌だろうと思ったが、朦朧としてくる意識の中で耳を傾けると、俺もよく知っている歌だった。

 THE BOOMの『島唄』だ。歌詞は全てイーア語に替わっていたが、メロディとビートは何も変わらない。風が吹き、花が散り、鳥とともに唄が海を渡っていく。中学生のころ合唱コンクールでこの唄を歌った。大体だらけたムードが漂っているクラスだったが、この唄だけはシビアに誰もが歌っていた気がする。暖かく優しく懐かしく厳しい唄で、神聖性をまとっていて、シャレが許されなかった。

 俺も彼らの合唱に合わせて日本語で小さな声で歌った。風にそよぐ正体不明の木々に包まれるような心地がしてきて、俺はどんどん眠くなってきたが、ここで眠ったら誰にどういう迷惑が掛かるか全く分からない。俺は眠気を覚ますことを考え、頭の中を探った。現れたのは、忘れていた仕事の一つだった。それで俺は眠気を覚ます代わりに、少し途方に暮れた。

 俺は一応毎週、日本の海老本社宛てに週報を送ることになっていた。しかし俺には分からなかったのだ。俺は今日一日の出来事について、なんと報告すればいい? 交通事故に巻き込まれた後で、カラマックスのファンの孫を見つけ出したら大宴会に招待された、とそのまま書けばいいのかもしれないが、上司に説明するのが面倒くさい。正確には、それを上司が役員に説明するのを面倒くさがるから、どうせ書き直させられる。

 だから、たぶん俺は本当のことでも嘘でもなく、適当を書けばいいのだろう。そう、例えば……

 例えば、と俺は小さく声に出した。俺は首を横に振った。頭がぼんやりして思いつかない。まあいい、と俺は思った。今すぐ考える必要はない。代わりに俺は一つ決めた。

 俺はこれから週報を二つ書くことにしよう。本当の話と、適当な話の、二種類を。

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