第1話 太陽の国、初日 ②
最寄りの地下鉄までの道で俺はまた大量の汗をかいた。とにかく太陽光が強烈で、少しでもそれに晒されると一気に汗が吹き出る。町全体がごく薄い埃に浸かっているようだった。どこまでも続く水の膜をかき分けていくような東京の夏の不快さとどちらがましか分からなかったが、少なくとも俺の体はまだこの国に慣れていなかった。
地下鉄への階段を降りたところで、俺は猛烈な既視感に襲われた。構内の造りが、地下鉄銀座線の虎ノ門駅にそっくりだったからだ。全体的に埃っぽいムードが漂っていて、階段を下りて10メートルも歩かない目の前に改札があり、薄く細いプラットホームが奥まで続いている。俺は券売機の前に立った。もちろん何が書いてあるのだか全く分からないので、案内表示を英語に切り替える。それでも、示されている数々の目的地の中で、どの名前が正解なのかは曖昧だった。俺は結局一番高い切符を買ってどこにでも行けるようにした。日本円で一〇〇円にもならないのだ。
乗り込んだ地下鉄は、猛烈な冷房が効いていて、俺の汗はあっという間に引いて行った。プラスチックの長椅子に腰かけて周囲を見回すと、老若男女万遍ない客層で、全員スマートフォンをいじっていて、相変わらずほとんど全員がTシャツにジャージを着ていた。黒い髪のものもいれば染めている者もいる。服装以外は限りなく日本に似た光景だった。
俺もスマートフォンの画面を観て、グーグルマップの現在位置が、目的地に向かってゆっくりと移動していくのを確認した。俺は正しい電車に乗ったようだったが、もちろん問題はここからだ。ジエンが言う「仕事」の内容がまだ分からない。俺は地下鉄に乗る前にジエンにメッセージを送った。
〈お客様に会う前に、まず我々二人で合流して、話を聞かせてください。お客様に会う前にどう話すか方針を立てる必要があります〉
俺は既に日本でちょうど10年働いてきて、マーケティングと営業とお客様相談室を転々とする中で、これまでありとあらゆる種類の質問やクレームを受け付けてきたから、海老の商品については無論詳しい。そういう仕事なのだから当たり前だが、社内でも社外でも俺以上に商品知識がある人間はそれほどいない。製法から生産地から広告展開から販売地域やその他細かい成分や注意事項といった、当初の商品企画から家庭で商品が消費されてゴミ箱に捨てられるまでに起こる一通りの事象について、ほぼ全商品の知識が頭の中に入っている。知っているだけでなく、ユーザーからの突拍子もないクレームに対してどう対応したらいいのかも心得ている。別に完璧な仕事ができるわけではないが、長く働いていれば誰でもそうなる。しかしそれは日本だけの話に過ぎず、イーアでの状況がどうなのかは全く分かっていない。俺はジエンから情報を得る必要があった。何が起こっていて何が問題なのかを確認しないことには何も始まらない。
一瞬で、一発ですべてを解決する必要はない、というのが、俺の仕事におけるルールというか、やり方だった。海老に限らず日本全国で商品展開している企業になると、「お客様相談室」には年間を通じてとてつもない数の問い合わせがやってくる。シンプルな商品についての質問から脅迫に近い恫喝まで、内容も要求も様々なケースがあるが、そのいずれであれ重要なのは、すぐ解決することではなく最終的に解決すればいいということだ。もちろん問い合わせをする人々にとっては、即座のレスポンスがあればそれに越したことはない。しかしそれは副次的な話に過ぎず、仮にどれだけ時間が掛かろうと、過程と回答に納得して最後に満足さえすればいいのだ。質問者が結局のところ要求しているのは問題の解決なのだから、そこに即時性が必要なように見えるのは質問者にとっても回答者にとっても錯覚だ。重要なのは納得のあるストーリーであり、相手のリズムに合わせた音楽である。どんなストーリーも音楽も、時間をすっ飛ばして一瞬で結末を告げることはない。
だから俺は今回も、全く未知のイーア人がどんな注文をしてこようと、同じように対応するつもりだった。というかそれしかできない。単純な商品内容の質問であればすぐに回答できるだろうが、そうでなければ迂闊に答えることはできない。相手が何を求めているのか把握して、その場で解決ができなければ持ち帰って、いつどのようにどのような過程を経て回答できるのかを伝えることが重要だと俺は考えた。
スマートフォンのバイブレーションが反応し、メッセージボックスが現れた。ジエンからのメッセージだった。
〈ダーワン駅に着きました。改札の外で会いましょう〉
ジエンは野球帽を脱いで、それでぱたぱたと顔を扇いでいた。まず俺たちは俺のスマートフォン用のSIMカードをオペレータショップで買った。そして近くの喫茶店に入り、マンゴージュースを注文した。日本円換算で一つ150円もしなかったが、目に掛った空気の靄が一枚はがれるような感覚がするほど爽やかで甘く、美味かった。
小さな丸テーブルを挟んでジエンと向かい合い、簡単に問い合わせの内容を教えてほしい、と俺は言った。
「すみません、私にもよく分からないんです」とジエンは言った、「そのお客さんが言うにはとにかく家に来てほしい、ということなんです。『今やっているところだから協力してほしい』と」
「『今やっている』とは一体何だろう?」と俺は尋ねた。
「お問い合わせされたお客様はだいぶお年寄りで。何を言っているのか分からないというのが正直なところです。ご存じの通り私は才川さんと一緒に外にいて、最初に電話を受けたのは会社にいた別のスタッフでしたが、彼は早い段階で会話をあきらめました。私が引き取って携帯電話で連絡してみたわけですが、何とか会話から得られたのはその程度の情報でした。その割にとてつもなくしつこい相手だったので、直接会った方が早い、という結論です。どう思いますか?」
正直なところ、数時間前に初めてこの国に来た人間にとっては判断材料となる情報が少なすぎて何とも言えなかったが、俺は答えた。
「一般的に言って、要望が曖昧でしつこいお客さんほど、会って話すことのリスクは高いと思います。でも、来たばかりなのでもちろんよく分からないけど、私たちは今これ以外に急ぎの仕事を抱えていないんでしょう。そうであれば、会って話すのも悪くない選択なんじゃないだろうか。それにきっと、会うと言わないと電話を切らせてもらえないタイプのお客さんでしょう」
「その通りです。多くのイーア人は、直接会って話すことを重視して、電話で結論を話すのを嫌います。お年寄りであればあるほどその傾向は強まります。才川さんにこの感覚を伝えるのは難しいかもしれませんが、みんなたとえ他人であっても互いのことを協力者というか、家族みたいなものだと思っています。家族とは顔を合わせて話したいと思っているんです」
俺はやむを得ず頷いた。
会う前に方針を立てる必要がある、と考えたものの、結局会わなければ何も始まらないわけだった。
「分かりました。行きましょう。基本的に、相手が何を望んでいるのかまずは訊く、ということにして。その場での解決が難しければ、すぐに答えようとしないで、時間をもらうことにしましょう。そういうことでいいですか?」
はい、とジエンは答えた。「本当に助かります。実は、今日まで私たちはお客さんに会うこともできなかったんです。質問されても誰もまともに答えられないから。聞かれた質問は全部日本に丸投げして、それを電話とメールで回答するだけで。でもさっき言ったような国民性だから、人によってはなかなか解決しなくて、こっちから直接訪問するから今すぐ住所を教えろ、と言うような人たちがたくさんいるんです」
「そういうお客さんたちは結局どうしたんですか? どう解決したんですか?」
うーむ、とジエンは唸った。「うまく言えないんですけどね、イーア支店にはいい社員が一人いて。彼が大体解決してきました。どう『いい』のかは、いずれ会えばわかると思います」
俺たちは飲み干したマンゴージュースをゴミ箱に入れて、喫茶店を後にした。
俺はジエンの案内に従い、彼女の後を歩いて行った。大通りを曲がって路地に入ると、そこはすぐに住宅街だった。鉄格子の扉を構えた、汚れたクリーム色のアパートが立ち並んでいて、子供たちが道に落書きをしたりボールを投げあったりして遊んでいる。通り過ぎた八百屋から青臭いにおいが漂ってきて、コインランドリーから古い洗剤の香りが風になって吹き付けてきた。
もう、すぐのところです、とジエンはスマートフォンの画面を確認しながら言った。そして緑色の鉄格子の前で立ち止まり、その扉を押し開いた。俺はその後に続きながら建物を見上げた。古臭い4階建てのアパートだった。錆びた白い格子で覆われた窓際に植木鉢とエアコンの室外機が並んでいて、ざらざらのコンクリート壁には黴が生えてひびが入っている。影に包まれた細い階段の向こうから、特に掃除というものが習慣化されていないことを示す淀んだ空気が伝わってくる。
サッカーボールを抱えた少年たちが駆け下りてくるのとすれ違いながら、俺とジエンは階段を登って行った。遠くから歌が聞こえてくる。月曜日から水曜日は打ちのめされて、木曜日には愛を待ち構えている、と歌うアヴィーチーの歌だ。どこかの家の安いスピーカーから大音量で出力される音が、薄暗い階段でかすかに反響するのをぼんやり聴きながら、そう言えばさっきホテルから出て街を歩いていた短い間に聞こえてきた音楽は、イーア語ではなく全て英語の歌だった、と思った。日本で自分が聴いていた音楽と大体同じだったので、違和感がなく俺はそのことに最初は気が付かなかった。改めて思い返してみると、日本では街中で音楽を聞く機会がめっきり減った気がするが、イーアでは、歌が外に向かって開放されているのが自然なのかも知れなかった。
3階に辿り着くとジエンは階段から廊下に出て、手前から2番目の部屋の扉の前に立った。緑色の鉄製のドアに向かってジエンは、この家です、と言った。彼女がインターホンのボタンを押すと、びいいいっ、という攻撃的な音が鳴った。俺はドアに貼られた、読めないイーア語で何かが印字された札を見つめ、足元にある砂利が埋まっているだけのひび割れた鉢植えを目の片隅で眺めながら、胸を張って肩の力を抜いて直立不動で待った。
錆のざらついた音を立てて扉が開いた。背の低い老人がそこに立っていて、彼のTシャツの胸には、両目がバツ印になったスマイルマークのロゴとともに、NIRVANAと書かれていた。額に寄った皴は深く、肌はよく焼けていた。彼の眼は眩しそうに細められ、ジエンがイハス、と言うと、深く頷いて俺とジエンの両方を順番に見た。イハス、と老人も答えた。俺も真似して、イハス、と言った。
ジエンはゆっくりとイーア語で話した。言葉の意味は分からなかったが、問い合わせされた件でここに来た海老の社員だと告げているのに違いなかった。
やがて老人は頷いて踵を返し、俺たちを手招きした。ジエンに促されて俺は三和土のない玄関に入り、後ろ手にドアを閉めながらマットの上で靴を脱いだ。そこは廊下もキッチンもなくいきなりリビングになっていて、派手な色彩の織物がかけられたソファに老婆が座ってテレビで野球中継を見ていた。クーラーがガンガンに効いている。老人が声をかけると老婆は立ち上がり、奥のキッチンに向かっていった。
老人に声を掛けられて俺とジエンはソファに腰掛けた。液晶テレビの中で土のマウンドに立ってキャッチャーに首を振っているのは、ジエンと同い年くらいのイーア人の少年だった。彼が高く足を上げ、大きなモーションで振り下ろされた腕から放たれたボールはなかなかの速度のスライダーだった。バッターが空振りして、凄まじい歓声が沸き起こった。外野席にもきちんと椅子がある立派な球場に大観衆が押し寄せていて、日本で言う甲子園のような大イベントに見えた。
俺たちの前にグラス入りの緑色のお茶が置かれた。俺が老婆に頭を下げると、ジエンは何か言ってお茶を一気に半分くらい飲んだ。
そしてジエンと老人は会話を始めた。ジエンは帽子を被りっぱなしで、俺や自分自身を指さしたりながら、身振り手振りを交えて話した。だが相変わらず何を言っているのか分からなかったので、俺は老人と老婆の顔を見ることだけに集中した。二人の顔には太陽の光と皴の影が長く深い歴史となって刻まれていた。年齢は、肌の色や艶からは60歳か70歳か分からないが、体つきはしっかりしていて、特に足腰も曲がった様子はなかった。だが彼らは何か悲しそうで切羽詰まった表情をしていて、それが彼らをかなり年老いた印象に見せていた。老人はジエンに何か聞かれるたびにとつとつと時間をかけて喋り、それが終わるとジエンがまた早口で話す、というやり取りが何度も行われた。
「どんな話をしてる?」と俺は口を挟んだ。
「才川さん、面倒なことになりました」とジエンは言った。「これは、この国では結構よくあることですが、結構面倒な奴です」
俺が重ねて問おうとすると、その前にジエンは再び老人に話しかけた。帽子を脱ぎ、頭をかいて言葉に迷いながら会話を続けるジエンを横目に見ながら、俺は老婆に出された緑茶に口をつけた。よく冷えていて、かすかな甘みと爽やかな香りのお茶だった。日本の緑茶と全く似ていない。苦みがなく、ざらつきもなく、喉を滑り落ちていくような気持ちの良い味だった。俺はそのお茶をちびちびと飲みながら三人の顔を見つめた。三人とも一貫して真剣で深刻な表情だった。
「孫がいなくなったそうです」
ジエンはそう言った。
え? と俺は訊き返した。
「孫です。二人の息子の息子です。6歳だそうです。それがいなくなって、帰ってきません。朝出かけてから、昼ご飯の時間になっても帰ってこず、そしてもうすぐ夕方です。二人ともそれで困っているんです」
なるほど、と俺は言った。「それは困ったね。それで、それが私たちに対する問い合わせとどう関係しているんですか?」
ジエンは首を横に振った。
「『関係』しているんじゃありません。それが『問い合わせ』です。この人たちは私たちに孫を探してもらいたいんです」
俺はジエンの眼を見た。
さっきまでと何も変わっていない真面目な表情だった。
続いて老人と老婆を見ると、縋るような眼で俺とジエンを交互に見つめていた。
俺は反射的に頭の中で、ゆっくり声を出せ、と自分に向かって命じた。
「私たちが二人の孫を探す、というのは何故ですか?」と俺は言った。「そういう、迷子や行方不明という話は、警察に相談すべきことのような気がするが」
「もちろんこのお爺さんもお婆さんも既に警察に相談しています。しかしこの国は警察の数が足りていないんです。さっきの私たちが巻き込まれた交通事故を見てもわかると思うんですが、何事も、警察がやってきて片づけるまでにめちゃくちゃ時間が掛かります。彼らも相談はしたんですが、いまだに対応がされていないということです。何しろまだ行方不明になったと言えるかどうかも分からない僅かな時間しか経っていませんから、警察は真面目に動いていないんです。明日になっても孫が帰ってこなければ真剣に探すかもしれませんが」
「まあそうかも知れないな」
「しかしそれでは遅い、とお爺さんもお婆さんも言っています。今すぐ見つけ出す必要がある、何かあってからでは遅い、と」
「お孫さんがいなくなったのは分かりました。それで、彼らはなぜその子の捜索を、私たちに相談しているんですか? お気の毒で心配だとは思うが、私たちは海老のお客様相談係です。人探しは専門じゃない。どう考えても相談先として関係がない気がするというか、脈絡が分からない」
「カラマックスです」
「え?」
「海老のカラマックスですよ。孫は、朝、あのお菓子を買いに出かけて行ったまま戻らないんだそうです」
「カラマックスを買いに行った」と俺は繰り返した。
「そうです。海老の大人気商品です。今、この国でこの商品がどれくらい人気があるかは、才川さんもご存じですね?」
「聞いている」と俺は答えた。
それは聞いている。と言うか、それが俺がこの国にやってきた主な理由だ。
しかしだからと言って、孫がカラマックスを買いに行って戻らないことまで、その理由に当てはまるのだろうか。
カラマックス。1986年に株式会社海老から発売されたロングセラースナック菓子。ポテトチップスに独特で強烈な辛みと酸味の混ざったスパイスを練り込んだ、その名の通り辛さに大きな特徴を持った商品である。スタンダードとは言い難い味わいのためフロントラインに立つブランドではないが、一部に熱狂的なファンを持つ、海老の代表商品の一つだ。発売当時はテレビCMも放映され、そこでは当時人気を博していたロックバンドKISSの「I Was Made For Lovin' You」が楽曲に使用された。KISSのコスプレをして悪魔的な化粧を顔面に施した幼い少年少女たちが、地獄を模した赤く毒々しいセットの前でエアーバンドを組んで歌う、という内容で、歌詞は原曲そのままではなく、替え歌にしてこのように歌われた。
めちゃめちゃからいDEATH
めちゃうまDEATH
この替え歌の歌詞はそのまま商品キャッチコピーとして「からいDEATH、うまいDEATH」という文言となり、パッケージに刻印された。CMの評判も商品の売れ行きも上々だったが、この商品を食べてあまりの辛さに小学生たちが腹痛を起こすという事態が日本全国で300件以上発生し、全国の父兄やPTAから苦情が押し寄せたために、開始1か月半でCMはお蔵入りとなり、キャッチコピーは永久に使用禁止となった。その後はごく僅かにチリペーストをマイルドな配合に変え、キャッチコピーは「からさMAX、うまさMAX」という名が体を表すものに変更され、基本的にはこれが現在に至るまで使用され続けている。
現在カラマックスは、日本国内ではロングセラーではあるもののトップブランドには程遠く、準ビッグブランドという位置づけである。大手コンビニチェーンの棚に入っていることもあればシーズンによっては外されることもある、そういう商品だ。海老にとっても「が~りっと」や「チョコニクル」などの主力商品のラインからは傍流にあり、一人だけ家族の輪から外れて好き勝手している次男坊のような存在だった。
だからこの商品の海外向け販路を開拓するという発想は、海老にはなかった。そうでなくとも海老は極めて牛歩なドメスティックブランドで、同業他社に比して海外進出が遅れていた。最初にカラマックスに目を付けたのは日本に観光にやってきた中国人だった。彼らは日本でカラマックスを食べ、どういうわけか一部の中国人はその味に感動し、自国に持ち帰った。その口コミは爆発的に、一瞬のうちに広まった。そして結局、海老自身が外に出ていくより前に、各国の商社が先に目を付けたのだった。
そしてその影響は、東アジア、東南アジア全体に広がりつつある。この商品を特に好むわけではない日本国内の人々にとっては「ただ暴力的に辛いだけ」という評価をされがちだったこの菓子が、これらの国々の人々にとってはそうではなかったのである。彼らに言わせればカラマックスの味は「極めて麻薬的な辛味」であり、自国にはない唯一無二の味であるようだった。
そして、中でもイーアでの売れ行きが尋常ではない。スナック菓子は単価も安く「空気を運ぶ」と言われるほど輸送効率が悪いため、現地生産が基本だが、その効率を度外視してもカラマックスはイーアで売れている。日本国内の3倍以上の価格で販売されているにも関わらず、老若男女誰もが唯一無二の味を求めてこの商品を買っているのだ。そしてそれに伴って、カラマックス以外のブランドも売れ始めており、イーア人は海老の商品なら何でも好むという状態になりつつある。まるで、家族から疎んじられていた次男坊がある日いきなり油田を掘り当てて帰ってきたようなものである。
そして日々、イーアから大量の問い合わせが海老日本本社のお客様相談室とツイッター公式アカウントあてに送られてくるようになった。その中身は多種多様だ。味の秘密を探ろうとする者、値段が高すぎるというクレーム、単なるファンレター、そして何より、一刻も早くカラマックスのイーアへの安定供給を求める要望である。
海老はいま、ようやく重い腰を上げて海外拠点を設立しようとしている。現地法人を立ち上げて工場を建て、アジア全域にカラマックスを中心とした海老商品を販売するのである。そのためにはこれが一過性のブームでないかどうか検証しなければならない。そして喫緊の対応として、激増する問い合わせに対して今すぐ回答を行う体制を整える必要がある。問い合わせの大半はイーア語で寄せられているが、アカデミックな場を除いて日本国内にイーア語の専門家はほとんどいない。そのためイーア現地で社員を採用して、本社社員と協働して対応するのが最も速く、理に適っている。
すなわちそれが俺に課せられたミッションそのものだった。イーアで、海老の商品に対して激増する問い合わせに対応すること、そしてマーケット調査を行い海老の海外進出のポテンシャルを探る材料を日本本社に報告することである。
だが俺には全く分からなかった。分かる理屈がどこかに存在していること自体も疑わしいと思った。「カラマックスを買いに行って戻らない孫を探すこと」は、俺の、そして俺だけでなくジエンや他のごく少数の「海老イーア支店」の社員の仕事なのかどうか。
俺はジエンと話すしかなかった。自分の頭の中だけで黙って考えたのはほんの10秒程度だったが、それは自分をスキャンして回答がないということを確認するだけのための10秒だった。自分の中に何もないなら、対話から解答を導き出すしかなかった。
「ジエン、率直に聞きたいんだが、君はこれは私たちの仕事だと思う?」
うーむ、とジエンは唸った。「難しい問題ですよね。私たちに見つけられるかどうか分からない。情報がまだすごく少ないですからね」
「情報が少ない?」
「はい、だって私たちはまだその孫の写真も見ていないし、声も服装も何も知らない。見つけようったって相当難しいですね」
つまり、と俺は思った。思っただけでなく言おうと思ったのだが、喉がかすれて声が出なかった。俺はグラスの中の冷茶を一口飲んで、のどを潤してからもう一度口を開いた。
「つまり、君は、情報さえあれば私たちはこの人たちの孫の捜索に協力すべきだと思う、ということだね?」
「この人たち、困っていますからね。そうするより仕方がありません。困って私たちに連絡してきたんでしょう。それに、これ以外に私たち今日他に仕事があるわけじゃないですし」
俺は頷いた。
論理的にではなく儀式的に頷いたのだが、俺にも理解できる一片の理屈が今の言葉にあることも確かだった。確かに、ジエンの言うとおり、今日俺たちは急ぎで片づけなければならない別の仕事を抱えているわけではない。
俺はこの国に、海老の社員として海老商品に関わる疑問に答え、マーケット調査をするためにやってきた。迷子のユーザーの捜索は、俺の日本での習慣から言えばその仕事の範囲から大きく逸脱しているように思える。だが俺はこの国で、売り上げや利益という報酬を稼ぐ必要はない。俺なりに極限まで大きく解釈すれば、俺というマンパワーを使って海老の顧客満足度を高めることは俺のミッションの一部と言えなくもない。
俺はまた10秒間考えた。そして、分かりました、と言った。本当に分かったとは到底思えなかったが、どうせまだやることが他にないという現実を前にして、これ以上理屈を考えるのが面倒になってそう声に出さざるを得なかった。ジエンが即座にこれを仕事と認識したということは、イーアでは孫探しは社会通念において仕事として認識されるということに違いない。海外駐在員がその国の社会通念に逆らうのが得策とは思えない。
「お孫さんについて詳しく訊きましょう」と俺はジエンに言った。「でもその前に、お二人に伝えてください。私たちにできる限りのことはしたいと思いますが、私たちは人探しのプロではない。ご期待に沿えないことも有り得ると」
「分かりました。でもそれは大丈夫です才川さん。この人たちにとっては結果よりも、私たちが協力すること自体が重要なんです。このお爺さんとお婆さんは、今日出会ったばかりの私達に孫を絶対見つけて欲しいなんて思ってません。それが難しいことくらいは分かっています。でもその分、見つかれば大喜びします。だから頑張って探しましょう」
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