第弐幕「幸福の魔女は、ヴァルプルギスの夜に泣く」
壱節
満開であった桜の花びらはいつの間にやら散り逝き、気付けば木々は薄桃色から新緑へと衣替えを済ませていたようだ。春夏秋冬がもたらす風光明媚は何処へ消えたのか。夏夏冬冬と言っても過言ではないほどに、暑さと寒さの極端さが骨身に堪える近年である。暦の上では今日が春に換算されようとも、現在の気温は既に初夏のそれである。世間の連中はまもなく来たる黄金の日々を心待ちにしているのであろうが、シフト表という盤面の上で踊らされる駒に過ぎない我々がその恩恵を享受することは決して無い。例えそのお零れにあずかれたとしても、私に待っているのは無機質な社宅の二階角部屋六畳一間で全てが完結する自堕落極まりない生活のみである。仕事に出るからこそ外の空気を浴びはするが、外界との関わりを持たずとも生きていける私のような人間は穴倉に篭る事を一つの特技としている。一度潜れば抜け出すことは中々に困難なため、その点で言えば仕事による日々の外出には感謝の念を禁じ得ない。
シフトに生きるようになっておよそ2年、連休なる物に巡り合うことは稀であったが、明日から2連休という事実は私の心を軽やかにした。それは友人も同様であり、珍しく休日が一致した我々はどちらが声をかけるという事も無く、終業後に駅でごく自然に合流し、その足で安居酒屋で管を巻いているという次第である。
「二連休なんて久々だからテンション上がっちゃうなぁ。何か予定あるの?」
「あるように見えるなら、その眼は節穴だな」
「ははっ、確かに!まあ僕も予定なんか無いんだけどね。そういえばさ、例の…」
「煮詰まっている」
「そっか…」
友人が何を言わんとしているかは大方察しがついた。私が以前、執筆の手が進まないと吐露したことを覚えていたのだろう。全くもって人の良い奴だ。他人の心配より自身の心配をした方が有意義だろうに。しかしこの男が度が過ぎる程のお人好しで無ければ、我々の縁はここまで長く続いてなどいなかっただろう。趣味嗜好は全くと言って良いほどに一致しないのであるが、何故だかこの男とは波長が合うように感じる。人生において親友と呼べる存在は一人いれば良いと言うが、私の人生においては奴のような人間の事をそう呼ぶのかもしれない。
この男と知り合ったのは大学1年時の春である。まだ大学なるものを深く理解していなかった私は、独り学内の中庭をフラフラしている所を運悪く勧誘活動とやらに躍起になる体育会系の脳筋共に拘束され、半ば強制的にプロテインの粉塵で息の詰まりそうな奴らの居城へと連行される事となった。そこに居合わせた同じく運の悪い同学年の男こそが今日の友人である。脳筋馬鹿どもの隙をついて部室を抜け出した私たちは、一生に一度あるかないかの大逃走劇を早くも大学1年の時分に経験したのであった。学内を3周ほど駆け回り奴らの追跡から辛くも逃れた私たちは、もう既に共に困難を乗り越えた同志であった。ちなみに、知り合った時には既にこの男の生え際は深刻なダメージを負っていた。私は哀れなる毛根に哀悼の意を込めて、この男を「若ハゲ」と心の中で呼称することにした。
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