肆節

 かつては私にも、正社員という名の体のいい企業の奴隷であった時期がある。安定などという言葉に騙されてはならない。民間企業という物は往々にして、安定したポストなどという不確かな約束の対価に絶対的な隷属を強いる。そのくせ、上層部の落ち度により業績が傾けば、平気で哀れな奴隷の首を刎ねて回る。そのような虚飾に塗れた蛇どもの言葉に真実などありはしない。


 さて、当時私が新卒で入社した企業というのが、全国的な知名度は無いものの地元ではその名を知らぬ者がいない程の知名度を誇る広告代理店であった。無論、悪い方面にである。面倒ながらも重い腰を上げ、やっとの思いで足を踏み入れた企業説明会の席で、私はこの企業の採用担当による口から出まかせのペテンにまんまと騙されその場でエントリーシートを提出したのだった。「自己実現」「社員の夢を全力で支援」今思えばこれほど薄っぺらい言葉はそうそう無い。しかし、その頃の私はまだ社会の裏側を知らぬ青二才であったのだ。奴らの巧妙な嘘に感化され、プリンアラモードの如く口溶け滑らかな甘言に籠絡されたとしてもきっと私に非は無いはずだ。しかし、面接会場の待合室に待機する求職者たちの少なさに違和感を覚えなかった時点で、私の茨に覆われた運命の道筋は既に決まっていたのだろう。せめて地元企業のリサーチくらいしておけばもう少しばかりマシな道が歩めたのかもしれないが、今となっては過去を振り返り嘆くことしか叶わない。


 そもそも応募人数が少ないのだから、万事問題なく選考を通過し、そしてごく当然のように採用に至った訳である。郵送されてきた採用通知を高らかに掲げた私は、修験道の僧侶と同等に己を律した4年間の果報が遂に巡ってきたのだと信じもしない神仏やアッラーの神にやたらめったらに感謝の祈りを捧げた。これがよろしくなかったというオカルティックな仮説を立てる事も出来るが、まあそれは無いだろう。


 私はそれなりに語彙力の引き出しを多く持っていると自負している。対外的にそれを発揮する事こそないが、内に秘めた言葉の剣は周囲の誰よりも鋭いと信じている。この語彙力の根源は、私が元来本の虫であった事に起因している。幼稚園年長の時分に江戸川乱歩の少年探偵団シリーズに心を奪われ、小学低学年の頃には吉川英治著「三国志演義」を、高学年の頃には池波正太郎著「鬼平犯科帳」全24巻を既に読破していた。幼く多感であった頃の私が、直射日光を浴びたインゲン豆のように、憧れの文豪たちの影響を受け作家を志そうと小さな決意に燃えたのはごく自然な成り行きであった。小中高大と、義務と義務の域を超えた過重なる教育課程を進む中でもこの小さな炎だけは燃え尽きることが無かった。これは未だに私の人生における大願であり、それが成就した暁には文壇に立ったと同時にマリアナ海溝へ沈められても良いとさえ思っている。いや、やはり苦しいのは少々憚られるため、これについては近々考え直そうかと思う。


 ともあれ、かつての私はこれから進む道に光を見出していた。広告代理店にて携わる仕事の中で、私の脳内に大量にしまい込まれた宝の数々を遂に形にする機会を得たのだと、水を得た魚のように肌のツヤも非常に良くなった。あくまで人生の目標は作家であるが、別のアプローチでそれを目指したとしてもそれを批判する者は誰もいないだろう。むしろ会社経験が自身の見識を深め、創作物にリアリティを付与することが出来ると考えた。私の希望はすんなり受け入れられ、コピーライトの仕事に携わる事となった。しかしこれが後の数年に渡る生き地獄の始まりであったのだ。

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