第37話 あとがき 中馬姫奈を偲んで
今年もまた不安を感じさせる季節が訪れた。わたしは相変わらずこの陽気が好きではないのだが、龍平は随分とこの候から感じる印象を変えたようだ。
決して大衆の様に新しい巡り合いにときめいているわけではない。龍平は一等幸福な巡り合いを一年前に味わっているのだ。幸福を回想し易い候なのだ。
いつだって姫奈のことを追想することはわけないのだが、春の匂いを嗅ぐことでより鮮明にあの日が頭の中に蘇る。
初めて姫奈と言を交わした場所に立って周りを見渡した。溢れるのはスーツ姿の新入生ばかり。自分は確かこの場所で部活動やら同好会の勧誘の広告を荷物の中に押し込んでいたのだ。
なぜ、これだけ多い新入生の中から僕だけを選り抜いて呼び止めてくれたのだろう。運命の糸で結ばれていたのだと大真面目に信じていた。ただ、糸は幼かった僕には見えずに、見えた姫奈がそれを手繰り寄せて来てくれたのだろうと。
少しだけ大学の構内に足を踏み入れたら何人かの学生に声をかけられた。龍平がスーツを纏っていたので、新入生だと勘違いをして部活動やらの勧誘をするつもりだったのだろう。
龍平は掌を彼ら目の前にかざして勧誘を遮った。一年前には他人にそんな仕打ちは出来なかった。大人になったということなのか。子供っぽくなったということなのだろうか。
なぜ、龍平はスーツで着飾っていたのか。これから姫奈に逢いに行かねばならなかったからである。葬儀のときに姫奈の家の住所は覚えてきた。だから、両親に宛てて手紙を書いた。姫奈に挨拶に行きたいのだが彼女の眠る場所を教えてくれませんかと。幸い返事を貰うことが出来た。それすら図々しいと断られても仕方がないと覚悟していたから有難いことだった。
大学から姫奈の眠る場所まではそう遠くはない。電車を二回乗り換えて、一時間くらいで目的の場所に行き着いた。想像していたよりずっと堂々とした現代的な造りの墓石だった。墓石には苔もついていないし、生けてある花も生鮮だった。
きっと両親がこまめに世話をしていたのだろう。それでも龍平は持ち込んだタオルに石鹸を目一杯染み込ませてそれで墓石を丹念に拭った。まるで女の身体を扱う様に優しく丁寧な手際だ。水を差し換えて花を生け、線香をあげてからビニールのシートで包んだ恋愛小説「無題」の原稿の束を墓石の正面に供えて、手を合わせた。
「姫奈と協働して制作した恋愛小説がやっと仕上がった。なるたけ多くの人に読ませたいと思っているけど、やはり最初は姫奈に読んで貰いたい。
ご存知の通り僕は真実の愛を語りたくて小説を作った。真実の愛とは性欲に振り回されない人間として成熟した愛のことだと僕は言った。姫奈にそれはどういったものか問い質されても応えることは無理だったけど小説を通じてそれが叶うようになったのだ。僕の小説はあまり上手じゃない。だから少しだけ補足させて欲しいのだ。
僕は真実の愛とは性欲とはまったく切り放されたものなのだと主張したけれど、恋愛小説を書き進めれば愛し合う男と女が目合いを望まないということが不自然であると知った。
求め合わない男と女の物語などおもしろくないのだ。そのうえリアリティもない。そんなつまらない物語は描きたくもない。だから、小説の中の男と女に互いを求め合う性欲を与えることにした。ふたりは何度も身体を合わせて悦びを感じ合った。とても幸せそうに振る舞った。だけど、僕は強い性欲を握るふたりが妬ましくなった。羨ましくもあり、悔しくもあった。
僕は性欲とは下劣なものだと意識していた。それは肉体的な興奮や快楽、もしくは快感だけを求めるものだと納得していた。付け加えるとそれは精神の働きではなく、肉体がうみ出すものだと考えていたのだ。男は睾丸で精子を作る際に分泌されるホルモンの影響で、女は排卵の影響で性欲をうみ出すのだと見做していた。その名の通り生理的に生じる欲求だと思案していたのだ。実際、数えきれない女と目合いたがる僕の性欲はそういう性根だった。
姫奈の言い現す性欲とはかけ離れて質の低いものだったのだろう。姫奈も僕以外の男に抱かれたいと欲することがあると言っていた。もしも、姫奈に見つからないでそういう機会に恵まれれば僕は姫奈以外の女も抱くだろう。だけど、姫奈はそういうことは絶対にしないのではないか。
性欲に詩的表現を加えない者とは交わることはしないのではないか。それに反して、僕はそんなことはおもんばからずにむやみに女と交わりたがるのだ。僕は姫奈と違って性欲に振り回される愚か者なのだろう。だからこそ性欲というものに過剰に反応して、過剰に拒絶したのだろう。姫奈はそれを大切にしていたのだろう。
だからそれを受け容れられたのだろう。僕は肉体から湧き出すものを性欲と呼んだけれど、姫奈は肉体から湧き出たそれを精神で受け容れたものをそう呼んでいたのではないだろうか。
そもそもどうして肉体から性欲というものが湧き上がるのだろうか。生殖本能の現れで性行為を行い子孫を残す為だろうか。故に生殖相手としてふさわしい同種の異性に対して抱くものなのだろうか。
元来そういうものなのかもしれない。だけど、人間は永い歴史の中で多彩な欲求を帯びたり、快楽を味わうことによってその種類を多様化、変化させて学習することで様々な嗜好をうみ出したのではないだろうか。
だからこそ人間だけが変態になり得たのではないだろうか。様々なフェチズムがあるのはそういう理由があるのではないだろうか。
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