第36話 恋愛小説無題をこれで終わりとした

「ありがとう。おかげでわたしは愛する人の名前をすぐに想い出せるわ。ひとりでいるときでもこれを見れば斗真君を想い出せるわ。


 その度に胸が高鳴ることでしょう。だからわたしは百年幸せでいられるでしょう。ただ、わたしの脳が閉じてしまえば、もうわたしに構わないで。愛する人を笑顔にすることも手に負えなくなった女など使いものにならないのだから。


 わたしの我儘に応えてくれるのは生きている時間まででいい。おそらく、それほど長い時間ではないわ。わたしが息をするだけの傀儡になれば、もうここに来る必要もないわ。新しい恋をして、人生を謳歌してください。それは薄情なことではないわ。死んだ人間にいつまでも拘っていることは良いことではない。あなたには幸せになって欲しいから。わたしは愛情も同情もいらないわ。


 あなたに新しい恋人が現れたとしても、わたしのことを懐かしんでくれればそれでいいの。そうすれば、わたしはあなたの中で永い間生き続けるでしょう。それで充分嬉しいのよ。」



 斗真はこれまで夏苗の言うことを、いいよ、いいよと認めてきた。夏苗の具合が悪くなってからは尚更だ。


 そもそもこんなにむずかしい会話をしたことがない。もちろん真面目に回答するのだが慎重ではなかった。それどころかとても大胆だった。真摯になるということは案外とそういうものかもしれない。


「間島斗真は立花夏苗のことを愛している。それは、ひとしきりの情調ではない。永久に続くものだと契ろう。例え夏苗の脳の具合が悪くても哀れだとは言わない。清々しい心を持った女なのだから。その心に訴える為に毎日顔を見せよう。


 ただ、ふたつだけ夏苗の願いを叶えてやれそうにない。


 まず、顔を見せることに期限など設けられない。君の脳が閉じようが死んでしまおうが関係ない。必ず顔を見せよう。夏苗が存在することに違いはないのだから。


 夏苗は、脳が活動しなくなることを死ぬと言うけれどそれは間違いだ。人格が成り立つのは脳の働きによるのかもしれないが、人格をほとんど持たない人間だって生きていると認められる。


 生後間もない乳児や高齢や精神疾患により認知機能を失くした老人だけではない。飯を食う為だけに感情に突き動かされることなく仕事に没頭している人も、山で遭難して何十年も猿のような生活をしている人も人格があるかと言われれば疑わしいと答えをせざるを得ないだろう。


 ただ、どれも明白に生きているのだ。呼吸、心臓が機能していれば生きているのだ。個人的にも家庭的にも社会的にも役に立たなくなった人間を死者と呼ぶのではない。

 

 死とはみなが考えている以上に侘しいことであるし、生というのは美しいものだ。生きてさえいれば愛おしい寝顔を拝むことが出来るだろう。体温を感じることが出来るだろう。


 それはとても肝要なことだ。生きものとは不思議なもので手を握り合うことだけで、勇気や活気を分かち合えるのだ。寝顔を見るだけで暖かい心地になるものだ。語りかければ意思の疎通も叶うのだ。


 どれだけ恋い慕っても灰になってしまえばどうしてもそれは成就しない。血が流れている人間とは、温もりのある人間とはそれほど尊いのだ。脳とは思いのほか儚いものだ。ちとした手疵や老化でその能力は衰えてしまう。


 そして、触れ合いを失くしてしまえば脳は人を思い遣ることも難しくなってしまう。大切にすべきは脳と心だけではない。夏苗の頬も手も唇も等しく肝要なのだ。だから、逢いに来ることは欠かさない。


 もうひとつ。いつまでもこの部屋には来ないつもりだ。ふたりで部屋を借りてそこで暮らそう。その方が長い時間を共に過ごせるだろう。僕が働く時間以外はすべて夏苗の傍に居られる。夏苗の傍はとても心地が良い。


 分かるだろう。いつも僕は愉しそうにしていただろう。夏苗もとてもほころんだ顔色をしているよ。同じ空気を吸うことは幸せなことだ。どんな手の込んだ料理を口にするより、美味しいものだ。作ることの難しいものだが、夏苗と一緒にいるだけで得られる他愛のないことだ。それは幸せになる為には欠かせない条件だ。ふたりでそれを叶えよう。すべての空気も時間も嬉しさも傷も分かち合おう。


それは、僕と結婚して欲しいということだ。」


 そう書き加えて日記帳を閉じた。


 龍平の描く恋愛小説「無題」はこれで終わりとした。


 結びに、「ふたりの愛は色褪せないが、ふたりが十分に幸せであると言って良いのかは分からない。」と書き込んで龍平はペンを放り投げてその場に寝転がった。目を瞑ると途端に睡魔に襲われて、翌日の正午近くまで眠り続けた。


 長い間張りつめていた操り人形の糸が切れたかのようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る