第3話 数学で興奮する変態女

 運命とは真におもしろく都合のいいもので龍平と姫奈は学ぶ教室も同じであった。


 文学部文学科というものはなにを学ぶべき教室であるのか、わたしはよく知らない。文学とは市場に貢献するわけでもなく、即効性があるものではない。合理性を強く求める近頃の若者には縁遠い学問ではないだろうか。現に文学を真剣に学ぼうと思っている学生は多くないように見えた。高等学校の延長線上にあるものだと考えているか、あるいは社会に出る為の経歴を積み重ねる為に大学に通っている学生が多い印象である。


 そんな中、龍平と姫奈は異色な存在であった。ふたりは哲学の授業であっても歴史の授業であっても外国語の授業であっても真剣に薫陶を賜っていた。すべてが自身の血液となり、肉となることを実感しているようであった。ただ、あまり高尚な趣味の為に学んでいるのとは様子が違っていた。読書というものの質を上げる為にすべてを費やしていただけではないだろうか。


 龍平の気の弱い気質というのは相変わらずで、彼の周りに人が集まることはなかった。一方、姫奈はいつも多くの学生に囲まれていた。裏表のないさっぱりと明るい性格は女を惹きつけるし、色が白くて瞳が大きく長い睫毛の美少女は黙っていても男にもてはやされる。どこか田舎臭くて、上品過ぎない風貌もむしろ愛嬌だとすべての者に好まれた。その日の講義が一通り終わると歌を歌いに行こう、映画を見に行こうと誘われるが興味を示すことはない。毎日、龍平とともに文芸倶楽部の部室に立ち寄って二三時間読書をしたり雑談をするのが日課である。

 

 部室でふたりきりになることはほとんどない。必ず上級生がひとりは部室で待機しているのだ。おそらく新入生をふたりきりにして退屈させない為の配慮だったのだろうが、龍平にも姫奈とってもあまり役に立つ存在ではなかった。龍平はともかく姫奈は上級生の存在が彼らなりの気遣いであるとは認識していないのだから。

 

 今日は菊池颯太という二年生の男が留守番を任されている。今日もと言った方が正しいのか。颯太は昨日も一昨日も留守番をしていた。なにも部長の坂本にその役柄を任命されたわけではない。自分が好んでここにいるのだ。颯太の目当てが姫奈であることは明白である。男と女の気持ちに疎い龍平でさえもそれをわきまえていた。

 

 はじめのうち龍平は颯太に限らず男が姫奈に寄りつくことはおもしろくなかったようだが、最近は徐々にそのことを邪魔に感じなくなっていたようだ。

 

 どんな男にも姫奈は興味を示そうとしないから。姫奈は男に愛想がないわけではない。彼女なりにおかしな話をしているつもりなのだが、それについてこられる者がいないのだ。


 例えば颯太との会話はこんな具合だ。


「姫奈ちゃんの趣味はなに。」


「数学です。」


「数学?」


「ええ。わたし国語とか歴史という学問は嫌いです。学問としては。それらの学問は事実に極めて近いと考えられる答えを導き出すものでしょう。事実には辿り着けないですよね。昔は鎌倉幕府が成立したのは一一九二年だとされていましたよね。でもわたし達は一一八五年だと教わった。教育を受ける者も導く者も事実を知らない。そんな曖昧なところが嫌いです。だけど、数学は別です。解は誰が採点しようとも、何百年経とうとも変わることはない。そんな潔いところが好きです。」


 颯太はまさしく開いた口が塞がらない。可愛らしくて仕方がないと思っている年下の女の口からそんな言しか引き出せないことが口惜しくもあったようだ。姫奈という女は存外残酷なもので颯太の聴きたくもない話をさも楽しそうに続ける。


「数学の解を導き出す為には色々な資質が問われますよね。知識に思考力。直感というものも含まれると思います。それらを駆使してひとつの問題に向き合っているのが楽しいですね。わたし、自宅でたったひとつの数学の問題を解く為に一日を費やすことがよくあります。辿り着かなくてはならない解はひとつだけど、そこに行き着く道はいくらでもあるのだから、なんとか自分の持つ力を結集させて解に行き着きたいのです。これは高校生の頃から続いているわたしの数少ない趣味です。わたし、この大学以外にも数学科に合格した学校もあるのですよ。」


 龍平はふたりのやり取りを見て僅かに笑っていた。なにも年下の女に圧倒されている颯太を馬鹿にしていたわけではない。龍平は相手を寄せ付けないくらい論理的な思想を語る姫奈を崇めていたし、おもしろいと思っていたのだ。


 姫奈は話を先に進める。今度は先程より少しだけ愉しげな笑顔を浮かべて。


「ただ、数学はあくまで趣味の範囲を出ないですよ。いい加減考えるのが嫌になってしまったら模範解答を見てしまいます。そこには自分に欠けていたものがなんだったのか、はっきり書かれています。わたしの知らない公式を利用しなければならなかった場合は新しい知識を得たという充実感があります。自分の発想が貧困だったと知ったときはとても悔しい思いをします。でも、それだけなのです。正解を覗いてしまうとすべてが明らかになるのが快感ではあるけれど、物足りなさも感じます。そんなわたしの欲求を満たしてくれるのはやはり文章というものですね。しかも質の高いもの。数学は問いも答えも与えられるもの。文章の読解というものは問いも答えも自分で決めるもの。やっぱり、そっちの方が気持ちいいですね。」


 颯太は姫奈の答えに不満に感じることはなかったようだ。こんなにつまらない答えを返されてしまっては気分を悪くする者だっているだろう。颯太はそんなにしがない心の持ち主ではなかった。姫奈の言を愉快なものと捉えてはさらに関心を深めた。脇でふたりの応酬を見ている龍平もまた颯太と同じ様に感じていた。姫奈とは人によって俗受けしない取っ付き難い女であり、またある人には異質でうっとりさせるような女であった。

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