第4話 ひとの気持ちを読むことなんてわけないわ

 龍平や姫奈の年頃の若者にとっては時間とはとても早く流れるものだろう。前期日程の講義も試験もすべて終えて長い夏休みが始まった。相変わらずふたりで行動を共にすることが多かった。どちらかというと龍平に姫奈がつきまっとっている印象だった。最初のうちは龍平にはそれが奇妙で仕方がなかった。なぜ姫奈のような他の人間に十分にちやほやされる女が僕のようなおもしろみのない男の後を離れようとしないのか。龍平だけではなく、文学科の多くの者が首を傾げていた。

 

 龍平はひとつの仮説を立てていた。姫奈は僕に対して好意を持っているのではないだろうか。龍平は自惚れる性格でもなく慎重だったのでそれを恋心だと決めつけることはしなかったが。これまでにも好意を寄せてくれる女にべたべたされることは幾度となくあった。容姿端麗な男だったから不自然なことではない。

 

 論理的に説明がつく事態は受け容れやすい。いつの日か女につきまとわれる日常を飲み込めるようになり慣れていった。


 夏休みに入っても龍平は頻繁に文芸倶楽部の部室に足を運ぶ。理由は思っていた以上に夏休みというものが退屈だったことと、姫奈に会えるかもしれないと期待をしていたこと。

 

 ただ今日は、颯太に呼び出されてやってきたのだ。明日から文芸倶楽部恒例の軽井沢での合宿が行われる。その準備を手伝ってくれと頼まれていたのだ。四泊五日の合宿の最終日には自分が読んだ本について弁論を行うという文芸倶楽部の年間の活動の中でも最も大きな行事のひとつが待ち構えている。楽しみでもあったし、煩わしくもあった。龍平の消極的な性格は今のところなにも変わっていない。

 

 龍平が部室のドアを開けたとき、そこには姫奈の姿しかなかった。待ち合わせの時間にはまだ少し早過ぎたようだ。姫奈は部屋の奥窓際の一番居心地の良い場所で文庫本に目を通していた。姫奈はいつも読書をするときはとても冷ややかな目つきをしている。龍平にはそれが不思議でならないのだ。一度文芸に関する話題になれば誰よりも愉しそうで嬉しそうな顔をするのに。姫奈は読書というものに夢中なわけではないのか。なんだかとても気がかりだった。龍平に気が付いたときには、いつもの田舎臭いが清々しい笑顔に戻っていた。やはりこちらの活力のある顔の方が似合っている。姫奈も合宿の準備の為に呼ばれたのだろうか。そういうわけではないらしい。暇を持て余していただけだと言う。


「龍平。先輩が来るまで一緒にご飯でも食べに行きましょうよ。」


 そういって姫奈は机の上に置いてあった紙に、


――龍平君とご飯を食べてきます。姫奈――


 そう書き込んだ。自分の名前の後ろには小さなハートマークを書き加えた。龍平はもちろん嫌な気はしない。いっそう気をよくして食堂に向かった。


「合宿最後の日の発表会。あなたはどの本を題材にするか決めたの?」


 龍平はちと悩んだような顔をしたが首を横に振った。


「ならちょうど良かった。わたしと同じ本を題材としない?」


 もう一度ちと悩んだような顔をしたが、今度ははっきりと断った。同じ本について論評をすれば必ずその出来を比べられることになる。姫奈の述べる論評と比べられるのは気が進まない。これまで姫奈と作品について大いに語り合ったことは何度かあるが、姫奈ほど上手に書について語ることなど自信がない。知的で感心されるような論評をしたいとも思わないが、優劣をつけられるのを龍平は嫌った。あるいは、同じ題材について明らかに幼稚な批評をして姫奈に呆れられることも嫌った。


「じゃあ、いいわ。どの本を題材にするのか今ここで決めなさい。わたしはあなたが選ぶ本を予言するわ。その予言が当たったらあなたと同じ題材で発表会に臨むことを認めなさい。」


 随分と強引で一方的な提案だが龍平は承諾した。こんな調子で話すときの姫奈は自分の意見を譲らないし、引込めたりもしない。初めて彼女に出会った日からそんなことは明らかだった。


 それに自分が論評する作品を姫奈に言い当てられなければ良いだけなのだ。いくらなんでも自分の心のうちを透かして見ることなど不可能なことだと高を括っていた。ちと姫奈の裏をかいてやれば良い。最近太宰治や夏目漱石について談論することがあった。「斜陽」については人間の破滅とその中にある美しさについて、「人間失格」に関しては人間の持つ優しさと弱さ、臆病さというもについて語り尽くした。文芸倶楽部の部室の片隅でこそこそと話をしていたわけではない。顔を合わせれば、文豪達の作品について何時間もかけて意見や感想を交換し合ったのだ。だから、それらの人物の作品は避けようとするのは当然である。だからといって平成という時代に生まれた物書きの作品を龍平はあまり好んではいない。それならば誰のなんという作品をあげれば良いのか。頭の中にはある物書きの名前が浮かんでいた。その文筆家については論じ合ったことはない。おそらく姫奈の思考の外にあるのではないだろうかと想像した。


 龍平は答えが出たと姫奈に伝えて、姫奈の合図で互いに閃いた作品の名前をあげようということになり、姫奈の「せーの。」の声でふたりは同時に口を開いた。


「羅生門!」

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