第2話 芥川龍平 素敵な名前じゃない
「文芸倶楽部とはどんな活動をしているのですか?」
女は相変わらず精彩に富んでいる。酒に酔った様子などまるでない。
「我が文芸倶楽部はね、年に三度の催しを中心に活動しているのだよ。夏休みと年度末にそれぞれが読んだ本の内容について部員の前で弁論する。どんな種類の本について論じてもいい。文芸作品であっても随筆であっても詩歌であっても構わない。もうひとつは年末に自らが執筆した作品を発表する会を設ける。これもどんな内容でも構わない。部員それぞれが好みの作文をして他のみなに読ませるのだよ。」
女は目を輝かせている。余程文芸というものが好きなのだろう。求めていた環境に巡り合ったことが幸せだったのだろう。
「とても楽しそう。わたし達このサークルに入部します。よろしくお願いします。」
気の弱そうな男も中年のような男も驚いた面持ちをした。まだ女がこの部屋に入ってから十分程の時間も経っていないのだから当然である。気の弱そうな男の驚き様は格別だった。得体のしれない女と出会ってから二十分もの時間すら経っていないのだから。
中年のような男は慌てて入部届を二枚取り出し、男と女の前に差し出した。あまりに前向きで急な申し出は予想外だったのだろうが、せっかくの入部希望者を逃したくもなかったのだろう。声色を一音上げて、より一層丁寧な口調になって案内を始める。
「ありがとう。こんなに積極的なふたりが入部してくれるのは嬉しいよ。では、この用紙に名前と学部学科と連絡先を書いてください。連絡先は電話番号でもメールアドレスでもどちらでも構いません。」
積極的な入部希望者はふたりではなく、女ひとりである。気の弱そうな男は目を泳がせている。目の前に差し出された鉛筆を握ることすら躊躇う。それを見た女はじれったそうに男の手を掴み鉛筆を握らせて言った。
「なにしているの。先輩のおっしゃることが分からないの。早く名前を書いて。」
男は一応鉛筆を握りはしたが、まだ入部するかどうか決めていないのだと答えた。それは当たり前の反応だろう。
「なぜ?他にやりたいことがあるのかしら。それなら兼業しなさい。ここまできてなにを迷っているの。やる気がないのならここまでこなければ良かったじゃない。」
気の弱そうな男は困り果てていたが、中年のような男もまた混乱と気の弱そうな男が気の毒だという気分で男女のやり取りを見詰めていた。
具合の悪いことに気の弱そうな男は女から小さな悪気も感じていなかったらしい。それどころか僅かに女に興味や関心も持ったようである。この女と一緒にいればなにか、おかしな出来事に恵まれるのではないかと期待したようだ。ええい、ままよと男は用紙に名前などを書き込んだ。決して大胆な性格なのではない。気の弱い男だ。男は投げやりになっただけである。追い込まれてしまえば自ら崖から飛び降りる。その方が生き延びる可能性が高いと考える。そんな性分なのだ。
男が名前などを書き込んだ用紙を取り上げて女はけらけらと声を出して笑った。まるで映画の中に出てくる悪女のような大袈裟な笑い方だった。
「芥川龍平。素敵な名前じゃない。あなたの好きな芥川龍之介とそっくりじゃない。」
いつもそうなのだ。名前を告げると必ず同じようなことを言われる。その度におもしろくない気分になる。
「これからはあなたのことを龍平と呼ぶわね。芥川だとややこしいもの。あなたもわたしのことを下の名前で呼んでいいわよ。姫奈。中馬姫奈。覚えたわね。」
わたしもいつまでも男だの女だのと呼ぶのはややこしい。これからは龍平、姫奈と呼ぶことにしよう。
「おいおい。君達は互いの名前さえ知らずに一緒にここまで来たのかい。驚いたな。どうやら彼女の方が強気な性格のようだけど、それについて来る芥川君の度胸もたいしたものだ。」
龍平と呼んでくださいと中年のような男に求めた。芥川と呼ばれることが好きじゃあない。龍平という名前も決して気に入っているわけではないのだが。
「僕の名前は坂本勇。経済学部国際経済学科四年生です。一応この文芸倶楽部の部長をやっています。この倶楽部には僕を含めて八人の部員がいて、他の七名はそれぞれ新入生の勧誘に行っているので君達の他にも入部希望者が現れるかもしれない。彼らが帰って来たら早速歓迎会に出かけよう。中馬さんはお酒が飲めるようだけど、芥川君、いや龍平君はどうかな?」
龍平は酒など飲んだことはない。そんなことは不良のすることだと避けてきたわけではないが、進んでなにかに挑んでみようと企てるような気質ではないのだ。
やがて七名の部員達が部室に戻って来たが新入生を連れて来る者はいなかった。どれも彼も大人しそうな顔色をしている。とても上手な言葉遣いで新入生の関心を掴むような朗らかさも積極性も持ち合わせてはいなさそうだ。ましてやその容姿だけで異性を惹きつけられそうな美男も美女もいない。龍平の方が余程容姿端麗であるし、姫奈の方が器量好しだと言えた。
とにかく、芥川龍平と中馬姫奈はこうして巡り合った。一見、姫奈が一方的に龍平を巻き込んだように思われるかもしれないがそんなことはない。龍平が人混みを抜け出して来るのがあと五分遅かったら、あの場で芥川龍之介全集を落としていなかったら、ふたりは今の関係に落ち着かなったかもしれない。運命とはそういうものなのだ。
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