恋愛小説無題 

三鷹たつあき

第1話 めちゃくちゃ可愛い女

 春という季節はどこか不安を感じさせる。中でも四月は恐怖とも期待とも受け取れる気味の悪い心理状態に陥る者が多い様だ。


 その理由のひとつに桜の花の存在というものが関係しているとわたしは考える。桜は開花に大きな期待が寄せられ、すべての日本人がそれを心待ちにする。いざ花が咲けば人々は笑い、歌い、酒を飲んで騒ぎ立てる。しかし、その花の命はとても短い。その儚さが桜の花の魅力であり、美しさを際立たせるのであろうがその散りゆく様はあまりにも物悲しくて憂鬱にさせる。


 そんな四月は船出の季節だと言われる。ある者は新社会人として、ある者は新入生として一歩を踏み出す。


 この大学でも今日は千人を超える新入生が集まり入学式が行われた。入学生はもっと多いのだが、その数が多過ぎる為入学式を二日に分けているらしい。大学の入学式という儀式は一年の中で最も多くの学生が寄り合う行事ではないだろうか。もちろん新入生が一堂に会するからであるが、上級生も群れをなして集まる。上級生の目的は新入生を部活動やら同好会やらに勧誘することだ。

 これまでの人生でも、おそらくこの先の人生でもこれだけ多くの人に同時に声をかけられ、腕を引かれることはないだろう。ちやほやされて気分を良くして立ち話に応じる新入生もいれば、人混みを嫌い早々とそこから抜け出そうという者もいる。


 今、まさにひとりの男が人混みを掻き分けて大学の正門を潜り抜けた。正門を一歩でも出てしまえば上級生から勧誘されることはない。大学敷地外での勧誘活動は厳しく規制されている。


 男は両手に抱えきれないほどの勧誘広告を丁寧に束ねて紙袋の中に押し込んだ。それにしても荷物は多過ぎた。路傍に立ってそれらを鞄にしまっているときに、女に声をかけられた。


「ねえ、あなたサークルはどこに入るか決めた?」


 白いブラウス、グレーのスカートに身を包んだ女は随分と小さくて華奢な粧だった。白いリボンで結ばれた艶のある黒い髪の毛は仔馬の尻尾の様だ。薄く微笑みを浮かべた顔は可憐ではあったが、素朴と言うよりどこか田舎臭い。

そんなことは別に決めていない。今はまだそれどころではないと男は無愛想に答えて荷物の整理を続けるが、手元を狂わせ一冊の文庫本を落としてしまった。芥川龍之介全集という題名の本を拾い上げた女の顔色が一層明るくなった。男に話しかけてきたときの微笑より、こちらの笑顔の方がよりこの女の本質に近いものであろう。女はおかしそうに笑いながら男に問いかける。


「あなた、芥川好きなの?」


 好きでもあるし、なるべくならその名をあまり聴きたくもないが男は取り敢えず小さく頷いた。女と対照的に男の顔色は暗かった。もともと人懐っこい女が好きではないのだ。


 落とした本を返してくれと差し出した掌に文庫本と一緒に一枚の紙切れを女は乗せた。

――読書好きな君、小説家を目指す君。文芸倶楽部で一緒に楽しい文芸ライフを楽しもう。――

 

 紙切れには手書きでそう書かれており、本を手にした数人の男女が肩を並べている写真が印刷されていた。今時手書きの広告というのも珍しいが、それ以前にその広告は下らない。ただ、女だけはやけに楽しそうに男の横に立ち広告を指差して言うのだ。


「文芸倶楽部だって。ねえ、なんだか楽しそうじゃない。一緒にこのサークルに入りましょうよ。」


 これはどういった意図なのか。サークルへの勧誘なのか。男の目には華奢な女がやけに不作法に見えた。だからと言って決して不細工なわけではない。不作法と同時に麗しくも映った。それらは別に相反するものではないのだから実に自然なことであろう。


「そうよ、これは勧誘。ねえ、これから一緒に部室に行ってみましょうよ。」


 女は見かけ通り活発で強引だった。男も見かけ通りに気が小さく、自身の腕を引く女の手を振り払らえずに、迷惑そうな顔をしながら走らされた。女の小さな歩幅に合わせて走るのは窮屈で面倒くさそうだ。

 

部活動や同好会、サークルの部室専用に建てられた七号棟のエレベーターは多くの人でごった返していたので、ふたりは階段で五階にある文芸倶楽部の部室を目指す。道中で女は嬉々として口を開いた。


「あなたと出会えて良かったわ。文芸倶楽部に興味は湧いたけどひとりで部室まで行くには踏み切れなかったの。あなたみたいな一年生と出会えてついているわ。」


 なんだ、この女は上級生ではなく自分と同じ新入生だったのか。男は少しの昂りとつまらなさを同時に感じたのだろう。


「失礼します。」


 女は勢いよく文芸倶楽部の部室のドアを開け、大きな声で挨拶をする。とてもひとりでここまで来ることを躊躇していた者の態度とは思えない。ここに来ることをたゆたっていたわけではないのだろう。このドア向こうに馬が合う仲間がいるとは限らない。そういう連れをひとり脇においておきたかったのであろう。


 わたしはこぢんまりとした部屋を想像していたが、教室で使うような長い机が向い合せにふたつ、縦方向にもふたつ並んでいて十人くらいは楽に座れそうな意外に広い空間である。部屋の一番奥の席でひとりの男が退屈そうに煙草をふかして座っている。それはたいそう太っており、顔は脂ののった色艶をしていてとても大学生には見えない。どうみても中年の親爺の顔色である。

彼は突然の訪問者にとても驚いた様で、吸っていた煙草を慌てて灰皿に押し付けて火を消して、意外に爽やかな笑顔を作ってふたりを歓迎した。


「こんにちは。サークル見学の新入生かな。どうぞ、ゆっくりしてください。飲み物はなにがお好みかな。」


 中年のような男は冷蔵からペットボトルのオレンジジュース、コーラに緑茶そして缶ビールを取り出してふたりの前に並べた。


「わたしビールを頂きます。」


 女は未成年であるにもかかわらず、飲みなれた様子でビールを喉に流し込む。豪快な飲み方だ。数回口をつけただけで、あっという間に一本の缶を空にして二本目に手を付けた。一方男の方は紙コップに注がれた緑茶をちびりちびりと口に当てるだけ。


 このふたりはいったいどういう関係なのだろう。どうにも友達同士には見えはしない。中年のような男はいぶかしい気持ちを抑えているようだ。まるで気の強い姉と気の弱い弟がいっぺんに現れたのではないかと思い浮かべているようである。

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