ひとかけらの魔法

硝水

第1話

「ライム」

 振り返ると、飴色の手摺に肘をついた先輩がこちらを見下ろしている。

「リラ先輩」

「これあげる」

 彼は勝手に短くカスタムしている(そんなことが許されるのは彼くらいだ)ズボンのポケットから包みを探り出すと、こちらに投げ落とした。すらりとのびた足の上を転々と転がって、爪先から飛び出したそれが僕の手のひらにすっぽりと着地する。淡いサーモンピンクのストライプ模様がななめに入った立方体。いつもの角砂糖。

「あとで食べな」

「はい。ありがとうございます」

 陰気な響きのチャイムが鳴る。彼はひらひらと華奢な手首を振ってエントランスをあとにした。次の美術は写生だから、クラスメイトはみんな薔薇園にいるはずだ。

 角砂糖を両手に包んだまま、階段の下をくぐって化粧室へ駆け込む。一番奥の、窓に近い鏡の前に立って薄いグラシン紙の包みをひらいた。きらきらと光を放つまっしろな、それを舌にのせて鏡を見つめる。ただでさえ滑稽な格好なのに、はじめて彼に『魔法の見方』を教わった時のことを思い出して、耳が熱くなった。それでも鏡から目を逸らすわけにはいかなくて、羞恥に耐える自分の顔を見つめながら羞恥に耐える必要があり、彼はこんな僕の様子をどこかで想像しておかしがっているに違いない、と思う。

 角砂糖がゆっくりと溶けだして傾きをおおきくしていく。洗面台に転がり落ちないように舌をまっすぐに戻しながら、今期サボった授業の数をよむ。糖分過多の唾液が糸を引く。彼と放課後に埃っぽい教室で交わした会話のひとつひとつをなぞる。

 リラ・カルミレアは学園の華だ。彼を憧憬の眼差しでもって眺めない人間はいない。かくいう僕もそのひとりであるし、そんなのは薔薇の枝を丁寧につついて朝露を落とす彼をひと目見ればわかることで。誰もが彼の卒業を惜しみ、彼自身でさえ冗談めかして留年を口にするくらいには、でも、彼はそれが一瞬にして冗談だと伝わるくらい、優秀なのだ。

 舌が乾き熱を失っていく。角砂糖はすっかり形をなくして、あとには不鮮明な、走り書きの文字列が残されているだけだった。これが『彼の魔法』。眼鏡をつまみながら鏡にそばかすだらけの顔を近づける。

『きみになんか出会わなきゃよかった』

 読み取れたのはそれだけで、というかそれしか書かれていなかった。痺れかけている舌をしまう。冷たくて、甘くて、異物めいた自分の一部に怖気を感じながら、はやく、こんなの消してもらわなきゃ。

 廊下に出て、吊り下がった時計の針を確認する。授業が終わるまではまだ半時間ほど残っていた。なら、彼は。誰もいない教室に寄って写生道具を引っ掴み、薔薇園へ急ぐ。荊のアーチをくぐり、よく手入れされた垣根を飛び越え、まるいガゼボの屋根をめがけて色形の揃った石畳を楽器のように踏み鳴らす。秩序の崩れていく音だ、破滅的なリズムで、救いようのない旋律。

 リラ・カルミレアは学園の花だ。彼を称賛の眼差しでもって眺めない人間はいない。かくいう僕もそのひとりであるし、そんなのは四肢を繊細にふるわせて朝露を落とす彼をひと目見ればわかることで。誰もが彼の腐朽を惜しみ、彼自身でさえ冗談めかして乾燥を口にするくらいには、でも、彼はそれが一瞬にして冗談だと伝わるくらい、うるおう生命なのだ。

「リラ・カルミレア!」

 コリント式の壮麗な円柱にもたれかかって数名のクラスメイトのモデルになっていた彼は目をまんまるにして、勢いのまま突っ込んでいった僕を受け止めきれずに冷たい大理石の上に倒れ伏した。

「ライム、どうしたの」

「授業を受けにきただけです」

「ああ、きみのクラスだったんだ」

「リラ先輩」

「なぁに」

「どういうことですか」

「何の話かな」

「とぼけないでください」

 彼の目は泳ぎすぎて眼窩を飛び出していってしまいそうだし、クラスメイト達が息やら固唾やらを呑む気配に気づいた僕はひとまず彼を助け起こし、その場を逃げ出す。コトコトと軽い足音を後ろに聞きながら、折れそうな手首を(実際、手折って自分のものにできたらどんなにいいかと思った)掴んだまま校舎へ戻る。

「授業を受けにきたんじゃないの」

「あと三回はサボっても大丈夫です」

「あはは。ライムってちゃっかりしてるよね」

「先輩に言われたくない」

 窓から差し込む陽に透けるストロベリーブロンドが、くるくると円弧を描きながら奥行きのあるブルーの瞳へ視線を誘導する。彼が、僕なんかを諦めなければならないなんて許せなかった。

「これ、消して。訂正してください」

 嘘だ。ほんとうは、僕なんかが彼を諦められないのが苦しかっただけだ。

「きみはひとをきらいになったことがないの」

「あります」

「じゃあ、」

 眼鏡を外して胸ポケットにしまう。彼の姿がぼんやりとして、ひかりの額で縁取られる。

「ねえ、先輩、どうして我慢するの」

「だって」

「どうして僕にも我慢を強いるんですか」

 彼の頬は冷たい、耳からさがった小さな棘が指先を刺した。唇を押しつけて、彼の舌が何もかも消してしまうのを待っている。彼はそっと僕の胸を突いて離れた。

「いずれ失うとわかっているものを、束の間手に入れることがこわくないの」

「嗚呼愛しきリラ・カルミレア! きみは時間が有限であることを知っている、それなのにありもしない永遠を望むというのか」

「ライムは時々怖くなるよね」

「話を逸らさないでください」

 彼の手のひらはまだ僕の胸ぐらを掴んだ(摘んだ?)ままで、頼りない指の骨がいつ沈み込んで心臓を握り潰してしまうか知れない。

「僕はリラ・カルミレアを愛しています。先輩は違いますか」

 彼はゆるゆるとかぶりを振った。

「なら、僕の魔法も見てくれますか」

 彼が頷くのをみとめて、ポケットから包みを取り出す。銀のストライプ模様、キャラメル包みのグラシン紙。ブラウンシュガーの角砂糖。きみに出会えてよかった、それだけだ。

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ひとかけらの魔法 硝水 @yata3desu

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