第14話 百円玉おばあちゃん


 砂まみれになってなんとか私たちはお風呂と書いてある木の看板の前まで辿り着いた。

「はるちゃん、つかれた」 

 そういえば、と思い私はなっちゃんの膝こぞうを見た。

 血は止まっていたものの、砂がくっついて、バイ菌が入りそうだったから、私はなっちゃんとの左手を離し、ポケットに手をつっこむ。

「これ、貼ろう」

 出したのは絆創膏で、猫のイラストが描かれている。

 お母さんのお母さん役をしていた頃、つまり私のお母さんが子どもになったときは絆創膏を貼ってあげるととても喜んでくれた。だからいつのまにか家には絆創膏がたくさんあった。お母さんは働いていなかったけれど、どこからか、大量に持って帰ってくるのだった。

「これで、洗おう」

 木の看板の横にはホースがあって、ちょろちょろと水が出ている--見渡す限りどこまでも砂の、それは、どこかの、誰かの、なっちゃんの、もしかするとシロちゃんの、限りなく私の涙のようでもあった。

 なっちゃんの膝を洗ってぺりぺり、と絆創膏をはがすとめくったシートがすぐに風で飛んでいってしまった。シロちゃんがそれを追いかけようとしたけれど、私は右手を離さなかった。

 絆創膏の部分をなっちゃんの膝に合わせた。家から施設へ持ってきた数少ない持ち物だった。その持ち物を広げていたとき、間違えてお母さんのブラジャーが入っていて、それを見て知らない子が笑った。でもそこに秋子先生が来て、そんなのなんてことないよ、なんて顔でただそばにいた。秋子先生は今頃……。

「お母さん、怒ってるかなぁ。警察に、言ったかなぁ。私たちがいなくなったって」

 と、なっちゃんは言ったから秋子先生のことはとにかく飛んでいったゴミといっしょに風に任せておく。

「はるちゃんは、はるちゃんはなにをお願いした?」

 絆創膏の猫をなぞりながらなっちゃんは言った。「えっとー……」

 思い出そうとすると、お願いしたことだけじゃなく、ぜんぶが、メリーゴーランドみたいにぐるぐる回ってまた立ちくらみがした。くらくらしながら私はこのくらくらで戻れるんじゃないか、“のうしんとう”は終わって、秋子先生が手を握って「大丈夫?」と声をかけてくれるのではないかと思った。でもうっすらひらいたまぶたから見えるのは相変わらず座り込んだなっちゃんの姿だった。

「家、家、家、施設、ここ」

 頭の中でつぶやいたつもりが、「え、なんて?」と、なっちゃんに聞かれる。ここへ来るまでにいろんな場所を行ったり来たりしたこと、施設へ来る前も窓のないアパートだったり、お母さんの友達の家だったり、お母さんの彼氏の友達の家だったり、そうだ、けれど最後の家には長くいて、その家の本棚が好きだった、お母さんと行った古本屋さん、手を繋いで帰った夕焼けのおれんじ、本……本……そうだ、前の学校の図書室で見つけたあの本を、もう一度読ませてくれませんか、そんなことをあのプールの階段で思っていたんだった。

「百円玉、三枚!」

 とつぜん大声がした。

「わっ」

 あまりにとつぜんで私たち三人も同時に大声を上げた。

 いったいどこから、いつのまにやってきたのか、おばあちゃんがいる。ずっといたかのようにいる。

「あ百円玉ぁ〜さんっまいっ」

 何百年も言い続けてきたかのようなその言葉はもはや歌で、私たちが固まっていると、なんども繰り返してくる。

「百円玉ぁ〜っ、さんっ、まい!」

「えっと、私たちお金、持ってないです」

 なっちゃんが言ってくれた。「なんで?」シロちゃんが言った。

「そうか。初めてか。じゃ、これ」

 おばあちゃんは腰からぶらさげた布袋から百円玉三枚を取り出した。でもそれは、よく見たら百円玉ではなくて、なにかが違う、お母さんの買い物を手伝っていたときに握っていたあの百円玉とは、絵が違うのか、光り方が違うのか大きいのか、うすいのか……。

「ありがとうございますっ」

 なっちゃんが受け取る。なっちゃんは、さっきまで豪快に泣いていたのに、こけて怪我までしたのに、なんだかすっかりしっかりしている。なっちゃんは、すごいな。私たちは、おばあちゃんのまえを通り過ぎて、わずかな石畳を進み、そしてようやっとお風呂の入り口をがらっと開けた--もわっ、と白い空気が襲ってきた--その空気を体に吸い込んでつまさきまでまっしろになって。

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