第4話 どこかの世界


 その本を見つけたのは放課後だった。

 私はその頃家に帰るのが億劫だった。お母さんの具合が悪かったから。

 具合が悪かったといっても、風邪をひいていたとか、足の怪我をしていたとか、そんなんではなかった。

 お母さんは、赤ちゃんに戻っていた。だから私は、自然にお母さんのお母さんになって、服を着替えさせたり、頭をなでたりしていた。お母さんは私が話し方を変えようか悩んでいたよりもっと、まるで生まれたてみたいに話した。

 そんな日々が続いていたから、私は図書室にこもるようになった。はじめて図書室に入ったときは、埃っぽいのに、息が大きく吸えた気になった。

 図書室の奥の奥--窓の光も届かないようなすみっこがお気に入りだった。薄汚れた椅子が一つ置いてあって、それは本棚と壁の隙間を埋めるためだけに、置かれているようだった。


 あの日見つけた一冊の本。

 最後まで読みたかったのに、私は転校することになってしまった。

 その本は辞書のように分厚かったから、借りることもしなかったのを後悔している。

 挿絵を見ながら、ほんとうにほんの少しずつ読んでいた。小学校二年生の始まりから、春が終わって、夏が始まりそうになるまでのあいだ。


 図書室には大人の女性が一人いて、なにかを書き込んだり、ファイルに挟んだりしていた。

 施設へ行くことになるまでの間に、映画のラストシーンが毎秒くるみたいに事件が起こり過ぎた私は、記憶がおぼろげだった。

 だから、その本について、聞いてみようかと思ったけれど、なんと言えばいいのか……題名も分からないし、勇気が出ない。

 いっぽ進んで、またいっぽ。いっぽ。

「あのー……」

 どこから出たんだろう、というような頼りない声。その短い音はチャイムに混ざってこの世界から誰の耳にも届かず消えていってしまった。


 帰り道は、初日だったから、先生が車で迎えに来てくれた。秋子先生は免許を取り立てのようで、後部座席、シートベルトをする前だった私はごろんごろんと転がった。

「さあ、行こっか」

 そう秋子先生が言ったのを聞いて、私は「うん」と言ってから(さあ、どこへ行こう)と心で思ってここではないもう一つの、どこかの世界を強く感じて、必ずあの本を見つけ出すのだと誓った。

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