第4話 花部さんと僕。

 苔を食して半刻が過ぎただろうか。


 ――『おーい!! 春本おぉぉ!! 聞こえたら返事しろぉ!』


 風に乗ってきたのか、微かに花部はなべさんの声が届いてきた。

 そういえば、花部さんも一人になってしまっていたのだ。いくらあの人でも心細かったろう。


「エンドロップ、また明日も来るから」


 僕はそっと声を掛けると、花部さんの声がする方へと駆けて行った。



 ――――――……



 「……いやあ、春本ぉ、俺ちょっと怖かったんだからなぁ!」


 とうとうくたばっちまったかと思った、と花部さんは赤い顔を緩ませている。右手に持ったグラスが傾いていて、今にも酒が零れそうだ。


「はいはい。花部さんもそのくらいにしてね、明日も早いんですから」


 花部さんよりも年下でありながら、皆の兄貴分でもある増間ましまさんが宥めている。

 増間さんが愚図ぐずる花部さんからグラスを取り上げたところで、奥の席にいたはずの八代やつしろさんが僕に話しかけてきた。


「なあ、ハッちゃんよ」


 いつの間にか隣に座っていた八代さんに、僕は思わず目を皿にする。

 僕の視界の端ではオジサンたちが次々と倒れ込んでいた。いつもそうだ。初日は皆、呑み過ぎてしまう。明日には、先輩方は揃って眉間を押さえていることだろう。


「今日の散策はどうだった? 一度花部くんとはぐれたそうじゃないか。なんかおもろいもんでも見つけたかな?」


 少しだけ、本当に少しだけ頭がぼうっとしていた僕は、気付けばおかしなことを口走っていた。後で思い返せば、お酒の所為せいとしか考えられない。もっとも、僕は下戸だからひと口しか口をつけていなかったのだけれど。

 そしてきっと、八代さんが僕の祖父と同じ話し方なのがいけなかった。


「古代人すよぉ。八代さん。南極には太古の記憶が詰まってるんす!」


 もう駄目だ。頭では分かっていたのに、僕の口は止まらなかった。


「苔! これをぉ、食べたんすよ! しかも、生でぇ!」


「お、苔かぁ! やっぱここらだと苔類だよなぁ。蛇苔ジャゴケなんか生えてんのかな? 最近はモスバーガーとかあるらしいしなぁ」


 花部さんも首を突っ込んできた。もちろん既にほろ酔い気分。最早ここには混沌の世界が広がっていた。


「知ってるかぁ、春本ぉ、八代さんー! 苔にはなぁ、葉緑素、脂肪酸、油分が含まれているからぁ、老化防止に良いんだぞぉ」


 すっかり忘れていた。花部さんは苔マニアでもあったのだ。ついでに歴史マニアでもあるし、羽マニアでもある。南極探査員たちの中でもトップレベルの博識さだ。


 あくまで俺の考えだけどよ、と大口を開けて豪快に笑う花部さんの銀歯を数えていたら、視界の端で増間さんが僕を手招きしているのが見えた。隙を見てその場を抜け出すと、増間さんは少し額を赤くして待っていた。


「増間さん、おでこどうしましたぁ? お怪我すかぁ?」


 酔ってるな、と呆れ顔で言う増間さんはいつになく僕を優しい眼で見つめていた。酒の力だろうか。


「花部さんがお前が居なくなったのを、風呂で泣いてたぞ」



 ――花部さんが……?


 ありえない。だってあの花部さんだ。

 無頓着、無感動、無遠慮の三重苦だ。

 僕のために涙を流すような人じゃない。


 けれど、もし、本当だったなら。



「花部さぁーん!!」


「うおっ、待て! 死ぬ……」


 勢いよく花部さんに抱きつく。いつもなら絶対にしないけれど、酒の力を借りた今なら。


 心の中で、ありがとうございます、と呟いた。

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