終章 【透過などさせるわけも無く】6

 ――九十分のケーキバイキングは、意外にもあっという間に思える速さで過ぎ去った。ケーキを食べて、飲み物を飲んで、会話をして。そうしたら、九十分は本当にあっという間で。


 その後、桜が綺麗に咲いているから一緒に見ようと綾に誘われ、俺達は近くにあった小さな公園へと来ている。久しく目にしていなかった、滑り台やジャングルジムという懐かしい遊具を遠巻きに囲むようにして桜の木が植えられていて、先程よりも弱くなったとはいえ風のある今、その花びらはひらひらと風に舞い、宙を流れている。しばらくの間、木製のベンチに座って俺達はその様子を見上げていた。


「綺麗だねー」


「ああ」


「散っちゃうの、勿体無いね」


「毎年、桜の花が咲くたびに風や雨で散らされている気がするんだよな」


「確かに! せっかく咲いたのに、何てことをするんでしょう。自分の意思で散るまで、そっとしておいてほしい。そういえば、小さい時に桜の木にあった実がさくらんぼだと思って食べたことがあるんだ」


「え、おいしいの?」


「おいしいのもあった! でも、何か苦いのもあった」


「子供の時って、実とかが魅力的に見えるんだよな」


「見える! つい、取りたくなる。そして食べたくなる」


「食べるかどうかはまた別の話だな」


「そうかなー。収穫したら食べたくなりますよ?」


「収穫って」


 桜舞う、午後。春の日差し。その柔らかく穏やかな時間が、思考にヴェールを掛ける。 公園の片隅では、二人の子供がキャッチボールをしていた。何気無く、行き来するボールを見ていたら、その動きが自分の心の動きと不意に重なって見えた。


「ねえ。怜君は今、何を考えてる?」


 その声が、何処か今までよりも大きく耳に響いた気がした。


 振り向くと、こちらを見ている綾と目が合う。吸い込まれそうな黒い、まるい瞳。それがが震えたように思えた。


「私が今、何を考えていると思う?」


 ほんの少し、傾けた首に誘われて綾の黒髪がさらりと流れた。


 まるで、時が止まったような気がした。唐突に覚えた緊張が指先までをも強張らせる。いや、緊張ならさっきからずっとしている。綾に会った時から。それよりも前、綾と今日、会う約束をした時から。


「怜君、緊張してるって言ってたよね」


「ああ、してる」


「私も、そうだよ。ちゃんと自分を築きたくて、一年っていう時間を言ったのは私だけど。でも、不安だった。一年後、怜君が会ってくれなかったらどうしようって。だから今日、こうやって会ってくれて凄く嬉しいんだ」


「俺も、会えて嬉しいよ」


 にこ、と綾が笑った。


 それでも俺の緊張は和らぐどころか、ますます高まるばかりで。綾は何を言おうとしているのだろうと、そればかりが頭の中をグルグルと巡る。俺も伝えたいことはある。だが、今は綾の言葉を待った。


「私、怜君が好き。もう一度、私とお付き合いしてくれませんか?」


 ああ。もう、全てが春の嵐に掻っ攫われた。そんな気がした。


 ――俺は、あとになって何度もこの瞬間を思い出す。雪のように舞う桜の花びらが綾の真剣な表情に降り注ぐイメージと共に、何度も思い返す。この時、俺はどんな顔をしていただろう? 何を思っていただろう。ただ、言葉にし難い感情が全身を満たしていたことだけは強く覚えている。


「俺も。俺も綾が好きだ。付き合ってほしい」


 俺がそう告げると、


「良かったあ……」


 と、綾が顔を覆って俯いた。


「綾」


「ダメって言われたらどうしようかと……」


 考えるより先に伸びた手が綾の黒髪に触れた。さらさらしていた。そのまま撫でるように手を滑らせると、綾が顔を上げて覗き込むようにして俺を見た。その瞳がほんのり潤んでいて、目が離せなくなる。


「もう、お前なんか知らないって言われたらどうしようって」


「そんなこと言うわけないだろう」


「だって、私の勝手だったから。一年っていう時間を作ったのは、私の都合で我が儘で。その間に、怜君が他の誰かを好きになることだってあるかもしれなくて。それは……私にも言えることで。本当は怖かった。怜君と離れるの、とても怖かった。今日だって、怖かった。それでも会いたくて。ちゃんと私の気持ちを伝えたくて。それで……」


 途切れた言葉の先は、涙になっていた。


 髪に触れていた手に、不意に力が込もる。そのまま、抱き締めるようにすると、綾が驚いたように少し体を固くしたことが分かった。だが、やがてそれは解 《ほど》ける。強く打つ心臓の音が聞こえてしまいそうな気がして、俺は自分の心臓に苛立ちを覚える。それでも綾を離すことは出来なかった。もう二度と、離すことは出来ないと知った。


 こんなに近い距離でも耳を澄まさなければ分からないくらいの小さな声で、綾が泣いていた。それが、こんなにも胸を締め付ける。


 ややあって、ふるりと身を動かせた綾がそっと俺を押し戻す。片側の髪を照れたように耳に掛ける綾は、もう泣いてはいなかった。僅かに伏せられた目が、何かを探すように左右に揺れて、そして遠慮がちに俺を見上げた。


「もう一度っていうかさ。俺達って別れてはいなかったよな?」


「あ、うん。でも、それに等しい感じがしてたから。改めてよろしくってお願いしたかったの」


 泣いたことを誤魔化すかのように、へへ、と笑いながら綾は言った。


 俺は、安堵していた。綾とこれからも共にいられることだけでは無い――綾も、不安だったということに。変わらないものなどもしかしたら無く、その中でも最も不確かと言えるかもしれない、心。俺達は同じ不安を抱えて、この時間をお互いに過ごしていた。その事実が、小さな棘となって俺の心に落ちて刺さった。


 変わらないものが存在しないとしたら、これからも変わらない保証など、何処にも無いのだ。いつでも何かの影響を受け、いつでも揺れている心。だが、春が終わって夏がやって来て秋になり冬が訪れても、片桐の手を離さないことが俺の心からの想いだ。それが、一方通行にならなくて本当に良かったと思う。


 奇跡的なことだ、互いが互いを同じ響きで呼び合うことは。俺はその幸福を知った以上、ずっと繋ぎ留めておきたいと願う。綾の力に、これからもなりたいと思う。


「えっと。ずっと、よろしくね」


「こちらこそ」


 桜舞う、午後。春の日差し。その柔らかく穏やかな時間が、思考を緩やかに包み込む。文字にすれば短い「これから」が、長く二人の時間としてありますようにと。






 ――数年後には、学生という限られた時間を抜け出し、俺達は今まで以上に互いを必要とする。変化して行くささやかで儚い日常は、互いの存在が形作るのだ。ただ、頼りきることの無いように。ただ、手を離さないように。祈るように。相模原怜という人間と、片桐綾という人間が共にいられる幸福に、俺と綾は出会えた。


 制服姿の写真の二人が懐かしく思える頃も、俺達の手は繋がれたままだった。きっと、これからも。


 


 


 


 〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リセットランキング 有未 @umizou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説