episode13

 胃から離れぬ空腹が音を立て。

 生きた血肉を頬張りたいという欲が目覚める。

 身の中心から湧き上がる衝動は、ただの飢えではない。

 空っぽの腹の所為で気が散る。苛立つ。


 鼻腔に漂う、食欲を掻き立てる良い匂い。

 ――腹が減った。

 目前の少年が怯えている。

 ――なにか食べたい。

 彼が一歩下がる。

 しかし、見過ごせない違和が引き止める。喰ってはいけないと脳の隅で誰かが怒鳴っていた。それが首を掴んで離さない。


 忘れたか。

 お前は二度と生きたヒトを喰ってはいけない。

 あの誓いはただの戯言だったのか、と。


 ・・・・・・


 弟子の前で、ヒュウは食欲発作を起こしかけていた。


 苦し紛れに呼吸する彼の口からは、泡立った唾液が躊躇いなく流れ出ている。骨と皮でしか成っていない背の翼が、何かを抑え込むように小刻みに震えていた。皮膚が沸騰しているかのようにブクブクと波打っている。

 シュリの指先は勝手にピストルに触れた。


(違う殺すな)


 考えていることとは裏腹に、手が言うことを聞かない。強張ってしまって上手く動いてくれない。

 どうやら彼の体は、師を完全なるとして認識してしまっているらしい。骨の髄まで染み込んだ、発症者の駆除の手順が脳裏を巡る。


(私は先生を殺そうとしているのか)


 自分の体と意識が剥離されている。何かの拍子に発砲するかもしれない。

 臨戦態勢となったシュリは、必死で己の四肢を制御下に敷いた。気を抜かせば向こうもこちらも攻撃しかねない。

 室内での戦闘は避けたいところだ。その上に相手は師。殺せば自己が崩壊するという予感が身を隠しきれていない。


 もう一度名を呼ぶ。返事は荒い息遣いだ。

 現時点で襲ってこない、という事はまだ意識が残っているのだろう。ならば助ける糸口がある。

 とはいえ計り知れない不安と恐怖が手足を縛り付けてくる。怖くて仕方がない。


『僕は、人じゃないから』


 少し前に言われた師の言葉が再生された。

 諦めにも見えたあの顔で、何度も心の中でこだまする。


(人でない? だから何だ)


 速まる心音に呼吸が乱れてしまう。冷や汗が伝っていくのを感じた。


(私は、彼が人外だから怖がっているんじゃない)


 情けなく鳴く喉を絞め、シュリは言った。


「先生、見習いの者ゆえ荒治療になることをお許し下さい」


 呟くと、少年はホルダーの側面に手を伸ばした。同時に床を蹴り、身を丸くした青年に掴み掛かる。彼はこちらを睨めつけるだけで動こうとはしなかった。

 幼い手に握られたのは注射器だった。彼の首筋に針の先端を深く刺し、ひと思いに中身の麻酔を注入する。一瞬だけ青年は暴れたが、すぐに脱力しうつぶせになった。呼吸も落ち着き、規則正しく息を吸って吐く。

 思い切った行動が正解だったことに、シュリは胸を撫で下ろした。


 対人外用の麻酔ではあるが、発作直前の人外にも効果があるとは知らなかった。もし彼に麻酔が効かなかったなら殺さなくてはいかなかっただろう。

 だが安心はできない。

 目覚める前に人肉を手に入れなくてはいけないのだ。


 壁に凭れた古時計を一瞥する。少年はテーブルに放置されていた、なけなし金貨を無造作にポケットに突っ込み、勢いよく事務所から駆けだした。

 向かうは闇市。

 ここから離れた郊外で夜な夜な広げられる、秩序など存在しない市場だ。そこでなら人肉が売られている。

 シュリは何度か師に連れられてきたことがあった。その時も彼の食糧を買うために行った。今でもあの場所の異質さを覚えている。


 真冬の風で凍ってしまいそうだ。胸が、肺が、心臓が痛くて仕方ない。


 薄い雪の絨毯じゅうたんが敷かれた半丸瓦テラコッタの屋根を走り渡り、最短距離で目的地へと足を速めた。

 昼間なら人気のない路地裏に並ぶ、点滅する明かりが視界に入り込む。少年は何メートルもある建物から飛び降り、足の筋肉がはち切れるほど走った。

 まだ開店前である。しかし彼は構わず目指した露店に駆け込んだ。瘦せ細った店主は悪い目付きで少年に言う。


「なんでこんなとこにガキが」

「急を要するんだ買わせろッ‼」


 閑静な路地裏に怒鳴り声が鳴り渡る。シュリの額から伝う汗の量が尋常でない。店主を睨みつける眼光に、子供らしさなど欠片もなかった。

 臆した店主は慌てて大瓶を手渡す。少年は代金も聞かずに金貨を押し付け、再び地面を蹴った。

 死人の肉や脳が詰められた瓶は、重い上に酷く冷たい。冬の夜風に晒された手や顔は真っ赤になっている。最早寒さも感じられない。


(目を覚ます前に早く)


 彼の夜は始まったばかりだ。


 ・・・・・・


 僕は、何をしているんだろう。

 確か新しい担当の人間が来て、話して、そうしている内に✕✕✕が帰ってきて……。


 脳髄に響く水の音。懐かしい匂いが漂っている。


「本当に死んだように眠るなぁ」


 いつかに聞いた声だ。

 目を開けると人影が映る。その姿に、僕の埃を被っていた記憶が飛び起きた。


「あ、アンク⁉ なんでここにっ」

「おはようヒュウエンス。何言ってんの、おれが医務室ここまで運んでやったんだぞ」


 巻き毛の金髪が揺れる。優しげに細められる茶の瞳に、僕は戸惑いを隠せなかった。

 咄嗟に自分の後頭部に触れる。髪が短い。もしやと思い、目前の彼に日にちを尋ねた。すると彼は七十一年前の西暦を口にした。

 様子がおかしい僕にアンクは困ったように笑う。変なの、と言いながら彼は傍にあった鉄のティーポットを手にする。傾け、歪な形状のコップに注ぐと良い香りが立った。僕の好きなレグルスの紅茶の匂いだ。


「これ飲んで落ち着きな。まったく、心配したよ」


 彼は事の経緯いきさつを話してくれた。どうやら僕は訓練中に倒れたらしい。

 アンクの話を聞くに、僕は過去にいるのだろう。なぜ此処にいるのかは分からない。意識を飛ばしたことは覚えているのだが、それより前をよく思い出せないのだ。


 彼が生きている。

 救い切れず死なせた筈のアンクが。

 形を持って、こうやって話して、笑っている。


「お、おいおい大丈夫か」


 驚く彼に構わず、僕は頭を深々と下げた。口から止めどなく謝罪と安堵が溢れる。言っていることはあまりにも支離滅裂で、アンクには理解できないものばかりだった。


 一頻ひとしきり言葉を垂れ流すと、彼は優しく僕の背をさすってくれた。穏やかな声音で大丈夫、と言い聞かせてくれる。

 あぁ、そうだった。彼は出会った頃から優しかった。

 戦人とは思えないほど心が広く、朗らかで真っ直ぐだった。僕が人でないことを伝えても変わらず接してくれた。

 僕が今まで触れてきた人間の中で、一番慈愛に満ちた人。


「キミが泣くなんて珍しいね。しっかりしてよ、明日は西国境を制圧するんだから」


 西国境。制圧。

 その単語が鼓膜を掠めた途端、僕は彼の腕を掴んだ。


「行くなっ みんな死んでしまう!」


 いつかの記憶が氷のように急激に冷え、これでもかと存在感を放つ。

 浮かび上がる断片は、宵闇を裂くように轟く爆発音。四肢が千切れ、骨を剥き出しにしてもなお死にきれず呻く仲間の影。投げやりの鬨の声。そして救い切れなかったアンクの亡骸。

 あんたも死ぬんだと必死で訴えるが、彼は困り顔になって口角を持ち上げるだけだった。妄言にしか聞こえないのも当然だろう、でも、諦めきれない。

 しかし僕の願いも虚しく、アンクは質素な返事をした。


「ごめん。分からないや」


 するりと掴んでいた手を放す。視界が濁り、霞んだ。


 また失うのか、目の前で。否、違う。此処は過去だ。僕の記憶が僕に見せている空虚な幻想なんだ。この世界で何か行動を起こしたとしても、結局は何も変わらない。

 突然黙りこくった僕を配慮して、アンクは自身の分の紅茶を淹れて言った。


「多分それは予知夢だよ、他に何があったか分かる?」


 予知夢なんかじゃない。言いかけて口を噤む。

 これ以上彼を困らせるのは良くないと思った。僕は虚ろな目をして記憶を掘り返す。


 君が死んだあと、僕はここを辞めて同類と出会った。彼女は自分のことを蝶だと言った。そして他にもいるらしい同類と手を組んで人間と人外の間に立つことを決めた。その後は。


 不意に、ずきりと頭が痛む。

 頭痛とは明らかに違う、瞬間的で刺すような鋭痛だ。


 思い出せそうで思い出せない。誰だろう。確かに出逢った。誰かに「先生」と呼ばれていた気がする。瑠璃色の瞳を持つ、誰か。

 網膜に揺れる小さい影を追うも、すぐに姿をはぐらかされる。朧げに聞こえる子供の声が遠ざかっていく。

 忘れてはいけない存在。つい先刻まであった筈の人影。

 あの子供は僕の役に立ちたいと言っていた。僕のようになりたいとも。どうして人間の子供にそんなことを言われたのかは覚えていない。誰だ、誰なんだ君は。

 過去に遡ろうとすればするほど行く手を阻まれる。頭が割れる。


 呻く僕を前に、アンクは結んでいた唇を開く。その口から紡がれる声音は優しく、不安の念を孕んでいた。


「ヒュウエンスにとって大切な人なの?」


 僕にとって、大切な〝人〟。


 刹那、痛みが消える。周囲の景色が突如、自分の色を思い出したかのように鮮やかになった。


『そうだね、やっと死ねる』

 焼け落ちる屋敷で項垂れる彼を見つけた。


『先生が無事ならいいんです』

 今ほど上手でない敬語で彼が言った。


『私は、先生に必要とされたいです、役に立ちたいです』

 歪められた彼の心が呟いた。


『私は、先生あなたがわかりません』

「――シュリ」


 呼び慣れた名前。僕があの子に付けてあげた名前。


「シュリムレイド」


 始めは長いから嫌だと拒まれた。でも僕が悲しい顔をしたら渋々了承してくれたんだ。

 どうして、どうして忘れていたんだろう。僕の弟子で、助手で、大切な人。

 きっと心配している。僕の寝起きが悪いことは充分知っているだろうけれど、僕が起きるまでの独りはつらい筈だ。帰ったらすぐ抱きしめてやらないと。いつもあの子は嫌がるけれど、本当は満更でもない顔をしているのを僕は知っている。

 僕も永い間、ひとりぼっちだったから。


「帰らないと」


 ぬるくなった紅茶を机に置いて立ち上がる。

 唐突に腰を上げた僕に対して、何故か隣のアンクは驚かず、むしろ安心した表情でこちらを見上げていた。その瞳を見て、思わず彼の肩を抱く。彼はふっと笑って言った。


「おれのこと、忘れないでね」

「当たり前だろ。逆に忘れたいくらいだ」

「えーおれ、そんなにヒドイ死に方したの? やだなぁ」

「本当は僕が助けなくちゃいけなかったのに」

「そっか、じゃあヒュウエンスの所為だね」

「うるせ、悪かったよ」


 軽い言い合いの後、離れると彼の顔も含め辺りの輪郭が滲み始めていた。間もなく目覚めるのだろう。

 意識が浮上する。再び瞼を下ろしかけた僕は、ぼやけて見えなくなっていく旧友に言った。


「死んだら必ず会いに行く。にも伝えておいてくれ」


 僕は凍てつく空気で目を覚ました。


 ・・・・・・


 夜が明ける。

 未だ眠りにつく住宅街の一角、太陽の光が差し込み部屋が明るくなっていく。その中、影が起き上がった。

 一直線に差してくる朝日に赤い目を瞬かせつつ、長髪の青年が周囲を見回す。散乱した本や紙、それに混じる割れた瓶、木の床に染みた赫い液体、そしてソファに横たわる血塗れの少年。


 朦朧としていた脳がはっと冴える。ヒュウは自身の手に視線を向けると、彼と同じ赫を視界に捉えた。

 一気に血の気が下がる。俄かには信じたくない。

 口内に残る肉の味が生々しい。腹も無駄に満杯だ。蝙蝠の翼も理由もなく服の外に出ている。


「まさか、発作……」


 寝起きの掠れた声は小さかった。

 意識を飛ばす以前のことをはっきりと覚えていない。思い当たる可能性に息が上がる。ばくばくと鳴く心臓が痛い。


(嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。僕が、シュリを、そんな、そんなわけ――ッ)




















































「先生?」


 幼く、中性的な声が鼓膜を撫でる。

 おもむろに振り返ると、赫い少年が目を見開き、間抜けな顔をしてこちらを見つめていた。

 自然とヒュウも子の名を口にする。名を呼ばれたシュリは、あっという間に端整なおもてを歪めた。彼は座り込んだままの師に向かって、今にも泣き出しそうな声音で言う。


「先生のばか! あほ! 最低!」

「な、なんだよヒドい」

「こちらの台詞ですッ 私が、私がどれだけ心配したと、お思いですか……っ」


 シュリ曰く、発症直前に麻酔で眠らせ、闇市で購入した瓶詰めの人肉を食べさせたらしい。強制的に食欲発作を鎮めるという、何とも雑な治療方法である。


 彼の握りしめられた小さい手が震えていた。ぼろぼろと大粒の涙を流し、しゃくり上げながら「ばか」を繰り返す。

 無傷の彼の姿を目にして、ヒュウは肺の空気が全て出てしまうほど息を吐いた。あんなにもうるさかった心臓が嘘のように泣き止んでいる。

 シュリを傷付けなくて良かったと思う反面、心配を掛けさせてしまったことを猛省した。前兆がない発作とは言え、自分が暴走した際の対処のすべを教えていなかったのは盲点だった。


 ヒュウは軋む身体を鞭打って、柄にもなく泣きじゃくる弟子の元へと歩む。安堵で潰れそうな少年を、躊躇いなく包み込んだ。彼はシュリの肩に顔をうずめる。

 普段はやめろと拒否するシュリも、今ばかりはその身を許している。


「嫌ですから、喧嘩別れなんて」


 幼い少年の言葉を聞いてヒュウは苦笑を漏らした。


「ごめん。これで仲直りな」


 抱きしめた子供の肩は華奢で弱々しく、それでいて凛々しい。

 ヒュウは静かに感謝の言葉を告げた。


「助けてくれて、ありがとう」

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