episode12
「
吐息に似たヒュウの呟きが、音もなく冷たい床に落ちる。
誰にも向けられていない言葉に深い意味はない。ただ、いつも居るはずの彼の姿がないことに、胸の中心が寂しさを感じていた。
晒された
室内では着用しないコートを一瞥する。血の匂いが鼻先を掠めた。
国王の生誕祭で起こった、浮足立つ人々を狙った無差別的な襲撃から二日が経つ。
怪我人は十一人、死者は咎人を含め三人と、テロにも関わらず小規模で済んだ。しかしシュリは大切な友人のセレスを亡くし、酷く取り乱してしまった。
騒動の後、混乱していた弟子に突き放され、ヒュウは困惑の時間を強いられていた。
(僕も君がわからない)
そう思ってすぐに打ち消す。君ではなく君
人間と人外の思考回路は全く異なる。
その一つとして、人外は関わる存在に順位をつける習性を持つ。
最上位は、その存在がなくては生きていけない。次に、その存在は不必要である。最下層は、その存在は自分に害を為す、といったものだ。
何より彼等は自分と、自分に近いもの以外には興味がない。乱暴な言い方をすればどうだっていいのである。
これらを踏まえるとヒュウにとってセレスは特別でない存在、どうでもいい存在だった。それを理解し切れず拒絶したのだ、彼は。
ミストも少女の死から立ち直れず引きこもってしまって連絡にも応答しない。人間はなんて面倒な生き物なんだと、青年はまた溜息を吐いた。
静寂に沈む事務所内に、ふとノックの音が鳴る。
行儀悪く机に両足を投げ出していたヒュウは、見もせずに応えた。
「開いてるぞ、勝手に入ってくれ」
間もなくドアが開かれる。古びた木の板は軋む音を立て、客人を迎え入れた。
長髪の青年はちらりと訪問者に視線を向ける。その先、見慣れた軍服に目を細めた。
胸元に煌めく国の紋章、清潔に短くされた金髪、きつく結ばれた薄い唇、深緑色の双眸。姿勢正しく立つ彼は敬礼して言った。
「失礼、ここは『氷輪の救急箱』で宜しいでしょうか」
「そうだけど、軍人様が何用だい」
机上の両足を下ろす。笑みを浮かべつつ、警戒を滲ませた眼差しで彼は問い掛けた。玄関に立つ青年は、感情のない目でヒュウを見る。
「あなた方の新たな担当として赴任しました、ヴィンリル王国軍 対人外機動部隊、少佐リグ・エンカーです。挨拶に参りました」
「うーん肩書き長いね」
ヒュウは中で話そうと彼を手招きする。軍人は礼をすると、腰の西洋剣を鞘の上から押さえてソファに向かった。
片付いていないテーブルの上を雑に退かし、青年が席を勧める。リグは短く断りを入れて腰を下ろした。端から端まで気の引き締まった振る舞いだ。
「わざわざ挨拶に来るなんて偉いな。寒かっただろ、紅茶淹れる?」
「いえ、お構いなく。顔と名前を覚えておきたかったというのもあったので」
敬語には慣れていないようだが、言動や所作は落ち着いている。出会ったばかりの頃のシュリに似ているなと、ヒュウは何処か懐かしさを感じながら彼の正面に腰かけた。
(この人間が噂の嫡男か。思っていたより大人しい)
ヒュウは他所向けの表情の裏で独り言ちる。軍人の佇まいは、こちらの笑みに絆されることはなかった。
国王の生誕祭の前、弟子と偶然出くわした処刑人の
代々処刑人を統べるエンカー家だが、後継ぎが畑違いである軍に就いたと
何より、彼の父親であるグレウはヒュウが人外であることを知っている。下手な動きをとれば首が飛ぶかもしれない。
ヒュウが自己紹介を済ませると、リグは軽く周囲を見回して、子供の処刑人の行方を問うた。青年は苦笑しながら、喧嘩中で勝手な外出をしていると答える。軍人は残念そうに相槌を打った。
やはり大人顔負けの戦闘力を持つ少年に、多少なりの興味は湧くものかとヒュウは頬杖をつく。
面白くないといえば面白くない。それに実際のところ、あの少年は己の戦闘力を恨んでいる。だのに注目されるのは、いつだって殺しの才能だ。
話題が消えかけたのを見てヒュウが尋ねる。
「そういえば前任の人はどうした。ほら、急な話だったからさ」
「アウム少佐は先月、流行り病にかかり亡くなりました」
抑揚のない無感情な答えだった。
聞いた長髪の彼は一度目を大きくして驚いたが、すぐ悲しげに微笑む。力なく「そっか」と相槌を打った。
悼んでいない目だ。間髪入れずにリグは悟る。
醸し出す哀悼の空気の所為で感づきにくいが、その目は違うところを見ていた。此処でない、何処か遠くを。
彼は、辛気臭い話をさせてごめんねと言って一笑する。ころりと変わる態度に中身など無いように思えた。
心がない、人の姿を象っただけのもの。この男はまるで人形だとリグは思う。
その後、話題は近年の人外についての話になった。食欲発作について、発症者数の増加の問題、処刑人と人外の減少について――。
気難しい内容を、楽しそうとも捉えられる声でヒュウは話す。彼の砕けた口調は知らず知らず、軍人の居心地を
同時に芽生えた不信感が浮き彫りになる。リグは間合いを見計らって訊いた。
「あなたの弟子が人外を殺すのは、あなたの命令だからですか」
瞬間、空気が張り詰める。
ヒュウは薄い笑顔を貼り付けたまま、冷たい声音で「人聞きが悪いな」と呟くように言う。常人なら簡単に
艷やかな長髪が肩から滑り落ちる。
「命令はしていない、全部あの子が自ら望んだことだよ。あと、処刑人をしている時のシュリは『助手』だからね」
怪しく持ち上がった口角から八重歯が覗く。リグの睫毛が僅かに下がった。
「では彼の持つ武器は?」
「僕があげた。剣は怖いらしくてね、だからといって丸腰の訳にはいかないし」
「グレイツァがここに来てどれくらいになりますか」
「丁度一年かな」
「拾い子というのは本当ですか」
「
軽々しい口調の返事。
軍人の彼は睨みに近い眼差しで青年を見つめていたが、やがて一つ息を吐く。改めて背筋を伸ばすと口を開いた。
「深入りしてすみません。資料に目を通した時からずっと気になっていたので、つい」
馴染みのない言葉遣いにつっかえるリグは、まだ幼い子どものようだった。低い声質に合わない拙い敬語である。
警戒の糸をあからさまに張り巡らせていたヒュウは、ふっと力を抜いてみせた。弟子の過去や周辺について漁られるかと思っていたが、どうやら彼の見当違いだったらしい。
詳しいことが知りたいならシュリに直接訊いてくれ、とヒュウが最後に牽制する。対して軍人は頷き、再度謝罪の言葉を口にした。
(……なんとなく分かった)
(多分この人間はシュリに親近感を抱いている)
リグがどのような境遇で生きてきたのかは推測しがたい。しかし話し方、目線、入室からの挙動より、表面上のマナーを叩き込まれた
エンカーの名で生まれた嫡男なのに処刑人にならなかった、という点で既に只事ではない。
(彼自身に問題があるのか、
今も続く他愛ない世間話に違和はない。彼は何処にでもいそうな、物言いの冷たい青年だ。エンカー家の子息という前提がなければ、只の若造でしかない。
肩から落ちてきた髪の毛先を
「リグくんは」
「リグで良いですよ、呼びにくいでしょう」
「じゃあ遠慮なく。リグは目の前に人外が現れたら戦えるかい」
朗らかな笑顔で投げかけられる、狙いの分からない質問だ。テーブルの向こうの青年は相変わらずの無表情でいる。
「……武器があったら戦える、と思います」
数秒考えて答える。迷いのある返事の仕方だった。
ならさ、とヒュウの声音が優しくなる。
涼やかな声が言葉の続きを紡ぐ。
もし助手が負けそうになったら、彼の手助けしてくれるかと。
短髪の彼は再び言葉を詰まらせた。ほんの少しだけ目線を惑わせる。
「ロッドさん、おれは軍人です。処刑人ではありません」
分かってる、という返事には表に出ない深刻さが混じっていた。
感じ取ったリグは覚えず、何故そんなことを訊くのかと尋ねる。彼は平生の調子で笑い続けていた。
「どんなに強くても、あの子はまだ十三歳のガキだ。何があってもおかしくない。僕の代わりとして、近くに味方が居てくれると良いなって思っただけ」
師というより父親みたいだ、とリグは率直に思う。厳しさの中に孕む心配の二文字が見えた。
おれの父上とは大違いだ。
それが実際声に出ていたかは分からない。眼前に座る青年の様子は変わらなかったため、音にはなっていなかっただろう。リグは口を噤んだ。
喉の奥に追いやられた本音が疼く。金糸の前髪が揺れ、翡翠の虹彩が沈みかけた。
「わかりました。ですが現場にいる時ならの話です。どれほど足止めできるか分かりませんよ」
あくまで自分は軍人だと訴えているような、乗り気では決して無い返答だった。それでも前向きな内容だったからか、ヒュウは心底嬉しそうに笑って感謝の言葉を零す。
不意に軋んだ音が二人の鼓膜を掠めた。自然と向けた視線は、開かれた玄関にぶつかる。
シュリが帰ってきた。雪が降っていないとはいえ寒い時期に普段の薄着である。
少年は客人がいたことに気が付くと、いつもの通りに挨拶してみせた。至って普通の様子であり、喧嘩の最中の子供には見えない。師の気が抜けた「おかえり」に対してちゃんと返してもいる。
ヒュウが茶の用意を頼むと、彼は了解を示してキッチンへと姿を消した。
一連の流れを目の当たりにしたリグは少々驚いた声で確認する。
「喧嘩中、なんですよね」
「あぁそうだよ。あれでもまだ不機嫌なんだ」
青年曰く、シュリの機嫌は彼の視線で分かるらしい。
怒っているならこちらの急所を、悲しんでいるなら自身の手を頻繁に見る。先程も少年は師の
子供らしからぬ行動にリグは返答しかねた。
相手の弱点を意識するということは、相手から攻撃と見なせる行為をされた際は反撃する、ということを警告しているということである。
それをシュリは日常的に、そして誰かから教えられた訳でもないのに、無意識に行っていた。彼の才能を後押しする本能であった。
本業の影響か、はたまた彼の生まれ持った才能の余波なのか。恐らく後者だろう、とヒュウは考えている。
温かい紅茶とティーカップを手にシュリが戻ってくると、師は彼に座るよう促す。シュリは躊躇しつつ彼の隣に腰を下ろした。
師からリグのことを手短に紹介され、彼も丁寧に挨拶する。帰宅時より幾らか、表情はほぐれているようだった。
互いの仕事について話すのが暫く続いた。リグは人外の担当の他に、周辺諸国の遠征もこなしているらしい。
「ところで思ったのですが……あなた方はなぜ街に紛れる奴ら――通常の人外は駆除しないんですか」
彼の問いは、この国に暮らす人間なら当然思い浮かぶものだ。
シュリはちらりとヒュウに視線を送る。彼は澄ました顔をしているばかりで、彼から話そうとはしてくれないようである。
少年は神妙な装いで言った。
「私たちは人の味方ではありませんので、不必要な駆除は行わないのです」
味方でない。リグの眼差しは睨みに変わった。
「それはつまり、人外に肩入れしているという事ですか」
「いえ、どちらの味方でもありません。両者の
少年の愚かとも思える行動に、リグは怪訝な目を向けた。
「おれがここで法に障ると判断したら、あなた達は逮捕されるかもしれない。なのにどうして話したんです」
それには青年が答えた。
「処刑人のリーダーには許しをもらったからな」
リグの纏う空気が変わった。一瞬にして血の気が下がり、途端、憤りが溢れる。無の仮面をした彼から隠しきれない動揺が見て取れた。
彼は押し込もった声で、そうですか、と言うと席を立った。
「次の仕事がありますので、ここらで失礼します」
入室時と同じ丁寧さで彼は敬礼し、事務所から出て行く。
何の前触れもなく立ち去った客人を視線で追って、シュリは呆然と閉められたドアを見つめた。一方ヒュウは、当然の反応だなと呟いて腰を上げる。
離れる背に、どうしてかと尋ねようとした。しかし声は、喉元まで出かけて押し戻される。どうやらこの子供は、未だ師を許していないようだ。
ぱりん。
唐突に、小さくも鋭い破壊音が耳を劈く。咄嗟に顔を上げ右に注目すると、そこには割れたティーカップと蹲る青年がいた。
「先生? ――……先生ッ」
二日前の諍いなど頭から抜け、シュリは立ち上がる。彼からの応答はない。返ってくるのは荒くなった呼吸音、雫がぱたぱたと床に落ちる音だけだ。
明らかにおかしい。
少年は駆け寄ろうとしたが、どうしてか体が動くのを拒否する。この期に及んで彼への怒りが行く手を阻んでいるのではない。師から匂い立つものが、人間に紛れた人外の匂いではなかったのだ。
呼吸と共に大きく上下する肩。
隠していた筈が晒されている蝙蝠の翼。
口から溢れ出る唾液。
弟子の前で、ヒュウは食欲発作を起こしかけていた。
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