episode8

「セレス、帰るよ。ミストさん、本日もありがとうございました」

「いいのよぉ、今日も良い子にしていたんだからぁ」


 老婆の間延びした優しい声に、シュリは柔和な笑みで返した。離れた所で遊んでいた少女――セレスは、名を呼ばれたことに気が付いて駆けてくる。彼女は出会った頃よりも髪が伸び、肉付きも良くなっていた。

 日中に現れた人外を処分する際、大家であるミストにセレスを預けていたのだ。無事、今回も迅速に駆除や救命活動が行うことができ、少女を迎えに来たのである。


「最近は本当に人外の暴走が多いわねぇ。シュリくんたちも大変でしょう」


 心配を滲ませた声音でミストが言うと少年は苦笑する。困ったものですね、と彼は他人事のような相槌を打ち、少女の手を引いて老婆の元を去った。


 日が傾いた町並みに、氷に似た冷たい風が少年と少女の間を横切る。昔からヴィンリル王国は冷涼な気候で、気温が高くなる時期など滅多になかった。僅かに春を思わせる季節はあるものの一年の大半は肌寒さを感じるため、長袖は民の必需品なのだ。

 そんな国にも冬が訪れる。

 毎年、街一面に白雪が降り積もり、視界いっぱいに雪原が広がる。点々と灯る家の明かりもまた美しい。そして寒さによって動物や人外は眠りにつく。この王国の冬は束の間の平穏なのである。


(もう少し寒くなれば先生たちとゆっくり過ごせる。それまで頑張ろう)


 無意識の内に片手が腰元のピストルに触れる。つんとした空気を纏ったそれは、冷たい目でシュリを見ていた。


 不意に轟音が二人の耳を劈く。

 同時に甲高い悲鳴が空気に響き渡った。


 咄嗟に顔を上げると虚空に砂埃が舞っているのが確認できる。距離は然程さほどない、間違いなく人外の発作だ。

 シュリは地面に膝をつき、少女と目を合わせる。努めて彼はゆっくりと言った。


「一人で帰れるね、セレス」


 騒音に掻き消されてしまいそうな声だった。しかし名を呼ばれた彼女は、しっかりとした首肯で返す。

 出会ったばかりの頃より遥かに意志の強い瞳を見て、シュリは緩やかに口角を上げた。セレスの頭を軽く撫でると、彼は眼光を鋭くし力強く地を蹴り出す。

 入り組んだ家屋を縫うように突き進むと、途中で複数人の住民が我先にと逆走してきた。皆揃って青い顔を引きつらせている。

 逃げ出している人がこれほどいるという事は、やはり発症から時間は経っていないみたいだ。彼は加速して街のひらけた場所へと躍り出る。

 爛れた赫を視界に捉えた。通常より一回り小さい、そこまで時間は掛からないと踏んだ。

 少年が腰元のホルダーからピストルを取り出す。まずはこちらに注意を引こうと構えに入った――その時。


「がッ⁉」


 うなじに激痛が走る。

 背に重いものを投げつけられたように、体が前方へと倒れかけた。何とか痛みと勢いを堪えるが振り返られない。反撃で出したはずの後方への蹴りも躱された。


(くそッ、何だッ⁉ 人……⁉)


 力の限り小柄な体を振り払うと、熱を持つは離れた。すぐさま身を返すが、途端に目の前が真っ暗になる。全身の力が一瞬で抜けてしまった。

 まるで眠りに就くかのように、少年はずるりと意識を手放した。


 ・・・・・・


 鼻腔を何かがくすぐる。

 これは、高い紅茶の香り。

 目を開ける。

 それは、瑞々しい薔薇の園。

 そして眩しいと感じるほどに白いテーブルクロス、着飾った貴族たち。


「謹んで御誕生日のお祝いを申し上げます」

「十一歳になられたんでしょう、ご立派になって」

「お美しいわ。男性とは思えないほどに麗しい」


 口々に彼等は誰かを褒めていた。聞き過ぎた言葉遣いに私は笑顔を浮かべる。


「ハーレン様、カエハ様」


 口々に彼等はそう呼んだ。久しい名に私は吐き気が込み上げた。

 隣に誰かいる。

 右を向くと、そこには私がいた。否、私によく似ただ。


「どうかした?」


 彼は生真面目そうに言った。私は静かに一笑して再び前を見る。


 私は、王子だった。それも双子の兄の方。


 跡継ぎ争いの火種にしかならない双子だ。私達は大人になるまで、こうして周りに良い顔をしろと言われてきた。昔から派閥争いの絶えない王室で、兄の私か弟かで既に分かれていた。

 しかし当の本人たちは、まだ年端のいかない子供。裏で回る大人たちの言うことを、半分聞きながら半分聞かずにいた。


 弟のカエハとは仲が良かった。


 彼は聡明で判断力があり、幼くも王としての器を兼ね備えていた。一方私は、情に弱く物覚えが悪い。上に立つ者としては相応しくなかった。運動や剣術の方が得意で、どちらかと言えば戦士に向いていたのだろう。その点カエハは暴力を好まず、剣術の稽古も嫌っていた。


『私がまつりごとをして、ハーレンが民を守れば、きっと素敵な国になるよ。二人で王様になれたらいいのにね』


 穏やかな様子で弟が言ったのを覚えている。私もそれに良い考えだと賛同して笑い返した。


 しかし均衡は音もなく崩れる。


 十一歳の誕生会。

 王族や貴族に恨みを持つ一人の男性が、凶器を手にして乱入してきたのが全ての原因。皆が混乱と惑いに溺れる中、私は飾りのつもりだった西洋剣を引き抜いた。


 私は、守りたかっただけなのに――――


 ・・・・・・


 頬の触れる地面が小刻みに震えていた。

 砂の落ちる音、瓦礫を退かす騒がしい音が空気を震わしている。

 曇った視界でうっすらと確認できる影たちは忙しなく動き回る。

 痛い。

 右肩に近い首筋に鈍痛が脈打つ。

 炎症を起こしているのか熱を持っており、その箇所だけが熱くて仕方なかった。

 口に入った砂利が不味い。

 重い頭を無理に動かすと、影が少年を覆った。


「起きたのかい」


 聞き馴染みのある涼やかな声だ。

 うつ伏せに倒れていたシュリは、呻きを漏らしながら声の主――ヒュウを呼ぶ。また同じ声が応答した。


「無理に起きるなよ。折角僕が縫った傷が開いちゃうじゃないか」

「は、発症者の、駆除は……っ」


 苦し紛れに問うシュリが起き上がろうとするのを青年は両手で丁寧に支える。


「それなら、ついさっき処刑人たちがやった。あんたはまず自分の心配をしなさい」


 叱られつつシュリはやっとの思いで上体を起こした。脳が揺れているように眩暈がして思わず表情を歪める。同時に腹の底から得体の知れない何かが競り上がってきた。

 突然、少年は顔を地面に突きつけ大きく咳き込む。

 ヒュウは蹲った彼の背を素早くさすってやった。

 砂利を含んだ吐瀉物が、気色の悪い音を立ててシュリの口から溢れ出る。唾液と胃液が泡立って脂汗を混じらせた。

 ぜいぜいと荒い息を肩でしながら、彼は虚ろな目をして謝罪の言葉を口にする。それに対して師は変わらない口調で「大丈夫」を繰り返した。


 戦場となった街は、想像していたよりも小規模な被害で済んだらしい。ここから処刑人の駐在所が近いこともあって、ことは短時間で片付いたようだ。

 見回せるほど落ち着きを取り戻したシュリは視線を下げる。それを見計らってヒュウは彼に言った。


「負傷部分は首筋。その他目立った外傷はナシ。直径一センチ弱、円形の鋭利な物を刺された……てな感じなんだけど、何があったのか話せるかい」


 暫くの沈黙。

 少年は顔を顰め、順に記憶を辿ったが首を左右に振った。覚えていないらしい。


「セレスを連れて、事務所に帰ろうとしたところまでは、覚えているのですが……」


 シュリの返答にヒュウは腕を組んで唸った。

 彼の両手は、洗い残された血液がこびり付いている。骨張った長い指、綺麗に切り揃えられている爪。

 少年はそれらを網膜に落とし小さく、役に立たないと、と呟いた。


 覚束ない足取りで事務所に戻ると、セレスが出迎えてくれた。

 彼女は以前シュリが人外の存在を教えた際に使った、古い本を抱えている。追って少女の後ろから一人の女性が歩いてきた。


「すまないな、フレイア。急に子供のおりを任せてしまって」

「構わないわよ。配達のついでだったし、子供は好きだから」


 相変わらずの妖艶な笑い方をする女性――蝶の人外であり、氷輪の救急箱の協力者であるフレイアが答えた。


 シュリも挨拶をしようと口を開いたが覆い被さるように咳が喉を焼いた。気分の悪さが尾を引いている。蒼白した顔の少年を隣のヒュウが咄嗟に支えた。

 様子のおかしい彼に、心配した表情をしたセレスが駆け寄る。フレイアも問わずにいられなかった。


「真っ青じゃない、どうしたの」

「分からん。でも大方、狩る前に誰かから薬……たぶん麻酔を刺されたみたいだ」


 返答できない少年の代わりにヒュウが答える。彼の言葉を聞いたフレイアは怪訝そうに首を傾げさせた。


「麻酔って、眠らされたってこと?」

「あぁ。相手が誰かも目的も分からない」


 眉間に皺を寄せ苦悶の表情をするシュリをソファへと座らせる。胸に渦巻く気持ち悪さが抜けるまで休ませるようだ。

 心配の気持ちが止まないセレスは少年にぴったりと身体をくっつけ彼の様子を窺っている。

 ヒュウが事のあらましを説明すると、気難しそうに女性は顎に手を当てて呟く。


「その反応だと普通のものじゃないわね。殺すつもりで刺したようにしか見えないわ」


 幸い注射された麻酔の量は少なく、最悪の事態にならずに済んだ。しかし襲ってきた人物の目的が不明である。

 人外が暴走した直後というタイミング、一般人なら手に入りにくい注射器での襲撃。

 どう見ても計画性が疑えるとヒュウが言った。偶然シュリに出くわしたということもないだろう。セレスの迎えの帰りという事はイレギュラーな事だ、後を付けていた可能性が高い。


「シュリ、二の舞は避けてくれ。最近は発症者が多いし、あんたが早急に駆除しないとコッチも困る」


 彼の優しい声が余計に申し訳なさを掻き立てた。


 少年は何度目なのかも分からない謝罪の言葉を口にする。


 店に戻ってシュリに打たれた薬について調べると言い、フレイアは事務所を後にした。セレスはすっかり彼女にも懐いたらしく、去る背中が見えなくなるまで玄関の窓から離れなかった。

 傍ら、ヒュウは弟子の看病に努めている。未だ気分の悪さが残るシュリは上体を起こす気力もないようだ。


「ベッドで寝た方がいいんじゃないか?」

「いえ、大丈夫です……貴方の傍に、いたいので……」


 血色の悪い肌に汗が伝っている。縫った箇所も痛むのだろう、荒い息を吐いて奥歯を噛み締めていた。

 つらそうにする愛弟子を見ていたヒュウの口が思わず衝く。


「僕が代われたら良いのにな」

「だめ、です」


 間髪入れずに少年が断言する。

 自分に添えられていた師の手に触れると、するりと指を伸ばし、彼は弱々しく握った。


「先生が苦しむのは、見たく、ありません……」


 そう言うとシュリは重い瞼を下ろす。麻酔が残っていたらしく、彼はそのまま眠りに落ちた。

 長い睫毛の少年の寝顔は一見穏やかだ。規則正しい呼吸にこちらも睡魔に襲われかける。ヒュウは優しく握られた片手を眺め、自分でも分からないほど小さな息を吐いた。


 ふっと視線を上げると、シュリに寄り添っていたセレスも眠っていることに気付く。大事そうに分厚い本を抱えて丸まっていた。

 まるで兄妹だとヒュウは表情を綻ばせ、するりと少年の手を離す。微かな温もりが遠ざかった。


 彼は心なしか悲し気な目をして立ち上がり、片付かない仕事机に向かう。机上には最新の治療方法をまとめた本、発症件数を記録した覚え書、人体に関する革表紙の本、そして「ヴィンリル王国の歴史書」が乱雑に置かれていた。

 青年は乾いたヒールの音を鳴らしながら席に着く。古い木の椅子は一声軋むと黙り込んだ。

 手にした紙の束は真新しいものもあれば時間が経って黄ばんでいるものも混じっている。その中で最も汚い紙に書かれている言葉は。


(人外生物兵器説……導き出された説の中で一番有力。でも、僕は)


 伏せられた睫毛が震える。何度も否定し続けた説を前に、彼は険しい顔をすること以外術はなかった。


 にんげんを救い仲間じんがいを駆除する一方、ヒュウは自身のルーツについて独自に調べていた。

 子供の頃から書物を搔き集めては照らし合わせ、事実に近づけば近づくほど首を絞められているような感覚に苛まれる。それでも彼は模索する手を止めなかった。


(いつか、話せるだろうか)


 自分が人間を殺すために生み出された兵器かもしれない事を、人間の弟子に。

 ヒュウは何百枚もの紙を机に戻した。脳内を満たすいくつもの不安が色を濃くし、上手く物事を考えられない。


 あの子が殺す事を怖がるようになったらどうすれば。

 あの子の心を抉る過去が目覚めたらどうすれば。

 百年前から続く、この酷い空腹をどうすれば。

 自分がもし発作を起こし、あの子を傷つけたらどうすれば。


 ふと俯いていた面を上げる。彼の口元には、普段と違う笑顔が零れていた。


「きっと、どうする事もできないんだろうな」


 いつか必ずやって来てしまう未来。避けられないことは既に知っている。ならばその時を待つしかない。

 三百年以上生きていて、こんなにも「これから」を不安に思った事など一度もない。それほど誰かを大切に思ったことなどなかったのだろう。


(僕が傍にいたら、あの才能を肯定していることになってしまうのに。どうして彼は)


 脳裏によぎるのは殺意に満ちた瞳でこちらを見つめる少年。焼け落ちた王宮で項垂れる王子はあの時、確かに救いを乞うていた。

 殺させる事は救いにならない。分かっているのに自分は彼の才を利用している。

 ごめん。

 寝静まる部屋に青年の呟きが溶けていった。


 ・・・・・・


 今日は今朝から外が騒がしい。

 少年は薄い布に埋めていた童顔を出すと、眠たそうな目をこすって上体を起こす。

 頭上にある窓を開け、身を乗り出した。顔の中央に垂れ下がる一筋の長い前髪が、冷めたい風に煽られる。


「今月いっぱいはお祭り騒ぎが続くぞ」


 後頭部に声が投げられる。


 振り返ると、そこにはマントを羽織っていない師が立っていた。

 朝の挨拶をするとシュリは、再び外へと視線を向ける。レンガの街並みに飾られた国旗たちがはためいていた。


「気が早いですね、あと二週間はあるのに」


 気怠そうな抑揚のない声で言うと彼は硬いベッドから降りた。所々覗く彼の肌に無数の傷跡が見え隠れする。

 いつもと違う無機質な態度に、ヒュウは呆れたような笑みを浮かべた。何故そのような態度なのか予想がつくため無駄な思索は必要ない。青年も彼の後を追って寝室から出て行った。

 彼が言った二週間後、その日は国王の生誕祭だ。


 実の息子を野蛮な獣だと怒鳴り、王子の座を剥奪したシュリの父親の誕生日である。


 少年は黙々と用意されていた朝食を口に運ぶ。それを見兼ねたヒュウが、温かなコーヒーに息を吹いて言った。


「変な気は起こすなよ」

「……大丈夫です。過去にはもう、囚われないと決めましたから」


 黒く硬い麵麭パンを力強く噛み千切る。香ばしい匂いが場違いのようで、暫く二人の間を漂った。

 窓の外。

 蒸気機関車の煙が風に流され、辺り一帯を冷気と共に霞ませる。


 人外が寝静まる冬が、もうすぐやって来る。

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