父へ

紫陽_凛

父へ

 あなたがこれを読むことは今後おそらく無いのだろうと思いながら、これを書いています。あなたは私の小説を読む気がないとおっしゃいましたし、わたしのことも、母のことも、すっかりお忘れのことと思いますので、こうして手紙の形にして、その辺の川にでも流してしまおうと思いました。川に流すための手紙を書くのもなんだかおかしな話ですね。しかしこの世の全ては自己満足ですので、いいのです。別に、あなたに伝えようと思ってなどおりません。わかってもらおうとも、わかり合いたいとも思いません。そんなつもりは1ミリもありません。あなたはあなたで、わたしはわたしで、このままお別れいたしましょう。さようなら。


 さて、かりに川に流したこれをどなたかが読んだところで、なんのことやら誰の話やらと思われるでしょうが、その誰かにとってこれは小説であります。父と娘の小説です。小説ですが、書き手たるわたしが「駄文である」とあらかじめ断じておきましょう。駄文だからです。


 あなたが父親になったのは6月の18日のことと記憶しています。すなわちわたしの誕生日もその日なのです。よく、6月の第3週、日曜に重なる日です。わたしは何度、父の日を呪ったか知れません。


 身重の妻が破水したと聞いたあなたは、まろぶように家を飛び出し、まだアルコールの残る身体で車を走らせ深夜2時、産院に向けて走り出したと聞き及んでいます。若い男が酒気帯びで警察に切符を切られ、車を止められそうになったその時、男の口から飛び出た言葉は、「子供が生まれそうなんです」だったと。それを聞いた警察官はそれなら仕方ないと見逃してくれたと。どれもこれもあなたが得意げに話す十八番でしたね。わたしはそれを聞くたびに、あなたがわたしのことを愛していることを実感いたしました。

 ですが、わたしのことを「姫」と呼ぶのだけは勘弁して欲しかったと、正直なところを申し上げます。恥ずかしかったのです。恥ずかしかったのですが、あなたの父親としての愛情の発露であると割り切って受け止めておりました。時折甘えたふりで膝枕をねだるのも、正直なところ、嫌でした。ですがわたしがあなたから逃げればわたしの可愛い妹にその被害が及ぶものですから、致し方なく膝をお貸ししたまでです。ここまでの告白からお分かりのとおり、わたしたちは根本的に、愛情とか家族の絆とか父と娘とか──そうした美辞麗句に甘えて、コミュニケーションをいっさい取らなかったのではないでしょうか。わたしは後悔しています、あなたにそれをやめてくれとしつこく執念深くいい続けなかったことを。怒ってでも、殴ってでも、蹴り飛ばしてでも、振り払うべきであったと。


 わたしがそれを実感したのは、あなたが料亭のアルバイトの女の子にセクシャルハラスメントをはたらいたときのことです。あなたはひどく酔っていました。覚えていらっしゃらないでしょうね、わたしたちは持てる限りので、あなたを止めたのですが、止めたつもりだったのですが、……あなたは何も聞きませんでした。軽い冗談か何かだと思って聞く耳も持ちませんでした。誰もあなたの過ちを止めることができませんでした。お分かりいただけるでしょうか。わたしはあの時あなたに絶望のようなものを感じたのですが、かろうじて、本当にかろうじて、父親なのだから、とぐっと堪えたのでした。わたしはアルバイトの女の子と同じ年頃だったのですが──本当に彼女に申し訳なくて、あの場で腹を切りたい気分でした。覚えていらっしゃらないでしょうね。あなたはいつも、被害者ですものね。

 

 さて、親子というのは似るものです。あなたが「新型うつ」という言葉をぶら下げて帰宅した日、あなたの妻はそれを受け止めきれずにおりました。母からその「新型うつ」とやらを聞いたわたしも、何を言っているんだろう、と思いました。あなたは「新型うつの俺に優しくしろ」との旨を妻に伝え続けましたが、(そしてそれらの言葉は愚痴となってこどものわたしたちにも降り掛かってきたわけですが)やはり突然降って沸いた「新型うつ」という文字列をわたしたちは全く噛み砕けずにいました。どうしていいかわからなかったのです。

 わたしたちきょうだいにできることは、横たわってアニメーション鑑賞に耽るあなたをそっとしておくことだけでした。

 でも、その対応が正しかったかもしれないことを、いまの私は知っています。


 私と同じだったかもしれないあなたにだけお伝えしましょう。いまのわたしは、適応障害です。急激な環境変化のストレスに耐えきれず、結婚という大きなきっかけも相まって、23の時に発症しました。そして、何年かした今、きょう、また同じ病を発症しかけています。適応障害という名前にピンとこないというなら、皇后さまや深田恭子さんの記事を調べてみれば、自ずと理解できると思います。

 わたしの症状は、慢性的なうつの感情、そして労働時に感じる強い吐き気です。吐き気を感じるとどうしようもなく不安になります。どうしよう、働けなくなってしまったらどうしよう、と。周りのみんなは「考えすぎるな」と言いますが、それが不可能なことを、あなたは知っている。なぜって、きっとあの時のあなたも「新型うつ」の、適応障害に他ならないからです。


 私は本能的に、この繰り返し起こる執拗な吐き気が、労働(あるいは職場の人間関係)への拒絶、拒否反応だということを知っています。だから、怖いのです。病気で働けなくなることが。プライドが高いあなたの娘ですから、わたしも相応にプライドの高い人間なのです。

このまま働けなくなれば収入を得ることが出来なくなる、仕事を失う、その結果向けられる視線……嘲りのまなざし……その恐怖を、あなたにならわかっていただけるのではないかと、だから今日、筆を執ったのです。読む人のいない手紙を書いたのです。


 あの日以来、あなたがわたしに出ていけと強い口調で言い放ったあの日以来。わたしはあなたにだけは似たくないと思いながら生きてきました。しかしこうなってしまった今、認めざるを得ません。

 

 あなたとわたしは、似ていますね。悲しいくらい。


 お別れした今になって、あなたの一番の理解者がわたしになるとは思いもしませんでした。わたしはあなたがアニメーションを眺めてうつらうつらしている寂しい背中を思い出しながら、自分の身を、自分の明日を案じています。仕事をすれば、吐き気も涙も止まりません。もはや、我々のような人間は、不感症になってしまうか、太宰や芥川のように死んでしまうか、それしかないのでしょう。


 わたしは毎日薬を飲んでいます。でもそんなあなたの姿を見たことがなかったのは──あなたなりの気遣いだったのかな。今はそう思います。

 じゃあ、お父さん。長々とこんな話を読ませてしまって申し訳ありませんでした。事実と異なるならば、それはそれで川にでもトイレにでも流してしまってください。わたしは気にしません。


 それではお元気で。二度と会うことはないでしょう。さようなら。


 娘 

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