事実

「だから、私に起こった事実をまとめれば『不運にも勝手に開いたドアから放り出され、両足の機能を失ってしまった』というだけなんですよ。長い前置きも何も必要ないんです。どうですか?つまらない話でしょう。」

「いいえ、大変面白い話でした。本日はありがとうございました。それでは」


結局古城直人ふるきなおとは立ち去ることなく、一部始終を聞いていた。

ある女性に起きた出来事は、その彼氏まで巻き込み何も明らかにされぬまま幕を閉じた。

コツコツ、と軽やかな音が遠ざかっていく。男の足音だろう。キイ、バタンと扉が開閉される音が聞こえた。二人は帰っていったのだろうか。



……いや、そんなはずはない。

直人の脳裏に浮かんだ疑問は何にもかき消されはしなかった。女性は「両足の機能を失った」と言ったのだ。それなのにここにいるということは、車椅子を利用したはずだ。男が抱えてきた、という可能性も理論上はあれど現実的ではないだろう。あの男の足音は随分軽いものだった。話が終わってすぐ立ち去ったのだ。車椅子を押していくような調子ではない。

ならば、女性を置いていったのか?まさか。屋上を出入りするには急な階段がある。車椅子の人間を置いていくわけがない。あれを自力で、車椅子を運びながら降りるな

んて屈強な男性でも難しいはずだ。


逡巡していても仕方ないと、直人は覚悟を決めた。事実を確認するのは簡単だ。振り返るだけなのだから。

そんな簡単なことにわざわざ直人が覚悟を決める必要があったのは、何か良くない予感がしていたからに相違ない。心が冷えるような悪い予感。

重い腰を上げ、今一度目の前に広がるフェンス越しの灰色の景色を眺める。この冷たさは心を静めるには丁度いい。

直人はフッと息を吐くとそのままベンチを避けつつ振り返った。

背後にまで及んでいるフェンスの向こう、その景色が途切れる際の際。何かが消えるのが見えた。

話を聞きながら弄び、今だ出したままだった煙草の箱が直人の手の中でくしゃりと潰れる。思わずフェンスに走り寄ると、そこに残されていたのは紛れもない普通の車椅子だった。ただフェンスの向こう側にあること以外は。


一体どういうことなのか。自分が見たあれは……。直人がフェンスに掴みかかるとガシャンと全体が揺れた。視線は車椅子から離せない。フェンスから向こうの端まではある程度の距離がある。下を覗くことは叶わない。

半ば睨むように車椅子を見ていると、それはひとりでにバックし始めた。ゆっくり、ゆっくり、動きを確かめるように。目の前の光景が信じられず、直人が目を見開いていると、車椅子は方向転換を始めた。そして再びゆっくりと前進しだす。

その動きにつられるように、車椅子の進行方向に直人の首がぎこちなく動く。そこにはフェンスの外に出るためのドアの役目をした部分があった。その一角は今、切り取られたようにぽっかりと空いている。視線を床に下ろすとそう古くは見えない鎖や南京錠が無造作に放られていた。その間も車椅子は移動を続けている。


直人はフェンスから手を離し、その開いてしまった檻の扉のような穴から後ずさりする。このままここにいるのはマズい、と本能が訴えていた。パッと踵を返し錆びついたドアに走り寄り、音を立てて開く。幸いホラーにありがちな「開かない!」という展開にはならなかった。タタタっとリズムよく階段を駆け下りたその足は自然と妹の病室へと向かっていた。そこなら安全だと思ったのかもしれないし、最後になるかもしれないという諦めかもしれなかった。

病室の番号とそこに並ぶ名前の一つに「古城美里ふるきみさと」を確認する。引き戸の取っ手を掴んだところで、外の様子が騒がしくなったことに気づいた。反射的に手を引っ込め、階段の方へ寄る。直人がそこにいた患者さんに何事か尋ねると、詳しいことはわからないが重症の患者がいるらしいとのことだった。そのまま一階に降りるとロビー全体に緊張が走っており、看護師や医師、病院スタッフが慌ただしく行きかっていた。騒ぎは裏手の庭の方かららしかった。先ほどの光景がちらついたが頭を振って忘れることに努めた。

いつも通り表の自動ドアをくぐり、近くのバス停まで歩く。小さい病院のため駐車場は基本的に埋まっていることの方が多い。

時間通り来たバスに直人が乗り込むとバスが発車した。空いている席に座る。数分後に止まったバス停でバスは停車した。降車ボタンは押されておらず、誰かが乗ってくるようだった。バスのステップをゆっくり上ってきたのは老婆だった。杖なしでは歩くのもままならない老婆と直人の視線がぶつかる。直人が反射的に立ち上がると、歩いてきた老婆は迷うことなくその席に座った。



美里に会わなかったのは正解かもしれない。今日はこのまま寺にでも行こう。


直人は以前友人が初詣に行ったという寺への道順を思い出していた。確かそう遠くなく、お祓いもやっていたはずだ。

車椅子がバックしてきたとき寒風が運んだ言葉、そして今席に着いた老婆がつぶやいた言葉。



「そこはあたしの席だよ」


その声は完全に一致していた。




逃れられなかった女性と、話を聞いていた男性。どうも人間らしさを感じない気配や声だった。ひょっとしたらだったのだろうか。巻き込まれたのは直人の自業自得だ。だからこそ、後始末も自分でやる。

あの二人のやり取りを聞いていた直人は不思議と不安を感じなかった。この後どうなるのかを予測できたし、それに男に話す女の声は安らかなものだった。悪い人ではないのだろう。そんな人が自分が盗み聞いているのを許可したならば、どうとでもなる気がするのだ。

直人はお祓いで無理なら塩でも叩きつけてやろう、と思った。意外と図太い奴である。

ちらり、と下に視線をくれてやると老婆の白髪頭が見えた。



俺は妹が退院した時のになる予定なんでな。運転席も助手席もあんたに渡すわけにはいかないんだよ。





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特等席 藤間伊織 @idks

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