本日はお時間いただきありがとうございます
私はその日、バスで駅に向かっていました。彼氏と映画に行く約束をしていたんです。彼は私の家まで車で迎えに行くと言ってくれたんですが、家の周りは細い道が多いしガソリン代も高いですし……。彼、そういうの受け取ってくれないんです。
とりあえず駅まで行って、そこから近くのショッピングモールの映画館に行くということになりました。約束の時間に間に合うようにバス停で待っていると、バスは時間通り来ました。その日は休日でしたが、私が乗るバス停からだとまだほとんど乗客は乗っておらず、私は空いている席に適当に座りました。
数分の後、バスは次の停留所に到着しました。そこでは腰の曲がった老婆が乗り込んできたんです。杖は持っていましたが、乗車後はバスの手すりを使って移動していました。つかまる……というよりほとんど縋りつく形で。その状態でよたよたと私が座っている席の前まで来たんです。傍の優先席はもちろん、他の普通の席も空いていたので、この老婆が立ったままでいるはずないし変だな、と思いました。
バスの運転手さんが「発車します。空いている席におかけください」とアナウンスしました。ですが、次の瞬間その老婆の金切り声が車内を貫くように響き渡りました。その老婆は、
「この小娘!何座ってんだい!そこはあたしの席だよ、どきな!図々しいったらありゃしない!これだから最近の若いもんは……。ほら、何ぼうっとしてんだ!どけって言ってんだよ!耳も悪い、気も利かない、どうしようもない女だねぇ⁈」
と叫びました。私の目をまっすぐに射貫くように睨みつけて。
私は最初まったく意味が分からず、老婆を見つめ返すしかできませんでした。訳が分からなかったのは乗客全員同じだったと思いますが。運転手さんも開いた口がふさがらない、といった様子でしたが、全く動く気配のない私に耐えかねたらしい老婆が、手に持っていた杖を振り上げたのを見て「お止めください!お客様!」と言いながら運転席から飛び出しました。私と老婆の間に割って入るようにして、運転手さんは老婆の説得を試みます。
「失礼ですが、これ以上他のお客様の迷惑になるような行為を続けるおつもりでしたら、乗車を拒否させていただきます」
「何言ってんだい!そこはあたしの席なんだよ!その小娘が座っていい場所じゃないんだ!」
「このバスは自由席です。他にも空いている席はございます。そちらへ移動を……」
「うるさい!あんたも邪魔するのかい!ああ、あんたみたいな大男につまみ出されちゃ、このかよわい婆の骨の一本二本、ポッキリ折れちまうねぇ!」
運転手が出てきても、老婆は引く様子がなく会話も成り立ちませんでした。それどころか、老婆は脅しまがいのことまで言い出しました。悪質な当たり屋のような手口です。その間私はというと、二人が言い争っているのを怯えながら見ていました。いくら背の小さい老婆といえど、鬼のような剣幕で杖を振り回していたら怖いものです。
居合わせた他の乗客もイライラし始めました。中には勇敢にも老婆に意見する人もいましたが、奇声を上げるばかりで話にならず、運転手が少しでも触れようとする素振りを見せると暴力だのなんだのと騒ぎながら杖で力いっぱい殴りつけました。体格差や運転手の反応を見るに大したダメージでは無かったと思いますが、私はその空気に耐えられませんでした。自分が席を譲れば済む話なのだと。なんとなく、他の乗客も早くそうしてこの騒ぎを収めてほしいと思っているような気さえしてきました。私は席を立って、老婆に話しかけました。
「この席がいいんですよね……。私、どきますからもう止めてください……」
「ふん、最初からそうしろってんだよ!愚図が!」
態度は相変わらずのまま、老婆は空いた席にどかりと腰を下ろしました。席を離れた私にはよく聞こえませんでしたが、そのまましばらくブツブツ文句を言っていたようでした。運転手さんは私の様子を気にかけていたものの、発車予定時刻もずいぶん過ぎていたので運転席に戻っていきました。私も後ろの方の席に着きました。
バスが駅に着くと、老婆は私をひと睨みして降りていきました。正直もうデートの気分などでは無くなっていましたが、彼を待たせている上にこんな調子ではいけないと気持ちを切り替えることにしました。
携帯で遅れる連絡をした後返ってきたメッセージにあった場所まで行くと、彼の車はすぐに見つかりました。その日のために洗車してくれたようでピカピカと太陽の光を反射していたのを覚えています。中を覗くと待ちくたびれてしまったのか、リクライニングシートを倒して目を閉じている彼がいました。コンコン、と軽く窓をノックすると彼がドアを開けてくれました。
「遅かったね。何かあったの?」
「うん。ちょっとトラブルで……。待たせてごめんなさい」
「いや、大丈夫ならいいんだ。あ、映画の時間ヤバいし行こうか!事情はあとで聞かせてよ。とりあえず映画楽しもう!」
「そうだね!」
そのあとは彼が余裕を持って予定を立ててくれていたおかげで無事に時間に間に合い、映画を見ることができました。映画館を出てからもお互いにここのシーンが感動した、ここの演出が凄かった、など感想を言いあい余韻に浸っていました。
時刻はお昼を少し過ぎていました。ピークが終わったフードコートでは簡単に席をとれ、彼はラーメン、私はうどんを食べました。食べている間、彼は私が遅れた事情を訊いてきました。私はバスの中であった出来事をすべて話しました。
「ええ!そんなことがあったの」
「うん。バスの中の空気、地獄だったよ」
「怖かったんじゃない?もう会わないといいけど……」
「ありがとう。あのバス停で見たのは初めてだったし、今日だけだといいんだけど」
「帰りは家まで送っていくよ。また何かあっても大変だし」
「じゃあお言葉に甘えようかな」
そうして食事を終えた私たちはしばらくショッピングモールの中を歩いて、ウィンドウショッピングをしたり、チェーン系カフェの新作スイーツを食べたり、ゲームセンターに立ち寄ったりしました。これ、途中の雑貨屋さんで彼が買ってくれた髪飾りです。私が見てたら笑いながら「それ、プレゼントさせてよ」って。特に記念日でも何でもなかったんですけど「かわいい顔して悩んでるから」って言われました。あはは。……あ、すみません。こんなこと言って恥ずかしい……。
その日は彼が夜からバイトだったので早めに帰ることになっていました。ショッピングモールから私の家まで行って更にバイト先に行くので、余計に時間に余裕を持とうと夕方頃には駐車場を出ました。
家族連れの帰宅ラッシュと被ってしまったようで道は少し渋滞していました。彼は渋滞でもイライラするタイプではありませんが、度々時計を気にしては少し困った顔をしていました。なのでようやく渋滞から抜けて、視界の開けた道路に出たときスピードを出し過ぎてしまったのは仕方なかったと思います。
夕焼けの赤い光が私の座っていた助手席に射していました。それがふっと何かに遮られたんです。建物や植物ではありません。
窓の外に視線をやると、あの老婆が、車と並走してました。必要性を感じない杖もちゃんと持っていましたよ。
大分シュールだとは思います。ですが、私が見たのは目玉がこぼれ落ちそうなくらい大きく開いた目と、キッと引き結ばれたしわの濃い唇と、風に乱された灰色の髪が一瞬もブレることなく私に向けられている光景でした。
心臓が止まるかと思いましたが、口は反射で開いて悲鳴を上げようとしていました。しかし、その前に助手席のドアが開かれました。音で彼も異常に気付きます。急ブレーキをかけようとした彼は後続車の存在を思い出し、路肩に寄ろうとしました。しかし、その判断がなされている間、老婆は手を伸ばして私のシートベルトを外し、私の肩を掴み、車外に放り出してしまいました。世界一のマジシャンも真っ青な早業です。
スピードの出ていた車から放り出された私は、残念ながら受け身もまともにとれずにアスファルトに叩きつけられたようです。記憶はありませんが。最後に見たのは彼の驚いた顔です。しかし最後に聞いたのは彼の声ではありません。地の底から響いているような、ガラガラとした「そこはあたしの席だよ」という声でした。
本来ならそのまま死んでいてもおかしくはありませんし、車に轢かれてしまってもなんら不思議はありません。しかし幸運にも私は病院のベッドの上で目を覚ますことができました。後ろの車の運転手さんの反射神経に感謝しなければ。
……彼は残念ながらもう目を覚ますことはありません。ひっくり返った車の運転席から発見されました。お世辞にも綺麗とは言えない状態で、ご家族も最低限の人しか確認はしなかったようです。それでも同乗し、まして生き残った私を誰一人として責めなかったのは、私の足が一生動かなくなったせいだけではないと思います。
警察の手も入りましたが、彼がスピードを出していた事実が示されただけでした。他の車からドライブレコーダーの提供もあったようですがドアが勝手に開き、私が突然放り出された場面だけでは何も情報は得られず、車がひっくり返った場面に関してはその部分のデータが破損していたようです。
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