特等席

藤間伊織

まずは一服

古城直人ふるきなおとは屋上に出るドアに手をかけた。ところどころ茶色いが目立つドアだ。その劣化具合は蝶番にまで及んでいるのか開けた瞬間キイ、と悲鳴が上がった。

如何せんここは隅っこの、小さな、寂れた病院だ。医療機器、病室、その他色々金がかかるのだろう。それに比べれば屋上には最低限の資金しか当てられないのは仕方ないのかもしれない。それに、屋上に行くにはほこり臭い、急な階段を上らねばならないのだが、大抵の日は肌寒く乾燥した空気にそうまでしてあたろうという患者はこの病院にはいない。高齢者ばかりというのが大きく貢献しているだろうか。


屋上に出ると容赦なくぶつかってくる冷たい風に、一瞬目を細めるがもう慣れたものだ。

この病院の誰かのこだわりか、「少しでも緑を」という思いやりか、いくつかの植え込みを通り過ぎ定位置のベンチに向かう。このちっぽけな自然を誰が手入れしているのか、直人には見当もつかなかった。

フェンス越しに広がる面白みのない灰色の景色を見ながら、慣れた手つきでポケットからタバコを取り出し、百均ライターで火をつける。


「……はあ、不味い」


いつからだろうか。タバコが不味くなったのは。直人は煙にかき消されそうな記憶を手繰り寄せる。

最初はタバコに興味を持ったらしい妹が真似をしないように、と適当に言い始めたものだったのだ、確か。その妹はすぐにタバコが吸える歳になったが、兄の喫煙を咎めることはあれど自らが吸うことはなかった。

直人は家の中で吸ったり、四六時中タバコが手放せなかったり、ということはなかったが、純粋に兄である自分を心配する声に罪悪感を抱かなかったと言えば嘘だ。それでも自分の日常に溶け込んだ動作をやめる気は起きなかった。大して美味しくもないタバコを今なお吸い続ける理由はないが、罪悪感を感じていたいのかもしれない。

火気や法律がどうのという前に、病院でタバコなどご法度なのかもしれないが、直人はこの屋上で人に会ったことはない。患者も医者も看護師も、無論見舞客でさえもだ。


だからいいか、と。なんとなくダラダラと続けていた。

しかし今日は違った。声がした。


「本日はお時間いただきありがとうございます」


若い男の声だった。

直人は屋上のへんを囲うように並ぶベンチの一つに座っており、声はちょうどその背後のベンチ辺りから聞こえた。上がってきたときは気づかなかったが、言い方からして見舞客だろうか。


「では、早速お話いただけますか?」「ええ」


男の声に応える女の声が、冷たい風によって直人の耳に運ばれてきた。女の方は患者だろうか、と勝手に想像しながら無意識に携帯灰皿を取り出していた。まだタバコは長かったが気にせず放り込む。人の話を盗み聞きする趣味はない。今日のところは帰ろうか。そう思い腰を上げたが、その足は次に聞こえた声に押し止められた。


「その老婆はどこからか現れて私の席を奪っていくんです」


何かしら事情があったとしても、話のタネを聞いてしまえば大したことではないのかもしれない。しかし、その女性の声に含まれた空気はなんとなく直人の好奇心を刺激した。

ここは病院の屋上だ。誰にでも使う権利はある。直人は自分に言い聞かせるように再びベンチに腰を下ろした。相変わらず目の前の景色は檻に閉じ込められているような、変わり映えしないものだが、背後で今始まろうとしている話は何か新しい、例えるなら、厳しい冬を断ち切る春一番のようで期待せずにはいられなかった。

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