最終章 誓いの後に
第一節 生き残った者ら
伊吹のかざす銅剣を灯りに、一行は駆け足で進んだ。
〈シンヒ〉の黄金の網が、まるで追い立てるようにすぐ後ろへと迫り、岩壁を覆っていく。
しかし〈シンヒ〉は、決して銅剣の光の中へ入ろうとはしなかった。
入れ違いに前から這ってくる〈シンヒ〉が、たまに光に照らされる事があっても、たちまち萎縮したように頭を垂れて、引き下がる動作をするのだ。毒霧の噴霧も、銅剣の光を視界に捉えるなり、一時的にやめていた。
その様はまさに、王のために道を空ける臣下。
毒霧が止むと言っても一瞬だけのため、息苦しさはあったものの、麻痺に至るほどのものではなくなっていた。しかし油断はできず、伊吹とハナの先導に少しでも遅れれば危険だった。
途中ふと、背後で編み上げられていく黄金の輝きに少しだけ見とれてしまったバロゼッタ兵は、直後足下に出てきた〈シンヒ〉につまずき、
「うわ、うわあ」
そのまま網の中へと呑み込まれる事となった。
悲鳴に慌てて後戻った伊吹が、サーベルを鳴らしたアメリアの横から、銅剣を〈シンヒ〉の網に振りかざすも、ぺいと群れから吐き出されるように落とされたバロゼッタ兵は、その身を黄金へと変えて死んでいた。
アメリアは苦虫をかみつぶしたような顔をして唇を噛み、青ざめて立ちすくんだ一行へと振り返ると、率先して進行を再開した。
皆はアメリアの気迫に引っ張られるようにして、よりいっそう先を急いだ。
******
とうに日は沈み、嘘のように平和を取り戻した山中は、いつもと変わらぬ湿気混じりのぬるい風に、草葉をざわめかせていた。
そんな宵闇の中、〈風の戦士〉の集落には、生き残りの〈風の戦士〉たちと、〈風尾族(ふうびぞく)〉が、かがり火の灯りの下に集まっていた。
先刻、南のあり地獄状の盆地に、ヒュウガの上げた煙を目にしたジンオウが、素早く駆けつけたのだ。〈風尾族〉によって〈風の戦士〉たちの救出が行われた後、安全のためこの集落まで移動したのだった。
〈風尾族〉の懸命な処置によって、一度は息絶えつつも奇跡的に息を吹き返した者や、薬湯で、麻痺による仮死状態から立ち直った者もいた。
それでも半数以上は手遅れのまま、盆地に置いてくるしかなかった。
〈風の戦士〉族長、ヤエ婆も例外ではなかった。
かがり火を囲む〈風の戦士〉の内、体を起こすことが出来ているのはほんの数人だった。
人が集まっているとは思えないほどに、とても、静かだった。
ヒュウガもその輪の一人だったが、周りを何度か見渡してはそわそわし、
やがて、意を決したように立ち上がると、松明(たいまつ)の火を手に一人、森の中へ分け入った。
それを、背後から呼び止める者がいた。
ジンオウだった。
ヒュウガは、彼の呼び止めた理由を察し、己から答えた。
「俺はもう、戦士じゃねえ。だから勝手に行く。夜だろうと、関係ねえ。ハナたちが心配だ」
自然の中で生きる彼らは、普段夜の帳(とばり)が降りれば活動しない。だからこそ、ジンオウはどこへ行くつもりかと、呼び止めたのだろう。
ヒュウガはそう思っていた。
しかし、ジンオウの口からは、彼が予想もしなかった言葉が飛び出した。
「ヒュウガよ、戦士とは何か?」
「…………、?」
「戦士とは、信念を持って戦う者だ。誇りや家族を守るためにな」
ジンオウはそう言うと、かがり火の方へと振り返った。彼の目線の先には、〈風尾族〉と〈風の戦士〉がいる。
「私は〈風尾族〉を守るために戦ったが、お前は〈風尾族〉も〈風の戦士〉も、両方助けようと戦ったのだ。
ヒュウガ、お前は紛れもなく戦士であった」
「ジンオウ…………けど」
くっと顔を歪めたヒュウガの瞳には、南の盆地で見た惨状が、まだ張り付いて離れていなかった。
爪が食い込むほど握りしめた手のひらには、体温を失った人間の重みが。
その内面を読み取ったかのように、ジンオウは続けた。
「お前が助けられなかったのは、お前が一人だったからだ。ヒュウガ、また同じ事をするつもりか?」
ジンオウの言っていることは遠回しだったが、ヒュウガに悟らせるには十分だった。
ヒュウガは、ほんの少しだけ黙った後、膝に手をついて頭を下げ、声を張り上げた。
「ジンオウ、〈風尾族〉の皆ァ!聞いてくれ!〈ルホウの寝床〉に入った奴らが心配だ!助けに行くには人手がいる!力の残ってる奴ぁ、どうか一緒に来てくれねぇか!」
先ほどとは違う沈黙が、一瞬その場を包み、皆の視線が彼へと集中した。
頭を下げたまま、ごくりと固唾を呑んだヒュウガの頭上で、ジンオウの声がした。
「だそうだ!行くぞ!」
揺らぎのない宣言だった。
頭をぽんと叩かれて顔を上げると、〈風尾族〉の男たちが疲れた顔に気合いを入れ直しながら、次々と松明や武器を取って立ち上がるのが見え、女たちが、「ここは任せな!」と勇ましく宣言するのが聞こえた。
ヒュウガは、ほっと小さく、息を吐いたのだった。
******
十名ほどで向かった彼らはしかし、龍の門へ続く地下道が途中で崩れ、すっかり閉ざされてしまっている状況に遭遇することとなった。
ならばと推測で地上から山の東側中腹へと向かい、龍の門を見下ろせる場所を発見するも、そこでは二度目の絶望と相対した。
松明をひとつだけ、穴の中へと落として照らし、縁に手をついて覗き込んだ彼らは、その状況に、押し黙らざるを得なかった。
一人が思わず嘆息した。
「こりゃあ、だめだ…………」
ヒュウガは何も言わずに、息をするのも忘れてギッと歯をきしらせた。
龍の門は上部五分の一を残して、その身を崩れた土砂の中に埋めてしまっていたのだ。その隙間から抜け出して来れるのは、今や風くらいだ。
中で見た時はあんなにも高く高くそびえ立っていた円筒形の空間は、もはや見る影もなかった。
「諦めんな!」
不意に立ち上がったヒュウガが、声を響かせた。
「ジンオウ、もう一箇所の出口を知ってる。ちょうどここから裏側に回ったところだ」
「二手に分かれるか」
ジンオウの言葉に、男たちはうなずくと、場所を知っているヒュウガが半分を引き連れる形で、もう一箇所へと向かった。
******
そして洞窟内では、伊吹が苦し紛れに岩を叩いていた。
「…………ハナ、他には知らないか?」
その質問に、ハナは妹と顔を見合わせてから、首を横に振る。
ハナたちもまた、土砂へと行き当たったために、狭い道を通り抜けてもう一箇所の出入り口へと、途中から針路を変更していた。
そしてそこもまた、〈シンヒ〉の振動によって動かされた土が、落石を招き、出口を塞いでいたのだ。
「マキ」
コールが声を掛けると、マキは身振り手振りでここが通れないことを示した。
すでに、バロゼッタの言葉とこの土地の言葉は、元通りに通じなくなっていた。
「通れなければ道を開けるしかあるまい」
アメリアが言う。
言葉が通じているかのように、伊吹はすぐに大きな石のひとつへと手を掛けた。
皆もそれに倣うが、伊吹が作業するには銅剣を鞘に収めるかどこかに置かねばならず、それをすると灯りが消えてしまうため、やむなく暗闇での作業となった。
〈シンヒ〉についての心配が無いのは救いだった。
〈シンヒ〉はすでに落ち着いてしまったのか、それともここが出口付近であるせいか、この周辺には動くそれがいなかったのだ。
ただし、来た道はがっちりと黄金の網で塞がれていたし、後戻りすら出来ない状況ではあった。
「ぐっ」
短い声とともに、伊吹が力を入れると、大きな石がごとりと転がった。
その先に待っていたのは、今度は土砂だ。人が体を横にしてやっと通れる幅の通路には、ぎっしりと土砂が詰まっていたのだ。
「伊吹、これなら私たちでもできる。あなたは灯りを」
ハナが言い、再び灯りが灯った。
作業を始めてから二、三時間も経った頃だろうか。
交代で先へ潜ったアメリアが、すぐに戻ってきたかと思うと、バロゼッタ語で何か言った。
言葉が通じない者たちにも、その意味が何となく分かるようになっていた。
すぐさま伊吹が入っていき、銅剣の灯りが遠のく。そして同じように戻ってくると、
「あれは…………こちらからはどうしようもない」
アメリアの先の言葉に同調する見解を見せた。
「なぜだ」
マキが訊くと、伊吹が答える。
「外側の岩が出口を塞いでる。皆で力を込めれば、あるいはどかせるかもしれぬが、……この道幅では」
ち、とアメリアは小さく舌打ちして、休憩がてら壁際に座り込む。
誰からともなく、それに倣った。
全員が疲れ果てていたのだ。
もう、悔しがる余裕もないほどに。
しかし座り込んでじっとしていると、余計に絶望的な空気が、重くのしかかった。
ハナがマキの近くに寄ってきて、小さく訊く。
「傷は、平気?」
マキも、小さく答える。
「うん」
だけど傷が平気だからと言って、何になるのか。
その思考が空気となって漂えば、それ以上何も口にはできない。
ハナは黙って、マキの手を握った。
ぴちゃん、ぴちゃんと、水音だけが空洞に響く。
コールがふと、両膝に埋めていた顔を上げた。
マキも、その直後、目を見開いてコールに確認するように目を向ける。
ハナも顔を上げ、
「何の音?」
声を上げた。伊吹が黙って立ち上がり、出口の通路へと姿を消す。
ずずずずと重い物が擦れるような音は、その先から聞こえていた。
間もなく、伊吹の「押すぞ!」という大声が響いてきた。
こちらに向けられたものではないのは、明白だった。皆は期待を抱いた顔を見合わせた。
ずどぉん、と大きな音がして、通路から吹き出した土煙が、差し込む薄明かりに照らされると、伊吹の声がした。
「皆、来い!」
〈風尾族〉の男たちに助けられ、外へと出た時には、すっかり空は白く、朝を迎えようとしていた。
第二節 誓い
――『〈仙〉の巫女は知っているはずだから、大丈夫』――。
大王(おおきみ)を失った今、そのまま〈仙〉へと戻るには危険すぎると、いったんはハナを置いていこうとした伊吹だったが、マキのその言葉に後押しされて、ハナとともに帰路につくこととなった。
******
二人を見送った後、マキは、長を失った〈風の戦士〉と、ジンオウ率いる〈風尾族〉を前に、話をした。
何が起こっていたのか、全てを明確に、詳細に、話した。
時に、コールの補足を交えながら。
すると皆は、マキに答えの先を求めた。
正巫女として、お前はどう考えるのか、と。
マキは答えた。
******
伊吹が、道中出会った、武具を付けたまま彷徨っていた馬に乗って辿り着くと、マキの言った通り、〈仙〉はすぐに彼を迎え入れた。
都の景色は、彼が出立した時とはずいぶん様を変えていた。
ほとんどの家の屋根には大きな穴が空き、それを塞ぐ物すらなく、柱は無惨に折れ、土器の割れた破片が道じゅうを埋め尽くしていた。
かろうじてそういった物が片付けられた大通りを、王宮に向かって進むと、王の住居区の前に、花露が頭を垂れて待っていた。
「真の王」
花露はひざまずき目の上で拳を重ねた体勢で、第一声そう言った。彼女の背後には、生き残ったわずかな近衛兵と、すべての豪族たちが並び、同じくひざまずいている。
伊吹は馬から降り、ハナが降りるのに手を貸し、そして花露と向かい合った。
伊吹が何か言う前に、花露は口を開いた。
「わっちと、この者らへの処遇を」
「〝処遇〟?任命ではなく、か」
伊吹が少し意外そうに聞き直すと、花露は目を上げた。
不思議な輝きを持つ金瞳が、じっと新しい王を射抜く。
「まだ自覚が足りぬでやんすな。旧体制のままで御前のくにを造るおつもりか?ここに集まりしは火穂伎命(ほほぎのみこと)の忠臣として仕えた者どもでやんす。そのまま臣下に置く必要は、もはやありはしないのでやんす」
微かに、花露の後ろでどよめいた空気が流れた。
恐らく、そこまで聞かされてはいなかったのだろう。
彼らは、当然自分たちはこのまま、大王(おおきみ)直轄の豪族としていられると思っていたのだ。
伊吹は少し考えてから、
「それで、そなたは?」
花露に訊いた。花露は何事もなく答える。
「もちろん、御前はわっちの処遇も決めねばならぬでやんす。
真の王となった御前だけは、わっちを処刑し、他の巫女を据えることもできよう」
「なるほど」
伊吹の右手が、銅剣の柄を握り、そしてスラリと剣を抜いた。
「伊吹……」
ハナが戸惑ったように声を上げるが、伊吹は構う様子も見せなかった。
銅剣を日中の日差しにかざしながら、その光を眺めて言う。
「花露。そなたは、私が幼き頃、あの大王(おおきみ)に仕えていた老婆の〝花露〟と、同じ人間なのだな」
「王として目覚め、ようやく気づきやんしたか」
「何度も生まれ変わっているのか」
「厳密には、生まれ変わっているのではないでやんす。〈ミホウサマ〉に、死を認められておらぬゆえ。
……〝まだ〟。」
「今、私がそなたを斬れば、そなたは死ぬのか」
「真の王ならばできるでやんしょう。わっちが去(い)ねば、この任を負った別の者が、どこかに現れるだけのこと」
銅剣が、ぴたりと花露の首に張り付いた。
花露の首元の白蛇は、我関せずの様子で、じっとしている。
逆光で、伊吹の体はひざまずく者たちからは影に見えた。彼の持つ銅剣だけが、やたらと眩しく日の光を反射している。
伊吹は静かな声で言った。
「そなたは私の家族を助けなかった」
花露は、金瞳に虚ろな影を落とした。
「助ける理由が?」
淡々と、伊吹の言葉に答え、
それを聞いた伊吹は、
「そうかもしれん」
あっさりと銅剣を降ろした。
「花露。私はそなたを処罰する気はない。他の者たちもだ。もう、過去の怒りに支配されていた私とは違う……。捨ててはならぬものが何か、全ての道理はどこへ繋がっていくのか、もやが晴れたようによく分かる」
そして、銅剣を花露の前に横向きに差し出した。
「そなたの手で、清めと戴冠を執り行ってくれ。これからは私と、私の妃のために、助言と預言を」
花露はもう一度、深く頭を垂れた。
「仰せのままに」
豪族たちの安堵の空気が伝わってくる中、花露は続けた。
「ではまず、ひとつ進言を」
「なんだ」
「御前が目指すべき〝くに〟にとって、ここにいる者らの民への悪徳ぶりはふさわしくないでやんす」
豪族たちの表情が一気に青ざめた。
伊吹はハナを見返って、その優しげな目を見ると、表情を緩めて目を戻した。
「問題ない。これからはいろいろな決まりを作ろうと思う。王をもそれに縛られるような、確固たる決まりを。ついてこられる者だけが、豪族として残るだけであろう」
豪族たちの冷や汗が止まることはなかったが、花露は伊吹の返答に、本人しか分からない程度微かに、硬い表情を崩した。
「王であって民であれ。このさきもずっと」
花露はそっと、祝詞(のりと)のように呟いた。
******
バロゼッタ船がようやく帆を上げることができたのは、それから半月経ってからだった。
「〈龍風(るほう)〉の事だが――」
伊吹は、最後の夜、バロゼッタ船の停泊する浜にて宴を開いていた。修繕への協力の延長で、航海の無事を祈るための宴だ。その席で、彼はアメリアに切り出していた。
「第二、第三の火穂伎命(ほほぎのみこと)が現れては困るのだ」
天幕の外からは、〈仙〉と〈バロゼッタ〉、両国人入り乱れたにぎやかな声が聞こえていたが、中では、アメリアと伊吹の他には、翻訳機を打つ係の者二人と、それぞれの護衛が一人ずつ待機しているだけだった。
ここだけは、周囲とはずいぶん対照的で、会談のような雰囲気だ。
アメリアは伊吹の言葉に、しばし間を置いてから応えた。
「堅苦しいな。宴というのに」
そう言いつつ、土器の中に造られた発酵酒を、自分の器にひしゃくで注ぎ足す。伊吹はそれどころではないとでも言いたげに、硬い表情を崩さない。
アメリアは荒い焼き物の器を伊吹に掲げぐいと飲み干してから、席を立った。
「私があの山の事を生真面目に報告したとして、誰が信じる?御してこその力だ。御せぬ力は利用価値のないのと同じだ。私はそういったものには興味も湧かない」
だが、と彼女は続けながら、天幕の端まで歩くと立ち止まった。
「私の船に同行している学者は、そういうわけにもいかぬらしくてな。
――彼から話があるそうだ」
******
「マキ」
「……ハナ姉が、来いって言ったから、来ただけ」
コールがマキの姿を見つけて駆け寄ると、マキはむすっとした顔で目をそらしながら、自ずから言った。
「それでも俺は、マキにまた会えて嬉しい」
あれから、コールは浜辺の船、マキは今まで通りの森林の中での生活に戻ったため、二人が言葉を交わすのはまさに半月ぶりだった。
コールの素直な言葉に、マキはちらっと一瞬だけ視線をやったけど、またすぐどこともなく、海の方へと戻した。
コールが、斜めに向かい合うような形で、近くの流木に腰掛ける。
「皆いるね」
呟くように言った言葉はバロゼッタ語だったけど、
マキは意味を汲み取ったらしく、「うん」とうなずいた。
「〈風の戦士〉と〈風尾族〉は、遙か昔のように、またひとつの部族になった」
マキはぐるりと頭を浜の方へ向ける。
たくさん設置されたかがり火によって煌々と照らされる浜辺には、〈仙〉の民やバロゼッタ船員以外にも、〈風の戦士〉や〈風尾族〉の者たちが、一堂に会していた。ハナも、その中で一緒になって、笑顔を浮かべ語らい合っているのが見える。
「ハナ姉が妃になったことで、私たちは伊吹から新しく名前をもらった。
〈風守(かざもり)〉――これが私たちの新しい名称だ」
「…………。マキはこれからどうするの?」
「どうもしない。今までと同じように、〈龍風(るほう)の寝床〉を見守るだけ」
揺るぎなく答えたマキの横顔をじっと見て、コールは、「そっか」と当たり障りのない相づちを打つ。
「コールは?」
マキが、むすっとした表情を崩さずに訊いた。
「帰るよ。明日、帰る」
コールがぽつりと応え、
「そんなことは知ってる」
マキは怒ったような声を出して、とっさに、自分に違和感を感じた。
自分でもどうしてこんなに苛ついているのか、不思議だった。
だけど何となく引っ込みがつかず、そのまま不機嫌な態度を貫く。
「帰って、それから?」
マキがそう促した時だ。
コールが不意に、マキの視界に潜り込むように、前へと躍り出た。
思いがけず真正面から目が合うと、マキはぎくりとして、固まってしまった。
黒い海を背に、金髪を赤く煌めかせながら、彼の姿はきらきらと夜の中に浮かび上がっていた。
「マキ。俺を見て」
コールがまっすぐに言った。
見て?なんで?
マキはコールの言葉に戸惑いつつも、目を逸らす事なんて出来なかった。
「マキ。俺は、明日帰る」
コールは、最初の頃に比べるとだいぶ上達した〈仙〉の言葉で、語りかけた。
改めてその言葉を言われた時、マキは、体のどこかがずきんと音を立てた気がした。
どこにも逃げられずに、彼と向き合ったままでいると、泣きたい気持ちが込み上げてくる。
そうか、だから。
目を、逸らしたかったんだ。私。
それが分かった時、マキはコールの腕に手を伸ばしたい衝動に駆られた。
その手を引いて、この浜辺から、あの立派な船から、彼を引き離したかった。
何故か分からない。
寂しい?
たった少し、一緒にいただけなのに?
どうしてこんなにも不安に駆られる?
もう、会えないかもしれないから?
どうしてこんなにも、
もう会えないことが、
怖い――?
「――本を、書こうと思ってる」
コールの次の言葉に、マキは自分の中の謎の感情から引き戻された。コールは、言おうか少し迷う風に、後頭部を掻きながら、続けた。
「バロゼッタに帰ったら、ここのことを物語にして、たくさんの人に読んでもらうんだ」
「そっ――、そんなこと、したら」
マキは自分の耳を疑いながら、何とか言葉を発する。だが、コールはマキの言いたいことを分かってる上で制するように手のひらを見せた。
「待って、聞いて。〝作り話〟として書くんだ。俺の空想の冒険話、として」
「え…………?」
「あくまで作り話だから、誰もそれが実在するとは思わない。
誰もその力を狙いには来ない。……だけど、子どもたちはその話に目をきらめかせる。年月が経てば、〈龍風(るほう)〉の存在は確かに人々の心の中に残る。
俺は、〈龍風(るほう)〉を隠すんじゃなくて、正しい認識で伝えることが大事だと思うんだ。そして今は、〝空想話〟が、一番いい方法のはずなんだ」
ここの王様にも、もう許しはもらってるんだ、と彼は最後に付け加えた。
マキは、コールの説明にはうなずいたものの、だからといって消えはしない胸の中のもやもやを、どうしたらよいのか分からぬままだった。
するとコールが、まるでここからが本題だと言わんばかりにマキの前にひざまずいた。
「出版した本が売れたら、ここに戻ってくる。」
それは、バロゼッタ語だった。いじわるなほどに流暢な母国語で、彼は言った。
「俺の今の目標なんだ。ここには俺の知らない生き物が溢れてる。研究したい生命も、謎も、文化も!これで終わりなんてできない。
それに何より、君にまた、会いたい」
マキは、彼のバロゼッタ語をじっと集中して聞いていた。
コールは、彼女が聞き取れていないことを知っていて、そのまま続ける。
「不可能な話じゃないんだ。本が売れさえすれば、資金が集まる。研究機関に呼びかけるわけにはいかないから、俺単独で船との交渉をつけなきゃならないけど、でも商船を各国で乗り継げば、来れない事はないはずだ。陸地を経由して来る方法だってある!だってここは、幻の国なんかじゃないんだから」
マキが無反応なのを確認しつつ、
コールは「本当は、」と切り出す。
「待っててと言いたい。けどそんな無責任なこと、約束できない。俺が今言ったことが、本当に叶うなんて、自分でも思ってない。もちろん頑張るつもりだけど……夢物語だって、分かってる。だから、せめて俺のこと、覚えていて欲しい。もしも、今言ったことが実現して、戻って来れた時のために。
俺の、心の支えのために」
言い終えると、コールはマキの反応を待った。
マキは、むすっとしたような表情のまま、コールを見据えていた。
もちろん、通じていないに違いなかった。
だから、コールが次に言う言葉は決まっていた。
彼女にも通じる言葉で、笑って言うのだ。
『ごめん、聞き取れなかったよね。バロゼッタで書こうと思ってる本の内容について、勝手に喋ってただけだから。』
「ごめ」
笑顔を作って、コールが用意していた言い訳をしようとしたときだった。
「――そんなの、だめ」
マキの声が、彼の言葉を止めた。
コールはマキの様子に、動きを止めるしかなかった。
マキは言葉と一緒に感情が溢れ出た様子で、涙を落としていたのだ。
「そんなのだめ。
…………〝約束〟して、コール」
ずいと彼女は手のひらを突き出しながら、ぶっきらぼうにも聞こえる口調で言う。
「今俺が言ったこと、聞き取れて――」
「るに決まってる」
たじろいだコールの言葉を、マキはぴしゃりと継ぐ。そして止まらない玉の涙を、何故か悔しげに、もう片方の手でぬぐう。
「だけどマキ、俺は本当に戻ってこれるか分からないんだよ。いつになるかも」
コールが尚も、煮え切らない事を言うと、マキがにらみ付けた。
「かまわないから約束して!」
コールはしばし、口を開けて黙った後、マキの突き出した手のひらに、指を重ねた。
「〝約束〟する」
決意がひしひしと伝わってくる口調だった。コールは重ねていた指をずらして、マキの手のひらを包み込むようにぎゅっと握った。
「絶対戻ってくる。君に会いに。だからマキ…………」
コールの碧い瞳が、辛そうに揺らいだ。
「俺のことだけ想って、待っててほしい」
マキが、コールの手を、そのまま引き寄せて頬に当てた。
「うん」
二人は、朝日が昇るまでずっと、そこに並んで座って、
黒い海に映る未来を、一緒に眺めた。
翌朝、晴天と穏やかな波に恵まれながら、大勢の原住民に見送られ、バロゼッタ海軍船は、この地を後にした。
第三節 ――の後に
また、この季節が巡ってきた。
〈龍風(るほう)の寝床〉は、あれ以来、眠ったように静かで、安定していて、
時たま強く吹く風は、龍の寝息のようだった。
その山の頂上に座って、墨に浸したような漆黒の長髪をなびかせながら、彼女は海の方角を眺めていた。
もう辺りは、夕焼けに赤く染まっている。
森の向こうにわずかに見える青い線を見ていると、今でもそこに、あの大げさな船が見えるような気がする。
ふと、焼けた光の中に黒い点を見つけて、はっと息を呑んで立ち上がった。
しばらくそれに目を凝らしたあと、
「…………。」
少しだけ蒼の瞳に落胆を浮かべながら、彼女はふたたび静かに座った。
返し忘れた〝ハンカチ〟という呼び名の布は、とっくに傷跡すらなくなった右腕に、まだ結びつけたまま。
この季節になると、この風の臭いを嗅ぐと、
あの時のことを、より一層思い出す。
心はあの時に返り、
そして今に戻り、
期待と、落胆を、延々と繰り返す。
年ごとに変わっていくものと言えば、諦めが前に出ようとしてくること。
七年目の今年も、〈龍風(るほう)〉は、同じように吹いた。
でも、彼の姿は、やっぱりない。
その時、ザッ、と人の足音がして、彼女は勢いよく振り向いた。
そして一瞬の根拠もない期待は、すぐに裏切られた。
「オマエも飽きねえなあ」
「っち。なんだヒュウガか」
「あからさまに舌打ちするなよ!」
「そっちだって。飽きもせずよく茶化しに来るな。暇なのか」
「お前さー……」
ヒュウガは岩肌を上って、彼女の横に並んでしゃがみ込むと、海に向かって頬杖をつきながら訊く。
「本当にこのまま何年でも待ってるつもりか?アイツを」
「関係ないだろ」
つんと答えた彼女を見遣って、ヒュウガは何気ない感じでさらに言う。
「心配してんだよ、〈風守(かざもり)〉の現長として」
「あんたが長に任命されたのが未だに不思議でならないけどな」
「うるせーな。一応オマエだって賛成してただろうが」
「っち」
「舌打ちコラァ!…………って、そういう話じゃねえんだよ!」
ヒュウガはふうと軽いため息とともに、話を戻した。
「だからな、待つのに飽きたら、俺に言えよ。」
女がそこで初めて、ヒュウガを視界に入れ、
「露骨に怪訝な顔してんじゃねえよ!」
ヒュウガは思わずツッコミを入れた。
「まあ、それだけ言いに来たんだよ。第五夫人の座は空けとくからよ」
女は、思わず顔をほころばせていた。
「それはどーも」
「いや、なんだよその反応。励ましたんじゃねえぞ?今の、ちゃんとした話だぞ?」
「はいはい。長はさっさと帰れよ、日が暮れたら家族が心配するぞ」
そう言った彼女の腕を、ヒュウガがクイと引いた。
「それはテメーも同じだろうが。ほら、帰んぞ」
「私は、」
「最近遅くなりすぎだ。夜の森舐めてっと怖いぞー」
「怖くねーよヘタレ!」
「お前……ガキじゃねえんだから……。ほれ、立つ!」
ヒュウガに促され、渋々、彼女はそこを後にする。
もう一度、振り返って、
そして影ひとつないその恨めしい海を見て、
出そうになったため息を押し殺し。
八つ当たり上等ヒュウガに蹴りのひとつでも意味なく入れながら、今の集落である、元は〈風尾族〉の集落であったところに、帰っていく。
「ねえ」
そこに、西側の斜面から上ってきた影が、
もうひとつ――。
人影は、斜面を北側へ降りていこうとしていた二人を呼び止めて言った。
「〈風の戦士〉の集落が、もぬけの殻だったんだけど……君たち何か知らない?」
振り返った二人の内、男は「おおお!……まじでか」と驚愕の声を上げ、
そして女は、
「――――コール…………っ!」
転げそうになりながら、斜面を駆け上った。
西日の光の中に佇む人影は、その声を聞いて息を呑み、
そして駆けてきた女を両腕で迎えた。
「マキ!」
七年の時を経て、彼は約束通り、この地へと帰ってきた。
〈龍風(るほう)〉が世界を巡るかのように、果てしない旅をして。
二人が再開を果たしたその瞬間、龍が大きな息を吐くと、洞窟から緑に光る粉が吹き出し、二人を祝福するかのごとく、山を光で包み込んだ。
光の中で、二人は、
七年前と同じように、手のひらを合わせて、新しい約束をした。
今度は、もう二度と離れない約束を。
――終――
風の戦士(短縮版) 咲乃零奈 @sakino_rena
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