第七章 王の光

第一節 失われた光


 八頭八尾の白蛇は、口にくわえたハナを高く高く持ち上げた。

 頭の先だけ形を崩して、〈震皮(しんひ)〉たちがハナの体にまとわりついて、その体躯を呑み込んでいく。

 伊吹は、すぐさま握った剣を振り上げて跳躍した。彼の目に、〈シンヒ〉が筋の流れのごとく絡み合う、白蛇の太い首が映る。

 そして彼は、その腕を振り下ろすより早く、腹に衝撃を受けて吹っ飛んだ。

「――ぐあっ!」

別の首が彼を押しやるようにして頭突きを繰り出したのだ。

 完全に一瞬、意識がハナだけに向いてしまっていた伊吹は、それをまともに受けて地面に叩きつけられると、岩壁に背が当たるまでの距離、地面を滑った。

 地面に這いつくばって、咳き込みとともに少量の血を地面に吐き出す。

衝撃で口の中を切ったのだろう。暗転していた景色がぐらりとすぐに戻ってくる。

 伊吹はよろりと目を上げた。

 ハナと目が、合うことはなかった。

その手首が、ずるりと、白蛇の首の中へ引きずり込まれていくのが、最後に見えた。

 切り裂いても切り裂いても、死を知らぬ生き物。圧倒的な力。

 そこに、吸い込まれていった、自分を好きだといった女。


 頭痛がした。

 何かが重なる。

 この気持ち。

 あの日と同じ。

 あの地獄……地獄の始まりの日と。

 ――また、私は。


 吹き飛ばされても放さなかった銅剣が、からんと音を立てて地面に落とされた。

 まとった陰の光が、フッと力無く消えた。


 ――また私は、助けられないのか。目の前であの男に、大事な人が殺されていくのを黙って見送るしかできないのか。


 瞳が揺れる。

呆然と、その場に凍り付く。

 自分が、今どこにいるのか、見失いそうな感覚に囚われた。

 あるはずのない黒煙が、目の前に満ちていく。

 臭うはずのない焦げ臭い臭いが、鼻をつく。

 繰り返すのはいつも、親しき人々の最期だけ――。


「剣を置くな!」

 ハナが妹だと言っていた少女が、十数メートルほど向こう側から、声を響かせた。はたと伊吹は息を小さく吸った。

黒煙が消え、ハナと同じ色の瞳が、視界に入る。

 マキは、今にも白蛇の前に飛び出していきそうなのをコールに全力で止められながら、伊吹に向けて声を荒げた。

「お前が剣を置いたときこそ終わりだ!目覚めろ、真の王として!ハナ姉はまだ、助けられる!お前だけが――」


真の王。


その言葉が、鐘のように心臓を打つ。


真の王。シンノオウ。


ハナも、同じ事を言った。


〝選ばれた御子〝。


「…………、ばかな。私にそんな器はない」


真の王しかこの白蛇を倒せぬと言うなら、私にどうしろというのだ。

 私は気高き生き物からはほど遠い。

己の憎しみに溺れたまま、闇から這い上がろうともしてこなかった。

 闇から這い上がることなど、諦めていた。

 お前やハナのような者こそ、王にふさわしく見える。


 私には、

「無理だ」

口の中で呟いた。



 ******



 花露(かろ)は、ハッとして物見の柵から身を乗り出した。

その金瞳に、揺らぎが表れる。

 それからすぐに、首元へと視線を落とし、じっと冬眠のように固まっている白蛇を見た。

「花露様、お降り下さい!」

下から焦ったような声がかかる。

 ガアガアと狂気に満ちた声を上げながら、一度は都の外へ追い出されていた鳥たちが、空を真っ黒に埋め尽くして飛んでくる。カラス、キジ、すずめ、ウグイス、ワシにタカにトンビまで。あらゆる鳥が徒党を組んで、堰(せき)を切ったように八方から迫っていた。

「みいちゃん」

祈るように花露は白蛇をなでるも、白蛇はまるで無関心の様子で、眠り続けていた。

 ビシッ、と矢が物見の外を掠め、今にも花露に襲いかかろうとした一羽のトンビが、地面に落ちた。

 見遣ると、物見の下では男たちが、弓矢を空に構えている。

 構えながら、再び花露へと叫ぶ。

「お降り下さい!危険です!」

 次の瞬間、その男へと大量のカラスが群がり、男の声は悲鳴へと変わった。周りの男たちが慌てて助けに入るも、完全にカラスとの乱戦と化している。

 花露は少しだけ顔をしかめた。

 どどどどど、と土煙が、あちこちで上がりだした。

「北門はねずみ、北西はいのしし、南は牛が突破したようでやんすな……。都の守りが崩れて行くのを、この目で見る日がこようとは」

他も時間の問題でやんすなと、花露は少しだけ寂しげに声を漏らした。

 そうして、いつものように白蛇に訊いた。

「あの男は、王権を放棄したのでやんすか?」

 しかし白蛇は、何の反応も示さない。

 花露は覚悟を決めた様子でその場に座った。

「滅ぶならば、最期まで見届けるのもわっちの役目でござんしょう」

都は今や、暴れ回る動物たちのあらゆる鳴き声と、人々の混乱と悲鳴で埋め尽くされていた。



 ******



 また一人が、意識を失った。

 半数が地面に倒れ込む中で、老婆の祝詞(のりと)を詠む歌声だけが、厳かに響き渡っている。

 不穏な風は一層強く。

 不安を煽る地面の微振動はみるみるうちに早さを増し。

 そしてまた一人、肺の小さな者から順に、地面に突っ伏していく。

 ヤエ婆の舌もから回っていく。

 彼女一人なら助かったかもしれない。

 巫女の呼吸法をするのなら、詩(うた)など詠んでいてはいけないはずなのだ。

 けれど誰もそれを知らず、誰もそれを止めなかった。

 ヤエ婆の詩は、もはや言葉を為してはいなかったが、それでも続く。

 子どもの次はその親が。

 呼気を送ろうとして、息が続かず、二重に倒れた。

 詩はまるで、死んでいく者への手向けのようだった。

 誰からともなく、じっと呼気を溜めておくのをやめて、ヤエ婆に合わせ詠い始めた。

 皆は巫女の祝詞を知らないから、それは一音だけを、ヤエ婆の声の調子に乗せただけのものだった。

 一斉の歌声は、一面の曇天に向かって、響くことを知らぬまま重く消え。

 涙を流しながら、一人、また一人と、後に続くように意識を遠のかせていった。

 ヤエ婆の声が、ふと止んだ。

 風の戦士たちは、はたとヤエ婆を見た。

 彼女はうつむいたまま微動だにせず、半開きの両目から命の光が消えていた。

 でたらめな祝詞の声が、爆発を伴ったかのようにようやく空へと届いたのは、その直後のことだった。

 そしてそれも長くは続かぬうちに、風の音の中へとかき消えた。



 ******



 埋め尽くされた悲鳴の中、彼女の中だけは静かだった。

 白蛇が、首元で動いた。かと思うと、虹色の光となって、消滅した。

 それは霧散したと言うよりも、まるで、花露の肌から浸透して、その内側へと吸い込まれたかのようだった。

 花露の虚ろに見える金瞳に、初めて、少しだけ涙が浮かんだ。

 一粒のしずくが頬を滑ったとき、後頭部を鈍痛が襲った。倒れ込んだ花露は、自分を土器で殴った者を見上げた。

 なりからして、宮廷に仕えている者なのだろうと判断がついた。

その者は、花露の瞳と目が合うと、びくりと恐怖を浮かべた。

けれどそれ以上に、その男はもっとちがう恐怖を抱いていた。いや――、

 それは、むしろ狂気へと変わっていた。

 冷や汗の滲む顔。血走った目。震える声で、男は言った。

「供物と……なりて……どうか〈ミホウサマ〉の怒りを……お鎮め下さいませ。花露様」

 花露は、動く気力もなく、その者に答えた。

「わっちを殺しても、何の意味も為さぬでやんすよ」

淡々と。他人事のように。

 だが男にはその声が届かなかった様子で、軽々と彼女の体は担ぎ上げられると、物見の下へと降ろされた。

 そこには大勢が待ちかまえていた。

 老若男女、皆、泣きながら、嗚咽しながら、花露にすがった。

 助けてください、と。

 花露は、まるで物のように数人の男たちに担がれて、祭壇へと運ばれた。

 火あぶりが用意されていた。

 祭壇の前で、彼女は形式だけの祈りを捧げた。

 貴重な油を、たっぷりと頭からかけられて、丸太に縛り付けられた。

 足下につけられた火は、すぐに油を伝って彼女の体に巻き付いた。

 花露は、熱い猛者の壁越しに、自分にひれ伏す弱き者らをじっと見ていた。

 最期の時まで、

 熱さを感じてはいないかのように、

 ただ彼女は、彼らを見下ろしていた。

 その瞳に宿っていたのは、哀れみだけだった。


 都の最後の守りを焼き殺していることに、この者たちは最後まで気づかなかった。

 〈ミホウサマ〉の恩恵を伝える者がいなくなっては、

 この後お前たちは、

 誰にすがるのでやんしょうか。


 そして彼女は、丸太とともに真っ黒な炭になるまで、焼かれた。

第二節 灯る光


 木がミシミシと音を立て出し、まもなく自身の重量に耐えきれなくなると、幹を無惨に折りながら、地面へと倒れ込んだ。

 時節に似合わず茶色く乾燥した葉が、悲鳴のように音を鳴らして散った。

 つい今し方倒木と化した木を、瞳の隅に映しながら、ヒュウガは愕然としてその盆地を見下ろしていた。

 秘密の通路への入り口であるあの泉から、森を突っ切るようにしてここへ向かって来たのだったが、

 盆地は消滅していた。

 〈風の戦士〉たちがいるはずのお椀型の土地は、〈龍風(るほう)〉の爆発とともに雪崩れてきた〈震皮(しんひ)〉の大群によって埋めつくされ、すっかり平らに均(なら)されてしまっていたのだ。

 盆地から溢れた〈シンヒ〉の群れは、留まることを知らぬかのように、風の流れに沿ってさらに西を目指している。


 〈シンヒ〉は神の使い。

 〈シンヒ〉は神聖なる獣。


 そう言われているのは知っているし、風の戦士たちほどではないにしろ、〈風尾族〉でも彼らの存在を畏れ、尊んできた。


 だけど、

 今はその〈シンヒ〉が、

 ただおぞましく、疫病のように思えた。


 ヒュウガは、盆地の北側で立ちつくしていた足を、じりと一歩前に踏み出した。暴風の壁の中に入ったのを肌で感じる。

すぐさま足下に絡みついてくる一角蛇を、蹴散らすように払う。

 盆地の内側へ向けて倒れ込んだ木々が、たちまち〈シンヒ〉の中に沈んでいく。

 あまりにぎっちりとしているので、地面のように上を歩けそうな錯覚に陥るが、木々が呑み込まれていくのを見て、間違いだと気づかされる。

 ヒュウガは進みかけた足を戻すと、額に冷や汗を滑らせながら小さく悪態の言葉を吐いた。


 〈シンヒ〉という生き物を、平素なら殺すなどもってのほか。

 どんな天災が降りかかるか分からない。

 だが。

「調子に乗るなよ、蛇共が」

 今はそんなことどうでも良かった。

 ただ彼の心臓には、怒りから来る熱さだけが燃えたぎっていた。


 〈風の戦士〉たちは、――ハナたちは、命を懸けて、てめえらを守ってきたんだ。

 その恩返しがこれか?笑わせんなよ。


 周囲を見渡した彼の目にその時飛び込んできたのは、地面に燻るたいまつの火種。

 見張りの〈仙〉兵が立てていたものだ。奴らの姿はない。巻き添えになったのか、もしくは危なくなる前に逃げたか。

 たいまつの台座は倒れていたが、シンヒは火を避けて通っていたため、その火種だけはかろうじてまだ生きていた。

 ヒュウガの足が地面を蹴った。

 火種さえあれば十分だった。

 ――〈シンヒ〉は東から盆地へとなだれ込んでいる。だったら断つべきは――。

 彼は盆地を東側へと回り込みながら、そこら中に散乱している折れ枝のひとつを手に取ると、火種へとあてがった。

 水分を無くした枯れ枝は、すぐに火を受け入れた。

 ヒュウガはそれを持って今度は〈シンヒ〉の波の中へ分け入った。

盆地の東側に倒れ込んだ、先ほどの木へと辿り着くと、上に乗っかった〈シンヒ〉を乱暴に払いのけ、

 火を、つけた。



 ******



 「あの化け物さえやれば、ここから生きて出られるんだな?小娘」

アメリアの声が降りかかると、マキはハッと顔を上げた。

 彼女はサーベルをすらりと抜きながら、前方の大蛇を見据えていた。

「なっ……無茶だ!あれはあんたにやられるようなものじゃない!普通の獣とは訳が違うんだっ」

「ではあそこで怖じ気づいてぼけっとしてる男になら倒せるのか?」

鋭い指摘にマキは一度口をつぐんだが、その後「そうだ」と、か細く答えた。

 その様子にアメリアは、フンと鼻を鳴らし、真一文字に結んだ唇を少しだけ緩ませた。

「私だって化け物なんぞ相手にしたくはないさ」

言うなり彼女は走り出した。

 大蛇を前に、彼女の長い足が強く地を叩く――。

 壁際に追い詰められた伊吹は、火穂伎命(ほほぎのみこと)の指示によって、蛇の首で高く締め上げられた。

「長き務めご苦労だったぞ、伊吹」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の目の前へと掲げられる形で対面し、伊吹は空中で顔を歪める。

「安心するがよい。巫女は、死んではおらぬ」

 うねうねと蛇の背が波打ち、火穂伎命(ほほぎのみこと)の隣に呑み込まれたハナの顔が、ずいと現れる。

意識を失っているその唇を、火穂伎命(ほほぎのみこと)の人差し指がするりとなでた。

「さわる……、っ」

カッと頭に血が上った様子で伊吹が声を上げるが、ぎりと締め上げられてそれも最後まで言葉に出来ぬまま終わる。

「私が面倒を見てやる。伊吹、喜べ」

火穂伎命(ほほぎのみこと)が右手を差し出すと、〈シンヒ〉が群がって右手を覆い、そしてそれは、鋭い槍となって硬質化した。火穂伎命(ほほぎのみこと)の右腕そのものが白き刃となって、その切っ先は伊吹の首へと向けられた。

「そなたには、今ここで死ぬことを許そうぞ」

 刃先はつうっと矛先を下へとずらし、腹を狙って突き出された。

「ただし、最後まで我を楽しませるのだ。苦しんで死ね」

 ――ドッ――。

 腹に来ると思われたはずの衝撃が、背中全体に来て、伊吹は一瞬混乱した。

 雨のように降り注ぐ〈シンヒ〉の中、宙を舞う栗色の髪が目に飛び込んでくる。

 そして気づいた。

締め付けていた蛇は彼女によって切り落とされ、自分は地面へと投げ出されたのだということに。

 アメリアは、ダンと膝を曲げて着地するなり、近くに落ちていた銅剣をこちらへと放った。

「戦の勝敗は殺した馬の数では決まらん。将の首が全てだ。そんなことも分からないか?」

「――――。」

伊吹は、アメリアの行動に驚きを隠せなかったが、何よりもその言葉に目を見開いた。

「――私は、戦を……していたのか……?」

 放られた銅剣をもう一度、握りしめる。

冷たい、しかし慣れた感触が、じんわりと手の平から上ってくる。


 ――戦……?これが。


「今に限って言えばお前が将だ、伊吹」

サーベルを油断無く構え直しながら、アメリアが声を掛ける。目の前ではもう、切り落とした頭が再生されている。

「邪魔をするな異人めが!」

火穂伎命(ほほぎのみこと)の激昂した声は〈シンヒ〉の同調を誘い、八つの首が牙の形を見せて二人への威嚇を放つ。

 伊吹は剣を手に、立ち上がった。

 怒る火穂伎命(ほほぎのみこと)と、蛇の首越しに目が合うと、

 その瞬間、はたと。


 見える景色ががらりと変わった。


 くにを背負っているはずの王。

 ――だが……。

 だがあの王は……あの男は、いったい何の上にふんぞり返っているのか?――


 その時蛇が、蛙を捕らえようとするかのごとく、素早く突きを繰り出した。

 伊吹が視界の右端から迫り来るその一頭を見たときには、すでに蛇の鼻先が当たりそうな距離だった。

 一寸、彼の頭が呑まれたかのように見えた。

 だが次の瞬間、蛇の口からあご下に向けて一本の線が走ると、あご部分が切り落とされた。すぐさま伊吹のもう一刀が右上から蛇の頭へと振り下ろされると、完全に頭が落とされる。痛みを感じない様子の〈シンヒ〉はただばらけただけで、頭を再生にかかるが、次の攻撃にすぐに移れるわけではない。その隙に伊吹は間合いを取ろうと飛びすさる。

 彼の持つ銅剣が、じわりと橙色の光を帯びていた。

 伊吹は、もはや蛇などあまり眼中に無いかのように、銅剣を眺めた。

 もう一度火穂伎命(ほほぎのみこと)へと目を向けながら、彼は先ほどの自問への答えに気づいた。

「逆だ……。逆だった」

 正面から間を置かず突進した蛇を、まるで竹でも伐採するみたいに切り落とす。

 その瞳はもう、火穂伎命(ほほぎのみこと)から一時もぶれることをしない。

 伊吹は自分の中に覚えた違和感を解消するかのごとく、答えを口にしていく。

「あの男は〈シンヒ〉を操れているのではない。〝乗せられて〟いるだけだ。強大な力を差し出されて……――」

 それが、〝火穂伎命(ほほぎのみこと)〟という大王(おおきみ)の真実。

 これが、

「――これが、〈仙〉というくにの本質だった」

 そう思った途端、笑いが込み上げてきた。

 ばかばかしさに肩を揺らしながら、左から来た二頭を斬り捨てる。

さらに右からのもう一頭は、進み出たアメリアへ任せた。

「何を笑っておるかあ!そたなに勝ちなどない!〈ミホウサマ〉が味方した我こそが王!まだ己の立場が分からぬとは、愚かな!」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の声には怒りと、若干の焦りが見えた。

 伊吹は顔を上げた。

 まっすぐ、自分を虐げてきた男を見返した。

「〈仙〉は担ぎ上げる人間を誤った。私が憎んできたものは、張りぼてで出来た空っぽの人形にすぎなかった」


 ――では何を憎むべきだったか?

 いや、何を責めていたのか?――


 瞬間、銅剣の光は太陽のごとく、光を放った。

 伊吹が夢で見てきたあの、本来の光を取り戻したのだ。

 光は彼を影の中に落とすことなく、その暖かい色で包んだ。

彼の目には使命を帯びた輝きが。その腕には力が宿ったように見えた。


「打ち破るべきは、〈仙〉の空虚に目を向けもせず、〈仙〉の横暴をこの目にしながら、己の復讐に囚われるがあまり行動を起こさなかった、私自身だったのだ……!」

 彼は銅剣を一振り、地面と並行に滑らせた。

 銅剣の刃先は弧を描き、光の輪が波動となって、空気を震わせ、

 そして――。



 ******



 ヒュウガは、単に、火を嫌がる〈シンヒ〉の侵攻を食い止めようとしただけだったが、偶然にもそれは予想以上の効果をもたらした。

 倒木に沿って燃えさかった炎の壁が、〈シンヒ〉の毒までも打ち消したのだ。

 〝〈シンヒ〉は、己の毒霧の中でしか生きられない。〟

 その法則を知らなかったヒュウガの目の前で、風下側にいた〈シンヒ〉たちはあっという間に灰と化してその身を散らした。

 灰は黒煙混じりの風に乗って、さらさらと西に向かって吹きすさび。

 盆地の底に埋もれていた人々を露わにしていった。

 ヒュウガは槍を片手にすぐさま盆地を滑りおりた。

「おい!」

 誰にともなく呼びかけながら、一番近くの幼い女の子に駆け寄る。

「しっかりしろ!生きてるか?!」

しかし、返事はなく、その小さな体躯を抱き起こし、心臓に耳をあてるも音はしない。

 だらりとぶら下がる手。一本線に閉じられたまま開かない目。

「おい……」

ヒュウガは、初めてぞっとした感覚が首筋を駆け上がるのを感じた。

「おい、誰か!」

 手遅れなのか。

 頭によぎる嫌な予感を打ち消すように、彼は立ち上がって大声を上げた。

「返事しろ!おい!」

 〈風尾族〉の……俺たちの、せい……なのか?

「誰か!意識ある奴はいねえのか!」

 違う人間に駆け寄っては、その肩を揺らす。


 俺たちは……。

 何を

 シテシマッタンダロウ。


 六人目の戦士を揺すったところで、ヒュウガはがくりと肩の力が抜けるのを感じた。

「くそ」

 こんなの、ないだろ。

 込み上げてくる熱いものは、行き場無く、ただ彼の表情を険しくさせる。

 誰も動かない。

 そんな中一人動き騒いでいる自分が、ひどくこの場にそぐわないものに思えてきた。


 〈風の戦士〉も、〈風尾族〉も、戦士だ。

 死が条理であることは誰もが覚悟の上。

 だが、〈風尾族〉は家族のために、信念を曲げて〈風の戦士〉を襲い、

 〈風の戦士〉は信念を通そうとしたにもかかわらず、守ってきたはずの〈龍風(るほう)の寝床〉によって滅ぼされた。

 俺たちは、何のために何をしたかったのか。

 こんな死に方……無いんじゃないか。


「誰か……息を吹き返せよぉ」

口から漏れ出た掠れきった声は、自分でも驚くほどに情けなかった。

 ――何をしたらいいのか、もう分からねえよ。

 腕の中の戦士をきつく抱きしめた。

「すまねえ」

 小さく、重く、謝罪した。

「――う」

 小さな吐息のような声が、ヒュウガの耳に入ったのは、その時だった。



 ******



 そして――。

 眩い光の波動は、八頭八尾の大蛇を散り散りに引き裂いた。

 絡まった糸玉がほぐれたみたいに、白い巨体は音もなく崩れ落ち、替わりに緩やかな傾斜の小山を為した。

 先ほどの頑丈な結束が嘘のように、わしゃわしゃと力無く蠢く〈シンヒ〉の中、呆然と座り込む男がいた。

 栄華にあぐらを掻き続けてきた男は、それ故に、

 栄華が己の手を離れつつある事実が、一分(いちぶ)たりとも信じられなかった。

 虐げてきた奴隷が、

 今や光り輝く銅剣を持ち、威光すら感じさせるようになったその男が、近づいてくるのが見えた。

 ぼんやりと、頭の片隅で思った。

 ついにこの我に、とどめを刺すのだと。

 しかし奴隷はこちらなど見向きもせず、傍らに落ちた巫女へと駆け寄った。

 その身を抱き起こし、強くその名を呼び、巫女が目を開けると、

 しっかりと抱きしめていた。

 この大王(おおきみ)が存在しないかのような振る舞い。

 斬りつけられる以上の屈辱。

 男は一人、呆然と座り込んだまま。

 ただ、こんな事があるはずがないと思った。

 すると。

 その思いが届いたかのように、

 〈シンヒ〉たちが再び彼の元へと集まってきた。


 〝核を取り戻さん〟。


 男にだけは、神の使いがそう言ってるように聞こえた。


 終わっていない。

 我が王なのだから。

 他に王はいらん。

 天が認めたからこそ、我は大王(おおきみ)となった。

 そうに違いないのだ。

 この富を支配を権力を、

 誰にも渡しはしない。


 〈シンヒ〉が胸元へと上ってくる。

 

 そうだ、それでいい。

 今一度我の腕を剣に。

 我の体を大蛇に。

 力を我に。







 ?





 待て。

 息が出来ぬ。

 首に…………。



 ……………………。




 火穂伎命(ほほぎのみこと)の恐怖に青ざめた表情は、すぐに群がった〈シンヒ〉の下へと埋もれていった。

〈シンヒ〉の尾がバタバタと小山の外側で揺れ、

 悲鳴をあげる間も与えず、

 血も流させず、

 大王(おおきみ)火穂伎命(ほほぎのみこと)は、〈シンヒ〉についばまれ、最期を遂げた。

第三節 王の光


 コールは、地に膝をついたままで、声を漏らした。

「勝った……?」

アメリア大佐を見れば、先ほどの波動に足を踏ん張った体勢でいたが、サーベルを鞘に収めている。

 大佐が武器を収めたのをみてやっと、本当に怪物は倒れたのだと実感することが出来た。

「マキ!」

瞳に希望を宿しながら、すぐ側に引き留めていたマキへと声を掛ける。

 彼女の様子がおかしいことに、すぐに気づいた。

 まず、コールの声に反応しなかった。

 次に、彼女の見開かれた両目は、蛇の倒れた場所ではなく、制御板――彼女らが〝審判のはじき〟と呼んだもの――の方を見ていた。

「……マキ?」

 顔を覗き込んだとき、

「聞こえる」

マキの唇が動いた。

 そして、彼女の足は〈審判のはじき〉へと動き出す。

「なに……」

コールの声は、彼女の耳には入っていない。

 早足になるにつれて、今度はもっとはっきりと、マキは同じ言葉を繰り返した。

「聞こえる!〈シンヒ〉が呼んでる!」

「え?」

もはや走り出している彼女の後を、戸惑うコールが慌てて追いかける。

 意識を取り戻したばかりのハナは、伊吹の肩越しにマキを見つけて、眉を寄せた。

「あの子……何をする気?」

 とっさに立ち上がろうとするけれど、伊吹の腕が固くそれを拒んだ。

「伊吹」

「……もうしばらく」

一言だけ、呟くように言われて、ハナは目だけで妹を見守るしかなかった。

 強く振りほどくことが出来なかったのは、彼が、水たまりで溺れた後にも、同じ事をしたのを思い出したからだ。

 きっと心細いのだと、それだけが何故か、痛いほど伝わってきた。

 マキは、〈審判のはじき〉の台に辿り着くと、それに手をかざした。

 彼女の透き通るような蒼の目が、光を帯びたように見えて、コールは少し離れたところで足を止めた。

 何か分からない、それ以上近づけぬ雰囲気があった。

 彼女の唇が音をこぼした。

「ひと」



 ******



 未だ所々に赤い光を燻らせ、黒い灰を宙に舞わせる火あぶりの跡。

 そこにもはや人はいなかった。

 民は皆、歯止めの利かなくなった獣たちに次々と襲われたからだ。

 その場所にいる者と言えば、――人間も獣も含めて――血を流し倒れて動かなくなった者だけだった。

 そんな血塗られた丘の真ん中、

灰の発生元である供物台の上、ヒトくらいの大きさの黒い炭の塊は、突然鋭い音を立てて、表面にヒビを走らせた。

 ヒビは瞬く間に広がった。

 弾けるような音が連続的にこだました。

 まもなく、バキンと何か太いモノが割れるような音を最後に、炭は八方に弾け飛んだ。

 火などとうに根だけと化していたはずの供物台の上、一瞬、大きな火柱が、龍のごとく天へと燃え盛った。

 火柱は刹那に消え、そしてそこには、白い肌の少女が、一糸まとわぬ姿で現れた。

 あごの辺りで切りそろえた黒い髪に、虚ろにも見える金瞳を携えた、ふしぎな雰囲気の少女は、灰の中から身を起こすと、地面を見下ろした。

 黒く焼かれた自分の抜け殻が横たわっていた。


 「花露様……?」

「花露様が!」

 どこからともなく少女の復活を驚く声が上がり、人々が集まってきた。

「誰ぞ、召し物を!」

 気の利く誰かの言葉で、すぐに彼女の肩に装束が掛けられると、少女はそっと立ち上がり、どこか遠くを見つめた。

 厚く低い雲に覆われていた天に穴が空き、赤みを帯びた斜陽が都を照らした。

 太陽に手をかざすと、光の中に、まるで最初からそこにいたかのように、腕に巻き付く白蛇が姿を現した。

 白蛇は、何かを言いたげに、じっと彼女を見下ろしていた。

「わっちの役目は、終わらなかったというのでやんすな?」

 少女は呟いて、手の先を首元へ近づける。

 白蛇は導かれるようにするすると、彼女の首元へ収まった。

「みいちゃん……御前(おまえ)はこうなることを予測していて……」

言いかけて、ハッと小さく息を呑み口をつぐむ。彼女は〈ルホウの山〉の方角へと目を遣った。

 白蛇の金瞳が光を帯びた。

 十人にも満たない群衆が息を殺して見守る中、何かを聞き取ったかのように、〈仙〉の巫女の唇が音をこぼす。

「ふた」



 ******



 「――ここのたり」

マキの指が、数を唱えるごとに、〈審判のはじき〉の上を滑った。

「もしかして、あの子……」

ハナが、遠巻きに、ぽつりと呟く。

「〈シンヒ〉と呼吸を……合わせてる……?」

「ふるべゆらゆらとふるべや」

数えの最後が発せられたとき。

〈審判のはじき〉のレバーの配置は、まるっきり変えられていた。

 コールは、元の配置とも違うその新しい組み合わせに、思わずその場で首を伸ばした。

 彼の目には、もはやそれが洞窟の地図に連動しているようには見えなかった。

 制御板ではない、と、ハナが言ったのを思い出す。

 〈審判のはじき〉の表面が、薄緑色の光を帯びた。

 マキの瞳が、それを映して光を帯びた。

 文字盤には、光っている箇所と光っていない箇所が存在して、おそらくその光源は、石台の中に発光バクテリアでも溜まり込んでいるのだろうと思われるが、

とにかく文字盤には、今まで無かった文章が、光の加減によって新たに浮かび上がったのだ。

 それが何と書いてあるか読み解く前に、マキがゆっくりと振り向いた。

 彼女の瞳に映った薄緑の光が、消えることなく映ったままであることに、コールは驚きを隠せなかった。

蒼の海色に、キラキラと輝く薄緑の文字が揺れ動いていて、これ以上なくふしぎで、これ以上なく、美しい色だった。

 マキは、辺りを見回すようにして、やがて伊吹を見留めると、口を開いた。

「目覚めし真の王。是(これ)へ」

マキの纏う空気は、もはや十三歳のそれではなかった。

 伊吹が、一度ハナと顔を見合わせた後で、ハナに促されるようにして、銅剣を手に、マキの前へ進み出た。

 するとマキは、一も二もなく彼の足下へひざまずいた。

 戸惑いつつも、状況を見定めようとしている伊吹の表情を見上げて、

マキは、静かに、しかし響くような声で、告げた。

「我らは王を見極め、〈ミホウサマ〉と真の王に忠誠を誓う生き物。――新王、伊吹。今一度、王の光で我らを照らし、新しき時代の到来を示されよ」

「……王」

伊吹は、見開いた目で、少し引け腰に呟く。

「私は、私は――、王になる器ではない」

彼は、鞘に収めた銅剣を、マキの前へと横向きに差し出した。

「これはお返しする。担ぎ上げる人間を間違ってはいけない」

その表情によぎる翳(かげ)り。

しかしマキは、銅剣を受け取らず、その鞘にそっと、愛おしげに手を添えた。

「決して間違ってはおらぬ。確たる理由が欲しければ言ってやろう。西の盆地には今年、ヒトにとって有益な種の風は吹かなかった。そのことが一部の雑草に毒を溜めさせ、巡り巡って家畜とヒトへの毒と成り代わった。疫病の蔓延……〈ミホウサマ〉の御子と名乗っていた火穂伎命(ほほぎのみこと)は、一度だってそれに目を向けただろうか。他の豪族は?〈仙〉の都に住む民は?

 答えはひとつだ。〝誰一人助けようとした者はいなかった〟。」

「!……まさか、あえてそうしたのか?私を試すために!」

声を荒げた伊吹をちらと見て、しかしそれには答えず、マキは続けた。

「西の盆地は、〈仙〉の一部であり、同時に〈仙〉にとっては辺境。見捨てても何の不利益も被(こうむ)らぬ。そなただけだった。何度も足を運び、病人や飢餓の者を看ては、何も出来ぬ己に腹を立てていたのは」

マキはそこで初めて、不意にハナへと目を向けた。

 伊吹の後ろで遠巻きに、成り行きを見守っていたハナは、妹が向けた視線に思わずどきりとした。

 その透き通って、輝く瞳は、一度も見たことのないもので。

 実の妹のはずなのに、そこにいるのは妹ではない、何か別の、ひどく尊い生き物だったのだ。

「え…………」

「后となりて、新王伊吹を支えよ、ハナ」

その言葉に動揺を見せたのは、ハナだけではなかった。伊吹は驚いたように顔をあげ、ハナを顧みた。

 二秒の沈黙の後、

「伊吹……」

どうすべきか迷った様子で、ハナが声を上げたとき。

「ハナ」

ほぼ同時に、伊吹が口を開いた。

「私のそばにいてくれるか」

彼の言葉は、決断に満ちていた。

 ハナは、一瞬、言葉を呑み込めずに固まった後で、頬に涙をこぼした。

「はい、真の王、伊吹」

彼女は顔をほころばせ、泣きながら、そうひざまずいた。

「伊吹。我らに示す刻だ。都は次期王の座を狙う獣たちに襲われている。高らかに光を示し、都と、全ての生き物を救うのだ」

マキの声へと振り向いた伊吹の表情からは、揺らぎが消えていた。

「ひとつだけ」

銅剣を持ち直しながら、伊吹が訊こうとすると、マキが先に応えた。

「先ほどの答えが気になるか。……〈龍風(るほう)〉は、そなたの素質を見分けるためだけに、生き物を滅ぼしたりはしない。

自惚れは転落を招くぞ、若き王よ」

「ではなぜ、あのようなことを」

問うた伊吹に、マキは少しだけやれやれといった風に息を吐いた。

「〈龍風(るほう)〉は全ての生き物の源だということを忘れるな。西の盆地には、放っておけば増えすぎて自滅する生き物がいた。それを助けたのだ」

「それは……」

興味を持ったのはコールで、思わず口を挟むと、マキがコールに向けて、柔らかく答えた。

「そなた達すらも知らぬ、小さき小さき生き物だ」

コールはその答えに、期待と驚きで息を呑んだ。

 マキは、伊吹へ向き直ると、促した。

「さあ、銅剣を高く掲げよ、そして王として命じるがいい。我らにどうして欲しい。真の王よ」

 伊吹はその声に誘われるようにして、抜いた銅剣の切っ先を、天へと向けた。

 銅剣は、刀身を露わにした瞬間から、明るく光り輝いていた。

 伊吹は己を落ち着かせるように、一呼吸置き、そして、命を発した。

「新王伊吹が〈震皮(しんひ)〉に命じる。

何人(なんぴと)にも壊されぬ、固く輝く網となりて、〈龍風(るほう)の寝床〉を永久に閉ざせ。

〈龍風(るほう)〉を八方に等しく吹き出すよう仕向け、毒の風の暴走無きよう道を示すのだ。

揺るがぬ事なき忠誠を以て、王おらずともここを守り続けよ!」

 瞬間、赤と金の混じったような光が、爆発のように視界を奪った。

 マキが、ハナすら知らない神歌を歌いだしたのも、光が弾けたのと同時だった。

第四節 道標


 「なんだ……急に波が止んだ」

呟いた船長の下に、船員が駆け込んできた。

「鯨が去っていきます!」

「なに?!」

 甲板ではワン中尉が、我に返ったように沖へと引き返していく鯨たちをじっとにらみ付けていた。が、戻ってくる気配が無いのが分かると、すぐに声を張り上げて言った。

「拠点の浜へ帰港準備ネ!大佐を拾いに行くヨ!」



 ******



 〈仙〉の都でもまた、海とまったく同じようなことが起こっていた。

 すなわち、あれほどまでに猛り狂っていた獣たちが、一斉に都の壊れた各門へと向かい始めたのだ。

それはまるで、雲の切れ間から差し込んだ斜陽になだめすかされたかのようだった。

 息も絶え絶え、疲労困憊して生き残った民たちは、森や草原や山へと帰っていく彼らを、

ただ呆気にとられ、追い立てる気力も力もなく、安堵の気持ちとともに見守った。



 ******



 〈ルホウの寝床〉では、巣穴に戻るかのごとく風穴に向かい始めた〈シンヒ〉たちが、縁に辿り着くなりお互いをガッチリと編み込み合うと、

吹き飛ばされそうなその身を次々と黄金へ変えていった。

 門を塞いでいた〈シンヒ〉も例外ではなく、一度鍾乳石のようになっていた者も、蛇へと戻ると、風穴へと集結していく。

どしゃ、と崩れ落ちる音とともに、塞がれていた出入り口が再び姿を現した。

「ぼさっとするな、コール助手。ここを出るぞ」

 〈シンヒ〉が〈龍風(るほう)〉の吹き出し口を覆うように黄金の籠を編み上げていくのを、言葉を失って見つめていたコールに、アメリアが通り過ぎざまに声を掛けた。その言葉で我に返ったコールは、慌ててアメリアとそれに追従するバロゼッタ兵の後を追おうとして、踏みとどまった。

「マキ…………」

 振り返った彼の目に、〈審判のはじき〉の側から動く気配もなく、ひたすら神歌を歌い続けるマキの姿が映る。

 次の瞬間、彼の足は自然と彼女の方へ駆け出していた。

「マキ!君も来るんだ、早く!」

彼女の腕に手が届くかという距離まで来たとき――。

 目の前が真っ暗に染められた。

 思わず足を止めたが、何故か体が前に猛スピードで進んで行く感覚が消えない。

 混乱してマキの姿を探すが、周りには誰もいない。

 広い空間もない。

 両側に迫る壁は肩がつきそうなほど狭く、上下は本来なら寝そべっていなければ通れないほど低い。

にもかかわらず、立ちすくんだままのコールの横を、黒い岩壁はどんどん後ろへ後ろへと流れていく。

「なんだ……これ……。幻覚……?」

 酔いそうに頭に手を当てながら、呟いた彼の前に、外の光が出現した。

 ぶわ、っと押し出されるように、岩の通路が終わると、突如視界が開ける。

 山の上から、濃い緑の森を見下ろしていた。

 足下は完全に宙に浮いていた。

 落ち着かない気色の悪さが足の裏を駆けたとき、びゅんと再び、視界は前進を始めた。

 緑の森はあっという間に去り、海を眼下に、ずっとどこまでも飛ばされていく。

 やがて土地が見えてくると、コールは目を見開いた。

「あれは……もしかしてバロゼッタ……?」

 地図で知っている形とそっくりの地形があった。

鳥か、もしくは鳥よりもっと高い位置から見下ろすその光景は、

精巧に彩色された地図そのものだった。

 雨雲にぶつかると、雨雲は背を押されて一緒に移動した。

 灰色の厚い雲の下では、雨の境目がはっきりと見て取れて、なんだか不思議な光景だ。

 バロゼッタに点在するレンガの町は、上から見るとタイルのモザイク画のようだった。

 やがて雲を突き抜けるようにして、さらにどこかへ。

 真っ青な平面で、突然視点は下降した。

そして海上で、トルネードとなった。

 トルネードは見知らぬ大陸へと上陸すると、野生動物を巻き上げながら、未開拓の大草原を荒らしに荒らした。

 コールは胸の中を込み上げる熱い感動とともに息を呑んだ。

 世界を見たのだ。今、この瞬間。

 その時、人肌が手首をきゅっと覆った。

 瞬間、彼は元の場所にいた。目の前には、マキの顔があった。

「あ…………」

意味もなく声を漏らした彼に、マキは言った。

「ここを守る事の出来る王が現れた今、ここでこの人が審判を受ける必要はない」

目はコールを見据えていたが、その言葉はコールに向けられたものではなかった。

「今、俺……」

「コールが見たのは、〈ルホウ〉の旅」

コールの戸惑った声を遮って、マキは答えを与えた。

「〈ルホウ〉の、旅……?」

「そう。この〈審判のはじき〉に近づいた者には、〈ルホウ〉の事を教える。

そして試す」

マキは固く握っていたコールの手首をそっと放しながら、言う。

「私も知らなかった。でも今日、ついさっき、知った。〈シンヒ〉たちに教えられた。

〈ルホウ〉の力を知らしめ、その力に目が眩むかどうか。

自分でも気づかぬ欲を露わにさせることで、〈シンヒ〉は見極めてた。

ここから無事に帰してもいい者なのかを。」

「――――。」

 とっさにコールは、ラビットソン教授の豹変した様子を、目の裏に思い出していた。

 つまり教授も、これを見せられて、それで…………。

 俺はどうだったんだろう。

 あのまま、マキが止めてくれなかったら。

 どんな答えを出したのだろう。

「どんな答えを出したんだろうなんて、考えなくていい」

コールの考えを見透かしたかのように、マキの言葉が降りかかった。

「大事なのは今生きてるって事。ハナ姉が道を知ってる」

その言葉に、コールだけでなく、近くでマキの神歌を見守っていたハナまでも目を見開いた。

「マキ、あんた……残る気?」

ハナの言葉に、マキがうなずく。

「すべての〈シンヒ〉をここへ導くには、道標が必要。私はその任を与えられた」

「そんなっ!」

思わず声を上げたコールとは対照的に、ハナはぐっと唇を噛んだだけだった。

 そして、マキの側へと歩み寄ると、その手を取った。

「マキ。あんたは次期巫女に……選ばれたんだね」

二人はしばし、蒼い瞳を交差させ、やがてハナの方から、スッとその手を放した。

「何やってるんだよ、一緒に行かないと!」

戸惑うコールの声に、応える者はいなかった。

「ハナ姉、ハナ姉は自分の役割を果たして」

マキはハナに、震えを無理に閉じこめたような声をかけた。ハナは、辛そうに顔を歪めたけれど、それをすぐに隠してうなずいた。

「行くよ」

伊吹とコールに声を掛け、龍の門の方へときびすを返した。

 コールはハナに腕を引っ張られながら、マキの方を振り返った。

 マキの神歌が再開されていた。

 その瞳は宙ではなく、こっちを見ていた。

 まるで焼き付けようとするかのように。

 彼女の周りに、外から来た〈シンヒ〉たちが網をこしらえていく。

マキはまるで鳥かごに捕らえられたかのように、網の中へと埋もれていく。

「…………。」

 コールは、ハナの手を振り払った。

「俺はこの国の人間じゃない。だから、この国の神様に従う必要はないよね」

「あっ……」

ハナが短く声を上げたときには、コールはマキの側へと駆け戻っていた。

 マキの神歌が途切れた。

「何やってる、コール!早く行って!」

網越しに、焦燥したマキの声が飛びかかる。

網状になった〈シンヒ〉たちが身を固くする前にと、コールは夢中で網の目を押し広げた。

 マキの顔が籠の中に見えると、コールは手を伸ばしたが、マキはそれを取ろうとはしなかった。

「あんたは分かってない!溢れ出た〈シンヒ〉をここに導いてあげなければ、大変なことになる!私のことは……」

「マキ!死にたいのか?!生きたくないのか?!」

コールの思わぬ厳しい口調に、マキは少しだけ怯みを見せて、まくし立てようとした言葉を呑み込んだ。

「答えて!君は死にたいの?!」

壊された網の目をすぐさま修復しようとする〈シンヒ〉を払いのけながら、コールの怒号のような呼びかけが降りかかった。

「そういうわけじゃ……だけど」

一度はたじろいだマキも、すぐに気を取り直し気丈に反論する。

「仕方ないの!私は〈シンヒ〉たちに選ばれ、道標を託された!残るしかないんだ!」

「周りを見て!」

「え……」

「蟻は最初の一匹が道を造れば、他の蟻は道を見失ったりはしない!全員が向かう方にただ流れていくだけだ。マキ、君はすでに一匹目の役割を果たしてる」

「――。」

籠の中で、マキは、ぐるりと周囲を見渡した。

網の隙間から見える〈シンヒ〉の群れは、マキが神歌を止めているというのに、止まる気配も減速の気配もなく、ただ押し寄せる波のごとく、この空間へと、〈龍風(るほう)の寝床〉へ向かって、流れ込んでくる。

 マキの瞳に揺らぎが浮かんだ。

 迷ったようにコールへと目を戻したとき、コールの両腕がずいと入ってきて、強くマキを抱き寄せた。

「一緒に行こう、マキ。帰るんだ」

耳元で囁かれた哀願のような言葉は、静かな湖面に投げ込まれたひとつの小石のようだった。

 コールの言葉は、このうるさい暴風の中でやけにはっきりと、響くように聞こえて。

 マキが無理矢理下敷きにした感情を、胸の奥から引きずり出させた。

「っう…………」

マキの詰まった吐息が、

涙をにじませた瞳が、

そして、ぎゅっと抱き返された温度が、全ての答えをコールに示していた。

 コールはマキを籠の中から引きずり出すと、力無く座り込んだマキの肩を抱いた。

「立てる?」

マキは何だか少し、ぼうっとしてはいたが、コールと目が合うと覚悟を決めたようにうなずいた。

 ハナの所まで追いつくまでもなく、向こうから駆け寄ってきて、ハナは無言でマキをぎゅっと抱きしめた。

「ハナ姉……私」

「姉ちゃんの手を放さないで、しっかりついてくるのよ」

マキの後ろめたさを感じたような雰囲気を、ハナの言葉が一掃した。

「大佐、巫女が道案内をしてくれます!」

コールは、門を出たところでこちらを待つアメリアの元へ駆け寄りながら告げると、

アメリアはようやく門を出てきた一行を見渡して、呆れたように言った。

「ピクニックでもしていたか?」

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