第六章 覚醒

第一節 龍の毒


 〈ルホウの山〉の外側において、その変化にいち早く気づいたのは、身動き取れず山を見守っていた〈風の戦士〉たちであった。

  森を南へと下った先にある、岩肌のむき出しになったあり地獄状の盆地。

 そこだけ植物はぷっつりと途切れて、朽ち果てた倒木がごろごろしている。

 〈風の戦士〉たちが捕縛されているのは、森の中に突如として現れる不自然な荒れ地だった。

  遠くから見れば、ちょうど地面にお椀が埋め込まれたかのような形状をしていた。

 斜面のふちには、急ごしらえの木杭が内側に向かって斜めに突き立てられ、さらに杭同士を強度の弱い紐でゆるりと繋ぎ、逃亡の隙をみじんも与えない工夫が施されていた。

 椀の底。

 余裕の広さがあるにもかかわらず、戦士たちは一人の老婆を囲って集っていた。

 子どもたちは親に寄り添うように抱かれ、親を失った子どもたちは友に寄り添う。

 そしてここにいる彼ら全員の拠り所が、倒木に腰掛けるその老婆なのだ。

 その時、どうんっと強い衝撃波が、彼らを襲い、地面をころころと転がせた。

「〈ルホウの寝床〉は侵された」

体勢を立て直し、よろよろと長ヤエ婆の前に集まってくる戦士たちを前に、彼女は冷静に告げた。

「間もなく、龍は毒を吐き、我らを淘汰するであろう。よりふさわしき僕(しもべ)を得るため」

子どもをしっかりと腕に抱いたり、胸に引き寄せる母親たちが、長の言葉に、ごくりとつばを飲む。夫たちは、戦士特有の表情の中に父親として家族を守る色を覗かせる。若者たちは、不安の色を無理に隠すかのごとく、ただ闘志だけを瞳に宿した。

 びゅおおおおと、最初の衝撃に続く強風が、山の方角から一直線に吹きすさぶ。

「ヤエ婆、山が……」

誰かが声を上げ、ヤエ婆はうなずいた。

「〈龍風(るほう)〉に仕える聖獣、〈震皮(しんひ)〉の群れが、山を覆っておる。己の毒を、この全てに行き渡らすため……。この風はすぐに〈シンヒ〉の毒に染まる」

 戦士たちの目が、少し遠くに見えている山の頂を映す。山の穴という穴から、衝撃波とともに吹き出し始めた白い小さな個体の群れは、みるみるうちに山の外側に壁を組んでいく。それはまるで、籠が伏せた状態で編まれていくかのようだった。

 ヤエ婆は固唾を呑んで見守る彼らに、ついに合図を下した。

「一秒でも長く生きようぞ。〝一秒長く生きたが故、助かる命〝というものは、この世に確かに存在する。まだ絶望するには早いぞ、戦士たちよ。今の我らが賭けられるのは、各々の生命力のみ。さあ、教えたとおりじゃ。呼気を体に満たすのだ」

まるでそれが絶対的に助かる道であるかのように指し示す彼女の言葉とは裏腹、誰もが感じていることがあった。

 ――巫女の呼吸法は、巫女となる者たちが幼き頃からの訓練を経て修得する技術。付け焼き刃で、できるわけがない――。

 誰もそれを口に出したり、表情に出すことはない。むしろそれを考えぬよう躍起になっていた。だけど、暗黙の了解にも似たその考えは、

 死を覚悟する彼らの中に、シンヒの毒よりも早く浸食していた。



 ******



 〈風尾族〉と〈仙〉兵の決戦地においても、一瞬遅れほどで暴風が襲いかかったことにより、否応なしに、異変が知れ渡ることとなった。

 武器を取って混戦していた彼らは、一同に動きを止めた。

 白いカゴに覆われていく〈ルホウの山〉の不気味さは、その実態をよく知らぬ者にすら、言い様のない命の危機の恐怖を与える。

 一瞬の沈黙が戦場を覆った後、

 一人の〈仙〉兵が声を上げて戦線離脱、森へと走り逃げたのを皮切りとして、

〈仙〉はパニックを起こして一斉に引き上げ始めた。

 そこにあって率いていた豪族の男のみが、馬上から逃げる兵たちを止めようと叱咤(しった)していたが、馬すらも前足を上げて暴れ出す始末。

間もなく落馬した彼の前に、

「――」

ジンオウの斧が突きつけられた。

 率いる者がいなくなったことで、兵たちに足を止める理由は完全に失われた。

 威嚇しながら〈風尾族〉の戦士たちが逃げる彼らを追い立てて、ついにそこで動く者は、〈風尾族〉の生き残りのみとなった。

 ジンオウは、〈仙〉兵が引き上げてしまい、最後に馬一頭が森の中へと消えた後、向かい風に、ごわごわの髪をなびかせた。

 厳しい瞳が細まるが、

「ジンオウ……」

不安げに声をかけてくる〈風尾族〉の者たちに、やはり彼は、何も言わなかった。



 ******



 ワン中尉の防衛戦線が張られている海岸沿いでは、強風ではあったものの、少し離れているせいか、はたまた森の木々に風が阻まれたおかげか、〝異常〝というほどの風は感じられなかった。

 ただ、台風のような風が吹き出したことには誰もが気づいた。

 この日の、まだ夜も明けきらぬ早朝時のこと。彼らは、船の修理のための木材を切り出し、浜へと運び込んでいた〈仙〉の民衆たちを、早々に追い出していた。

余った木材は簡易のバリケードを組むのに使い、自身らは大佐の言葉を守って、船に籠もる籠城戦の構えを見せていたのだ。

 案の定、アメリア大佐の居ない隙を狙ったか、〈仙〉軍は彼らの目前に布陣した。

 そして彼らは、間を置かずに船を乗っ取ろうと浜を渡ってきて、派手な砂しぶきと爆破音の中に大きく足止めを食らうこととなった。

 浜にはつまり、〈仙〉軍がなだれ込むであろう場所へと、横一列に、踏めば爆破するよう火薬が埋め込まれてあったというわけだ。それは大した量ではなかったが、火薬を知らない彼らは、それだけで驚いて足踏みするだろう。

 ワンはそう踏んでいた。

 実際、彼らは他にも幾つも仕掛けられているのでは、と、無い地雷を恐れて、弱腰を見せた。

だが、率いる豪族の男がその尻を蹴った。


戻る者は殺す。


後方で何人かの兵が斬り殺されると、彼らは恐怖に駆られて一斉突撃を開始したのだ。

 ワンの判断は素早かった。

錨(いかり)を上げ、いったん船を沖まで引き離したのだ。

 アメリア大佐を拾うために、人質に取られぬために、この海岸を死守するのは重要事項ではあったが、船を壊されては元も子もないとした彼の考えだった。

 しかし沖へ逃げても、一時の逃亡に過ぎない。

 戻るのが難しくなるほど沖へ行くわけにも行かず、〈仙〉側ではすぐに手こぎの舟が運ばれ、何艘(なんそう)もこちらへ向かってくる。

 強風が吹き荒れたのは、ワンが、船上に乗り込まれての混戦を覚悟した、そんな時だ。

 風は大きな波を起こし、バロゼッタの航海船でさえ、飲まれるのを予感させるほど、大きく斜めに揺らいだ。もちろん波に浮かぶ小舟などは、ひと飲みであった。

 〈仙〉軍が手を出せなくなったことを悟り、一息ついたワンは、次の不自然な揺れに、もう一度海面を覗き込むこととなる。

 船の周りに、鯨(くじら)らしき影が集まっていた。

「ワン中尉……っ、こ、これは……」

 留守番を押しつけられていた二等兵が――今は中尉の補佐を担っていたが――、ぐらりと危なげに揺れる甲板にしがみつきながら、声をかけた。

鯨たちが船体に頭をぶつけてきたのだ。

 ワンは首を傾げた。

「困ったヨ。変な鯨たちネ。これじゃあ逃げられないヨ」

そして、冷たく低い声で言った。

「大砲用意」

ワン中尉の苛ついた声に、二等兵は戦慄せざるをえなかった。



 ******



 不可思議な動物の行動は、鯨に限ったことではなかった。

 〈仙〉の都。

 自室に籠もっていた花露(かろ)の元にも、嵐のような暴風の中、恐々とした面持ちの豪族たちが押し寄せていた。

「花露様!鴉(からす)が空を埋め尽くして……」

「花露様!西門をいのししの群れが襲っておりまする!数にして約二百!」

「花露様、北門には熊が押し寄せて」

「東には野犬が」

「飼い犬や鶏も狂ったように鳴き立てて……」

「いったい何が……!」

「ミホウサマよりお告げは……」

 「花露様!」

  「花露様!」

 彼らに相対し、じっと目をつぶって静かに一通りの報告を聞いていた花露は、自然と黙るのを見計らってから、すっくと立ち上がり、彼らの真ん中を毅然と通り抜けて、外へ出た。

 空は真っ黒な雲と、大量のあらゆる鳥で埋め尽くされていた。

 都には獣たちのうなり声と、恐れる人々の小さな悲鳴が鳴り渡っている。

 花露は、都の一番の高台である物見を目指した。

 彼女の後を、大の大人たちがぞろぞろと、すこし急ぎ足でついて回る。

 物見に大勢で上ることは不可能なため、やむ終えず大人たちは物見の下を囲い、花露を見守った。

 花露は都を見渡し、そして都の八つの門と土壁の周りを、あらゆる獣たちに包囲されていることを確認すると、彼女の首元に巻き付く蛇の頭をなでた。

「次期王権を狙う者どもめ。未だ王権は我らにあるというのに……。そうでやんしょ?みいちゃん」

白蛇がその声に呼応するがごとく、もたげた鎌首を花露、そして周囲に向ける。

「わっちの言うことが間違っておらぬならば、味方してくれるでやんすな」

ちろちろと、蛇の舌が臨戦態勢のように空を舐める。その瞳は都の外を見ている。

 カッと、花露は金瞳を空に向けた。


 ――去れ。ミホウサマの恩恵はまだ、我ら人間にあり――


 シャアアッ!

 花露の声は異様に響き、同時にどこへともなく威嚇の口を開けた白蛇の瞳が、炎のような光を帯びた。

 途端、

 ぎゃあぎゃあと、からすを筆頭とした鳥たちは、怒った声だけ浴びせて都の上空から引いていき、獣たちは門への体当たりをやめてじりじりと下がった。

 物見の下から、おおおおと感嘆の声が上がった。

「花露様ー!」

「花露様万歳ー!」

「巫女様!」

 その様子を耳に留めた花露は、一瞬照れを隠すかのような表情を見せたが、硬い表情を崩さずに白蛇に語りかけた。

「呑気なものでやんすなあ。いつミホウサマに恩恵を奪われるとも分からぬ状況であるというのに」

 白蛇は、ただ元のように、ぴたりと花露の首に巻き付いた。

 花露はそのまま都を一望しながら、黙って白蛇の頭をなでる。

 強風の中には、徐々に、酸っぱい臭いが混じり始めていた。

第二節 葛藤


 眩い光を放つ、一本の縦線があった。

 黄みがかった赤色の光は、太陽の色にも似ていた。

 光は、何かを語るように、波を伴って揺れた。

 すぐに、夢を見ているのだと気づいた。

 何度も見た夢だったから。


 ――目覚めよ――


 聞こえてきたのは、「声」ではない。だがいつも、不思議と分かる。


 ――〈龍風(るほう)〉を守護すべき、真の――


 真の……。

 その先を聞き取る前に、光の線は暗雲に隠れた。

 目の前は真っ黒な雲に覆われ、そしてひどい臭いが鼻孔を急襲した。

 違う、雲じゃない。

 すぐに思い直す。

 この臭いには、覚えがある。

 煙だ。

 生き物がナマのまま焼けこげていく、黒煙の臭い。


 ぎゃー


 雲の正体に気づいた途端、耳に入ってくるたくさんの悲鳴。

 はっきりとしてくる目の前の光景。

 高台の丘の上。

 見渡す都は、先ほどの煙が容赦なく覆っている。

 豆粒ほどに見える民たちが、走り逃げまどい、そして、矢を背に突き立てて、または一刀両断に頭と胴を分離されて、地面を血で染めていく。

 髪の毛とあごを掴まれて、ぐいと目線を固定された。

 その先に並ぶ、知った顔ぶれ。


 伊吹。

 いぶき。

 兄者。

 あにじゃ。


 最期に見合わせたその人たちの表情は、皆、悔しさに歪んでいた。幼い弟に至っては、訳も知らぬまま泣いている。

 後ろ手に縛られ、首を差し出す形で座らされている人々の傍らには、槍を手にした兵が並ぶ。

『よう見よ』

髪を掴んだ男の声が、耳元で囁いた。

 ぞっとするような感触が、心臓からのどへと駆け上がってきた。

 この時何かを、叫んだかもしれない。

 叫ぶこともできず、呆然としていたかもしれない。

 あまり、覚えてはいない。

『我の申し出を断ったくにの末路だ。のう、〝元〟王子?』

しかし男が耳元で言った言葉だけは、呪いのように染みついている。

『やれ』

 言葉を合図に、掲げられた槍が、親しい人々の背を突いた。

 この時も、悲鳴はあったのだろうか。

 それすら分からない。

 ただ、もうこの世で二度と会うこと叶わぬその人たちと、一秒でも長く一緒に居ようと、目を凝らしたのだけは覚えている。

 男の高笑いが響いたのも、不気味なほどに覚えている。


『悲しかろう。すぐにそなたも同じ所へ行くがよい』


 男の声が耳元から離れた。すらりと剣を抜いたのが、気配で分かった。

 けれど身動きなど取れない。

 取る気力すらない。


 父上、母上、弟、妹たち。

 すぐに、会えるだろうか。

 このまま目覚めなければ――。


 儚く願う。

 いっそこのまま目覚めないで欲しい。

 だが、それもまた叶わぬ願い。


 ここで必ず、声が割って入るのだ。

 『我が大王(おおきみ)、お待ちを』

戦場に似つかわしくない、冷静すぎる老婆の声。

『その子どもは殺めてはならぬでやんす』

『なぜか?』

男が機嫌を損ねた声を出す。

『後々、〈仙〉は危機を迎えるでやんす。彼を今殺めては、〝危機〟は〝絶望〟に成り代わりまする』


――何を言っているんだ?


『殺すときではないと申すか?花露』


――なぜだ。いっそ殺せ。


『難しいことではござりませんでやんしょ?奴隷としてお使いになっては?』


――やめろ、殺せ――。


 言いようのない恐怖が、身体を駆けめぐる。


 死より不確定な未来が、突きつけられる。


 怖い。



 ******



 「――っはあっ!」

伊吹は大きく息を吸って目を覚ますと、間もなく、顔を覗き込む人物に気づいた。

「息を吹き返したな」

ハナの蒼い瞳が、ホッとしたように揺れた。

 その優しく気高い光を見た瞬間、伊吹は己でも不思議なほど、安心感を覚えた。

「――伊吹?」

 ハナの戸惑う声が耳を打ったが、無視して強く抱き寄せた。そうせずにいられなかった。

 もうあの日に自分はいないと、確かな証拠が欲しかった。

「おい、……」

ハナはひととおり動揺した後、身体の力を抜いた。

「――実行しようと、したんだな」

頭から血を流して一人倒れていた彼の状況で、ハナは察していた。

「……。夢を、見ていた」

ようやく、伊吹が答えた。

掠れた声に、ハナがびくりと身じろぎすると、伊吹の腕は、彼女をなすがままに解放した。

 その場に座り直し、ハナを改めて見てから、伊吹は微笑んだ。

「助けられたな」

ハナは、不意打ちに頬を染めて、ごまかすように立ち上がった。

「っ、こんな浅い水たまりで溺れるやつがあるか!」

すると伊吹は始めて自分の状況を知った様子で、水たまりを見下ろして、それからふっと息を吐いた。

「――ところで、ハナ」

 すたすたと〈ルホウの寝床〉側へ通路を移動していった伊吹が、前方から声をかけた。

「この〈シンヒ〉は……一体どうなってる?」

 二人がいる空間には一匹も〈震皮(しんひ)〉が入り込んでいなかったが、その入り口と出口は、例外なく、がっちりとしたシンヒ網で塞がれていた。



 ******



 どさどさどさ、と、空洞西側――門から向かって右側――で、シンヒの最後のひと吐きがあった。

 先ほど、ハナが出てきたのと同じ穴だ。

 ボトッと一角蛇にまみれて一緒に落ちてきたのは、マキだった。

 地面に山となっているシンヒたちのクッションに、彼女の体が力無く落ちてくる。

シンヒたちはぶしゅっ、と潰れたような悲鳴をあげたあと、彼女の腕に、首に、足に、絡みついて、その体を覆っていった。

 シュルシュルとひときわ大きなシンヒたちの舌の音が、そこから発せられた。

 目を開けておくのも困難な暴風の中、その光景にまず気づいたのは、バロゼッタ兵だった。

「なんだ、あれ……」

彼らは今、風の吹き出し口の中に見つけた、わずかばかりの窪みに降りて、シンヒの毒から避難していた。

窪みがあるのは穴の東側の壁。ちょうど向かい合う形になる。それでもここからでは、はっきりその様子が見えるわけではない。

 だが、

「マキだ……!」

コールは自分でも不思議な程の確信とともに、穴をよじ登った。

「コール!」

バロゼッタ兵が、慌ててコールの足を掴む。

「上に出たら毒が!」

「だけど」

穴のへりに両手と片膝をついた状態で、もう片方の足を掴まれたままのコールは、汗をにじませた顔をバロゼッタ兵に向ける。

「だけど行かないと」

「ラビットソン教授がいなくなった今、ここを出るために貴様は必要だ。コール助手」

割って淡々と口を挟んだのは、アメリア大佐だ。

その目線は、落ちてきたモノの正体を見極めようとするかのごとく、西縁に向けられていた。彼女の目線からは、シンヒの小山のてっぺんがかろうじて見えるだけだ。

 故に、コールが窪みの中で見たのは、ただシンヒの塊が何かとともに降ってきたその一瞬だけだった。地面に落ちたあとは、小山の頂上すら、かれの背丈では見えてはいなかったのだ。

 なぜ直感したのかは分からない。

 ただ、助けなきゃと思った。

 しかし、アメリアの言葉に、コールはためらった。

 ――ラビットソン教授ほどではないにしろ、俺にも民俗学と考古学の知識がある。

 大佐はそれを言っているんだ。脱出に、その知識が少なからず必要なはずだと。

 俺はバロゼッタ海軍に同行する一員として、

今最も危険を冒すべきではない人間なんだ……。――

 しかしその時、首だけ振り返っているその視界に、例のシンヒの小山が目に入った。

 確かに小柄な人間らしきモノが、その中に埋もれているのが分かった。

 ラビットソン教授が呑まれていった時と、全く同じだったから。

 少し緩みかけた腕に、彼は力を入れ直した。

「大佐」

コールはぐっと唇を噛んで、覚悟とともに声をかけた。

「必ず戻ります」

「あっ!」

彼は蹴ったくるようにしてバロゼッタ兵の手を振りほどくと、完全に体を引き上げて穴の上に消えた。

その時コールの脳裏に浮かんでいたのは、マキに言われた言葉だ。


『中途半端に味方のような振りをするな』


 ――偽善者なんかになりたくない。

でも、このままじっとしていたら、きっと俺は、事実そうなってしまう。

 マキ。君を助けたいと思った想いは……

 出会った時に伝えた想いは、

 偽善なんかじゃない。

 どうかそう、思わせて――


 その強い思いが、彼を突き動かしたのだ。


「追いますか?」

バロゼッタ兵が自身も上るべきかと迷って、大佐に指示を仰ぐと、大佐の反応は

「放っておけ」

それだけだった。

 一秒後、コールが反時計回りに、縁ぞいを走って小山の方へと向かうのが目視できた。

 足下の〈シンヒ〉を蹴散らしながら、うごめく小山へ駆け寄ったコールは、もう躊躇などしなかった。

 〈シンヒ〉の小山に手を突っ込んで、肘まで埋もれながら、かき分ける。

 かきわけられた〈シンヒ〉たちは、すぐにコールの腕にからみついてきた。

 酸性の悪臭にも耐えながら、コールはひたすら〈シンヒ〉たちの中に手を突っ込んだ。

 自分に絡みついてくる〈シンヒ〉たちにまで、構っている余裕はなかった。


 自分の臆病さのツケが、今ここに回ってきたのだろう。

 そんな気がした。


 と、冷たい生き物たちの中に、突然柔らかく温かい感触を見つけ、コールはハッとしてそれを掴んだ。

 すると、手首を握り返す感触がある。

「マキ!」

コールは叫んで、一気にそこを掘り下げる。

白い蛇たちの中に、細く締まった腕が姿を現し、その向こうには、もうろうとした様子でうっすらと目を開けるマキの蒼い瞳が。

 コールは前のめりになって上半身をぐっとシンヒの中に落とし込むと、

 マキを抱きかかえるようにして、その中から救い上げたのだった。



 ******



 閉じこめられている状況を確認すると、伊吹は銅剣を取るために、一度ハナの側へと戻ってきた。

「これで破ろう」

水たまりの中に浸かっていた銅剣を持ち上げる。

「待って。髪がほどけてる」

ハナが言うと、素直に伊吹はその手に託した。

ハナは、残った片方の結び紐を解き、彼の長い黒髪をひとつに束ねてやる。

 束ねる途中、指先が首先に当たるたび、自分の鼓動に意識が向く。

 ハナは何とか平静を装って、束ね終わると、ポンと肩を叩いて合図した。

「これでよし」

「助かる」

立ち上がった伊吹の精悍な表情に、またどきりとしてしまう。

 しかしその気持ちに構っている間もなくなったのは、彼がまた、いつか見た黒い殺気を体にまとったからだ。

 進行方向は、脱出する方向ではなく、明らかに奥へ。

「待って、伊吹!何をするつもり?!」

ハナは慌ててその腕にすがりつくが、

「――」

伊吹は凍てつくような視線を、前方から外さなかった。

 その目は、奥にいる憎き大王(おおきみ)、火穂伎命(ほほぎのみこと)の姿だけを追っている。


 ……まだ、この人は闇から解放されていない。


ハナはその事実に落胆を感じながらも、無駄だと分かってて、彼の腕を引く。

「復讐心で殺したって、あんたは何も救われたりしない!やめろ、伊吹!思いとどまれ」

 シンヒ網の前に辿り着いた時、ようやく伊吹がこちらに目を向けた、そう思った瞬間。

 ぐいとあごを上に向けられた。

「何故そうまでして止めようとする?」

彼の冷たい吐息が、鼻のてっぺんにかかる。

「そなたに私を止める義理などなかろう」

殺気を体にまとわりつかせた伊吹の声も、目の光も、それだけでハナを硬直させる。

 至近距離でぶつけられる静かな殺気は、痺れが走りそうな程に、怖かった。

 もうすぐ唇が触れそうな位置で、彼は続ける。

「これ以上邪魔をするなら、そなたも今ここで斬り捨てる。あの〈仙〉兵たちと同じように」


 あの仙兵たちと――。

 伊吹を初めて見たのは、伊吹が同胞であるはずの者たちを躊躇なく殺めたところだった――。


 心臓を握られて目の前で潰されているかのような感覚に陥る。

 だが、戦士ハナは、恐怖と対面した時こそ、それを打ち破る術を知っている。

「やれるものなら、やってみたらいいわ」

キッと反抗的な目を向けると、伊吹は予想外だった様子で動きを止めた。

「私があんたを止める理由が知りたい?」

覚悟を決め、ハナは勢いのままに、彼の唇を引き寄せた。

「――?!」

伊吹が目を見開く。

ハナは唇を離すと、まっすぐその目を見上げて告げた。

「惚れたからよ」

「ばかな」

――ばかな?

「……気づいてなかったの?」

「いや、さあ。どうだろうな?」


どうだろうなって。


伊吹は険しい顔を崩さずに言った。

ハナはうつむいた拍子に、彼の銅剣の変化に目を奪われた。

「光って……る」

ここに太陽や炎はない。

〈シンヒ〉の毒で弱まってはいるものの、淡い光を放つ発光バクテリアだけが、唯一の光源だ。

反射するとは考えにくい。

なのに、伊吹の銅剣は太陽の光を映したかのように、眩い光を放っている。

伊吹は、目を剥きながら、銅剣を垂直にかざす。

そうして、腕を伸ばし、いろんな角度から銅剣を眺めたあと、その刃を自分側に向けた状態で、はたと動きを止めた。

「夢で見ていた光だ……」

あの縦一本線のくらくらするような光線が、今目の前にある。

「……これは、夢か?」

独り言だったが、惚けた様子のハナが答える。

「夢じゃないよ」

伊吹はその剣を、シンヒ網の方へとかざした。

 振るうまでもなかった。

 鍾乳石と化していたはずの〈シンヒ〉たちは、途端に元の鱗と黄色い珠のような眼光を取り戻し、彼のためにするすると道を空けたのだ。

「〈シンヒ〉たちが……あなたを認めた?」

自分の目が信じられない様子で、ハナは言う。

「……ハナ。教えてくれ。私は、〝真の〟――、何なんだ?」

「真の……?」

「ずっと見ている夢がある。でもいつも、その先が聞き取れない。幼い頃の記憶が、邪魔をするように割って入るのだ」

伊吹は、銅剣から目を離せぬまま、ぽつりと語った。

ハナはそれを聞いて、確信とともに納得した。

「〝真の王〟――。伊吹、あんた、選ばれた御子(みこ)だったんだね。この銅剣が、何よりの証」

その言葉に、伊吹は頭を振った。

「それはない!この銅剣は、そもそも古戦場にて拾ったものだ。真の王だというなら、その者はすでに討ち死にしている」

「どこでどう拾ったかなんて、関係ない。〈ミホウサマ〉がそう、導いたの。あんたの元に、この銅剣が収まるように」

「……適当なことを。だがちょうどいい」

伊吹は、そう言い捨てると、きびすを返して奥へと歩き出した。

 剣の光を畏怖するように、地面を埋め尽くす蛇たちが頭を垂れて道を空けていく。

 その中を堂々と、伊吹は闊歩する。

 龍の門へ向かって。

 銅剣の光は、黒く変わった。

 黒い光、そんなものがこの世にあるのか。不思議な光だった。

 銅剣から差す光のカーテンは、確かに黒い。だというのに、その黒さが闇を照らす。

 光に当たった〈シンヒ〉の色は、その瞬間だけ、黒色に染められて見える。

 ハナは慌てて後を追った。

「真の王ならばなおさらだ!伊吹、そんなことを、してはいけない!己の憎しみに負ける者を、〈ミホウサマ〉は真の王とは認めない!あの王には、〈ミホウサマ〉の下でしかるべき裁きを受けさせねばならない!……この騒ぎを止める手段も、無くなるぞ!」

「知ったことか」

ハナの訴える声も、一蹴されて終わる。伊吹は黒く輝く剣を、門にかざした。

 元々出入り口があった場所で、〈シンヒ〉たちが黒く染まり、するすると道を空ける。

 シンヒたちの瞳が、伊吹を品定めするかのように縛り付ける。


 あの眼光だ――。


 伊吹は、門を通り抜けようとした瞬間、手足が麻痺したかのような感覚に陥った。

 しかし、胸にふたたび燃えたぎった怒りが、銅剣のひと振るいを許した。

 縛りがふっと解け、そして、何事もなかったように歩き出す。

 門はハナまで通すと、背後でしゅるしゅると閉まった。

 蛇の巣窟と化した〈ルホウの寝床〉を見渡し、伊吹はその唇を、薄く開いた。

「見つけた」

 邪気――としか形容できないものが、彼の内から溢れ出てくる。

 ハナは、気づけば、彼に近づくことすらできなくなっていた。


 何故か。


 彼を止めようと近づいても、彼のまとった邪気の煙のようなものが、途端に息苦しさを与えるからだ。それは、息も止まりそうなほどに。

 伊吹を目にした〈シンヒ〉たちが、毒の噴霧をつぎつぎと止めていく。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の姿がどこにもなかった。

伊吹の行く先にあるものといえば、〈審判のはじき〉――異民族が「制御板」と勘違いしていた装置だけだが、それも、今は〈シンヒ〉の壁が覆って、小部屋のようになっている。


 まさか……あの中にいるというの?


ハナは勘づいて、思わず足を止めた。

これ以上〈審判のはじき〉へ今近づくことに、言い知れぬ恐怖を感じたからだ。

 伊吹がその前で立ち止まり、そして今度は、〈シンヒ〉たちが避けるのを待ったりはしなかった。

「はっ」

短い気合いとともに、彼は一息に斜めに銅剣を走らせた。


 ぶしゅうっ


〈シンヒ〉たちの悲鳴が、聞こえた気がした。

 何匹かが灰になりながら、他は絡み合っていた胴を一気にほどきながら、ばらばらと足下に落ちていく。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)は、伊吹が向かってくる様子が見えていたらしく、制御板を背に、こちらを見ていた。

「…………。」

 丸腰の大王(おおきみ)に向かって、黙って銅剣を振りかざした伊吹を前に、火穂伎命(ほほぎのみこと)はにやりと笑った。

「遅かったのではないか、伊吹」

その言葉に、伊吹はぴたりと動きを止める。火穂伎命(ほほぎのみこと)は、続けた。

「〈シンヒ〉は我がここに近寄ることを許したぞ。我は認められたのだ」

「最期の言葉はそれだけか」

返事を待たず、伊吹は剣を振り下ろした。

「伊吹――っ!」

ハナのどうしようもない叫びが、背後から襲う。



 ******



 マキをおぶったコールが、あと四分の一周で安全地帯である窪みに辿り着く、という位置まで来た時、門が開き、異様な空気をまとった伊吹が現れたのを目にした。

 まだ全身の痺れが治らないマキが、それに気づいたかどうかは分からない。

 ただ、コールの肩で、彼女がぽそりぽそりと、もうろうとしたような声を出し始めたのは、同じ時だった。

「私たちは……助からない。もう、〈ミホウサマ〉は私たちを、見放す……」

コールは、伊吹の姿に足を止めていたが、マキの悲観的な言葉で、自分を奮い立たせた。

「大丈夫だよ。何か手はある。どうにかして、あの装置を調べるから。ファンは全て壊れてしまったけれど、」

少し苦しげに、コールは息をついた。途端、シンヒの酸がのどの奥に張り付いて、少しむせる。

それから、一歩一歩、吹き出す風に煽られそうになりながら、彼はまた、歩を進める。

「きっと、止める方法があるはずなんだ。マキ、諦めちゃだめだ。俺の推測だけど、〈シンヒ〉は己の出す毒霧の中でしか生きられない。風向きが毒の道を通るようになって、〈シンヒ〉の毒があふれ出したから、こんな風に彼らは自由になったんだと思う。

だから、風の通り道を元に戻すことができれば――俺らが、操ることができれば……」

「そんなこと、口にしてはいけない!」

マキの怯えた声が、コールの耳を打つ。

「えっ?」

じろりと周囲の〈シンヒ〉の目が、こちらを向いた。じりじりと、足下に迫ってくる。

「早く、撤回しろ、コール!何故私たちの言葉がここでは通じるのか、分からないのか?」

マキの焦燥した声。コールは戸惑うばかりで、口から言葉が出て行かない。

「私たちは見張られているんだ!〈シンヒ〉たちに!〈シンヒ〉は、〈ルホウの寝床〉を我がものにしようとする者を、決して許さない!」

「なんだって――」

〈シンヒ〉の一匹が、崖に追い詰めた彼へと、シャッと飛びかかる。

「うわ!」

よろけるが、何とか踏みとどまったコールは、

「撤回しろ!」

心臓の辺りに痛みが走るのを感じながら、マキの言葉にとっさに従った。

「撤回する!俺たちはここを脅(おびや)かす気はない!」

〈シンヒ〉たちがするすると嘘のように元の位置まで引き下がっていく。

コールの胸に噛みついたシンヒは、吹き出す新鮮な風に当たったせいで、灰となって飛ばされていった。

 マキは声を出すのも無理していたのだろう、疲れたように肩に頭を預ける。


 そうか、だから教授は――。


 マキの鼓動を背中に感じながら、コールは唇を噛んだ。


 『世界の気候を操れるんです』


 言ってはいけない一言を言ったから、襲われたのか……。


 下まぶたが濡れたように感じたのが、気のせいだったのか、込み上げる感情によるものだったのか、判断するほどの余裕はなかった。

 心臓付近に走る噛み傷の痛みで、彼もまた、穴に落ちないよう前に進むのが、精一杯だったのだ。 

第三節 覚醒


「〈シンヒ〉たちは我がここに近寄ることを許したぞ。我は認められたのだ」

「最期の言葉はそれだけか」

返事を待たず、伊吹は剣を振り下ろした。

 銅剣が、その刃を、火穂伎命(ほほぎのみこと)の首筋へと斜めに影を引く。

 黒色の閃光が走り、

 そして、

 伊吹の足下に、ボトトトッと落ちてきたのは、灰と化した一角蛇。

「……?!」

彼の刃は確かに火穂伎命(ほほぎのみこと)の首筋を捉えたはずだった。

 だが、血が滴り落ちることはなく、ましてやその首が落ちることもなかった。

「クク……」

含み笑いを聞き留めて、伊吹は眉根を寄せる。

火穂伎命(ほほぎのみこと)の口元が、意味ありげにつり上がっていた。

「――てやっ!」

伊吹は、続けざまの第二刀を繰り出した。

今度は刃を返して、脇腹から肩への振り上げ。

 そしてようやく、その瞬間をしかと目撃する。

 足下に絨毯を作っていた〈シンヒ〉らが、まさに刃から守る防壁がごとく、一瞬のうちに伊吹と火穂伎命(ほほぎのみこと)の間に仕切りを造り上げたのだ。

 またしても伊吹の刃は、〈シンヒ〉を切り裂くに留まり、憎き男へ届くことはなかった。


「どういう……こと……?どうして、〈シンヒ〉が……」

その様子を遠くから見守るしかなかったハナが、自分の目を疑った様子で声を漏らす。

 ――〈シンヒ〉は、〈ミホウサマ〉は、……あの男を認めたというの?


「ふはははははは」

火穂伎命(ほほぎのみこと)のこらえきれぬ笑い声が響き、面食らっていた伊吹もすぐに緊張を取り戻す。

 カチャリと剣を構え直す音が小さく響く中、

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の笑い声は、みるみるうちに上へと昇っていった。

「見るがいい下賤(げせん)なる者どもよ!」

「これぞ我が、真の王である証!我こそが神に認められし唯一の王、ミホウサマの御子(みこ)也(なり)ィ!」

〈ルホウの寝床〉内に留まっている〈シンヒ〉が、火穂伎命(ほほぎのみこと)の体に巻き付き、一体と化していく。火穂伎命(ほほぎのみこと)の体はまといつく〈シンヒ〉の衣によって巨大に膨れあがっていき、その本体は宙高く担ぎ上げられた。端では体が収まりきらず、滑るようにその巨体は広い所へと移動する。

そう、ちょうどハナの目の前に。

 伊吹がすぐさま、ハナの前へと躍り出て剣を構えた。

 例えるならばタコのような動きで、何かが徐々に象られていった。

「服従するがいい、愚かな者よ。我が絶対的な力の前に」

火穂伎命(ほほぎのみこと)の勝ち誇った声が響いたのは、地面を埋め尽くしていた〈シンヒ〉が全て吸収され、はっきりとひとつの形が完成した時だった。

 姿を現したのは、八つ頭に八つ尾をもつ白蛇。

 八つの頭が、伊吹とハナに威嚇の鎌首をもたげ、シャアアアッと今にも丸飲みにしそうに口を大きく開ける。

火穂伎命(ほほぎのみこと)はその上半身だけを蛇の背から突き出した姿で、下から見れば蛇にまたがっているだけのようにも見えた。

しかし実際は、彼の腹から下は完全にシンヒ衣の中に埋め込まれている。その様子は、たくさんの生き物の集合体ではもはやない。

動きといい、安定感のある形といい、――そこにいるのは、一頭の怪物だ。

 表面の〈シンヒ〉は常に動きを止めず、流れるように絡み合っていた。

とっくに毒は出していないというのに、灰にならないのは、この中の毒の濃度が安定した為だろう。

 ハナは腰を抜かしたままただ呆然とし、伊吹は、剣が頼りと言わんばかりに、その柄を握り直す。

「醜さが増したぞ、火穂伎命(ほほぎのみこと)」

挑戦的に言い放つと、激昂(げっこう)した火穂伎命(ほほぎのみこと)の獣のような吠え声が轟いた。

「神の牙でそなたの腸(はらわた)引きずり出してくれるわ!」

八頭の頭が、火穂伎命(ほほぎのみこと)の声に呼応するかのごとく、一斉にその牙を剥いた。



 ******



 コールは、一瞬、ほんの一瞬だけ、胸に走る痛みのせいで、意識を失った。

 ぐにゃりと足下が歪んだかのような感触がして、


 あ、落ちる。


 そう思った。

 しかしその刹那、彼の左腕が力強く握られた。

 体は穴へと大胆に傾いた状態で、止まった。

 すぐに視界に色を取り戻したコールは、ハッとその人物を見遣る。

 アメリア大佐だった。

迎えに来てくれたのだろうか。

縁に残ったコールの左足の近くに立って、二人分の体重を片手一本で留めている。彼女は、コールを見て、ふっと息を吐いた。コールはホッと安堵した。

「たい……」

さ、と声を上げようとしたとき、コールの体は再び大きく傾いた。

 悲鳴などあげる間もなく、ひやっとした気色の悪さが足裏から頭のてっぺんへと駆け抜ける。大佐の手は、掴んでいたコールの二の腕辺りからズズッと一気に滑り落ちていき、そして、

 ぱし。

 手首で握り直され、彼の体はさらに大きく傾いて止まった。

 地面に片方だけ残されたコールの左足と、手首を握るアメリアの手が、絶妙なバランスを保って二人分の体重を支えている。

 背中のマキが滑り落ちていかないか心配だったが、マキはもうろうとしつつもしっかりとその両腕をコールの首元に巻き付けていた。

 コールは一度こそ混乱しかけたが、アメリア大佐の表情を見れば、すぐに理解した。

 ――今のは、わざとだ。

 アメリアの口は真一文字に結ばれ、瞳には鋭さを宿して、こちらをじっと見下ろしていた。

 コールは、自分の顔が青ざめていくのをまざまざと感じ取った。下から吹き付ける〈ルホウ〉が、底の見えない深淵をよりいっそう、体中に実感させていく。


 あの手が、放された瞬間、落ちる。


 置かれた状況が、文章として頭の中で流れると、途端に恐怖が体中を駆けめぐった。

全身に鳥肌が立ちそうになるけれど、それに気を取られた瞬間、足を滑らせてしまいそうだ。

 ――落とされる、の、か……?俺は……。

 冷や汗のようなものが、額を滑るのを感じた。

「小娘、起きているのだろう」

アメリアがふいに言葉を掛けた。

全ての音をさらって行く暴風音の中、彼女の声は自然と叫ぶ形になる。

 マキは答えず、頭を上げる気配も見せなかったが、アメリアは構わず呼びかけた。

「今からする質問に正直に答えろ!でなければこの手を放す!」

「…………。」

「貴様のせいでこれまで死ぬぞ。これは貴様を助けに行ったがため私に盾つき、そしてこのような状況に陥ったのだ。いいのか?」

その言葉で、マキがようやく、ぴくりと頭を動かした。

「……訊きたいのは脱出法、だろう?」

「マキ……。」

マキがはっきりと言葉を発したことにコールが驚くのと、アメリアがフンと鼻を鳴らすのは同時だった。

「ついでに、あの化け物の弱点も教えてくれるとありがたいがな」

ありがたいも何も、命を握っている状況で言うそれは命令だ。

マキは怪訝そうな色を瞳に浮かべながら、初めてゆっくりと頭を上げ、そしてアレを、視界に捉えた。

 八頭八尾の白蛇。

「何だ……あれは……〈シンヒ〉なのか……。――っ、ハナ姉!」

もともと視力の優れている彼女の目が、すぐさま姉を認識した。

「教えろ、小娘」

アメリアの冷徹にも聞こえる声色が、マキに自失する暇すら与えない。

「マキ……」

苦しげなコールの声が、このままの状態で長くは持たないということを、マキに実感させる。だがマキは、少し悩むような色を浮かべながら、歯切れ悪く答えを口にした。

「今、ここから生きて出る方法は、……ない。」

ギリッ、とコールの手首が音を立てた。コールの顔が歪む。

「それで?」

アメリアはしかし、引っ張り上げる様子を見せずに先を促した。

「いいからまずは、私たちを引き上げろ!」

マキの焦燥した声が弾ける。

「答えをもらったら引き上げてやるさ。続けろ」

アメリアのよどみない返事に、マキは唇を噛んだ。

が、コールの腕が震えだしたのを感じ取ると、諦めたように急いて従う。

「あの〈シンヒ〉の群れの暴走を止めねば、外へは出られない。何とか外へ出られたとしても、そこで力尽きるだろう!つまり、風の――」

「……っく!」

コールの、息混じりの短い悲鳴で、マキの言葉は遮られた。

ズリッ、と、彼の左足が崖縁で滑る。

 ヒュッと一瞬、心臓が上下に激しくずれたかのような錯覚が二人を襲い、

 ぐい。

 ――間一髪。アメリアの手が強く二人を引き寄せた。

 ドッと前のめりになりながら勢いよく地面に戻ったコールを、アメリアは闘牛士のように華麗に身を翻して避け、彼はそのまま地面に四つん這いに倒れ込んだ。

マキはコールの横に倒れ込む。

 はあ、と地面の安定感に息をついた二人に、アメリアが上から言った。

「つまり、風の通り道を元に戻さなければならない、ということか」

マキの答えの先を読んでいた。

マキは地面に手をついて起き上がりながら、険しい顔でうなずいた。

「その通りだ。だけど風を導くはずの風車が、全て壊れてしまっている。だから不可能だと言ったんだ。唯一可能性があるとするなら」

「あの化け物を倒す、か?」

アメリアは、マキの言わんとすることをどんどん先読みしていく。

マキは八頭八尾の白蛇へ目を向けながら話した。

「私が教わってきた伝えでは……、〈シンヒ〉は王と認めた者には従うと……。あれを見ればあんただって、信じる気にもなるだろう?」

アメリアをちらりと見上げると、アメリアはむっすりと口を結んで化け物を眺めていた。

 向こうでは、向かってきた八頭の頭を、伊吹がまずは跳び上がっての一刀でなぎ払ったところだった。

 黒い光がほとばしるのが見え、切られた先の〈シンヒ〉たちが地面に落ちて行く。

 しかし地面に落ちた〈シンヒ〉はすぐに胴体へと吸収され直し、頭の部分にはすぐに他の〈シンヒ〉たちによって新しい首が形成されていた。

 その黒い光によって、伊吹、そして蛇と一体化している火穂伎命(ほほぎのみこと)の存在を認識したマキは、驚きを隠せない様子で息を呑んだ。

「なぜ……」

呟くなり、跳ねるように立ち上がって走り出す。

「マキ!」

慌てたコールが後を追う。マキは、駆け寄っていきながら大声で呼びかけた。

「ハナ姉!どういうこと?!」

「え……マキ?!」

気づいたハナが目を丸くする。一瞬こちらに気を取られたその時、蛇頭のひとつがハナ姉に迫ったのを、伊吹の一刀が斬り捨てた。

「邪魔だ、下がっていろ」

伊吹の殺気に満ちたひと言が降りかかり、ハナは戸惑いながらも、地を這うようにできるだけ離れようとする。

 マキに追いついたコールが、後ろから抱きつくようにしてその足を止めさせるが、マキはそれに構わず、もう一度大声を上げて問うた。

「どうして?ハナ姉!」

ハナは、マキも自分と同じ疑問を抱いてるのだと思った。


〝どうして〈シンヒ〉が、火穂伎命(ほほぎのみこと)に従っているのか。〝


そして妹に応える。

「分からない、あたしにも……どうして〈シンヒ〉が――」

「その男は何者?!」

マキの覆い被さるような質問に、ハナの動きが止まる。

「えっ……?」

「何故その男が、〝審判〟を受けている?!」

 ハナは、口をつぐんで目を剥いた。

 妹の目には、この状況が違って映っていたのだ。


 ――〝審判〟を、受けている?〈シンヒ〉に……?


 ぎぎぎと首を動かして、白蛇と奮戦する伊吹の姿を改めて目視する。

「……そっか……。」

ぽつりとその口が声を漏らした。

 絶望的に色を失っていた瞳に、一縷(いちる)の輝きが宿る。

「そっか……。やっぱり彼は……。いえ、彼こそが――。」

 ぶしゅううっと音を立て、左側二頭を斬り捨てた伊吹は、気づかなかった。

「ハナ姉っ!」

突然耳に入ってきた少女の声で、彼は振り返った。

 ――地面に座り込んだまま、自分を見つめるハナの瞳と目が合った。

 同時に視界に捉えたのは、その背後から迫る、一番右端の蛇。

「!」

伊吹はすぐさま地面を蹴った。

 だが間に合わなかった。

「?!っきゃああああああ!」

ハナの悲鳴が、近づいた彼の鼻先を掠って上へと消えていった。

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