第五章 龍風(るほう)の寝床

第一節 想い


 花露(かろ)は、己の住居にこもっていた。

 一部屋のみで構成された壁(かべ)竪(たて)式住居には、今はむせかえるような薫香が立ちこめている。

 大王(おおきみ)の宮と同じく、中央に一段高い床が設けられ、そこに彼女はいた。

「ひと」

 ひとつ声を発し、目の前の長方形の低い台に、コトリと銅鏡を置く。

 台の上には、白蛇の胴体と首が、土器の皿の上に載せられている。

「ふた」

コトリ。二つ目の銅鏡が並ぶ。

「みぃ、よう」

三では何も置かれず、四で勾玉(まがたま)が置かれた。

「いい、むう、なな、……」

立て続けに勾玉が、白蛇に捧げるかのようにその周囲に並べられていく。

「や」

八つ目に置かれたのは、巻かれた反物(たんもの)だ。

白絹で織られたそれを、そっと台の端に添える。

「ここのたり、ふるべゆらゆらとふるべや」

後の二つも反物だった。薄く透き通る黄色の布、そして、最後に目の粗い麻布。

 数え終わると、花露はごく少ない呼吸で、神歌を唱う。

「おぎ奉るこの柏手(かしわで)に

 畏(かしこ)くも来たりましませ尊(たっと)き御(おん)方(かた)

 天(あめ)の原(はら)より今此(ここ)に

 光の桟橋降ろし給え

 御前(おまえ)様(さま)の白蛇を

 花露がお返し致しまする」

 ぱん。続けて打った柏手の音が、普通ならあり得ない破裂音を伴って、室内に響いた。

 瞬間、台の上に並べられた捧げ物に、虹色の光が差した。

 時刻はちょうど、夜が明けて、花露の住居にも朝の光が当たるころ。しかしこの室には、光の差し込むような窓はない。

 灯りといえば、小さく灯した皿の油の火のみ。

 本来なら、台の上に自然光が当たるはずがなかった。

 虹色の光は捧げ物にまとわりつき、それらを眩く照らし出すと、強すぎる白い光へと変化した。

 刹那、閃光の爆発が起きた。

 まるでその一瞬、土の壁はすりガラスにでも成り代わったかのようだった。

 光は花露の住居から溢れ出て、一秒にも満たない間に、都一帯を覆うほどに拡散したかと思えば、ぐんっ、と急速に収束して、消えた。

 あまりに早すぎて、花露以外の人間はその現象を気にも止めなかった。ほとんどの人は、一瞬朝日に目が眩んだだけだと思いこんだのだ。

 目を潰されぬよう顔を伏せていた花露が、ゆっくりと目を上げると、土器の上の白蛇の首と胴体が、綺麗につながっていた。

 花露は少しだけ目を見開いたが、それは蛇が息を吹き返したことに驚いたからではなかった。

 白蛇は土器の上にとぐろを巻いて、何事もなかったかのように、ちょろちょろと先の割れた舌を泳がせている。

 花露が白蛇にゆっくりと袖先を差し出すと、白蛇は探るように顔を近づけた後、主人と分かった様子でするすると花露の首元へ上った。

「わっちの役目は終わっておらぬと仰せられるか?我ら人間の道をまだ、閉ざさないでおいてくださるのでやんすな」

花露は誰にともなく呟いた。

 室内の光は嘘のように失われ、元の薄暗さを取り戻している。

 花露の首元で、安心したように白蛇は目を閉じて眠る。

「みいちゃん」

 花露はてらてらと光るその胴を指先でそっとなでた。少しだけ、彼女の表情が年相応の十歳そこらの色を帯びた。

 しかしその雰囲気もすぐに消え、花露は物思いにふけるように天井を仰いだ。

「剣は未だ、光を取り戻さぬでやんすなあ」

片手で首元の蛇をなでながら、彼女は声を漏らす。

「早う目覚めよ、龍の風を守るべき真の王。ミホウサマはまだ見捨ててはおられぬぞ。御前(おまえ)が間に合わねば、わっち共は他の生き物に、王権を渡すことになるのでやんすよ」

 花露は白蛇の生(せい)を確認するように目を落とし、そのうつろに見える金瞳に、一抹の不安の影を落とした。

「人間から知恵は奪われ、賢き次の生き物が、すべての恩恵を引き継ぐのでやんす。そうはなりとうなかろう、真の王」

 そうして、もどかしげに、ごく小さな声を出した。

「その曇った心を洗い流し、研ぎ澄ませるほどの器は、御前(おまえ)にはあるはずでござんしょうに……」



 ******



 ばさばさばさと、森の北側の方で、カラスたちがいっせいに空へ飛び立つのが見えると、ヒュウガは一度足を止めた。

「始まったか」

マキもそちらに目を向けたが、その時にはヒュウガは再び走り出していたため、慌てて追いつく。

地面に隠された扉。そこを開けると、地下へ向かう石造りの階段が下へと伸び、そしてやたら幅の広い石造りのトンネルへと辿り着いた。

 明かり取りの小さな窓が、地表と接する部分に等間隔に開けられていて、そこを通り抜けるのに火を灯す必要はなかった。

 時折そこから、ズボッと音を立ててネズミが降ってくる。

「すげえな……」

走りながら、強固な造りの長いトンネルに、ヒュウガが感嘆の声を漏らす。

マキは、ヒュウガを見遣って、すぐに前に目を戻しながら、

「そういえば犬の毛皮はどうした、ヒュウガ」

「狼だ!」

声を張り上げて訂正した後で、ヒュウガはケッと不機嫌そうに吐き捨てた。

「見りゃあわかんだろ。俺は戦いに背を向けてんだから」

 ポタ。ポタ。

 土に含まれる水分か、朝露の名残か。

 しずくが落ちて、水たまりに当たると音を立てる。

 少し静寂が流れ、ヒュウガが反応無しか、と思いかけた頃に。

「見直した。お前は戦っている」

険しい顔を崩さぬまま、マキがはっきりと言った。

 慰めかフォローかは知らないが、意外な言葉にヒュウガはマキの横に並び出て、まじまじとその横顔を見下ろした。

「……テメエも、五年待てばイイ女になりそうだな」

「取り消す。キモイ。近寄るな。」

「ああ?!何だよ、褒めてやったんだぞ」

本気で不満げな声を上げたヒュウガに、マキは哀れみを含むため息を漏らす。

「だからハナ姉に〝死んでも許嫁なんて解消してやる〟なんて言われんだよ間抜け」

「なっ……!人の傷口をえぐるなよ……それにこれから俺は、復縁の予定だ!」

意気込んで言ったヒュウガに、

「私は応援しないが、まあ頑張れ」

「なんだよそれ!がんとして敵かよ!」

しかしマキの口調からは、心なしか、今までのとげとげしさが消えていた。



 ******



 ボクッ、と鈍い音がして、ハナの生足を舐めるように見ていたバロゼッタ兵は、次の瞬間、気を失ってあっけなく、地面に突っ伏した。

「マキ!」

ハナの顔が輝いて、マキは両手で持った大きな石を投げ捨てると、ハナに駆け寄った。

「ハナ姉!平気?」

「うん、平気。それよりあいつら、中に入ってったよ。早く追わないと――」

「分かった。――っこの縄、固い」

「下がってろ」

ヒュウガが割り込み、槍の先をハナの手首を縛る縄に引っかけて、くいっと器用に捻る。すると嘘のように、はらりと縄は緩んで落ちた。

「ヒュウガがなんでここに?」

マキに訊いたハナの目が、不穏な光を帯びる。

「ハナ姉の追っかけで」

「オイ、待て!シャレにならねえよ!」

「なるほど。もういい、帰れヒュウガ。あんたに用はない」

ハナは敵を見る目つきでヒュウガを睨み、マキを胸の中に引き寄せる。

「あ、ハナ姉……、でも一応、コイツのおかげで助かったんだ」

さすがに少し罪悪感を感じたマキが、付け加えるが、ハナはその眼孔を緩めることはなかった。

「それだけは礼を言う。だがここからは関係ない。行こう、マキ」

「――そうもいかねえんだよ」

次の瞬間、ヒュウガの槍がひゅっ、と風を切った。

 刃先はハナとマキの間に割り込むも、二人は培われた反射神経で飛び退き、傷ひとつ負わない。

 しかしヒュウガは、それを計算済みだった。

 突き出しただけのはずの槍が、ゴトンと地面に落ち、マキとハナが一瞬そちらに気を取られた隙に、

「?!お前っ……」

「ハナ姉!」

 ハナとマキの叫び声が響く。

 ヒュウガはハナの背後に回り込み、右腕を後ろ側に捻って背中で固定させ、身動きを封じたのだ。

「俺と来い、ハナ。ジンオウと約束した。お前を〈仙〉の奴らから取り戻して、この戦を止めさせると」

 思いがけず真剣な声だった。

「…………。」

「ハナ姉……っ」

マキは迂闊に動けず、その場で成り行きを見守る。ひとつ救いなのは、ヒュウガがハナ姉を傷つけないと、分かっていることだ。

「無駄だ、ヒュウガ。あたしだけ取り戻したところで、戦は終わらないし、それどころか負ける。〈仙〉の大将は恐らく〈ルホウの寝床〉へ辿り着く。道しるべを持っているから」

「だからって、今から妹と二人で乗り込んでどうするつもりだよ」

ヒュウガの語気が荒くなる。

「戦闘慣れした異民族も一緒なんだろ?!それにお前をさらった男も……見てただろ?!アイツはヤバイ!」

「伊吹はもがいているだけだ。暗闇の中で、ずっとずっと長い間。今ならまだ、あの人も救える」

「……何、言ってんだ?ハナ……」

思わずヒュウガの手が緩みそうになり、その隙を逃すまいと、ハナの意識が背後に向く。

 が、それに気づいたヒュウガがすぐに、力を入れ直し、ぐいと上方に引いた。

「――っ」

ハナは不自然な体勢でつま先立ちになりながら、顔を歪めた。

「肩入れする気なら尚更だ。手の関節くらい外してでも、連れて帰る」

ヒュウガのひやりとした声が囁くと、次の瞬間、

「いい加減にしろ!」

ハナの怒鳴り声が、うわん、と岩壁の内側を震わせた。

 彼女の剣幕に、ヒュウガが面食らう。

 ハナはぐるりと体を捻って彼から離れようとしたが、すんでの所でヒュウガが手首を掴み直した。二人は向かい合って、行こうとするハナをヒュウガが引き留めたような形になった。

「……ハナ」

「手を放せ、ヒュウガ!早くしないと手遅れになる!〈ルホウの寝床〉が侵されては全てが終わりだと、分からないのか!」

ハナの怒りと焦りに満ちた声。

 ヒュウガはその瞳に、戸惑いを浮かべた。

「俺はただ、お前を守ろうと」

「だとしたら、やり方を激しく間違っている。許嫁と決まったあの時からずっと」

ぺいっとハナが手を振りほどき、今度は、ヒュウガも言葉を失った様子で、そのままに任せた。

 ハナが続けた。

「あんたはいつも、自分のことばっかりだ。それで〈風尾族〉が救えるか?ヒュウガ。状況をよく見ろ。あんたは元許嫁であって、今は許嫁でも何でもない。それと同じだ。状況は変わったんだ。

 あたしは戦を止める鍵ではなくなったんだよ」

「だ、だけどよ、ハナ!お前に死なれたくない!」

「だったら走れ!」

「?!」

「今すぐ〈風の戦士〉たちを解放し、この場所を伝えろ!それが今、お前だけにしかできないことだ!」

「…………。」

ヒュウガは目を見開いて固まっていたが、

 やがて、諦めたようにため息をついた。

 槍を拾って、二人に背を向ける。

「――ハナ、お前、惚れているのか」

「は?」

「伊吹とかいう男に」

ヒュウガが、抑揚のない声で尋ねる。ハナは質問自体に動揺する。

「今そんなこと、関係ない」

「答えてくれ!」

ハナの言葉を遮るように、ヒュウガの背中が震える。

 ハナは少し黙って、

「分からない」

小さな声で答えた。

「でも、惹かれてる。たぶん」

「……そうか。分かった」

「ヒュウガ……」

ヒュウガはバッと振り返ると、いつものように自信家な笑みを浮かべた。

「戦士たちは任せとけ!〈寝床〉は、テメエら巫女がしっかり踏ん張れよ!」

 そうして返事も聞かず、彼は地下道へと続くゆるいスロープの洞窟へ、風のように消えていった。

 ハナはヒュウガが行ってしまった方を、少し複雑そうに見つめていたが、

 心配げに覗き込むマキと目が合うと、表情を引き締めた。

「あたしらも、戦うよ」

 マキはその一言で、一気に覚悟と集中力を取り戻したような顔になった。

 うなずいて、二人は龍の門を駆け足でくぐる。

「――ハナ姉。私にも助けたい人がいる」

不意に、呟くように告白したマキを、ハナは少し驚いて見つめた後、表情を和らげた。

「そっか」

そして、前を向く。

「先回りするために、毒の道を選ぶよ。息は、平気?」

ハナの重い質問に、マキは予想済みのようにうなずいた。

「行くしかない」

第二節 龍風(るほう)を守る聖獣


 龍風(るほう)探知計と言えば何だかものすごい機械のような響きだが、実のところ、即席で作られたそれは、ごく単純な造りをしていた。

 ドーム状の鳥かごを利用して作られた探知計の中には、まず底に土が敷かれ、中央には小型の風見鶏が設置されている。

 ちょうど鳥かごを二分する高さの所に、金網がぴったりとはめ込まれ、三カ所に突き立つ小枝が、土と金網を繋ぐ。

 その小枝を、キノコアリたちがしきりに行き来し、真っ黒に塗りつぶしている。

 キノコアリは金網の上に辿り着くと、光る微生物を目印に、月光キノコを探し求める。

 しかし彼らはキノコを調達することなく、足や触覚に微生物を付着させては、下の土の中にこさえた巣の中に戻っていく。

 それもそのはず。

金網の上には確かに、月光キノコの傘がびっしりと並んでいたが、その上には薄く脱脂綿が貼られていたのだ。

 金網の下にぶら下がるキノコの足にも、濡らした脱脂綿が、靴下のようにひとつひとつ巻きつけられて、枯れない対策もばっちりだった。

 つまり、キノコアリはひたすら、キノコの傘の上の脱脂綿に付着した、発光バクテリアの掃除をさせられているというわけだ。

 キノコアリたちが延々掃除を続けてくれるおかげで、月光キノコに吸い寄せられた発光バクテリアは、すぐに運ばれて消えていく。月光キノコに光が強く宿れば宿るほど、発光バクテリアの密度が濃い方へと、歩を進めていることになるのだ。

 風見鶏が風の吹く方向を大まかに示し、月光キノコの光具合で道を選別する。

そういう仕組みだ。

 一行は、龍風(るほう)探知計を掲げたラビットソン教授を先頭に、火穂伎命(ほほぎのみこと)、伊吹と続き、様子を見守るように、あとからアメリアがついてきていた。

 コールはさらにその後ろに付き従い、最後尾を残り一名のバロゼッタ兵が守る。

 闇の中、じっとりと濡れた風の吹く洞窟は、時折オオオオウと龍が唸るかのような風鳴りを起こした。

 目をぎらつかせていた火穂伎命(ほほぎのみこと)すらも、この異様な空気には、やはり緊張の色を浮かべている。

「さ、さて、どちらか……。」

 何度目かの呟きが、前方のラビットソン教授の口から漏れ出た。

 その広い空間には、縦横に穴が空いていた。

 しかし風見鶏の方向から、風は進行方向右端側のどれかだと知れる。

 二つほどに絞り、ラビットソン教授は探知計を掲げた。

 まず右側のひとつへ。

 キノコは薄い余韻の光を残すだけ。

 隣り合った左側のひとつ。

 ぽうっ……!

 とても外で見た光とは比べものにならないほど、脱脂綿の表面が緑色に染まった。

「こちらです」

 ラビットソン教授が進み、皆が続く。

 コールはふと不思議に思った。

 風は全ての穴から少しずつは吹き出しているはずなのに、なぜ、間違った道ではまったく月光キノコの反応が見られないのか?

 そして、通り過ぎようとする右側の穴にランプの灯りを差し込ませたとき、

「!」

 コールはぎょっとした。

 灯りに照らされた道の奥には、びっしりと白蛇のような生き物が、待ちかまえるかのようにうごめいていたのだ。


 シャアアッ!


 コールと目があった瞬間、鎌首をもたげた白蛇のような生き物は、黄色い眼光に尾を引きながら、コールの手首目がけて飛んできた。

「、危ない!」

 バロゼッタ兵がすんでの所で、コールの襟首を引き寄せる。

「うわあっ!」

 コールは尻餅をつき、

 白い影が、彼の頭を掠めながら、ぼろぼろとした灰に変わって消えた。

「?……消えた」

 呆然と宙を見つめる。

「こ、コールくん、大丈夫、ですか?」

 コールの叫び声で足を止めた教授が、駆け寄ってくる。

 コールがはい、とうなずき、教授、と蛇のぎっしり詰まった洞窟の中を示した。

「角のある白蛇とは……始めて見ました」

教授は興味深げに、片眼鏡の位置を直す。

「それより、どういうことでしょう。穴を出た途端、形を崩してしまうとは……それにこの臭い」

 灰から漂ってくる酸っぱい臭いに、コールは顔をしかめる。

「臭い……?吸わない方がいい」

ラビットソン教授が手を差し伸べるも、コールの目は未だ、洞窟の奥の白蛇たちに釘付けになっていた。

「……道を知らない者は、容赦なく襲われる。――まるで神話の世界です……。」

「そうですね。門番のような生き物だ」

教授はコールの興味に付き合いながらも、腕を掴んで立ち上がるよう促した。

「行きましょう」

「早うしろ」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の苛ついた声が前方から降りかかる。

「は、はい」

ラビットソン教授が慌てて答え、

 フンとアメリアが嘲るように鼻を鳴らす。

「あの王が知っているのではないか?その気色の悪い生き物の事は」

 恐らく答えられないであろう火穂伎命(ほほぎのみこと)の代わりに伊吹が、反射的に進み出た。

「一本角の生えた白蛇は、伝承では〈震皮(しんひ)〉という名で知られているが」

 答えた後で、

 伊吹も含めそこにいる全員が、はたと動きを止め、異民族同士、目を見合わせた。

 今、ラビットソン教授は通訳に入っていなかった。

 というのに、伊吹はこちらの言葉を解し、またこちらも、彼の言っている事が理解できた。

 まるで最初から、ひとつの言語を話していたみたいに。

「言葉が……通じる……?」

 信じられない現象。

 誰もが認めがたい様子で絶句する中、コールの声が小さく響く。

「どういうこと、でしょうか教授」

振られた教授が、不安げに薄毛を指先で触った。

「さあ、さすがの僕にも……。神が塔に雷(いかずち)を落とし、言語を分割させたという神話ならば有名ですが、まるで真反対ですね」

 何となく言った言葉だったが、その神話になじみのあるバロゼッタ側の人間だけが目を見開く。

「面白い」

アメリアが気丈に笑った。

「つまり〈ルホウ〉の力に、少なからず期待してもよいというわけだ。なあ、〈仙〉の大王(おおきみ)どの」

「あ、ああ。そうだな。言われずとも」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)は、アメリアほど早く順応したわけではなかったが、彼女につられるようにその口元に笑みを取り戻した。

「早うしろ、道案内の者。〝守る者〟が居るということは、〈ルホウの寝床〉は近いぞ!」

 調子を取り戻した火穂伎命(ほほぎのみこと)は、ラビットソン教授に命令する。

 気を利かせた伊吹が彼の元に駆け寄り、その背を押して前へ促した。

 棒立ちになっていた教授は、おかげでどうにか前進した。

 伊吹はその時、蛇の居る側の穴を見遣った。

 吸い込まれそうなぼうっとした暗闇の中、途端に幾対もの黄色い光がきらめいて、

「……っ」

確かにそれらは伊吹を狙っていた。

 瞬間、全身を縛り付けられたかのような錯覚を起こした。

 が、目をそらさずにじりじりと後ずさって、伊吹は何とか、眼光の呪縛から逃れたのだった。



 ******



 ハナとマキはある細い穴の前まで来ると、足を止め、顔を見合わせた。

 二人の表情には少なからず緊張が浮かび、その目に宿すのは命の賭けをする戦士のきらめき。

「紙に書いてあった秘詩、覚えてるな?」

ハナが確認し、マキはうなずく。

 二人は向かい合って、お互いの脈を取るかのように両手を繋いだ。

「ひと」ハナの声が響く。


「ふた」続いて、マキの声。

「みい」


「よう」

二人は呼吸を合わせるようにして、ゆっくりと交互に、数えを口にする。


「いい」「むう」


「なな」「や」


「ここのたり」


「ふるべゆらゆらとふるべや」


 呼吸と心拍数をそろえる事に成功すると、片手を放し、二人は奥へと目を向けた。

 暗闇の中から、シューと微かな音が、重なるようにして、いくつも聞こえてくる。

 入り口に立つ二人の存在に気づき、様子をうかがっているかのような音だ。

 二人は目で合図し合うと、声を重ねて詠誦(えいしょう)した。

「畏(かしこ)くも

 龍風(るほう)守りし天(あめ)のくちなわ。

 此(ここ)に在るはみなかたの

 神の御力(みちから)授かりし子ら。

蒼き瞳に縁(えにし)あらば

 暗き闇路も迷わざらまし。

光明(こうみょう)以て導き給え。

 御風(ミホウ)の守りを今一度、我らのために緩めたまえ」

 詩を詠む内には、シューという音が消えていった。

 そして何の反応もないまま、穴はただ沈黙し、

 ハナとマキは、それを合図と受け取った。

 二人は息のリズムを崩さずに、薄く薄く、溜め込むというよりは身体中を満たすがごとく、空気を吸った。

 そしてついに、〈震皮(しんひ)〉のうごめく道へと足を踏み入れる。


 一歩目は、ゆっくりと。

 二歩目は、確かめるように。

 三歩からは、少しだけ早足に。


 二秒後には、二人は手を繋いだまま、地を蹴って走っていた。

 〈シンヒ〉たちは、両側へと身を寄せて道を空け、行く先を示すかのごとく、不気味に黄色い眼光を放っていた。

 おかげで、灯りを持たずとも、二人は迷わず先を急ぐ事ができた。

 それがつまり、〝震皮(しんひ)たちの許可を得た〟ということに他ならない。

 しかし、奥に行くにつれて、酸っぱい臭いは着実に濃くなっていった。

 震皮(しんひ)のツノの先から霧のように、常に神経毒が吹き出しているのだ。

 特殊な呼吸法は巫女の必須技術。

 それを知らなければ、どっちみち無事に通り抜ける資格など無い、とでも言っているかのようだ。

 呼吸法自体に不安はない。

 激しく驚いたりしない限り、正巫女様から教わってきたこの方法を、崩す事はありえない。

 マキには平素なら、ここを通り抜けるだけの自信があった。


 ただ――。

 今回は少しだけ、事情が違っていた。


 傷口の焼けただれるような痛みが、じわじわと彼女を襲っていたのだ。

 布で覆ってはいるものの、毒霧はいつしか布に浸透し、肌に辿り着いてしまっていた。

 ずっと無視してきたが、その痛みはどんどんひどくなる一方。

 だがここで呼吸を乱せば、数分の内には動けなくなる。

 そしてあとは、震皮(しんひ)のエサになるだけだ。

 マキはただひたすら、傷の痛みを無視する事に務めた。

 心の中で気合いを入れ直す事すらできない。

 顔を歪める余裕もない。

 そんな事をすれば、ハナ姉との間に心拍数や呼吸のずれが生じ、呼気はすぐに底をつく。

 ハナは無心を保ちながらも、次第にマキの歩幅が安定を欠き始めた事に、早い段階で気づいていた。

 しかしだからといって、どうともできないのだ。

 頭の隅で、どっちを取るか計算する。


 マキに合わせて足を遅めるか。

 それともこのまま走り抜けて、なるべく短時間でここを抜けるようにするべきか。


 どちらもいい考えには思えなかった。

 時間がかかれば傷口から、マキはハナより早く毒にやられるだろうし、

 このままの駆け足に、マキが痛みをこらえながらついてこられるかも怪しい。

 思わずぎゅっと、繋いだ手に力を込めると、

 マキが握り返してきた。


 ――あたしの方が、弱気に。


 その事に気づくと同時に、握り返されたそれだけで、ハナの心には勇気が湧いた。


 マキはまだ大丈夫。

 信じろ。


第三節 龍を手にせしめんとき


 浅い水たまりが、面積の半分を占めている場所だった。

 天井は果てしなく高いわけでも、首が伸ばせぬほど低いわけでもなく、ほとんどの鍾乳石は頭上より高い位置で尖端を結んでいる。

 緩やかなカーブを描いて延びる回廊のようなその空間は、大量の発光バクテリアにより、殊に水たまりを、強く、怪しく、光で浮かび上がらせていた。

 その静かな水面が、不意に無粋に歪められ、人の足がばたばたと、慌ただしく水をかき混ぜた。

 銅剣を抜いた伊吹だった。

 いつかのような、周りを一瞬で冷やすような殺気が、彼にまとわりついていた。

 平時涼やかさを称える瞳も、今はただ狂気にも似た暗い光だけを放っている。

 彼は無表情で、目だけに鋭い感情を集めながら、壁を背にその人物と対峙した。

 彼の黒い瞳には、明るい薄緑の光の中黒く浮かび上がる、スラリとした人物の姿が映り込む。

「言葉が通じるというのはまったく不便なものだな」

 サーベルを抜いたその人物――アメリア大佐が、口元には笑みを称え、眉間にはしわを寄せた複雑極まる表情で、やれやれと言わんばかりに声を上げる。

 彼女の背後には、大王(おおきみ)、火穂伎命(ほほぎのみこと)が、その装束を無惨にも袈裟切りに引き裂かれた姿で、立っていた。

 破かれた布の隙間からは、深く斬りつけられた木板が覗く。

「惜しかったのう、伊吹」

火穂伎命(ほほぎのみこと)の嘲りに満ちた声が降りかかるも、今の伊吹にはアメリアから目をそらす余裕がない。

 先のアメリアの言葉は、伊吹にとってはもっともだった。本来なら、火穂伎命(ほほぎのみこと)がとっさに何かを言ったところで、それはラビットソン教授のワンクッションを置いてからでなければバロゼッタ側には伝わらない。

 それが訳されてアメリアの耳に届く時には、伊吹はすかさずの第二刀で、火穂伎命(ほほぎのみこと)の命を絶てていたはずだった。

 だが、第一刀が、予想外の隠れた鎧に防がれたとき、火穂伎命(ほほぎのみこと)がアメリアに呼びかけた言葉は、この特異な状況下、暇を与えず届いてしまった。

『死んで困るのはそなたらであるぞ、異民族!我が無事戻らねば、あの巨大船は日が沈むまでには破壊される手はずなのだからな』

 その言葉を聞いて、傍観を決め込む彼女ではない。

 アメリアの中には、常に幾方もの戦局が想定されている。何がどう転んで、不利益被るはめにならないとも、限らないのだ。

 だから今現在の所は、火穂伎命(ほほぎのみこと)を生かす事で、「保険」をかけておく事にしたのだ。

 岩壁や、垂れ下がる鍾乳石の濡れた表面を、びっしりと覆い尽くす発光性の微生物が、吹きすさぶ風に飛ばされては、空中で光を失って、姿を消していく。

 伊吹の足下に水滴とともに付着したそれらも、少しでも乾くと光を落とす。


 ずり。


 伊吹の足が交差するように横へと動き、同時に足場の滑り具合を感覚で掴む。アメリアはそれを、目だけで追う。

 この空間へ来たとき、伊吹にとって「今しかない」という決定的な隙が、火穂伎命(ほほぎのみこと)に見えた瞬間があった。

 だから剣を抜いた。

 このところ、やけに影のような光を纏う銅剣を。

 しかし火穂伎命(ほほぎのみこと)も、やすやすと伊吹に首を預けているわけではなかった、という訳だ。

 それは何とも滑稽(こっけい)な重ね着で証明された。本人が得意げなのがまた、その滑稽さに拍車をかけている。

 息が詰まるような湿度の風が、絶えず奥から吹き抜けていく。

 汗か水滴か分からないものが、伊吹の首筋をつうと滑った。

「生かしてやるのも、ここまでだな、伊吹」

 恐らく対峙する二人の耳には入っていないが、火穂伎命(ほほぎのみこと)がくっくっと笑い声を上げる。

「そのまま大人しく牙を抜かれておれば、生かしておいてやったものを」

 恩着せがましくそんな事をのたまう。伊吹に牙を剥かせようとあらゆる方法で虐げてきたのは自分だというのに。

 滴の一粒が、二人の間に垂れ下がる巨大な鍾乳石の表面を滑り、先端まで辿り着くと、じわりと体積を膨らませた後、

 宙へと身を投げた。

 落ちていく滴は、そのまま伊吹の構える銅剣に、着地するつもりでいた。

 しかしその一粒は、銅剣に触れることなく、ぽちゃっとかわいらしい音を立てて、水たまりへ直行することとなった。

 同じ瞬間、水たまりの向こうで、剣がぶつかる音が響き、火花が散った。

 例によって、伊吹が急激に間合いを詰め、アメリアに迫ったのだ。

「っ、」

一瞬だけ出遅れた様子のアメリアは、しかしすんでの所でサーベルをかざし、伊吹の刃を受け止めていた。

 顔の前で斜めに構えたサーベルの刃に左手を添えて、伊吹の勢いを打ち消す。

 二本の交差する刃物を挟んで、二人は鼻先でにらみ合う。


 そして何を合図にか、はじかれたようにお互い背後に飛び退き、距離を取る。

洞窟内は、常に暖かい〈龍風(るほう)〉に満たされているというのに、この空間だけは異様な温度を皆に感じさせていた。

 伊吹を見れば冷気が体を襲い、アメリアを見れば灼熱の炎に包まれたかのような感触がする。

 二つの相対する種類の殺気がぶつかり合えば、そこには嵐が生じる。

 アメリアが仕切り直すかのように、サーベルを目の前に垂直に掲げ、ぶんっと右下に振り払った。

 伊吹は銅剣を握り直し、他の人が瞬きをする間に、再びアメリアとの距離を一気に詰めていた。

 伊吹のとる間合いはいつも、銅剣の長さに対してひどく離れすぎていた。しかしそれこそが、彼の強み。

 相手は無意識に、その距離からどのくらいで間合いを詰められるか、計算する。たいていは、己の経験を元に。

 だから、突然腰を低くし、予想を上回る速さで目の前に現れる伊吹に、反応できないのだ。

 剣を抜く手は自然と一寸遅れ、それが伊吹の斬り込みを許す。

 だがアメリアは、伊吹の動きを一度で見切っていた。

 彼女はくるりと体を回転させて、伊吹の刃の流れに沿うかのようにして離れ、

 そして、己の間合いに持ち込んだ。

 すかさず繰り出されたアメリアのなぎ払いを、伊吹がすれすれで頭を下げて避ける。

 ぱさ、と右のまげ紐が切れて、長い髪の先が水面に浸かる。

 次の瞬間、微かな気配を感じて伊吹の銅剣が頭の上に構えられると、びりびりと腕に電流の走るような衝撃が走った。

「ふん」

 体重をかけてサーベルを振り下ろしたアメリアの、鼻を鳴らす音が聞こえ、

 伊吹が剣越しにそれを見上げたとき、

「しねえええええ!」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の声が急激に近づいた。

 ガチャン、とアメリアのサーベルが水面を切って地面にぶつかる音がし、

 ほぼ同時に火穂伎命(ほほぎのみこと)の構えた銅剣が伊吹の脇腹を狙って突き出される。

「!」

 険しい顔で分かりやすい攻撃から逃れた伊吹の前に、空を切ってつんのめった火穂伎命(ほほぎのみこと)の首がさらされる。

 伊吹の瞳がカッと閃光のように意志を宿したのが、誰の目にも見て取れた。


 間髪入れず、彼は火穂伎命(ほほぎのみこと)の剣を握る手を踏みしだき、

「うああっ」

 思わず剣を放した火穂伎命(ほほぎのみこと)の肩を膝で押さえ込むと、素早い動きで銅剣をその首根っこにあてがう。

「たっ助け……」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の声が情けなく宙に消え、

 伊吹が剣に力を込め、いざ引き斬らんとしたとき、

 アメリアの蹴りがドッ、と伊吹の後頭部に、強い衝撃を与えた。

「ぐ、はっ……!」

 咳き込みと悲鳴を混ぜたような声が漏れ、宙に見開いた瞳孔から、殺伐とした光がフッと消える。

 伊吹は大きく前に上体を突き出した後、派手な水しぶきを立てて、火穂伎命(ほほぎのみこと)の傍らに顔から倒れ込んだ。

 頭が岩に当たったせいか、赤い血が緑に光る水の中に細く流れ出し、うやむやに溶け出していく。

 倒れ込んだ伊吹は、別に意識を失ったわけではなかった様子で、ぴくりと動き、体を支えようと左手を地面に突き立てた。

 しかし水面から上げようとした顔は、火穂伎命(ほほぎのみこと)の手のひらによって押しつけられる。

「この!この!奴隷が!卑しい負け犬めがぁ!」

先ほどまでの情けない様子はどこへやら、ぶち切れた火穂伎命(ほほぎのみこと)ががんがんと、伊吹の頭を掴んで、しつこく地面に叩きつけた。

 水たまりの深さはくるぶしない程度だが、これではろくに息もできず、途中何度か、ガホッと大きな気泡が水面を泡立たせた。

「頭は冷えたか?!のお伊吹?!いや足らんなあ!そなたは息絶えぬでもせねば頭を冷やす事などできなかろう!」

 すでに伊吹の意識が飛んでいる事に、アメリアは気づいたが、火穂伎命(ほほぎのみこと)は気づいているのかどうだか知れない。

 がん、がん、がんと岩と頭蓋骨の当たる音が響く。

 「……コール助手、ラビットソン教授とともにこの先を見て来い」

 アメリアが、遠巻きに身をすくめていたコールに指示すると、青ざめた表情の彼は急いてラビットソン教授の方へと向かった。

 「大王(おおきみ)ホホギノミコト」

 アメリアが火穂伎命(ほほぎのみこと)に声をかけると、顔を真っ赤に目をつり上げた火穂伎命(ほほぎのみこと)が、いったん手を止め、アメリアを見上げた。

「とどめを刺したらどうだ?もうこれは意識がない。いくら痛めつけようと貴殿の体力の無駄だ」

 アメリアがもっともな事を言うと、火穂伎命(ほほぎのみこと)は物足りないように頬肉を引きつらせた後、

「――つまらん。あっけないのう」

吐き捨てて、水に浸かった己の銅剣を取り上げた。両手で柄を握り、伊吹の背に垂直にかざす。

 その表情には、やっといつもの、主に誰かに処刑宣告したときに見せる、優越感と爽快感の入り交じった笑みを取り戻した。

「我直々に殺してやるのだ。そなたの親妹すら叶わなかった光栄であるぞ」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の目が残酷に煌めき。

 その剣が伊吹の背中に突き立てられようとしたとき。

 「大佐!大佐!来てください!」

 滑りそうになりながら、コールが進行方向から舞い戻ってきて、ただならぬ声を上げた。

「〈ルホウの寝床〉が見つかりました!」

「――!」

「まことか!」

 アメリアの横でがばっと立ち上がった火穂伎命(ほほぎのみこと)が、鼻息荒く声を上げる。

 伊吹のとどめのことなど頭から吹っ飛んだ彼は、コールの返事も待たずにその横をすり抜けていった。

「大佐」

 コールは火穂伎命(ほほぎのみこと)に突き飛ばされそうになりながらも、慌てた瞳をアメリアに向ける。

「ああ」

アメリアはそれだけ返事をして、コールの方へと闊歩した。バロゼッタ兵一人もきびきびと後へ続く。

 今までいた空間を抜け、少しだけ狭い隙間をくぐった先、それは姿を現した。

 どんと威圧感を伴って客を出迎えるのは、入り口で見たのとまったく同じ造りの、龍の門だ。

 その空洞は、バロゼッタの古城が一城まるっと収まりそうなほど大きい。

 発光バクテリアが岩壁一面に付着して、絶えずチカチカと光を灯したり消したり繰り返している。

 龍一匹一匹がその光の揺らめきを受けてうごめき、外と同様、生きているかのような錯覚を与える。

 ラビットソン教授の提げた龍風(るほう)探知計に至っては、発光バクテリアを集める月光キノコの性質上、もはやカゴの輪郭がぼやけるほどの光を放っている。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)が門の開かれたところを見つけると転げるように直行し、アメリアはその後を大股でついていく。

 一方ラビットソン教授は手帳を取り出して夢中で門をスケッチし始め、コールは目を輝かせながら透かし彫りの表面をなでた。

 バロゼッタ兵は己の目が信じられない様子で立ちつくしていたが、はたと気づくと、慌てて大佐の後を追う。

 透かし彫りにすっかり気を取られていたコールだが、その隙間から見えた向こう側の景色に気づけば、口をぽかんと開けて、ラビットソン教授の肩を叩く。

 教授もようやく目を上げ、そして言葉を失った。

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトンと、風車の中で聞こえるような規則正しい音が、風の音に混じって耳に入っていたのを、急激に意識した。

 龍の透かし彫りで仕切られた向こうには、地面に空いた巨大な穴と、その上にフタのように取り付けられた、幾つもの風車。

 そして、壁面を埋め尽くすほどの木の歯車が、軋む音を響かせながら、すべてを連動させて回っていたのだ。



 ******



 マキとハナは、最後の一歩を大きく踏み込んで、滑り込むように、〈震皮(しんひ)〉の道を抜けた。

「はあっ」

 ハナは地面に手をつき、大きく息をついた。しびれが取れるときのようなじんわりとした震えとともに、呼気が整ってくる。

 くらりと立ちくらみに似ためまいを乗り越えてから、隣のマキに目をやる。

「…………マキ!」

 ハナは慌てて呼びかけた。

 マキの呼吸が戻っていない。

 ハナと同じく地面に突っ伏していたマキは、肘をついて上半身を支えた状態で、目を前に向けたまま、ほとんど息をしない。

「マキ、呼吸を戻せ!」

 ハナがぐいと顔をこちらに向けさせる。

 マキの蒼い瞳が、戸惑ったように揺れた。

「息を吸って!」

ハナの焦燥した声が、狭い空間に響くが。

 ハナを見上げたマキの瞳が、言っていた。


 ――息って、どうやって吸うんだっけ。


 マキはほとんど息を止めている。

 その事に気づいたハナは、心臓がひゅっと冷えるのを感じた。

「吸うの、マキ!吸って!」

瞳はただ、どうすればいいか分からぬように揺れるだけ。

 マキの顔が歪む。

「…………っ」

 声にならない声を上げて、胸を押さえてドッ、と倒れ込む。

 息を制限し続けて、心臓に負担がかかっているのだ。痛みが走るのだろう。

 それでも息の仕方を思い出せずにいる。

 息を吸って、吐く。

 たったそれだけの感覚を。

 マキは、息苦しさに気を遠くしながら、必死で思い出そうとしていた。


 けれど、感覚が。

 感覚が思い出せない。


 どこをどう使えば、息を吸えるのか?

 今まで呼吸するとき、どうやっていたっけ?


 口を開いてみるけれど、のどのあたりで吐き出したい何かは止まり、咳き込むことすらできずに、ただびくりと体をけいれんさせただけだった。

「マキ……」

 ハナもハナで、どうすべきか必死に考えを巡らせる。


 吸い方が分からない?

 ならば、どうすればいい。


 はたと思い当たって、ハナはマキを起こすと、岩壁に両手をつかせた。

「マキ。何も考えなくていいから、衝撃に備えろ」

 マキの瞳が、少し戸惑った後、覚悟するような色を帯びる。

 ハナは、

「ふぅーっ」

と深く息を吐いて、マキの背中、肩甲骨の間を狙って、するどい蹴りを入れた。


 ドゴッ。


 強い衝撃が背中を襲い、伸ばしていた両腕がぐいと曲がって、岩壁が顔面の間近に迫る。

 大きくのけぞったマキは、あごを天に向けて、

「――かはっ!」

 心臓が揺れそうな程の衝撃を、咳き込みに変えてのどの奥から吐き出していた。

「ゲホッげほっげほっ……」

 そのまま崩れ落ちて、地面に向かって咳き込む。

 咳き込みの反動で、息が吸われた。

 マキの背をさするハナに、制止するように手のひらが向けられた。


 もう、平気。


 咳き込みがやむと、マキはぐったりと仰向けに倒れ込む。大きく胸を上下させて、はあーっ、はあーっ、と、ゆっくり息を吸って吐いた。

「マキ」

 ハナが声をかけた。

 ハナは、マキがすぐには動けない状態であることに、気づいていた。

「姉ちゃん、先に行ってくるから。動けるようになったらおいで」

「…………、!」

 マキが何かを訴えるように、寝っ転がったまま首を振る。

 ハナはマキの額にそっと手を当て、

「よく頑張ったな。またあとで」

 言い残すなり、すっくと立ち上がって、前方に空いた四つんばいでしか進めないような大きさの穴によじ登って入っていった。

 マキは、慌てた色を浮かべて立ち上がろうと腕に力を入れるも、その力は胴体と連動することなく、やけに重たい体はびくともしなかった。

 神経毒の影響だ。

 ただでさえ傷からマキの体に入り込んでいた神経毒が、呼吸の流れを戻したせいで、一気に暴れ始めたのだ。


 くそ……。


 マキはのどの奥で叫んだ。

 けれど、重たい体は、彼女の意識をどんどん遠のかせていった。



******



 「見てください、大佐、教授」

コールが声を上げ、全員の視線がそちらへ向いた。

 コールは入って左奥――恐らく東側と思われる方に立っていた。

 彼の前には、祭壇らしき大きな石の台が鎮座している。

「どうした、コール助手」

闊歩していくアメリアの前を、大王(おおきみ)火穂伎命(ほほぎのみこと)がびゅんと通り過ぎ、コールを押しのけるようにして台にしがみついた。

「これだ!これが〈ルホウ〉を操る箱!」

「……制御板か」

 アメリアが横から覗き込む。

「分かるか、教授」

そう声をかけて脇に避け、ラビットソン教授にそれが見えるようにした。

「まさか、こんな所にこんな精巧な物が……」

制御板をみるなり、ラビットソン教授は自分の目を疑った様子で声を漏らす。

 祭壇に見えた物は、石で組み立てた箱だった。

 上部には文字のような刻みがぎっしりと施され、五百文字ほどのそれらひとつひとつに、木製のレバーのような物が、石版下の空洞から突き出ている。

 その小さいレバーは、押し倒すタイプのスイッチに近い。

 だがこの制御板の恐ろしいところは、レバーを倒す向きが、必ずしも一方向ではない事だ。

 五百個のレバーは、それぞれの文字の形に沿って、動かせるようになっていた。

 文字の形も様々で、ひとつも同じ形状の物は見当たらない。

 つまりこの制御板は、下手したら何百万通りもの形態を持ち合わせている事になる。

「なんと書いてある」

 アメリアが制御板をにらみ付けながら、誰にともなく尋ねる。

 これに手っ取り早く答えられるのは一人しかいないため、火穂伎命(ほほぎのみこと)が制御板をなで回しながら口を開いた。

「これは我々の使っている文字ではない。とてつもなく古い文字――おそらくは〈神の文字〉だ」

「操作の仕方は分かるのか」

その問いには、ラビットソン教授が口を開いた。

「これが、この土地……もしくは世界中に、風を送り込むための品だとするなら、あの巨大な歯車に描かれた数字と対応するはずです」

 ラビットソン教授の目が上方にそらされる。

 目線の先にあったのは、この部屋の中で歯車の主ともいうべき威圧感を持った、三段重ねの時計のようなもの。

 その歯車にだけは、方位計のそれとそっくりな、この国の数字文字が刻まれている。

 がちん、がちんと音を立てて、三段の数字計は、一番上の一文字だけしか書かれてない一枚を残し、二枚で規則正しく回っている。

「――なるほど」

 意外にも火穂伎命(ほほぎのみこと)が何かに辿り着いた様子だ。その声は笑い声のようにも聞こえた。

「思い出したぞ。伊吹だ」

「何?」

「えっ?」

「……?」

アメリアとコールが短く声を上げ、ラビットソン教授はスケッチを始めていた手を止めた。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)は、ぶつぶつと呟くように言った。

「我が滅ぼした伊吹のくにだ。あやつのくにの古墳で、この文字が使われていた。持ち出させた際に、宝物(ほうもつ)や土偶(どぐう)に刻まれているのを、見たことがある……」

 そうして、ぎりっと歯を軋らせた。

「白蛇の伝承も幼きあやつから聞いたのだ!あやつこそ、もっとも早く殺すべきであった!」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)はきびすを返した。

「どこへ行く」

「王の座は渡さぬ!」

「殺すなら、ここへ来て解読させてからにしろ」

「こ、コールくん、いいかい?」

「はい、教授」

「これ、さ。南国の島で見た地図遺跡の並びに見えないかい?」

 ラビットソン教授の一言で、全員の動きがぴたりと止まった。


第四節 暴走


 ラビットソン教授の一言で、全員の動きがぴたりと止まった、

 その瞬間だった。

 ガタコンッ、と壁の風車のひとつが枠ごと外れて、地面に激突したのは。

 風の音と他の歯車の稼動音に紛れて、一度は誰もが聞き逃した。

 だが続けざまに、西側の壁から人影が飛び出して来れば、さすがに気づく。

 その人物は、五メートルほどの高さのある穴から、両腕をまっすぐ前に突き出した格好で、まるで水にでも飛び込もうとするかのように、頭から宙へと躍り出ていた。

 両手のひらが先に地面に触れれば、素早く首を内側に曲げ、ごく自然な動きで前転へと移行し、全ての衝撃をしなやかに受け流す。そこから立ち上がりに移るのも、流れるような動作で完了された。

 二秒の内に、同じフィールドに立つこととなった蒼瞳の娘――ハナに、その瞬間、アメリアの拳銃の銃口が向けられる。

 ハナは間髪入れずに地面を蹴った。

 狙う先は当然、火穂伎命(ほほぎのみこと)。

 最も門に近い位置に立つその男は、同時に最もハナから近い位置にいることになる。

 アメリアは少し離れたところから、両手で構えた銃ごしに、ハナの動きを追った。

息を止めて、来たる一瞬を狙う。


 ――。


 振り返った火穂伎命(ほほぎのみこと)の一歩前で、ハナの前進が止まる。

 アメリアの人指し指に、ぐっと力が入った。


 ――かちん。


 やけにかわいらしい音を響かせただけで、拳銃は沈黙した。

「、湿気で火薬がやられたか」

 すぐに原因を察し、アメリアが忌々しげに呟いたとき。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)が、抜いた剣をヒュッと左から右へ滑らせた。

 そしてそこに一瞬前まであったはずの巫女の首は、こつぜんと消えていた。

 ガッ、と横殴りの衝撃をふくらはぎに感じれば、火穂伎命(ほほぎのみこと)は思わずよろける。

 かがんだハナが蹴飛ばしたのだ。

「巫女め」

火穂伎命(ほほぎのみこと)は吐き捨てながらも、すぐに右足を支えに出し、剣を今度は縦に、下方のハナめがけて振り下ろす。

 ハナの凛とした瞳が、剣を捉え、

 ざんっ――。

 若干上体をずらすことでそれを交わせば。

 片足を軸に回転し、たちまちのうちに、隙のできた火穂伎命(ほほぎのみこと)の背後を取った。

 途中から、成り行きを見守ることにしていたアメリアの目にはその時、ハナが火穂伎命(ほほぎのみこと)の膝の裏狙って、思いっきり体当たりする様子が映っていた。

 がくんと両膝を地面に打ち付けた火穂伎命(ほほぎのみこと)は、一瞬何が起きたか分からない顔を浮かべ、その後、

「――――っう」

 両膝の関節に容赦なく響いた痛みに、声も出せずにうずくまる。

 すかさずハナの手が、火穂伎命(ほほぎのみこと)の力の抜けた手から剣を奪い取ると、

 キィン――!

 突進してきたアメリアのサーベルを、ぎりぎりで受け止めた。

 その衝撃に耐えきれず、すぐにハナの方から飛び退く。

 素材が銅である火穂伎命(ほほぎのみこと)の剣は、当然のように、刃こぼれを起こした。

 アメリアは倒れ込んでいる火穂伎命(ほほぎのみこと)を意にも介さずまたいで通り過ぎると、ハナから一切目は逸らさず、サーベルの刃先は右斜め下に向けて、カッカッカッと、真正面から近づいてきた。

 ある距離まで近づくと、サッと二人の間の空気が張り詰めた。

 アメリアが大きく一歩を踏み込んで、その伸びやかな第二刀がハナに迫った。

 鋼鉄製のサーベルが、地面と平行に、鋭く弧を描いて、宙を切り裂いた。

 ガッ、と、ハナがとっさに出した銅剣にその刃が触れ、そのまま通り過ぎ、


 パキン


 あっけなく、まるでただの木の枝みたいに、ハナの持つ剣は目の前で真っ二つに折れた。その切っ先が、力を失ったように地面に落ちる。

「なっ……」

 自分の目が信じられない様子のハナは、動揺の色をはっきりと浮かべる。

「逃げればよかったものを」

 アメリアの言葉が降りかかる。

 ハナは、一瞬こそ気を取られたものの、すぐに切り替えて、剣をパシッと逆手に持ち替えた。

 無論、接近戦で扱いやすいように、だ。

 半分の長さになろうとも、これが刃物であることには変わりない。

ぐん、と姿勢を低くして突撃しようとしたとき、

 すっかり気を逸らしてしまっていた火穂伎命(ほほぎのみこと)の手が、ハナの足首をぐっと掴んだ。

「!」

 いつのまにか地を這いずって、ハナの足下に近づいていたのだ。

 バランスを崩したハナがそのまま地面に突っ伏し、

「殺せ!」

火穂伎命(ほほぎのみこと)の罵声にも似た声援が飛ぶ。

 アメリアはあまり気分の良くなさそうな表情を浮かべながらも、サーベルの刃を、ためらいもなくハナの首元へ振り下ろした。

刹那、

「大佐ッ!」

コールの大声とともに、

〈龍風(るほう)探知計〉がアメリアの背後目がけて飛んできた。

 コールの声が無かったら、鳥かごはアメリアの右肩にぶつかっていたことだろう。

 すんでの所で振り返ったアメリアは、飛んできた〈龍風(るほう)探知計〉を、サーベルを持った手でなぎ払った。

 ゴトッ、とそれが地面に落ちたとき、向こうでは、バロゼッタ兵が、コールを勢いよく地面に抑えつけていた。

「何やってる!」

後ろに手首を捻って身動き取れなくして、バロゼッタ兵はコールを怒鳴りつける。

「その人を殺せば、俺たちは二度とここから出られませんよ、大佐!」

コールは首だけ前に向けて、同じ大声で叫んだ。

「そのまま押さえてろ。綱を渡せ」

思わぬ身内からの妨害だったが、アメリアは大して動揺も見せぬまま、殺し損ねたハナの背を素早く踏みつけながら、バロゼッタ兵に指示する。

 投げられた綱は少し手前で地面に落ちたが、そのまま滑って近くへ届いた。

 〈龍風(るほう)探知計〉は、アメリアの目の前をごろごろと転がっていって、中央部に空いた風の吹き出す穴のふちに辿り着くと、ぐらりと一呼吸置いた後、底へと消えていった。

 アメリアはそれを見ようともしなかった。

 地面に激突した時点で、もろい作りの〈龍風(るほう)探知計〉は、土と金網と月光キノコが、中でめちゃくちゃになっていたのだ。

「命拾いしたな、巫女」

その手から折れた銅剣を奪い、適当に放って、後ろ手に縛って起き上がらせながら、アメリアが淡々と声をかけた。

 一人制御板とにらめっこしていたラビットソン教授が、「解けたぞ」と呟いたのは、その時だった。

 彼はこの騒ぎに、まったくの無頓着――というか、気づいてすらいなかった。

 なぜなら開いた手帳片手に、彼は制御板から目を離さぬまま、こう言ったからだ。

「わ、分かりましたよ、コール君!ここへ来て、僕の補助を」

「えっ」

コールが思わず、体を起こしそうになるが、それはバロゼッタ兵にて止められる。

「教授、コール助手は今、手が放せません」

厳しい声で、表向き教授に向けられた言葉は、コールへのけん制だ。

 ラビットソン教授が振り向きもしない内に、巨体が、どたばたとアメリアの横を駆け抜けていく。火穂伎命(ほほぎのみこと)だ。

「説明せよ!」

 石台にめり込みそうな勢いで突進し、ばんと両手をついて前のめりになった火穂伎命(ほほぎのみこと)に、

ラビットソン教授は完璧に突き飛ばされて、尻餅をついた。

「こ、これは、この山のすべての吹き出し口への道を記しています」

よろよろと吹き飛んだ片眼鏡を拾い上げながら、ラビットソン教授は講義の口調になる。

 請う者に教えるというのは、彼に染みついた習性だ。

「こ、これは、南の島にあった地図遺跡とごく似た方式で描かれています。つ、つまり――パズリッごほん、パズルです」

大事なところで噛みながらも、教授は一所懸命に続ける。

「こ、ここで見えるだけでも、岩壁に空いた空気孔にはすべて、ファンが取り付けられています。あ、あれが、この穴だらけの岩山に幾箇所も取り付けられることで、風は調整されている。と、すれば――」

目を白黒させる火穂伎命(ほほぎのみこと)の目の前でガチ、ガチッと小指サイズのレバーがどんどん弾かれていく。

 やがて、倒されたレバーによって、何の意味もないと思われた文字列の中に、中央から外へ向けて、一本の道が出来上がった。

「このようにして、風の通る方向を決められる。後はこの脇のハンドルを回せば、設定が上の歯車群に伝わるというわけです。あの巨大歯車ははじめ中枢かと思いましたが、どうやらそうではなく、単なる他の一部であり――、大まかな方向を示す、表示計かと」

「やめろ!」

ハナの怯えたような声が、全員の鼓膜を震わせた。

「あんたら、間違ってる!それは〈ルホウ〉の制御板なんかじゃない、それは〈審判のはじき〉!――この山を侵入者から守るための罠だ」

 それを聞いた火穂伎命(ほほぎのみこと)の口がにやりと歪むのを、ハナの両瞳が映した。

「罠であればわざわざ口にはしまい。何と下手な嘘を」

「――っ、嘘ではない!それに触ってはいけない!ここにいる全員が死ぬぞ!いや、……この山の周囲に生きる、全てのものが!」


「黙れ、巫女」

 終始様子を見守っていたアメリアが、一言とともにサーベルを突きつけるが、ハナはそれをキッと一瞥(いちべつ)しただけで、火穂伎命(ほほぎのみこと)をなおも説得しようと試みる。

「〈龍風(るほう)〉は龍だ。人間の手で制御などできるわけが無いんだ!愚かなのはアンタたちの方だ!全滅するぞ!」

語気を荒げる彼女を楽しそうに見下ろして、火穂伎命(ほほぎのみこと)は冷淡に告げる。

「ほう、そうか。ではまず、南の無風地帯に集めておいた、そなたらの家族で試すとしようぞ」

「――――。」

ハナは呆然として、数秒間言葉を失った。

「そなた」

火穂伎命(ほほぎのみこと)はくるりとラビットソン教授へ向き直る。

「先の打ち合わせ通り、狙った場所の生き物を死滅させてみようではないか?」

 この大発見を目の前にしたラビットソン教授には、示された〝問題〝の〝解答〝を探り当てる以外、意識が向いていない。

 ラビットソン教授は機械のように、火穂伎命(ほほぎのみこと)の言葉を反復して、

 手帳を見ながら空中で指をゆらゆらと動かし、小刻みに目線を動かした。やがて、ガチン、ガチャコ、ガキッガコッ、と教授の指はレバーを弾く。

「やめろっやめろっ……!」

ハナの嗚咽(おえつ)のような叫び声がむなしく響く。

 コールは、無意識のうちに再び、この遺跡への興味に頭を満たされていた。地面に伏せたままの体勢で、痛いほどに目線を上げて、教授の背中を食い入るように見つめる。

 そんな中、アメリアはハナの戦意喪失を感じ取るなり、静かにそこから離れた。

 ラビットソン教授が独り言同然に、ぶつぶつと語り出す。

「ま、間違った道から、発光バクテリアが全く検出されなかったのは、不自然でした。しかしその謎には、コ、コール君が気づいた」

 この中でこの講義を聴いているのは、恐らく彼の弟子だけだろう。

 文字列のレバーを複雑に倒していきながら、教授の説明は続く。

「し、〈シンヒ〉という、奇妙な生き物の存在です。あの生き物は毒を放っていた。は、発光バクテリアはあの生き物の毒によって死滅するため、通り抜けることができなかったのです。

 発光バクテリアが〝生命の道〝を示しているとすれば、〈シンヒ〉が示すのはし、〝死の道〝。


 とっ、通ってきた方向から大まかに、〝死の道〝であるルートを割り出し、その上で狙った方向へと道を作ってやれば……っと」

 ようやく、教授の指が止まった。 

 ギリギリギリ。

ハンドルが回される。石台の中から、カタカタカタカタと軽快な音が控えめに響き。

 全ての歯車が、一度停止した。

 風の中に生まれた静寂。

 やがて表示計は、下二枚が数字の組み合わせを変え、上の一枚が、方角を示す。


 ギッ……。


 木が軋む音がし、

 そして、留め金を外したかのように、歯車たちが急回転を始めた。

 規則的に響いていた音は、もはやつながってひとつの唸りに聞こえる。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!


「終わりだ……」

見開いたハナの瞳から、絶望を凝縮した一粒が流れ落ちた。

 やがて小刻みな振動が、全員の足下を震わせた。

 ばたん、ばたんと降ってきたのは、岩壁の穴に取り付けられた小型の風車。

「なんだ!」

ぐるりと上を見回したアメリアの目に。

 続けざまに穴から溢れ出てきた、〈シンヒ〉の群れが映る。

 シンヒは真っ白な滝となって、全ての穴から煙を上げて落ちてきた。

 落ちたシンヒは地を這って、あるいは壁を這って、あっという間に全員を囲い込んでいく。

しかしそれらは、彼らに襲い掛かりはしなかった。

ずりずりと白い大地が彼らを避けるように迫ってくるが、飛びかかる気配はない。

様子をうかがっているようだ。

「た、大佐!退きましょう!」

慌てふためく部下の兵に、アメリアは決めかねた様子でだまって一瞥をくれる。

「くはっ」

声を漏らしたのは、火穂伎命(ほほぎのみこと)――、ではなかった。

「きょ、教授……?」

おかしな様子に気づいて、コールが思わず呼びかける。

ゆっくり起き上がるが、もはやコールどころではないバロゼッタ兵はそのままに解放する。

ハンドルの所にうずくまるラビットソン教授の肩に、手を伸ばそうとしたとき、

 勢いよくラビットソン教授が立ち上がった。

あごを頭にぶつけそうになって、コールは慌てて飛び退く。

 振り返った教授の目が、らんらんと輝いていた。

「凄い、凄いですよコール君!見ましたか?!見ましたか!これはすばらしき発見です。我らがものになったんです」

「教授?何言ってるんですか……」

あまりの変貌ぶりに、コールの声は惚けている。

片眼鏡を光らせながら、ラビットソン教授は両手を広げた。

「これで世界の気候が操れるんです!歯車はすべて動いています!完璧に」

「教授?ラビットソン教授!しっかりして下さい、どうしたんですか?」

腕を引くコールを見下ろして、彼の師は恍惚の表情を浮かべた。

「世界の気候を操れるんです、わ、私たちが――むぐ」

次の瞬間、津波のような白い影が、教授を頭から飲み込んでいった。コールの目の前から、一瞬にしてラビットソン教授の姿が失われた。

「――――」

目を剥いて硬直したコールは、

「むぐぐっむぐっむぐ――――!」

足下で、うごうごとうごめくシンヒの大群の不自然なふくらみが、くぐもった断末魔を発しながら、やがて平坦になっていくのをぼうっと見下ろしていた。

「ひゃあああああ」

その様子を見て、悲鳴をあげたのは火穂伎命(ほほぎのみこと)だった。

腰を抜かし後ずさる。

シンヒたちは彼には襲いかかることなく、ただ周囲へと避けた。

 ガラガラと中央の風穴に据え付けられたたくさんの風車が、音を大きくしていた。

「……まずい」

その事に気づいたハナが、ハッとして呟いた、次の瞬間。

爆発を起こしたかと見紛うほどの強風が、その穴から吹き出した。

 風車はいっぺんに吹き飛んだ。

 ハナは目をつぶった。足は地面から離れ、轟音の中を遠く飛ばされるのを感じた。


 うわあああああ


 バロゼッタ兵のものとおぼしき悲鳴が、微かに耳元を掠ったが、それもやけに遠くなっていく。

 ダンダンダンッ!と、他四人が龍の門に身体を打ち付ける中、ハナだけが、その門を通り抜けていった。受け身を取る余裕もなく、遠距離を飛ばされて、勢いのままハナは岩壁に身体をぶつけた。

 目を開いたとき、龍の門を、シンヒたちが埋め尽くしていくのがちらりと見えた。

 だが体勢を立て直そうとした瞬間、強風に再びバランスを崩し、彼女はさらに穴の奥へと転がされることになった。

 「こちらへ来い!」

アメリア大佐の声がかかり、龍の門の内側を伝って、コールとバロゼッタ兵は側に向かう。

 最初の爆発を乗り越えると、せめて立っていられる程度には、風は落ち着いていた。

 近くを通ると、シンヒはシャアッと威嚇さえするものの、飛びかかる様子は見せなかった。

 よろよろと二人が集まると、

「とんだ無駄足だ」

アメリアは不機嫌に吐き捨てて、門の空いていたはずの場所へ進んだ。

 そして門は、消えていた。

 否、シンヒがお互いに絡み合って、網状になって門を塞いでいたわけだが、

「どうなってるんだ……。」

バロゼッタ兵が己の目を疑った様子で呟き、強く拳を打ち付けた。

――シンヒは身体を硬直させて、まるで鍾乳石のように龍の門と一体化し、びくともしなかったのだ。

それが自分たちの役目だ、とでも言わんばかりに、門に集まったシンヒだけが身体の材質を変えている。

 ガンッ!

 バロゼッタ兵の振るったサーベルも、網を砕くには至らない。

 つるつるとした表面に傷はつくものの、傷ついたところを補強するかのように、たちまち他の動いているシンヒたちが寄ってきて、そこをより強力な網へと変貌させ塞いでしまうのだ。

「閉じこめられたか」

アメリアは状況を受け止めると、〈ルホウ〉の穴の方へと振り返った。

 地面と岩壁を埋め尽くしたシンヒたちが、怪しくこちらを睨み付けていた――。

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