第四章 聖域への侵犯

第一節 龍風探知計


 マキは、木の幹や草陰を壁にして、そうっと、〈仙〉兵の占領する場所の近くへ戻ってくると、忍び込めそうな隙はないか、息を潜めてうかがっていた。

 もちろん、無数に建つ天幕の中からハナ姉を見つけ出して、助け出すつもりだ。

 バロゼッタの兵たちが〈仙〉の兵十名ほどに守られながら、ぞろぞろと暗い森の中へ入っていくのを見留めると、マキは眉をひそめた。

 ――帰るのか?あの異民族は。〈仙〉兵とともに、闘うのかと思っていたけれど……。

 反対側の森の道へと入っていく彼らを、ずいぶん遠くから、マキは、目を凝らして観察する。

 そして一団の中に、たいまつの炎に一瞬キラリときらめいたものを見つけ、マキはバッと立ち上がった。

 ――あいつが、〈仙〉の大将!

 その男だけが、頭にシャラシャラとした冠をつけていた。だから一目で直感した。

 頭の両脇にまげを結った、ずんぐりむっくりの男の近くには、とりわけ護衛がきちんと付き添っているように見える。

 ――異民族を帰す気ならば、大将があそこにいるのは変だ!

 詳しい成り行きを知らないマキにも、その事だけは分かった。

 そして、次の直感が、彼女の脳に電流を走らせた。


 ハナ姉も、あの中にいる……?


 直感が先。追いついてくる裏付け。

 ――ハナ姉は、異民族を〈ルホウ〉の入り口まで案内しなければならないと言っていた。

 〈仙〉の目的も〈ルホウ〉だ。

 〈仙〉の大将が異民族と行動をともにするということは……間違いない。


「行かなきゃ」

 マキは呟きを漏らすと同時に、〈仙〉の駐屯地を回り込む方向へと、森の中を走り出していた。

 ――奴らの跡をつける。

 見失わなければ、助けられる瞬間は必ず、来る!――

 走るたびに響く矢傷に、マキは苦しそうに顔を歪め、何度もえずきそうになりながら、それでも足を止めなかった。

 走りながら、左手で腰の短刀を触って、そこにあることを確認する。

 風のように、茂みの中を駆け抜ける。

 ――止まるな。逃がすな!

 激しく打ち付ける波のような感情が、それだけが、マキの痛む体に鞭打ってくれた。

 再び視界にバロゼッタ兵団を捕らえたとき、そこに、あの目立つ大王(おおきみ)の姿はなかった。

 ――?

 マキは茂みの暗がりから、頭を伸ばして何度もその姿がないか確認する。

 三十名弱ほどのバロゼッタ兵と、十名ほどの護衛の〈仙〉兵。

 確かに先ほど見た一団に間違いはない。

 だが大王(おおきみ)がいない。

 頭数は大きく減ってはいないが……。


 ――二手に、分かれたのか!


 何故かは分からない。〈仙〉の大将が少人数で行動するなど、普通なら考えられないことだ。

 だが「何故」なんて、考えたりしない。

マキはすぐにきびすを返し、一団の辿ってきた獣道を逆走し出した。

 ハナ姉がいる可能性がある方へ、ただ走る。

 獣道を〈風尾族〉の村側へと戻っていくと、ふいに、左脇に、草の押し倒された後を見つけた。

 もともと夜目が利くマキだが、今夜は〈仙〉兵が近くで駐屯してくれているおかげで、その見逃しそうな痕跡もはっきりと、薄明かりの中に浮かび上がっていた。

 ――ここだ!

 ざっ。

 マキは急停止の勢いで前につんのめり、地面に片手をついた。

 腹を折り曲げた瞬間、慣れかけていた痛みが一気に腹を駆け上がってきて、

「ぐほっ」

 苦しい吐き気を催した。

「…………。」

マキは地面にしゃがみ込んだまま、少し息を整えるように黙って、腕で口元をぬぐい、

 そして、キッと顔を上げた。

 体の方向は急停止の時からずっと、無理に掻き分けられた脇道を向いている。

 よーい……、どん!

 と、かけ声でもかかったかのように、その足が地面を蹴飛ばすと同時に、手のひらが拳を握って宙を切った。

 苦しさを振り切って、マキは再び走り出した。

 一度道を見つけてしまえば、なんとかなる。

 人の歩いた跡なんて、例え足跡がはっきりと残ってはいなくとも、本人たちがよほど注意して隠しながら進まない限り、そう簡単に消し去れるものではない。

 間もなく、マキは少人数の彼らを、視界に捕らえることに成功した。

 ――っ、ハナ姉……!

 姿を見つけると、すぐに飛び出して周りの人間を片っ端からなぎ払い、その手を引いて助け出したい衝動に駆られた。

 駆られたが――、分かっていた。

 私の力じゃ、そんなことできないと。


 だから、まだだ。


 マキは、苦い思いで木の幹に爪を突き立てた。

 気づかれないよう、見失わないぎりぎりの距離を保って、木の陰に身を隠しながら、姿勢を低く、彼らを追跡する。

 呼吸すらも、最小限に抑える。

 風が柔く吹いている。

 ざわざわと、命の恵みに感謝するかのように、木々が葉ずれの音を奏でる。

 コールが〝ランプ〟と呼んでいた小さな灯りひとつで、彼らは森の中を突っ切っていく。

 人数は、八名。

 見知った顔や、見かけた顔が割といる。

 コールはもちろん、彼がよく話をしに行っていたラビットソン教授という人物、そして異民族の大将らしいアメリア大佐。彼女が引き連れる部下二人すら、何となく見覚えがある。

 話したことがあるのはコールだけだったが、コールの天幕に隠れながらバロゼッタ兵を眺めていたせいで、なんかやたら詳しくなってしまっていた。

 残りの〈仙〉側の人間は知らない。

 冠をつけた男が大王(おおきみ)なのは間違いない。もう一人若い男が、護衛としてか、付き添っている。

 ハナ姉は後ろ手に縛られ、バロゼッタ兵の一人に見張られながら、歩を進めている。

 と、さらに小一時間ほど歩いたところで、彼らは止まった。

 マキはハッとして、出しそうになった頭を引っ込め木の幹を背にする。

 どうやら休憩を取るようだ。

 荷物を持ち歩いていないことから見て、仮眠を取るほどの休憩ではないのだろう。

 〈ルホウの山〉へ辿り着くには、ここからはまだそれなりの距離がある。

 それを見越しての小休憩か。

 ――今なら、行けるか?

 マキはじり、と緊迫とともに、左手を短刀の柄に添えた。

 そしてその時、マキはコールらしい人影が、何か手荷物を地面に置くのに気づいた。

 鳥かごに布を被せたような品だった。薄緑の淡い淡い光が、布の隙間から漏れていた。


 何か、――嫌な予感がした。



 ******



 アメリア大佐は、休憩を指示した後、バロゼッタ兵の一人に言った。

「子猿が一匹ついてきている。追い払え」

 その言葉が、「誰か人間の子ども」を指すこと、そして今の場合「ハナの親族の少女」を意味していることは、バロゼッタ語が通じる人間にはすぐに分かった。

「アイサー」

「待ってください大佐!」

 心当たりがありまくるコールは、思わず進み出て、兵の応答に被さるようにして声を上げていた。

「俺に、行かせてください」



 ******



 「マキはそこにいますか?マキ!」

 少しだけ一団より離れて後戻ってきたかと思うと、コールはいきなり呼びかけた。

 ――気づかれていた。

 マキは考えた。このままコールに短刀を突きつけ、奴らを脅すか?

「マキ!いるよね?」

 名前を再び呼ばれて、びくりと体が反応する。

 どんな奇襲の策も、無駄なような気がしてきた。

 マキは観念して、それでもすぐに短刀を抜けるよう手を添えたまま、木の幹の陰から、ゆっくりと姿を現した。

 途端、コールはぱっと顔を輝かせて寄ってきた。

「マキ!」

「止まれ!」

マキの鋭い声が、コールの足を止めさせる。

 マキは斜めに体を構え、素早く斬り込みに踏み込めるような体勢を取って、じっとコールを見つめた。

「……〝あれ〟は何だ?」

「えっ?」

マキの質問に一度首を傾げたコールだったが、マキが視線で示した先、一団の方を顧みると、〝あれ〟が何を指すのか分かった。

 コールは目を泳がせたが、ついにマキの無言の圧力に屈して、白状した。

「〝ブレアロネ・ビュロ・ルホウ〟――えっと」

 バロゼッタ語の名称で言ってから、どう言葉を置き換えたものか悩んで、

「〝探知〟、〝計る〟、〝龍風(るほう)〟……うーん……」

さらに悩んだ。が、マキは言いたいことを何となく汲み取り、つなげてみる。

「〝龍風(るほう)探知計〟?」

「そう!」

コールは再びぱっと顔を明るくした。マキの臨戦態勢など忘れている様子で、緊張感もなく話を続ける。

「キノコアリ、月光キノコ!それを使っています。〈ルホウ〉のより濃い方角、指す」

 すばらしいことを語るみたいに、嬉しそうに、コールは説明した。

「マキのおかげ、生み出した……発明?発明、しました」

「――――。つまり、」

 マキの声が、微かに震えをおびた。

「その〈龍風(るほう)探知計〉があれば、道を知らずとも〈ルホウの寝床〉へ導いてくれると……?」

「そう!すごい!ね!」

コールは夢中でそこまで答えてしまってから、ハッとした。

 マキにとってそれがどういう事か、思い出したからだ。

 偶然の出会いではあったものの、一所懸命で勇猛果敢なマキのことを助けたいという思いは、嘘ではなかった。

 しかし研究者としての彼の好奇心は、全く別の所に存在して、しばしば周りを見えなくさせるのだ。

 マキは、ゆっくりと短刀から手を下ろした。何か力が抜けてしまったかのようだった。

「マキ……」

「味方、してくれるんじゃなかったのか」

抑揚のない声だった。それが余計、彼女の落胆を感じさせた。

 コールは言葉が出てこずに、口を半開きにしたまま固まっていた。

 何か言わないといけない。

 でも、何を言えばいいのか分からない。

 コールの心境を知ってか知らずか、マキは次の瞬間、はじけたように怒鳴った。

「自分のバカさ加減に腹が立つ!」

「――言おうとした!」

 マキの声につられて、ようやくのどから言葉が上がってきた。

 コールは必死で訴えた。

「俺は言おうとしました!マキ!さっき、でも……」

 コールは辛そうに歪めた瞳をそらす。

「でも、言えなかった。助けたい、思ってます。ごめん、……ごめん」

「――――っ」

 黙り込んだマキの方へと、ちらりと目を上げると、

 彼女は、ひどく傷ついたような顔をしていた。

 コールはてっきり、もはや敵を見るような目で、あの果敢に立ち向かおうとする目で、自分を見ているものと思っていた。

 だから初めて見るその表情に、うろたえた。

 自分の胃に、ずっしりと重い石でも入れられたかのような気色がした。

「――……中途半端に」

 ぽつりと、マキが声を漏らした。

「中途半端に味方のような振りをするな!」

 最後はやはり、強い言葉へと変わっていた。


 〝ちゅうとはんぱに みかたのような ふり〟……。


 コールの中で、マキの言葉がまず意味もなく反芻され、そしてじわじわと、その内容が熱を帯びてくる。


 マキは怒っていない。ただ、

 ――傷ついている。


 凍り付いたかのように身動き取れなくなったコールの横を、刹那に、風が駆け抜けていった。

 コールの足下で、土と枯れ葉が舞った。

 ハッと振り返ると、マキは一団の方へ駆けだしていた。

「マキ!」

 ようやく体が動く。コールはマキを止めようと、後ろからその名を呼ぶ。

 しかし彼女は振り返りもしなかった。

 獲物を見つけた狼のように、一直線に森の中を走り抜けていく。

「マキ、止まって!マキ!」

 ――だめだ、そっちに行っては!

 君が危ない……!

 コールは自分の情けなさに、奥歯を軋らせずにはいられなかった。

 追いついてくれ……!

自分の足に、こうも切に願う事があるとは思わなかった。

 コールは盛り上がった木の根に引っかかりそうになりながら、マキの背を追う。

「こんなものっ!」

マキの声。

 前方がざわめき、アメリア大佐が立ち上がったのが見えた。

 「ハナ姉」が、彼女の名を叫ぶのが聞こえた。

 マキは、短刀を抜いて振りかざしていた。

 〈龍風(るほう)探知計〉に。

 伊吹が剣を抜いたのが見えた。

 コールは最後の短距離ダッシュをすると、

「ドゥシェ――ッっっっ!」

 自分でも驚くほどの大声を出して、マキの前に滑り込んだ。

「っ?!」

短刀を振り下ろしたマキの驚いた瞳と、一瞬だけ目があった。

 そして、


 ざ く。


 嫌な音が、耳の横を掠めた。

 肩の関節のあたりに、何か熱さを感じ。

 次に、皮膚の裂かれた痛みが襲った。

「――う……」

 コールが唸りながら身をよじるのを、跳び上がって離れたマキが、呆然と見つめる。

 そのとき。


 ――ダァンッ。


「!」


発砲音が響いて、マキの左手が後ろへ振り払われた。

 その手から、短刀が弾け落ちる。

 次に目を上げたマキの瞳には、険しさだけが残っていた。

 まっすぐ腕を伸ばし、マキの短刀をピンポイントで撃ち落としたアメリアは、白く煙の上る拳銃を構えたまま、バロゼッタ語で何か言った。

「いい加減にしろ。これ以上邪魔になるようならこの場で始末する、……って、言ってる」

 コールが地面に転がったまま、痛みをこらえた声を出すと、マキは思い出したようにコールを見下ろして、


 ――あ、また……。


 傷ついた顔をした。

「マキ、あたしのことはいいから、逃げろ!」

 ハナの声が飛ぶ。

 マキはハナの方を見て、思考停止したような顔で後ずさった後、

 猫のような動きであっという間に、茂みの中へと消えた。

「コール助手、見せろ」

アメリアが闊歩してきて、コールを起き上がらせ、肩を触った。

「大丈夫です、大佐。掠っただけでした」

「そうか。ならばいい。消毒しておけ」

「あの……」

「なんだ」

「すみません。あの……」

「ふん」

アメリアはある程度予想済みだったらしく、ただ鼻を鳴らしただけだった。

 コールは傷を押さえながら、

「…………。」

黙って〈龍風(るほう)探知計〉に目をやった。

 鳥かごのような形のものに、布が被せてある。布の隙間からは、月光キノコの微かな光が漏れている。


 〝みかたのような ふり〟……。


 マキの言葉が頭の中で、呪文のようにこだまする。


 でも俺は、バロゼッタの人間で――。

 大佐や教授を裏切るような真似、できない。

 ――もし〈ルホウの寝床〉なんてのが見つかれば、大発見だ。


 研究心だけが突っ走って、コールには周りの事情など見えていなかった。

 どうでもよかった、という方が正しいのかもしれない。


 でも気づけば、あっちもこっちも命懸け。

 まるで琴線の上を渡り歩いているかのように、危うい状況。


 そうだ。俺が今ぐらつけば……

 ここにいるバロゼッタの人間全員を危険に晒すことに――。

「コール君。大丈夫ですか?」

 ラビットソン教授に声をかけられて、コールは我に返った。

 ラビットソン教授が心配そうに、顔を覗き込んでいた。

「これは降ろしましょうね」

 そう言われ、手の甲を押さえられ、やっと気づく。

 いつの間にか、〈龍風(るほう)探知計〉を今にも地面に打ち付けようとするかのように、両手で高く掲げていたことに。

「――――。」

 強く言い聞かせようとしていた事とは別の所で、抑えつけられた気持ちが、体を動かしてしまっていたようだ。

 でもそのせいで、余計、抑えつけた方の気持ちを自覚してしまった。


 マキを助けたい。

 例えそのせいで、俺たちが危険に晒されることになっても。


 感じたことのないような熱を持った想いに、自分でも戸惑う。

 どうしてこんなにも、あの子に惹きつけられてしまうのか。

 その時、大佐の「出発だ!」の号令がかかって、ラビットソン教授はコールの手から〈龍風(るほう)探知計〉をひょいと取り上げた。

「ここからは、これは僕が持ちましょうね」

「あ……。」

 君はけがをしているから、とラビットソン教授は微笑みかけたが、その表情には少し探るような色が浮かんでいた。

 コールは、ゆえに、反論などできなかった。


 〝皆を危険に晒しても〟?

 何を考えてたんだ、俺は……。


 先ほどの衝動のような気持ちを振り切るように、コールは頭を振って立ち上がった。

第二節 短絡的乱暴者の奔走

 「おい、ヒュウガ?どこ行く」

背を向けたヒュウガに、仲間が声をかける。

 〈風尾族〉はまさに今、〈風の戦士〉の集落を出立しようとしているところであった。

 男たちの掲げたたいまつが、まるで祭りでもあっているかのように、黒い森の中に煌々と光る大きな点となって、浮かび上がっている。

 「ハナを探しに行く」

 ヒュウガは仲間に向き直って、珍しく落ち着いた声で説明した。

「あの気味悪ィ異民族を味方につけた〈仙〉は、勢いづいてやがる。何としてでもこの機会に〈ルホウの寝床〉を手に入れたいはずだ。それは同時に、俺たちの敗北を意味する。だろ?」

「だったらどうしろっていうんだよ?!それでも今俺たちにできることは、村を取り返すことだけだろ?!」

「だから!」

ヒュウガの声に熱がこもった。

「だから、ジンオウが村を取り返す間に、同時に巫女も取り戻す必要があるって事だよ。〈ルホウの山〉を熟知してんのは巫女だけだからな!じゃねえと、奴らは諦めねえぞ。逆に言やあ――」

ヒュウガはにっと口角の片方をつり上げた。

「それができりゃあ、全ての利を一気に取り戻せるってこった。奴らはまた当分、攻めては来れなくなる」

「ふむ。考えは分かった、狼の戦士ヒュウガよ。それを以てどうゆく?」

「!ジンオウ?!いつの間に……」

 突然口を挟んだ初老の男の声に、仲間が声を上げて跳ね退いた。

 背の低い族長は、ひょろりとしたヒュウガをじっと観察するように見上げる。

 一方仲間は、族長を囲んでいるつもりで鬨(とき)の声を上げ続けている戦士たちの熱狂集団と、どうやって抜け出してきたのか神出鬼没な己の族長とを、不思議そうに交互に見遣った。

 ヒュウガは、ジンオウの前にひざまずいて、述べた。

「俺が単独行動で、捕らわれた巫女を探す。それだけだ」

「そうか」

 次の瞬間、ジンオウはヒュウガの狼の肩掛けをはぎ取って、彼の目の前で引き裂いた。

 ヒュウガは険しい顔で、黙ってそれを見ていた。むしろ見守っていた仲間の方がたじろいだ。

「戦士として闘わぬ今のお主に、これは不要だな?」

「……。」

「己の名誉は、その口で言ったことをやり遂げてみせることで、回復せよ」

淡々と告げられる厳しい言葉に、ヒュウガは、それこそヒグマと一対一で対峙しているかのような、緊迫感を含んだ笑みを浮かべた。

「ありがとよ、ジンオウ」

 その一言を残すなり、彼は〈ルホウの山〉の方へ、愛用の槍を片手に姿を消した。



 ******



 マキは、走っていた。

 どこへともなく。

 だけど、足は勝手に、〈ルホウの山〉へと向かっていた。


 はっ。はっ。はっ……。


 自分の息がやけに、耳に響く。


 きもちわるい。


 ――ガッ……どたーん。

 地面を這う蔓(つる)につま先を引っかけて、彼女らしくもなく派手にすっ転ぶ。

「……っ……。」

 起き上がる気力もなく、ただそのまま、体を丸めた。

 傷の痛みなんて、忘れていた。


 心が激しく乱れていて。

 胸焼けがして。

 悔しくて、悲しくて、

 自分に失望する。


 理由を挙げれば、いくつかある。

 またハナ姉に、『逃げろ』と言われてそうすることしかできなかった自分。

 事故とはいえ、コールを傷つけてしまった自分。

 いつも一歩追いつけていない、自分。

 悪態をつく気すら失せて、黙り込んでいると、ひどい吐き気が込み上げてきて、地面に這いつくばって咳き込んだ。

 何も吐くものなんてないのに。

「げほっ!げほっ!げほっ!……」

 しばらくそれを繰り返したのち、再び力無く、地面に身を預ける。

 目の端に、薄緑の光の列を捉える。

 ――キノコアリ。ここは通り道、か?

 だとしたら危険だ。

 キノコアリは気性が激しく、月光キノコを運ぶ邪魔になる動物は片っ端から毒針で刺して襲う。


 離れなきゃ。せめて……立ち上がらないと。

 思いはただ頭の中を巡るだけで、体は動こうとしない。


 〝意味、あるのか?〟

 もう一人の自分が、ひっそりと囁く。

 〝立ち上がって、このまま走り続けて、意味があるか?私にハナ姉はどうしたって、助けられないというのに〟

 ぞくりと悪寒が走って、さらに肩を抱いてうずくまった。

「でも……」

 マキはゆらりと手をついて、立ち上がった。

「でも、死にたくないんだ!」

その大きな瞳からは、栓を外したかのように、涙が溢れた。

 〝死にたくない〟

 誰より、〈風の戦士〉より、〈ルホウ〉より、結局は自分か。

 マキはその拭えない恐れに、皆への罪悪感に、深く後ろめたさを感じた。

 でも、足はよろよろと、勝手に進む。

 夜だからといって、彼女の足は道を覚えていて、決して方向を違えることはない。

 マキはキノコアリの列を飛び越えるとき、薄明かりを見下ろして、ふと呟いた。


 〝綺麗だ。〟



 ******



 「ぐぁああああああっああああっ!」

 〈仙〉の伝令兵駐屯地があったところで、男の悲鳴が上がった。〈仙〉兵の悲鳴だった。

「なあオイ、叫んでねえで教えろや」

 ヒュウガの苛ついた声が闇を低く震わせ、突き立てた槍が、ぐいとねじられる。

 地面にうつぶせに抑えつけられている〈仙〉伝令兵は、右手の甲に走るさらなる激痛に、また引き絞るような悲鳴をあげた。

「もう一回訊くぜ?」

 ヒュウガはゆっくりと何度目かの質問を繰り返す。

「巫女を連れ去ったそちらさんの男は、どこへ、行った?」

「だっ……だから!」

苦痛で涙目になりながら、伝令兵の男は必死で答える。

「巫女など知らんと言っているだろう!本当に……ぎゃっ……あああ」

 ズンと槍に体重がかけられて、切っ先が彼の手の肉をさらに深くえぐり、伝令兵はむなしくもがく。

「やっ、やめろ!そうだ!巫女は知らんが、伊吹が女を拾ったと言って連れてきたのならば見た!それのことか?!」

 ぴく、とヒュウガの片眉が動き、膝で伝令兵の背中は押さえつけたまま、手に込めた力だけを緩める。

「伊吹……〝息吹〟か。フン、大層な名だな。そいつはどこ行った」

 ギリッ。手の甲が再び嫌な音を立てて、一寸ホッとしていた伝令兵は思わぬ痛みにいっそう大きく声を上げた。

「み、都へ行った!我が大王(おおきみ)様に伝令のため、走ったきりだ!」

「なるほどな。あんがとよ、オッサン」

ヒュウガはにやりと笑って、膝を退けた。

 伝令兵は今度こそ解放されて、転がるようにヒュウガから離れると、血の出る右手を押さえながら、吐き捨てた。

「調子に乗れるのも今の内だ、猿どもめ。なぜ我ら伝令兵がこの駐屯地を片付け、私だけが森に潜んでいたか、分からんか」

「は?知るか。関係もねえよ」

 血を払うように槍をぶんと一振りして、すぐさま去ろうとしたヒュウガの背中に、伝令兵の痛みをこらえた声が降りかかった。

「今に、ここも〈仙〉軍が占拠するからだよ!阿呆が!」

「……?!〈仙〉の大将が軍を率いたってのか!」

 振り返り様、ビシッと弦をはじく音がして、一本の矢がヒュウガに向けられた。

 しかしそれは足下を、無様に土を削りながら滑っただけだった。

「んの野郎ッ――!」

カッと頭に血の上ったヒュウガが、伝令兵に槍を振り上げるも、

「…………。」

振り下ろすことなく手を止めた。

 傷む右手を無理に使って最後の矢を敵へと放った伝令兵は、気を失っていたのだ。

「チッ、やり逃げかよ」

 だらだらと手から血を流した状態で気を失った彼は、仲間が側に隠れてでもいない限り、もはや助かりはしないだろう。

 ヒュウガは何か消化不良のような顔をしながらも、森の中へと足を向けた。

 〝伊吹〟は〈仙〉の大将の所へ向かい、〈仙〉の大将は軍を率いてここへ来る。

「攻める人数増やしたからって、〈風尾族〉がやられるかよ」

 頭の中を整理しながらも、それだけは、口に出して言い聞かせずにはいられなかった。

 ヒュウガは森の中を、〈仙〉が現在制圧している場所――〈風尾族〉の村の方向へ向けて走り出した。

 軍を率いて来るというのなら、遅かれ早かれ大将はあそこに陣取るはずだ。

 というか、この鬱蒼とした土地では、他に布陣できるような場所など無い、というわけだ。

 しかし半刻ほど駆けたところで、彼は足を止めることとなる。

 前方に、ふらふらゆらゆらとおぼつかない足取りで向かってくる、小柄な人間の姿を見つけたからだ。

 子どもであることだけは、暗闇でも知れて、警戒しつつもさっさと近づき、それが誰かを確かめる。

 月明かりで顔が分かるなり、ヒュウガは目を見開いた。

「テメエは、ハナの――」

その声に初めて、マキは誰かが近く覗き込んでいたことに気づき、ぼうっと顔を上げた。

「ああ……短絡的乱暴者か」

「容赦ねえな……オイ、それよりお前の姉貴探してやってんだけど、何か知らねえか?」

 尋ねたヒュウガの前で、マキの頭が前後に揺れた。

「オイ……?」

次の瞬間、彼女の体からふっと力が抜け、倒れ込んできた。

「オイ!どうした、えーとマ、マイ?マイ!」

 とっさに支えたおかげで、地面に頭を打ち付けることは免れる。

「マキだ……間抜け」

 うっすらと目を開けて、ヒュウガに身を預ける形になりながら、もうろうとした様子でマキは訂正した。

「ああ、そうか。ってこれだ!この出血のせいだお前、一体何やった?!」

「ハナ姉……助け、られない。無理だ、もう」

そうして、すうっとその目は閉じられた。

第三節 迷宮の入り口


 ひんやりと冷たくすがすがしいものがのどに流し込まれ、マキははたと目を開けた。

「お、気づいたかよ」

 目の前にヒュウガの顔があったので、とりあえず反射的に殴ってしまった。

 ごんっと割かし容赦ない音がして、ヒュウガはその高い鼻を押さえてうずくまった。

 拍子に、動物の皮をなめして作った彼の水筒が地面に落ち、中身の水をぶちまける。

「……いってぇなあオイ!せっかく助けてやったってのに!」

体を起こしたマキは、すぐに状況を理解して、

「ああ、すまん」

ちゃんと謝った。

「謝罪が軽いな!テメエ舐め腐ってるだろ……」

ちゃんと謝ったのに、この短絡的乱暴者は何か納得いかなかった様子だ。

 まあ、悪いなどとこれっぽっちも思っていなかったのも事実だが。

「ちゃんと止血しとけ」

 ヒュウガは頑丈でしなやかな青い蔓(つる)を木の幹から引っぺがすと、ぶっきらぼうに放ってやった。

 マキは少し面食らいながらも、素直にそれを受け取る。

「傷口が開いてんだよ。てめぇ、貧血起こしたんだ」

「……そうか」

「…………。で?」

「あ?」

マキは黙々とほどけかけの腹の包帯を巻き直しながら、ヒュウガの一文字の意味を一文字で聞き返した。

 腕の包帯は血でべちょべちょになっていたため、ほどいて折りたたんであて布のようにし、蔓で口も使ってしっかりと縛り上げた。

 ヒュウガが険しい顔で言う。

「ハナはどうした?」

 途端、マキの目に憎悪の光が浮かんだ。

「その口でハナ姉の名を語るな、二度と!この堕ちた一族めが!」

マキは腰の短刀へと左手を伸ばし、抜き取って投げつけようとした。

 が、伸ばした手は柄を掴むことなく、するりと空を切った。

 それでやっと、アメリアに撃ち落とされたことを思い出す。

「くそ……」

 ギリッと唇を噛んだマキを見遣って、ヒュウガは不機嫌そうに言い返す。

「オイオイ何だってんだよ。俺はハナを守ろうとしてやったんだぜ?〈仙〉兵に見つかる前に隠してやったんだ。それを何だよ、悪者みてえに」

「そもそもお前ら〈風尾族〉が寝返ったりしなけりゃ、こんなことにはならなかった!」

「あのなあ」

喚くマキに、かがみ込んで視線を合わせ、ヒュウガがため息混じりに声をかける。

「〈風尾族〉だって危なかったんだ。ああしなきゃ、皆殺されてたんだよ」

「そんなものが言い訳になるか!〈風尾族〉は役目を捨て、分離して崖に居を構えたが、元は〈風の戦士〉と違いなかったはずだ!戦士ならば戦え!最後まで!」

「いい加減にしろよ」

 ヒュウガの低い声が、マキの言葉を止めさせた。

「先祖の話なんか知るか。俺たちを〝堕ちた一族〝というなら、尚更俺たちには、お前らの事情なんざ関係ねんだよ。

 ひとつ言っとくぜ、〈風の戦士〉サン。

 ジンオウが守っているのは〈ルホウ〉じゃねえ。ともに過ごす家族だ。いつだってな。

 だから交流のあるテメエらだって襲った。ジンオウが、〈風尾族〉が、どんな気持ちでそれを実行したか、訳も分からねえくせに勝手なことべらべら並べ立ててんじゃねえぞ」

 彼の瞳にも、怒りが満ちていた。

 マキは負けずに言い返そうとしたが、次のヒュウガの言葉で、それをためらった。

「正義掲げてりゃ済む奴らは、ラクだよな」

「――――。」

その言葉に込められた意味は、マキにはいまいち理解できなかったが、何よりヒュウガの投げやりな様子が、気にかかった。


 コイツに、チャンスを与えてもいいのかも知れない。

 いや、〈風尾族〉に。

 〈風尾族〉は、心まで売ったわけではなかったと、

 ――信じてみても、いいだろうか?


 「ヒュウガ」

マキはごくりとつばを飲み込んで、心を決めて顔を上げた。

「ハナ姉は〈ルホウの山〉の入り口までの案内役をさせられてる。人数はハナ姉以外に七人だ。奴らが約束を守れば、ハナ姉は入り口で解放されるはずだ」

「なっ……本当かそれ?!」

ヒュウガが目を見開いて、思わずマキの両肩を掴み、傷口を押さえられてマキが短く悲鳴をあげた。

「痛い!」

「あ、悪ィ」

ぱっとヒュウガは離れる。

「だけどよぉ、そこまで案内しちまって、本当にハナは解放されるのか?」

 ヒュウガが険しい顔をすると、マキは予測済みらしくうなずいた。

「だから、待ち伏せする。約束を守らぬようなら、私たちでハナ姉を助けるんだ」

「……!マイ、テメェ……」

ヒュウガが意外そうに驚いた声を出し、

「マキだ間抜け!」

マキが鋭く訂正した。

「よっしゃ!」

 ヒュウガが気合いの声とともに立ち上がった。

「そうと決まればさっさと行くぞ!」

「ああ」

マキは立ち上がろうとして、立ちくらみに木に寄りかかった。

 その様子を黙って見ていたヒュウガが、ぽそりと提案した。

「……おぶるか?」

「いらん!」

マキは全力で即答した。



 ******



 ハナは、マキとは別のルートを進み、〈ルホウの山〉を東側へ回り込む方向へと、皆を導いていた。

 ハナのすぐ前を、バロゼッタ兵が邪魔な枝や草を払い落としながら、道を作って歩く。

 ハナは暗い色を瞳に落としながら、黙々と歩を進めていた。

 八人行動は、やはりペースが落ちる。

「どのくらいで着く」

 伊吹がそれとなくハナの横に来て、目線を前にしたまま尋ねた。

「……夜明けには」

 ハナは星と月の位置を確かめるように一度空を見上げて、ぽそりと答えた。

「巫女」

 伊吹は口を動かさずに、声を落として呼びかけた。

「あの子は大丈夫だ。生きようとする者は、そう簡単には死なない」

 ハナは、ぐっと気持ちを抑えたような顔をした。

「それを言いに来たのか」

ゆるい風にかき消されそうな程の声で応える。

 気持ちを察せられ、気休めの言葉をかけられたと思うと、腹が立った。

 しかし伊吹は、それすらも察したのか、こんな風に続けた。

「そなたの隣にいる男も、運だけで生き延びてきたと思うか?」

 ハナは伏せがちの目を見開いた。

 伊吹の言葉には、想像を絶するであろう過酷な運命を過ごしてきた、独特の重みがあった。

「ハナ」

 初めて名前を呼ばれ、不意打ちにぎょっとしてしまう。

 立ち止まりそうになった足を、何とか動かす。

 伊吹はハナの心の動揺には気づかなかった様子で、そっと言った。

「あの子を信じろ」

 励ましでも、気休めでもない。

「気高きそなたたちを、失意の底に落としたりはさせぬ。決して」

 〝約束〟よりも、はるかに重い響きを伴うその言葉は、

 敵の中で一人、綱渡りをしているハナにとっては、うっかり心強く聞こえてしまう。

 何の根拠があるの、と言い返したかったけれど、伊吹の言葉は不思議と、すうと染み渡るように胸を満たし、そんな隙を与えなかった。



 ******



 一方マキとヒュウガは、あの岩窟の入り口付近にたどり着くと、二カ所に分かれて岩陰に隠れた。

 作戦では、まずマキが飛び出して囮になった隙に、ヒュウガがハナを助け出すという算段だ。

 つまり強行手段でハナ姉を救い出すかどうかの判断は、マキにゆだねられていた。

 マキはとりあえず投げつけられそうな大きめの石だけ、手近に準備していた。

 マキの場所からは岩窟への入り口が見下ろせる。

 緊張を解けないまま、じっとその時を待った。

 やがて長い夜は明け、

 空が白い光を浴び始める。

 しかし、

「?」

 来ない。

 マキは岩陰から顔を出し、森の方を見遣った。


 何故だ?

 もう着いていてもおかしくない。

 気配すら――。


 刹那に浮かんだ嫌な考えに、息を止める。

 まさか…………!

「ヒュウガ!ここじゃない!」

 マキは岩陰から飛び出して、下方に隠れているヒュウガに叫んだ。

「は?」

ヒュウガが驚きながらも顔を出す。

「〈ルホウの山〉に入るには、ここだろ?」

「入り口は他にもある!」

マキは青ざめながら続けた。

「ハナ姉は他のどれかへ向かったんだ!」



 ******



 伊吹は、辿り着いた場所で、言葉を失っていた。

 「壮観だな」

アメリアが特に感動も見せず冷静につぶやく。

「フン、この中に……」

大王(おおきみ)火穂伎命(ほほぎのみこと)は、目をぎらつかせてにやりと笑う。

「ついに〈ルホウ〉が我がものに……!」

「すごい」

コールが声を上げ、ラビットソン教授もうなずいた。

「ま、まことに興味深い建築です」

 そこは、岩を掘って造られた、広い地下道を通り抜けた先に、突如立ちはだかるように現れた場所だった。

「すでに山の中、といったところですか。まさに〝入り口〝ですね」

ラビットソン教授は、片眼鏡を押し上げ、感嘆の声を漏らした。

 巨大な岩壁が円筒となって、高く空に突き上げている場所だった。

 ちょうど明るくなってきた空から、光のカーテンが降り注ぐと、ある一点をことに眩く照らし出している。

 それは、西側の岩壁一面を透かし彫りで仕立て上げた、絡み合う幾匹もの龍の彫刻。

 表面はつやつやと、塗料で仕上げたかのように濡れた輝きを見せ、大きくせり出した岩窟の天井から滴り落ちるしずくが、光の反射をあちこちで起こせば、龍たちが動いたかのような錯覚を起こさせる。

 下方には、人が通れる門が開けられていた。

 二本の太い円柱で、角材を支えるような形のその門にも、当たり前のように二匹の龍が巻き付き、通行人を見極めるかのように、目玉をぎょろりと睨ませていた。

 もちろん門自体も浮き彫りの一部だ。

 浮き彫りの壁から零れる朝日は、さらにその奥の岩壁を光らせる。

 龍の壁に守られた向こう側に、ぽっかりと巨大な穴が口を開けて待っていた。

 その穴の周りにも丁寧に彫刻が施され、斜め上方両側に、ひとつずつ半球形の目玉をひんむかせれば、くぐる者たちをまるで龍の口に入らねばならぬかのような心持ちに陥らせる。

「どういうことだ、ハナ」

伊吹が表情に少しだけ険しさを加えて、低い声で訊いた。

「あの狭い岩窟が、入り口なのではなかったのか」

 目の前に見せつけられているのだから、答えは明らかなわけだが、それでも訊かずにはいられなかった。

 ハナは淡々と応えた。

「入り口は、風が吹き出す隙間の数だけ存在する。だけどその中でも、最も神聖で正当な入り口はここ。いくら許嫁(いいなずけ)だろうと、この場所だけは教えたりしない」

「…………っ」

伊吹ははっきりと顔を歪めた。

「なぜ、わざわざそのような場所を選び連れてきた」

 すると刹那に、ハナが伊吹の顔を見上げた。

 無表情だったが、瞳に、怒りに近いような熱が宿っていた。

「広いから」

 その答えに伊吹は面食らって、じっとハナを観察するように見つめた。その心内を、読み取ろうとでもするかのように。

「なぜ」

 二人の会話は一言ずつだというのに、何故かお互いに意味が通じた。

 伊吹はつまり、ハナが自分の復讐の邪魔をするため、あえてここを選んだのだと言っているのを、理解した。

 その上で、「なぜ邪魔をする」と尋ねたのだ。

 ハナも伊吹の質問の意味を分かっていた。

 ふいっと目をそらして、彼女は言った。

「復讐なんて、ダサイよ」

 伊吹はまたもや絶句した。

 なんだそれは。ふざけているのか。

 声を荒げたかったが、冷静な彼はすぐに大王(おおきみ)に目をやり思い直す。

 ――いや、まだだ。まだすべてのチャンスが失われたわけではない。気づかれてさえいない限りは、やれる。

 「伊吹。何をしておる、行くぞ」

大王(おおきみ)が視線に気づき、呼びかけた。伊吹は密かに、ぐっと銅剣の柄を握りしめた。

 ――しかしまずは、巫女との約束が先だ。

 「我が大王(おおきみ)」

 彼は大王(おおきみ)の前でひざまずき、両拳を目の上で合わせ頭を垂れた。

「約束を守った巫女の解放を」

 大王(おおきみ)は伊吹ごしに、ハナの横顔に目を向け、数秒だけ考えるそぶりをした。

「いや、あれも連れて行く」

「?!我が大王(おおきみ)、しかし道案内ならば、あの異民族が作った龍風(るほう)灯で事足りるかと」

 伊吹は少し焦りながら進言する。が、大王(おおきみ)は次にもっと信じられないことを口にした。

「いやいやいや、伊吹、お前は賢いから、当然察してくれるだろうと思っておったぞ。あの娘……そう、あれは巫女ではなく娘だ。美しく芳しい娘。〈龍風(るほう)〉を手にした暁には、側に置き奴隷として使うのも一興。違うか?」

 堂々とのたまった大王(おおきみ)の言葉はハナの耳にも届き、ハナは大王(おおきみ)の方を見て硬直した。

 伊吹は怒りを抑えるために重ねた拳にしびれるほど力を入れ、心の中でハナに向かって文句を言った。

 ――私の復讐の邪魔などするから、己の首を絞めることになるのだぞ!

 「連れてこい」

大王(おおきみ)の絶対の圧力に、伊吹は

「御意に」

そう答えるほかなかった。

「あなたは約束を守らないと!」

 声を上げたのはコールだった。

 じろりと火穂伎命(ほほぎのみこと)がコールを見遣ると、コールはびくりと少し身を引いた。


 勢い、だけだった。

 とっさに、マキの傷ついた顔が浮かんで。

 気づけば、あの人を守らなければと、使命感を伴ったかのように、口が動いていたのだ。


「何か言うたか、小僧」

冷たい光を帯びた火穂伎命(ほほぎのみこと)の声が、コールを黙らせる。

 コールはまるで、胸の内に用意していたはずの言葉をすべて、その男に絡め取られてしまったかのような気色に囚われた。

 口を開けたまま、固まってしまう。

 伊吹が頭を垂れたまま、

 余計な口出しをして自分の首を絞める奴がここにも一人いたか、と密かに顔を歪めていた。

 しかしそこに、アメリアのバロゼッタ語が割り込んだ。

「確かに得策とは言えませんな、〈仙〉の大王(おおきみ)」

 ラビットソン教授が滝のような冷や汗を流しながら、大佐の言葉を同時通訳して火穂伎命(ほほぎのみこと)へ伝える。

「なんだと?」

火穂伎命(ほほぎのみこと)は、あからさまに不快感を表情に出して、アメリアへと目を向けた。

 我に口出すと言うことが、どういうことか分かっているのか。

 大王(おおきみ)火穂伎命(ほほぎのみこと)の目が、そう言っていた。

 アメリアはそれを受け流すようにして、続けた。

「従者のその男、」

自分のことが引き合いに出され、伊吹がぴくりと耳を動かす。

「私が見た限りだと、ここに着くまでに何度か、あなたに向けて殺気を放っていたように見えたが」

「…………。」

「それがどうした?」

伊吹は頭を垂れたまま押し黙り、火穂伎命(ほほぎのみこと)は分かっているとでもいうようにすぐに聞き返した。

「この男はそもそも奴隷で、我を憎んでおる。殺気が向けられるのは平時のこと。のう、伊吹?」

にやついた顔が伊吹の頭頂部を見下ろし、伊吹は今すぐ銅剣に手をやりたいのをこらえながら、

「いえ、……」

ただそう言葉を濁すしかない。

火穂伎命(ほほぎのみこと)はアメリアにふんぞりと向き直って、

「だがこの男は我に斬りかかれぬ。噛みつくことすらできぬ。我が、王であるがゆえ」

そう言い切った。

しかしアメリアは動揺した様子も見せない。

「可能性の話だ。巫女を連れて行けば、あなたの首を狙う頭数は増える。目的のために二人が手を組めば、さすがのあなたも危うかろう。……はっきり言っておくが」

 アメリアの次の言葉に、

「我々は貴様に協力するが、用心棒ではない。それを心に留めておけ」

火穂伎命(ほほぎのみこと)はようやく顔をしかめて考えることになった。

 珍しく、終始ラビットソン教授が意訳せずともすむ言葉を選んでいたというのに、最後の最後で危険な発言。

 油断していたラビットソン教授は、それをそのまま火穂伎命(ほほぎのみこと)に伝えてしまった。

 しかしそれが今回は、逆に功を奏したのだろう。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)は言いくるめられたのがしゃくに障ったような顔をしていたが、やがて忌々しげに伊吹に言った。

「巫女を解放しろ」

「やめておけ」

 重ねてアメリアの待ったがかかり、そこにいる全員が「?!」という顔をした。

「拘束は解くな。今自由にすれば、その巫女は我々の邪魔をするために動くだろう。ここは彼女たちの山。仲間に知らされることだけは避けねばならん。……行け」

説明の後、バロゼッタ兵の一人に指示する。

「我々がここへ戻ってくるまで、あの女を見張っておけ。その後は私の関知するところではない。大王(おおきみ)、どうとでも貴様の好きにするがいい」

最後は火穂伎命(ほほぎのみこと)に呼びかけると、火穂伎命(ほほぎのみこと)は再びその表情に悪どい笑みを取り戻した。

「なるほど、よい考えだ。一時は、後の処遇を考えねばならぬかと思うたぞ、アメリア殿?」

するとアメリアは、にこりと愛想笑いを浮かべた。

「まさか。ここまできて、貴様の逆鱗に触れるような愚かな真似をするわけがなかろうが。今までの我慢が無駄になってはかなわん」

 それはさすがに、ラビットソン教授が大幅に意訳した。

 「大佐……」

 門に向かってきびすを返したアメリアの背に、コールが思わず声をかけると、アメリアはぼそりと呟いた。

「コール助手、心配することはない。〈ルホウ〉を我々が手中にしたとき、あの愚王はこの世から消えるのだから」

「……!」

 固まったコールをちらりと見遣って、アメリアは不敵にふっと微笑んだ。

「まあ、〈ルホウ〉に利用価値があればの話だが」

 こうして一行は、ハナとバロゼッタ兵一人をその場に残し、ついに門をくぐったのだ。

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