第三夜「クリスマス」
カーテンの隙間からこぼれる朝日で里保菜は目を覚ます。自分の体温で暖められた毛布に自分の肌をこすりつけ、自分がショーツしか身に着けていない事を確認する。
二〇二二年、十二月二十五日、日曜日。今日はクリスマスだ。
子供の頃を思い出せば、クリスマスと言うのはこのクリスマスの朝が本番だった。サンタクロースがツリーの下にプレゼントを置いておいてくれる。イブがケーキを食べる日で、クリスマスは貰ったおもちゃで遊ぶ日。そんな印象だった。
里保菜は昨日の出来事を思い出しながらも、隣に夏海がいないと気付く。
「あれ、ナツぅ?」
寝起きでぼやけた視界のピントをゆっくりと合わせていく。ベッドの先には昨日夏海に着せてから脱がせたサンタクロース風のワンピースが、まるで夏海の抜け殻のように転がっていた。一度廊下に出てみるが、キッチンにも浴室にも夏海の気配はない。一度、トイレで用を足してから、リビングへと向かう。
ソファにはブランケットに包まった夏海がいた。エアコンもついていたので夜中に移動したのだろう。
時計はあと少しで十時を指そうとしていた。一度ソファとブランケットの間に潜り込んで、夏海と一緒になって遊んでから、ブランチを食べるのにいい時間だろう。
里保菜はゆっくりとソファに腰かけ、ブランケットをめくっていく。黒髪、白い肌、細い肩がゆっくりと露出して、カーテンから漏れる冬の柔らかな光線に晒されていく。
「ナツ? ……夏海、大丈夫⁉」
夏海は身体を小さく畳んで小刻みに震えていた。里保菜が慌てて額に手をあてると、明らかに自分の手のひらとは違う熱を発していた。
うなされている夏海を何とかベッドへと移動させ、ホットタオルで身体を拭いてからスウェットへと着替えさせる。発熱で過敏になった肌にホットタオルが気持ち悪かったようで、何度も「いい。大丈夫です。いい。痛い」とくずった子供のような声を上げていた。里保菜は「ごめんごめん」と言いながら出来うる限り優しくタオルを肌に滑らせた。
心配だけで言えばすぐにでもタクシーに乗せて病院へと連れて行ってあげたかった。だがコロナ渦以後の発熱の対応を里保菜はあまりよくわかっていなかった。体温計で測ってみると、熱は三十八には達しておらず、夏海は平熱が低いと言っていた事を思い出していた。
もし、夏海の症状が新型コロナウィルスの発症という段階であれば、里保菜は確実に濃厚接触者だ。だが、普通の風邪という事も十分に考えられた。里保菜はすぐに以前に買ってあった抗原検査キットを夏海とともに試してみた。
結果はふたりとも陰性。だが発熱初日なので抗原検査が上手く機能しているかはわからない。
「でも、裸でブランケット一枚でしたから……。風邪じゃないですかね」
「もう、なんでベッド戻らなかったのぉ。私、邪魔だった?」
「ごめんなさい。なんでだろう。お酒残ってたのかな?」
夏海は申し訳なさそうに力なく笑った。とりあえず様子を見るに、すぐに病院にかけこんだり、まして救急車を呼ぶような症状には見えない。
「……ナツ、私、とりあえずスーパーとドラッグストアに行ってくるけど、なにか欲しいものある?」
夏海は自分が里保菜の香りに包まれていることに気付き始める。
(里保さんの匂い。里保さんのベッドの匂いだ。
昨日は、トイレに起きて、里保さんがいるベッドには戻らなかった。
なんだか、良くない想像が頭にひろがって、だから、里保さんがいるベッドには戻らなかった。
良くない想像は、良くない。だから今は思い出したくない。
だけど今は里保さんのベッドにいる。なんか、風邪をひいたらしい。
風邪を引いたから里保さんのベッドにいるんだ。落ち着く。
里保さんはなにか欲しいものある? と聞いて、出ていった。
きっとクリスマスプレゼントの話ではない。プリンが食べたい。
そうか、今日はクリスマスなのか。
だから『ラスト・クリスマス』の歌詞を調べたんだ。
あ。なんか、良くない想像を、思い出してしまいそう。)
夏海は身体を持ち上げてベッドから降りた。ダブルベッドには普段使っている羽毛布団と毛布の他に、夏場に使っているタオルケットまでがかけてあり、できるだけ身体を温めようとする里保菜の気遣いが見えた。
一歩、一歩を丁寧に動かしてトイレへと向かう。普段の風邪ならフローリングの冷たさが骨にしみるのだろうが、夏海の足は部屋用の毛糸の靴下で守られていた。これも里保菜がしてくれた事だろう。
夏海はトイレを済ませると、キッチンに立ち寄った。そこにはサーモスの断熱マグカップとメモが置いてあった。
『はちみつとしょうがのドリンク。余裕あったら飲んで』
余裕あったら、という文字を見て、キッチンに置いてあった理由を察した。ここに来るという事は余裕があるという事だ。栄養であっても、無理して飲んで体力を奪われては意味がない。
そんな里保菜の気遣いに触れて、昨日よぎった良くない想像など、どこかへ霧散していった。風邪の症状すらどこかへ消えていくような気すらする。
自分を大切にしてくれる人がいるベッドを避け、その結果風邪をひいてしまうなんてなんて恋人だ。嬉しさとともに恥ずかしさがこみあげてくるようだった。
そんな気分のままマグカップを持って寝室に戻った。里保菜が作ったホットドリンクをすする。
甘くて、ほんのり刺激的。夏海が焦がれていた物語のような味だった。
だが、それを味わえたのはほんの一口二口だった。毛糸の靴下で、昨日脱ぎ捨てたサンタクロース風のワンピースを踏んでしまい、スリップした。マグカップをそのまま手放し、フローリングに撒いてしまう。
「ああ、里保さんごめんなさい」とひとりで慌てる夏海。ごめんなさいはフローリングを汚したことよりも、ホットドリンクを無駄にした事に言っている意識だった。
里保菜の思いを手放したようで、ひどく罪悪感があった。
すぐに立ち上がり、寝室にあるクローゼットを開ける。バスタオルが入った衣装ケースがそこにあり、普段から勝手に開ける事はあった。
「え……、なに、なんで」
自分の顔に血が昇っていくのがわかる。それは風邪のせいでも、先ほど一口飲んだドリンクの効果でもないのはわかりきっている。
そっとクローゼットの奥にある箱に手を伸ばす。その箱が空であることを祈って。だけど、里保菜の性格的に、そんなすぐに片づけたりしないのは知っている。
「中身、入ってんじゃん」
夏海は中身の入ったホームスターの箱をクローゼットの奥に戻した。
昨日、里保菜が言っていた「それ欲しかった」は嘘だったんだなと思うと、自然と涙が出てくる。自分のプレゼントが絶対に喜んでもらえると思っているほど傲慢ではない。興味がなかったものでも喜んだふりをしてくれる優しい彼女だと思う事もできる。
けど、プレゼントしたまさに次の日、クローゼットの奥にしまい込むのはひどいのではないか。ミニマリスト傾向のある人なら問題もない。だが、里保菜はそうではない。棚やテレビ台の上にもちょっとした小物を置いて、部屋を賑やかにするタイプだ。
クローゼットの奥にしまい込まれたホームスターの箱。
それはまるで里保菜が夏海の想いを手放したようにもみえた。
「ラスト・クリスマス」は縁起悪いよ、と言っていた里保菜を思い出す。まるでこの事をうたった歌みたいで、自分は縁起の悪い事をしてしまったのかと自分を責める。
里保菜がクリスマスプレゼントを用意していなかったのも、そういう事なのだろう。次々に悪いパズルが頭の中に組みあがっていく。風邪をひいているはずなのに、ずいぶんと冴えているものだと自嘲的に笑う。
笑うと、やはり、涙がこぼれる。
「ナツ⁉ どうしたの! ナツ!」
前後不覚になるほど、泣いていた。それは悲しみのせいでもあり、風邪のせいもあるのだろう。
里保菜の足元には近所のスーパーのビニル袋が落ちていて、スポーツドリンクやプリンが床に放り出されていた。
「え、なに。これ溢したから泣いてたの⁉ 子供⁉」
里保菜は夏海を抱きしめながらも、クローゼットの衣装ケースからバスタオルを取り出し、まるでボクシングのセコンドようにフローリングのドリンクめがけてタオルを投げる。
「どした、どした。ナツ。ごめんごめん、不安だったね。ひとりにしてごめんね。ちょっと、熱あがってるよ。ほら、落ち着いて」
里保菜が背中をさすってくる。猜疑心に取り憑かれた夏海にとって、それは何とも取り繕った行動にも感じたが、同時にとても安心する温もりだった。
「……里保菜さん。あれ、なに」
夏海が里保菜を里保菜さんと呼ぶとき、それは真剣に何かを訴えたい時だ。
つまり怒っている時か、愛し合っている時。
今はどう考えても怒っているよな、と思いながら夏海が指さす方を見る。
「あれって。……あぁ、バレた?」
一切悪びれる事のない里保菜のリアクションに、夏海の全身の筋肉が弛緩してく。もう、怒ったり悲しんだりすることもできない。
「いやぁ、昨日、ナツがあれ持って登場した時、ビックリしたよ」
「……そうですか」
「とっさに取り繕うのに必死で、必死で。バレてなかった?」
「……演技がお上手なようで」
「見っかっちゃったなら、しょうがない。ナツ、いる?」
里保菜が笑いながら背中をさすってくる。発熱のせいなのか、里保菜への想いのせいなのか、その手は酷く嫌悪感のあるものに変わってしまっていた。
もう触らないでほしい。風邪が悪化する。
里保菜がプレゼント交換などの恋人っぽい事が苦手なのは知っている。
でも、今までの言葉はあまりに残酷だった。
「いやぁ、まさかプレゼント被るとはね」
「―――はい?」
「―――いや、先週の錦鯉の話といい、私たちはアンジャッシュか」
里保菜は握りこぶしの一つでも入りそうなほど大きな口を開けて笑ったと思うと、ペコリと頭をさげた。
「プレゼント被ったくらいで、買ってないって嘘ついてごめんなさい」
「私もリビングのホームスター確認せずにブチ切れてごめんなさい」
ふたりは正座で正対して、しばらく頭を下げあった。
「―――はい、誤解が解けたところで、ベッド戻りなさい」
夏海はおとなしくベッドにもぐりこみ、里保菜はこぼれたホットドリンクの掃除を始めた。
「でも、なんで隠したんですか? くれれば良かったじゃないですか。私もあれ、欲しかったんですよ」
「……いやぁ、なんか、恥ずかしかったのかな」
里保菜は夏海の方を観ずに、歯切れ悪く答える。
「じゃあ見つけちゃったんだから、あれ、くださいよ」
「あー……。いや、えっと、いいんじゃなない? ウチで見れば」
やはり里保菜は歯切れが悪い。それに理屈が通っていない。
「里保さん、何か―――」
「―――ナツ。こうやって風邪ひいて困ったりさ、先週みたいに夜遅くに帰したくないとか、あるでしょ?」
夏海の言葉をさえぎってまで里保菜が言葉を紡ぎだしたので、脈略のない質問だったが「はぁ」と答えておいた。
「……で、その。だからプラネタリウムはひとつでいいように、しない?」
「いや、だから、あれ、私も欲しいんですって」
里保菜はフローリングを綺麗にし終わって、バスタオルをもって立ち上がる。そのまま寝室を出て行って、洗濯機を回し、戻ってくる。
その間、一分ほど。
「……意味、伝わった?」
「え? どういうことですか?」
「こんな所までアンジャッシュしなくていいのに……」と言いながら目頭を揉むと、ベッドに近づいて腰掛ける。
そっと、額に手を当てる。
「熱、上げないでね。……いや、私が熱出そう」
先ほどまで涙を延々と流し続け、夏海の瞳はしっとりと潤んでいた。里保菜はその瞳を正面から見て、言葉をゆっくりと伝える。
「……一緒に暮らそ。だからプラネタリウムは一つでいいの」
「……あーぁ、はいはい。なっ、るほど。……なるほどです」
夏海のあまりに気の抜けた返事に、ふたりの間に沈黙が流れる。そして、その間に夏海の鼻から、たらりと鼻水が流れてくる。
「ちょ、鼻水出ちゃった。ごめんなさい」
「おおぉ、大丈夫?」
再び、沈黙。
「……ねぇ、いつもみたいに素敵ですねとか、ロマンチックですねとか言いなさいよ」
「いやぁ、あまりに里保菜さんが似合わない事言うからびっくりしちゃって」
「……じゃあ、とっておきの情報を足そうかな。今はクリスマスの朝」
「あぁ! それロマンチック! 嬉しい!」
夏海が満面の笑みを浮かべたので、大きく息を吐いて肩の荷を下ろす里保菜。
優しく夏海に微笑みかけ、顔を近づける。
「あ、キス、ダメですよ。風邪うつっちゃう」
「さっきので熱出してないか、おでこくっつけるのよ」
「……あ、うそつき」
カーテンからもれる冬の柔らかな光は、ふたりを祝福しているようにもみえた。
―――了
2022年、クリスマス。 伊藤祐真 @ito_lily_yuma
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