第二夜「クリスマス・イヴ」
二〇二二年十二月二十四日、土曜日。クリスマスイヴ。
小田急線新百合ヶ丘駅は里保菜と夏海がそれぞれ住む駅から十五分ほどで到着する、小田急線の中では大きめの駅のひとつ。
改札を出てすぐにある自然光を多く取り込むコンコースには、クリスマスツリーが飾られていたり、駅に併設されたケンタッキーフライドチキンではスタッフが外に出て客の誘導をしていたりと賑やかだ。
夏海は待ち合わせの一時間前には到着し、近くにある商業ビルをブラついていた。深いグリーンのタータンチェックのスカートに、クリーム色のセーター、ゆったりしたアウターはワインレッド。世界で一番わかりやすいクリスマスコーディネイトだ。ここに何か足せるワンポイントアイテムがあればその場で買ってしまおうと思って早めの到着をしていた。
商業ビルをあてどなく歩いていて目で追ってしまうのはお目当てのアイテムではなく、カップルだった。土日なのだから通学なんてしなくていいだろうに、制服を着た高校生も目立つ。
そんなカップルを見て、夏海は少しだけ、青息吐息を吐いた。
羨ましい。
夏海は自身のセクシャリティに気付くのに時間がかかったと思っている。十九での自覚が他のセクシャルマイノリティの人と比べて遅いか早いかは関係ない。そう思っているのだから仕方がない。
中学生の頃からドラマや映画の中で描かれる胸を焦がすようなストーリーが好きだった。
自分に恋人と呼べる人がいたら、たくさん恋人らしい事をしたい。つまり夏祭りや、放課後にタピオカミルクティーを飲みに行ったり、進学先の違いでケンカをしてみたり、それを乗り越えて受験勉強に励んだりと、そういう
そしてその資質もあった。つまり交際の申し出がゼロだったわけではない。だが、それらは全て断っていた。その相手を好きになる自信がなかったからだ。返答までの期間、今まで妄想していた「恋人らしいこと」の相手として、告白してきた男子をモンタージュしてみても、どうもしっくりこない。自分は理想が高いのかなと葛藤したこともあった。
結局、中学高校は恋人がいなかった。その後、美容師になるために都内の専門学校に進学し、一人暮らしを始めた。
茨木で育った夏海にとって、都会はさらに恋愛に対する欲求を高めてくる場所だった。昼のワイドショーでやっているデートスポットにも行ける。大きな声では言えないが、お酒だって飲むようになったし、茨木にいる頃に比べて自由度が圧倒的に多くなった。
それでも上京して二年は専門学校とアルバイトの忙しさも手伝って、恋愛をする気にはならなかった。自分が「恋に恋している」という状態であると自覚したのも大きい。普通に生きていればきっと、自分が素敵だと思う人に出会えるだろうと思い始めていた。
「―――どんなものをお探しですか?」
「ちょっと今の恰好にプラスワンしたいな……って」
不意に視界の外から声をかけられ、返答とともに視線を送ると、その先には「自分が素敵だと思った人」がいた。
「もう、改札で待ち合わせって言ったじゃないですか」
「早く着いちゃってブラブラしてたらナツいたから。なんで改札前だったの?」
夏海は新百合ヶ丘駅の改札にはクリスマスツリーがあるのを知っていた。そこにいる、そこで待っているクリスマスコーデの恋人というのを里保菜に見せたかったというのは口が裂けても言いたくなかった。それに今の段階ではコーディネイトは完成していないのだから、それを見られるのも不本意。
「プラスワンなくても可愛いよ」
答えに窮していると耳元で里保菜が囁いてくる。プラスワンは店員と勘違いして種明かしをしている。だが今のコーディネイトが未完成で見られたくなかった事や、クリスマスツリーの元で待ち合わせたかった事すら見透かされているようで、囁かれた耳が赤くなる。
「さぁどうする? ワンピース、夕方からだけどまだギリやってるよ?」
無地のロンティーに黒のレザージャケット、タイトなパンツ。里保菜の恰好は普段とさほど変わらない。
「……ナツ?」
「クリスマスっぽい恰好してください。なんか味気なくて嫌です」
「えぇ? 私、そういうフワフワな可愛い恰好できないんだって」
里保菜は少し不機嫌に見える夏海を見て、困ったように笑った。だが夏海は里保菜の返事を半ば聞かずに手を引いてエレベーターを昇り始めていた。
「これならいいですよね?」
夏海はユニクロでチェック柄のヒートテックマフラーを二組、ずいと里保菜に差し出す。一つは赤黒のチェックで、一つは緑黒のものだ。
「うーん、まぁ、これなら」
「じゃあ、そうしましょう。私もプラスワン欲しかったのも事実ですから」
夏海は一瞬にして機嫌を直し、レジへとかけていった。
その後ろ姿を見て、里保菜は思う。夏海はきっと「恋人らしい」のスタンプカードを一つずつ埋めていきたいんだ、と。
大きな駅での待ち合わせ。恋人が来るのを今か今かと待つ。お揃いのものを身に着ける。なんだったら街中で手をつないだり、イルミネーションの前でキスをしてみたり。
そして、もともと、自分はそれが苦手だったことを思い出す。単純明快、照れてしまうのだ。自分がメロドラマの登場人物になったみたいで、急に冷めてしまう。そして、かつての恋人達が、そのスタンスに不満が募って里保菜の元を離れていっているとわかっていた。
「買ってきました! さぁ巻きましょう! お揃い! クリスマスカラー!」
ではなぜ夏海とはそれが出来るのだろうか。その答え合わせをするように、里保菜は夏海にスマートフォンを見せる。
「ワンピースだと、この時間だけどどうする?」
夏海は今その話? というような怪訝そうな顔をしながらもスマホを確認する。『ワンピースフィルムレッド』の上映時間は十八時二十五分からだ。
「うーん、それなら……。これ、この時間の『ホイットニー・ヒューストン』か、この時間の『すずめの戸締り』がいいです。どっちがいいですか?」
夏海の返答を聞いて、里保菜はこの場で彼女を抱きしめたくなった。夏海が提案してきた二作品は、夏海も里保菜も興味があり、かつ「日没前に上映が始まり、上映が終わる頃には陽が沈んでいる」のだ。
「その二つなら、イオンから出てバーンってイルミネーションが目に飛び込んできますよ」
夏海は恋人らしいことに貪欲なのだ。その照れのない姿は、清々しくて可愛らしい。そこまで求めてくれるのなら、多少はそれに乗るのも悪くないと思い始めている。
「じゃあ『ホイットニー・ヒューストン』にしようか。あ、私、赤がいいな。夏海、緑でもいい?」
そういってタグを外していたマフラーをひとつ受け取る。
「え⁉ 珍しいですね。赤とかピンク、持たないじゃないですか」
そう、珍しい。だが、夏海がワインレッドのアウターを着ているから、首元に赤が来るのは不自然だと思った。そんな理由があっても夏海と出会う前の里保菜なら、当たり前のように緑を選んでいただろう。
「黒に赤は映えるからね」
自分の考え方が夏海に染められている照れ臭さを隠すように、里保菜はぶっきらぼうに笑った。
映画までの時間、夏海のリクエストで書店へと向かった。
夏海は自分のセクシャリティを自覚してからというもの、胸焦がす恋愛漫画のジャンルがストレートカップルの作品から、女性同士の作品へと変わっていった。
「あ、里保さん、「つくたべ」、三巻出てますよ」
「おお、それはオネイサンがお金を出してあげよう。ドラマも良かった」
里保菜はこの駅の名前と同じ名前を冠する漫画ジャンルを積極的に好きになることはなかった。それでも夏海の家に遊びに行くと、たまに本棚に手を伸ばしてポツリと「これは面白い」とこぼすことがある。夏海は「そうですか」と返すが、里保菜が気に入りそうな本を本棚の手前に配置しているのは、内緒にしている。内緒にしている、という事を里保菜は気付いているのだが。
「いやぁ、良かったですね」
「……うん」
上映終了後、ポジティブな感想に対して言葉を濁す恋人を覗き込む夏海。
「あれ? そうでもなかったです……ってめっちゃ泣いてる!」
「……うるさい」
里保菜は夏海にからかわれないよう、上映中に鼻をすすることなく泣き続けていた。エンドロールまでに涙を止めようとしていたが、それも叶わず、買ったばかりのマフラーには大量の涙を吸い込ませていた。
「わぁ、里保さん泣いてるの初めて見たかも!」
ポップコーンの脇に置いた紙ナプキンでグジグジと目元を擦り、ポップコーンの箱の中に投げ入れてそそくさと変える準備を進める里保菜。「音楽劇はズルいんだよ。そのチカラで持ってけちゃうんだから。いや普通にドラマとしても良かったけど」と誉め言葉を呪いの言葉に変えて唱えていた。
映画館の入っている商業ビルから出ると、夏海の言っていた計画通り、陽は沈み、ふたりの眼前にはイルミネーションで彩られた広場があった。
「ほら、写真撮っちゃる」と、夏海の背中を押す里保菜。変な言い回しを使っているのは、まだ涙の照れが続いているからだ。
「えぇ? 里保さんも入りましょうよ」
「私はいーよ。目元崩れてるから」
そんな風に言ってふたりは互いのスマートフォンのカメラを向かい合って写真を取り合った。写真に写りたくない里保菜は夏海のカメラから逃れながら夏海を撮り、ふたりで写りたい夏海はインカメラで里保菜を追い回す。
ふたりがはしゃいでいても、周囲の通行人とぶつかるような混雑ではない。ふたりと同じようにイルミネーションを撮影している人を見つけては「あ、ナツ。こっちおいで。すいませーん」とぺこりと頭を下げ、向こうもニッコリと笑いかけてくれるような空間。イルミネーションの規模を言っても、六本木と比べればささやかなものだ。だがそのおかげで人酔いする里保菜と、「恋人らしい」に貪欲な夏海が、笑っていられる。
「ここ、いいね」
「そうですね」
そんな風に、静かに噛みしめるふたり。寒さと、映画の涙で鼻が赤く染まっていた。
小田急線に乗って狛江の里保菜のマンションへと場所を移す。里保菜の部屋の前には置き配の荷物があり、夏海がクリスマスプレゼントをここへ発送していた。
「まだ中身は秘密ですよ」
「別にいいけど、早く見せたいって顔に書いてあるよ」
そんな風に笑いながら小さなパーティの準備を進める。ケンタッキーフライドチキンで買ってきたバーレルを広げ、スパークリングワインのコルクを飛ばしてはしゃぐ。YouTubeでホイットニーヒューストンのMVを観たり、映画の感想をいいあったりしていた。
スパークリングワインは大変飲みやすいが、アルコール度は普段夏海が飲んでいるようなチューハイより高い。自分の顔が熱くなっていると自覚し始めた夏海は、完全に酔っぱらってしまう前にしなくてはいけないことを思い出していた。
「さて、プレゼント交換、しますか。しましょうね。じゃあ、私から行きますよ」
「まだ私何も言ってないけど? やっぱり早く見せたいんじゃん」
「うるさいですね。いいですね、私からですよ」
先ほどのダンボールを取りにリビングを出ていく。リビングとキッチンを隔てるドアがきちんとしまっていることを確認して、はやる気持ちをおさえてダンボールを開ける。箱の中には夏海もずっと欲しかったけど、自分に買うには贅沢なんじゃないか? と思ってしまい、勇気が必要だったものが入っている。
それを見て嬉しくなった夏海は、Wham!の『ラスト・クリスマス』を調子はずれの鼻歌で歌いながらリビングへと戻る。
「じゃーん! セガトイズの『ホームスター』でーす! 家庭用プラネタリウム、知ってます?」
声を張りながら箱をみせつけると、里保菜はもともと大きな目をさらに大きく見開いて、その箱と夏海を交互にきょときょとと見比べていた。
「え? あれ? え、それ、さっき届いてたやつ?」
「え、そうですよ? ごめんなさい、興味なかったですか?」
里保菜は何かを取り繕うように笑うと、「違う違う」と笑った。
「ナツ! ラストクリスマスは失恋ソングだから縁起悪いよ!」
「えぇ⁉ そうなんですか⁉ あんな明るいのに⁉」
「まぁそれはいいか。見せて見せて! うわぁ、すごい。これ欲しかったんだよね」
里保菜は先ほどの取り繕うようなリアクションを微塵も感じさせないような笑顔で、プレゼントの梱包を解いていった。
ふたりで説明書を読み、準備する。ソファにしっかりと身体を預けて、シーリングライトのリモコンで部屋の電気を消す。
「じゃあ、行きますよ。……スイッチオーン」
夏海が意気揚々と本体の電源を入れると、天井がパッと明るくなった。
「え、すご」と里保菜が声を漏らした。このプラネタリウムは電源を入れた後にピントの調節が必要らしいが、偶然にもピントがあっていて、天井一面に無数の星たちが映し出される。本体にセットした原版は、七夕の時期でも都会ではろくに観測することができない天の川をくっきりとはっきりと天井に映し出していた。
「あぁ、ちょっと泣いちゃうかもですね」
「ね」
ふたりはたまに夜道の散歩をする。そのたびに、夜空を見上げて観たりもするし、一等星をいくつか見つけることもある。だが、当たり前だが満点の星空を望むことなど、東京の街ではできなかった。
口をぽっかりと開けて天井を見上げていた夏海の肩を、ぐっと里保菜が引き寄せた。里保菜のヘアオイルの香りが鼻孔をくすぐる。
「ナツ、これ、ありがとう。……でも、ごめん。私、実はプレゼント用意できてないんだ。明日、都内行った時に一緒に選んでもらっていい?」
「……そうなんですか。……忙しかったんですか?」
「……いや、……うん。忙しかった。ごめんね」
「……いいですよ。里保さんが選んでくれたものが良かった気もしますが、嬉しいです」
「やっぱ、そうだよね」
肩に伝わっていた里保菜の腕の力がふっと弱くなるのを感じた夏海は、あわてて「いや、ごめんなさい」と言い添える。
「ごめんなさい。私、ほら、……なんか。わがまま、ですよね。里保さんは社会人で、そりゃ忙しいわけで……」
「違う違う。やめて。私が用意してなかったって話なんだから。私が悪いの」
ふたりの間に、少し重苦しい空気が流れてしまう。夏海がふと天井を見上げると、プラネタリウムの天の川にスッと流れ星がなれる。そういう機能があるのは知っていたが、不意にみると驚きがある。
「里保さん、流れ星流れました!」とわざとらしく言ってみると、里保菜も「えぇ! プラネタリウムなのに⁉ 嘘だぁ⁉」と寸劇くさいリアクションを返してくる。説明書を見ているのだから流れ星は知っているはずなのに。
「じゃあ次流れたらお願いしよ。ナツが可愛い、とっておきのサンタコス着てくれますように、って」
「えぇ、やだぁ。っていうか、プレゼント用意してないのに、それはあるんですか⁉」
「あ、そっか! ごめん! マジでごめん!」
プレゼントを用意してない事は笑い飛ばせることになっていた。
ベッドで寝ている里保菜を起こさないように気を付けながら、眠りから覚めた夏海はダブルベッドからそっと降りた。裸のままでは少し寒いと思ったが、ベッドヘッドにあるスマホを持って、トイレに移動し、そのまま少しスマホをいじった。
「ほんとだ。クリスマスにフラれる歌なんだ」
スマホの画面には『ラストクリスマス』の訳詞が表示されていた。その歌詞を読みこんでいくうちに、なんだか足の先から沼に落ちていくような感覚に陥った。
夏海は今までの人生で「フラれた」という経験がない。男性からの告白はすべて断っていたし、夏海から誰かに告白したのは里保菜が唯一の人だ。
もし里保菜との別れがくるとしたら、里保菜にフラれる時だと、なんとなく思っている。
里保菜はたくさんの女性と交際してきた「いいオンナ」だし、夏海は自分の恋愛観を「子供じみている」と自覚している。
里保菜には里保菜の過去があって、自分にはそれがない。その永遠に埋まらない距離に悩むのは今日が初めてではない。
あのダブルベッドで、どんな人が里保菜に触れられてきたか想像すると寒気がする。里保菜の肌に、その見知らぬ女性の舌が這っていた事実があると思うと頭の中を虫が
そんな悪い想像を振り払うようにトイレから出て、再びダブルベッドへともぐりこんだ。トイレで身体を冷やしてしまったせいだろうか。起毛のシーツと毛布で肌を擦られるのは普段だったら快感なはずなのに、目の細かい紙やすりで撫でられるような不快感があった。
その身体を温めるように、その先にある肌に触れる。
「ナツぅ、冷たぁい」
起きているのか、寝ぼけたままの返事なのかはわからない声がする。拒絶するようなトーンではなかったので、そのまま腕を通し、手のひらで乳房を包む。
「ナツぅ? 今、何時?」
そう聞かれて気付く。先ほどスマホで見た時間は、もう朝方と言っても差しさわりない時間だった。そんな半端な時間に起こすなんて、それこそわがままという物だ。
「おやすみなさい」と里保菜の耳元でささやいて、リビングへと移動した。リビングは冷え切っていたのでエアコンをつける。そしてソファにかかっていたブランケットで身体を包みソファに横たわる。
手を伸ばしてホームスターを起動させ、天井一面を星空へと変貌させる。
「ずっと一緒にいたい」
おもちゃの流れ星に願いを込めて、眠りについた。
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