2022年、クリスマス。

伊藤祐真

第1夜「クリスマスまであと一週間」

「クリスマスは、どうします?」

 夏海はテレビのプログラムがCMに入ったのを確認すると、用意していた行動をとるようにソファーから立ち上がった。空になっている缶ビールと、アルコール度数の少ない缶チューハイをシンクに下げて、新しいそれらを持ってリビングへと戻ってくる。

「あー、クリスマスねぇ」

 里保菜は、その話に興味がない事を隠そうともせずに自分の前髪をねじって遊んでいる。

「一応、初めてのクリスマスなんですけど」

「うそだぁ。だって去年、……あ、そうか。付き合ってはないのか。ヤッちゃったけど」

 里保菜が大きな口を意地悪く持ち上げて笑う。夏海は缶ビールを里保菜のスウェットの背中に押し込んで、さらにそれを身体へと押し当てる。

「やー! つめ、つめた! やー! やめて! ナツ! ぬるくなる! ぬるくなるし、冷たい! だぁ! ちょ、CM! CM終わる!」

 交際前に性交渉をした。この事実が、夏海にとって悔しいくらいに恥ずかしい出来事である事を、里保菜は知っていた。だからこそ、ことある事にその話を蒸し返しては夏海の反撃を待つ。

 楽しそうに悶える里保菜を見て、ひとしきりの満足をした夏海はスウェットに手を突っ込んで缶ビールを取り出して里保菜に差し出す。

「ケダモノっ! ノーブラだってわかってたから入れたんでしょ!」

 里保菜は襟元を両手でぎゅっとつかんで、わざとらしく夏海を責めてみせる。

「じゃあ、背中じゃなくて前に入れましょう」と、自分のチューハイのプルタブを起こすのをやめて、立ち上がる。

「だー! ちょ、マジで! あ、はい、CM終わった! もうだめ! ナツ! 終わり! さぁて、真空ジェシカまだ来ちゃだめだよ!」


 二〇二二年、十二月十八日。日曜日。里保菜と夏海は、里保菜のマンションに集まって、M1グランプリを観ながらじゃれあっていた。

 ロシアが戦争を始めたり、日本での出来事とは思えないテロが発生したり、新型コロナウィルス感染症の流行から三年目でようやく移動制限のないハイシーズンを迎えたり、サッカー日本代表がグループリーグ一位で決勝トーナメントに駒を勧めたりと、様々な事があった。

 そんな一年は、あと二週間ほどで「去年」になる。


 この一年の出来事で、最も重要な事を夏海は思い出していた。

「そろそろ……、一年になりますね」

 先ほど里保菜がからかったように、里保菜と夏海の〝関係〟は去年のクリスマスに始まっていたが、正式にお付き合いをしましょうと示し合わせたのは今年に入ってすぐのことだった。

「ね。早いね。……この一年、いろんな事があった。激動だったよね。若くないのによくやるよ」

 里保菜はソファから前のめりになってテレビに向かっているが、優しい声で言葉を返す。

「何言ってるんですか。歳の差はあるけど、全然これからじゃないですか。もっともっと面白い事ありますよ」

「そっか。そうだよね。これからも楽しみだ。地方でも輝けそうだし」

「そうですよ。夏は鎌倉行って、秋はどこも行けなかったから―――」

「えぇ!? まって、私たちの話!? ごめん、錦鯉の事かと思ってた」

 里保菜は握りこぶしの一つでも入りそうなほど大きな口を開けて笑ったと思うと、次第に不機嫌になっていく。

「『歳の差はあるけど』って言ったよね。あれ錦鯉じゃなくて私達のことか。へこむ」

「年の差って言ったって―――。あ、待って、観ましょう」

 テレビで二人は寸劇めいたやり取りを中断し、ソファにしっかりと身体を預け直した。


「いやぁ……、私はさや香がよかったなぁ」

 おそらく今頃、日本中で行われているであろう会話を、ふたりも例から漏れずには始める。この会話を含めてM1グランプリと呼ぶのだと、ふたりは分かっていた。

「あれ? 去年って一緒に観てないよね?」

「当り前じゃないですか。出会ってすらないですよ」

 夏海は自分の言葉の無防備さを後悔する。

 しまった。また出会った日に肉体関係をもった事をからかわれるに決まっている。そもそもそれは里保菜だって同じわけだから、からかわれる言われはないのだけれど。

「じゃあ来年も、再来年も、一緒に観ようね」

 しまった。こういう事も不意に言ってくる人だった。夏海は照れ臭さで表情が崩れそうになるのをなんとか整えて、ソーデスネとだけ答えた。

「でー、クリスマス、どうするって話だっけ?」

 さっきはふざけながら話を終わらせたのに、きちんと覚えてくれるようなまめな所も里保菜の魅力だった。

「あ、あのですね。今年のクリスマス、イブと当日が土日なんですよ」

「あぁ、なんか会社の子達が騒いでたなぁ」

「でですね。私、就職しちゃえば土日休みじゃなくなるわけですよ」

「確かにクリスマス当日なんて髪セットしたい子、いっぱいるよね。あ、そうだ、そろそろ切ってもらっていい?」

「いいですけど、酔ってるからまたにしましょう。……で、それは置いといて。つまりですね、私たちがゆっくり過ごせるクリスマスは今年を逃すとかなり危うい存在になってしまうんですよ」

 夏海は里保菜の目をしっかりと見て、少し大げさな身振り手振りを交えながら説明を重ねていく。しかしその用意周到なプレゼンテーションが進むにつれて、里保菜の眉間にはしわが集まっていく。

「言いたいことわかってきたよ。……イルミネーション行きたいんでしょ?」

「え、えぇ。まぁ。できたら横浜の赤レンガか、よみうりランド辺りに。……いや、顔、露骨! 嫌なんでしょ!?」

「いやぁ……、なんというか『絶対に嫌か?』って言われると、まぁ、答えはイエスだよね」

「絶対に嫌なんじゃないですか。……やっぱり人酔いですか?」

「そう。もうね、私の人酔いなめちゃいけない。『人が多くて疲れるぅ~ん』とか想像してるでしょ? 違うの。本当に酔うの」

 夏海が里保菜の人酔いに関する説明を聞くのは二度目だった。最初は半年前。どこかの花火大会に行かないかと提案した時だ。最も、ふたりの生活圏から一番身近な多摩川の花火大会は新型コロナの影響で中止が決定していた。そんな絵空事のような提案だったので、夏海も話半分で聞き流してしまっていた。思えば、梨泰院の将棋倒し事故のニュースがテレビで流れる度にチャンネルを変えていた。

「まぁあれは人混みのニュースって言うより、心痛いニュースだからね。とにかく、人混みは勘弁! ごめんね!」

 里保菜は顔の前で合掌を作り、口をとがらせながら冗談めかしたぶりっ子の表情を作る。夏海はこの里保菜がふざけているのが好きだった。他にも、寄り目をしたり、下顎と下唇を突き出してチンパンジーのような顔を作られると決まって笑ってしまう。そして笑ってしまった後は大抵の事を許してしまう。

「ま、しょうがないですよね。私だってお化け屋敷行こうって言われたって無理なわけですし……」

 夏海がこぼした、少しだけ寂しさの残る声。

 それを聞いた里保奈は、ビールの缶をテーブルに置いて、そっと両手を広げてみせる。

「おいで」

 夏海は背中から里保菜にもたれ掛かった。なんだか正面から抱き合うと、イルミネーションに関するワガママを言ってしまうような気がしたからだ。

「ゆっくり出来るクリスマスか。イルミネーション以外だったら、何がしたい?」

 夏海の艶のある落ち着いた茶色の髪を撫でながら、里保菜が聞く。

「普通におでかけしましょうか。土曜日、イブは映画でも観に行きましょう」

「いいよ。今だと『すずめの戸締まり』とか、他はなんだろう。ナツって『スラムダンク』読んでないんだよね? 『Dr.コトー診療所』も世代じゃないよね」

「うーん。『ワンピース』は?」

 夏海は自分がそのタイトルを挙げると、里保菜が「またぁ?」と笑ってくれる事を知っていた。知っているリアクションが返ってきて、ふたりで小さく肩を揺らした。

「まぁ、当日決めよっか。あとはどうする? ねぇ、私あれ食べてみたい。あの丸太のケーキ」

「えぇ? ブッシュ・ド・ノエルですか? 無理ですよ。あぁ言うのはかなり前から予約いるんです。……でも、スーパーとかコンビニなら間に合うのかな」

「じゃあ、普通のケーキにしようか。丸太のやつは来年以降でいい」

「だーかーらー、来年以降は―――」

 夏海が言い含めるように語気を強めると、里保菜は夏海を抱いていた腕の力をギュッと強めた。

「来年は一緒にいてくれないの? 忙しいってだけでしょ?」

 夏海は何も言わずにコクリと頷く。そして腕の中でするりと体勢を変えて、対面で体を密着させた。

 もう自分の中からワガママは出てこないと確信できた。

「他にしたい事は?」

 里保菜の大きな瞳が、自分を覗き込んでくる。

「えっと……」

「それダメ」

「まだ何も言ってないじゃないですか」

「違う。その『えっと』って言いながら俯くの、ダメ。可愛いからなんでも聞いてあげたくなっちゃう」

 里保菜はニヒルに口角を持ち上げておどけてみせた。キザな物言いも、里保菜が冗談めかして言うと日常の中に溶け込む。彼女は自分でそれをわかっているのだと、夏海は思う。

「なんですか、それ。……え、イルミネーションも?」

 封じ込めたはずのワガママがすぐに出てきた事の恥ずかしさと、本当はイルミネーションも飲んでくれるのかという驚きを里保菜にぶつけてみる。

「あちゃー、そうなるか。そうなるよね。……よし、じゃあこうしよう。映画館は新百合ヶ丘でしょ? 新百合だって駅前、結構綺麗なんだから、それは見よう。で、日曜日は都内に出て、それで買い物。ね? とにかく、イベントとしてのイルミネーションは、もうホント、こりごりなの」

 里保菜が眉毛を八の字にして提案してきた内容は至って現実的だった。里保菜は狛江で、夏海は向ヶ丘遊園。ふたりとも小田急線沿線に住んでいて、映画に行くといえば新百合ヶ丘に行くことが多い。それにふたりの専門学校や職場は新百合ヶ丘とは反対方向にあるので、まだふたりとも新百合ヶ丘のイルミネーションは見ていなかった。

「うん。まぁ……、そうしましょうか」

 夏海が十分に納得して笑顔を見せた事を確認すると、里保菜は「決まりぃ〜」と言って夏海を抱きしめた。

「私もね、イルミが嫌って言ってるんじゃないんだよ? 人が多いのがダメなの。だからイルミは本当に楽しみなんだからね」

 里保菜は子供をあやすように背中をさする。「はい。ありがとうございます」。夏美の声は無くしたと思い込んでいた大切なものを見つけた子供みたいに安心しきっていた。

「なーんでホック外したんですか。今日は帰りますよ」

「えぇ? もう十一時になるよ? しかも飲んでんだよ? 泊まっていきなって」

「だぁめ。卒業までに出来るだけ学校の設備使いたいんですから。里保さんだって、明日仕事ですよね」

 里保菜は背中に回した腕に力を込める。ふたりの体温が溶け合うほどに密着し、柔らかな波に漂うような感覚が訪れる。

「ダメ。こんな時間に帰せない。心配。それにここから学校行った方がむしろたくさん寝れるでしょ?」

 里保菜の声が夏海の耳元で揺れる。硬質で低めの声は、真剣に夏海の身を案じているのがすぐにわかった。

「早く起きるんでしょ? 今日は早く寝よう?」

 里保菜は子供に言い聞かせるように夏海に笑いかけてみるが、夏海はすでに聞き分けの悪い子供のように、睨むような、何かをねだる表情を浮かべていた。


 里保菜の寝室にはダブルベッドがある。社会人になり、最初の転職を経て「暦通りの休み」と「ボーナス」を手に入れた。

 休みは暦通りのほうがいい。どこに行くにも混雑しているが、里保菜の人酔いは極端な満員電車や、イベントの帰宅時刻などの度を越した混雑でなければ発生しない。

 やはり多くの人が休んでいる方が遊びやすいと思ったのだ。

 そして"遊びやすい"働き方を手に入れたのだから、初めてのボーナスでダブルベッドを買った。

 里保菜は女誑しだ。まず、顔が良い。フィリピンと日本の混合ルーツを持つ母親と、在日米軍として日本にいた白人の父親を持つ。それでいて自分から名乗らなければそこまで多国籍なルーツがあるとはわからないほど、日本人的な顔立ちをしている。

「きっとママのパパがビックリするほど日本人な顔だったからだね、きっと」

 自分のルーツを知って驚く女性に、いつも言うセリフだ。ここで「ママ/パパ」という言い回しをする理由が明確に存在する。里保菜が急に欧米的な言い回しを使うと、その瞬間に里保菜の顔が多国籍に見えてくる。黒髪と黒い瞳で日本人的だと思われるが、窪んだ目元、高い鼻、大きな口と色気のある唇、小さな顔。店員を呼ぶ時に挙げる腕も長く、グラスを掴もうとする指は繊細さを宿している。

 こんな風に、隣で飲んでいた女性を、自分の身体を舞台にしたエキゾチックな小旅行に旅立たせることが出来たら、もう里保菜の勝ちだ。

 そんな風に遊ぶためには学生の頃から使っていたシングルベッドは不都合が多かったので、初めてのボーナスでダブルベッドと、どんなに動き回っても身体が痛くならないような高級なマットレスを買った。

 何人かの女性が、このベッドの上で里保菜の虜になった。割り切った関係の人もいれば、離れるのに時間と途方もない労力を要した人もいた。

 そして、今、そのベッドに横たわっている夏海は、里保菜から見ればまだ子供だった。

 去年のクリスマスは十九歳。その時は未成年だったが、今年の四月に法改正があり、二十歳の誕生日を待たずして成人になった。

 八月の誕生日には革製のキーケースを贈った。里保菜にとって、その時々の恋人に革製品を贈るのは初めての事だった。経年変化を楽しむ革製品は、自分の恋人にとって不相応だと思っていたからだ。かつて最も長く続いた恋人ですら一年と一緒にいたことがない。里保菜は自分が誰かと生活を共にするのが苦手なタイプなんだと理解している。

 それでも里保菜は、夏海が愛おしかった。それが恋愛なのか、庇護欲なのかはわからない。けれども、夏海に渡す革製品であれば、一緒に経年変化を楽しめると感じていた。


 師匠も走る程の忙しさとはよく言ったもので、十八日からの一週間、里保菜と夏海は電話連絡すら取らなかった。

 メッセージアプリを使って、クリスマスイブの予定を詰める程度の連絡しか取れていない。

 クリスマスイブ、夏海が所望したのは「駅前での待ち合わせ」だった。

 二十三日に里保菜のマンションに泊まりに来ればいいと提案したが、「待ち合わせがしたい」と譲らなかった。

 きっと夏海なりの考えがあるのだろう。それならば、と思い、里保菜はスマートフォンで通販サイトのアイコンをタップした。

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