感情算盤

熾火灯

感情算盤と味玉

 人間の感情は46種に細分化できる。しかしその大元にあるのはたったの5種類。楽しみ、嫌気、悲しみ、恐れ、怒り。それだけだ。

 昔の──身体に算盤を埋め込む前の人たちは、私達ほどメンタルケアに関心がなかったらしい。それは無頓着から発する無関心ではなく、健康との相関性が曖昧だから未解だっただけだとか。

 相対的に見れば、今の私達はよっぽど恵まれている。算盤と呼ばれる電子チップが普及するよりずっと前、人類は適切な自身の管理ができていなかったのだ。

 けれど、全てが可視化されているそれは、酷く空虚で、退屈だ。

 放課後の教室で一人、ため息をつく。拡張現実で表示された映画に意識は行かなかった。興味がないのだ。これは趣味でもなんでもなく、素行不良の私に課された追加授業なのだから。

 「旧人類の感情との向き合い方」という名目で、世界的にヒットしたという恋愛映画を見せられた。算盤の記録を見た教員とカウンセラーによって、私の情操を叩き直すために必要と判断されたカリキュラム。

 映画の中では、夢に向かって自由に生きる青年と、家柄に縛り付けられて不本意な結婚をさせられる名家の娘が、豪華客船で出会い、駆け落ちしようとしている。

 娘は家柄に囚われるあまり自棄になり、身投げしようとした。この頃の人たちの機微は分からないが、不安と無力を行き来して感情をすり減らすなんて、馬鹿な話だと思う。今なら身投げに至るほどのストレスを感知するよりも先に、国からカウンセリングの受診義務が課せられる。

 あんまりにも退屈だったもので、拡張現実の端を注視する。血圧や心拍の他に、感情表記の項目もある。現代において、自身の感情は可視のモノ。他人の感情だって、流通した違法ツールによって見えてしまう。ツールを利用していないものの方が少数派な昨今、この世には見えないもののほうが少ない。

 というか、違法ツールなんて皆入れてる。私は詰めが甘かったので、定期検診でログを消し忘れた。おかげで更生カリキュラムなんて受けさせられる始末。

「あ、平穏」

 私の感情表記が無感情から平穏に切り替わった。先人達への哀れみは、機械的には平穏に分類されるらしい。

 ほんと、馬鹿らしい。

 でも同時に羨ましくも思う。だって彼女の心は、未知への期待に満ちていて、そこへ踏み出すのが怖いというだけのもの。退屈そうに拡張現実を見つめる私より、よほど──。


 肩を揺すられ目を覚ます。呆れ顔した教師の顔がそこにある。

「ログの提出が遅いから、てっきり逃げたかと思ったがね。まさか夢に逃げていたとは」

「ラブコメのとこまでは見てたんですけどね、船が沈みそうになってパニック映画に変わってからは記憶がないです」

「んー……」

 感情のログデータを共有すると、担当教師は眉間にシワを寄せ、悩ましげに頭を掻いた。

「後半は使い物にならんな。正常な人間なら悲恋を見てリラックス状態にはならん。このまま提出したらカウンセリング八時間は固いよ」

「うぇ、記憶ログ消して観直しってこと? このアホな旧人類の求愛映画を!?」

「まあ本来ならな……」

「書き換えてよ先生。……先生も残業嫌でしょ」

「キミがもう少し手のかからない生徒なら残業しなくて済むんだがなぁ……」

 教師はため息をついて、入念にログを見返している。と、不意に彼女の手が止まった。

「キミ、この映画を見て何を思った?」

「え、アホくさ〜と」

「ああ、憐憫は平穏に分類されるからな。その後だよ」

 教師はログデータの一点を指差す。楽しみの派生である平穏から、悲しみの派生である逸脱へと感情が推移している。

「覚えてねェ〜……。レムレムしてた記憶がある……」

「こっちも残業は御免だ、ちょっと我慢したまえ」

「あっ! どこ触ってんのエッチ! 教師が人の脳にアクセスする気かよ! それでも聖職者か!」

「聖職者も人間だ、不正を御さない善性があると思うなよ」

「脳が〜〜〜〜〜〜!!!!!!」

 試しに暴れてみたものの、この女教師は細腕の割に力が強かった。うなじ部分にケーブルを挿入されると、妙な生温さを感じてくすぐったい。

 脳にケーブルを刺す有線接続による、算盤への不正アクセス。過去から今に至るまでに想起した心の内をすべて曝け出すそれは、恋人や家族でも滅多に行わない。

 素行不良の私に目をかけてくれるこの教師相手なら、すべてを晒しても構わない。なんて考えたのは、一時の気の迷いだったと思いたかった。

 

「うっし、改竄終わり!」

 教師が満面の笑みでケーブルを外す。先程まで連結していた私達が離れた途端、なんだか少し人恋しいような寒さを覚えた。

「うわー、悪徳教師」

「馬鹿言うな、私ほど生徒想いの前時代的な教師なんて希少価値だぞ」

 感情ログデータを見返す彼女のやり方は、たしかに前時代的だ。レム睡眠込みのデータを提出して、私にカウンセリングを受けさせるほうがよほど楽。彼女にとっては、私に感情を、過去を、すべてを曝け出すメリットなんて一つもないのに。

「ていうか、先生もかつては私と同じでドロップアウトガールだったんですねぇ〜。なんか意外」

 映画を視聴している間の感情ログデータを教師が探っている最中、私も彼女のログデータを漁っていた。不正アクセスとはこういうものだし、各記憶ログへのアクセス権は勝手に付与される。

 見てしまったのだ、彼女の過去を。かつて私と同じように空虚さを覚えていた姿を。

「だって気味悪いだろ、自分も相手も考えてることが筒抜けで、全部分かってるのなんて」

「やっぱ先生って考え方古くない? 相手が分からなくて不安になって、変にストレス抱えてカウンセリング受けるよりマシじゃ?」

「うわー、算盤世代め。私の時代はまだ親世代が否定的だったんだよ。お前に見せた映画のような旧人類の名残だ」

「なんでそんな不合理な」

「ロマンだよ」

「死語だよ先生……」

 かつて、彼女も同じように言われたのだと知っている。自身の感情を可視化されて、他人の感情も任意に可視化できる時代の中で、自分の抱える懊悩の答えが目の前にある状態。

 映画の中で見た旧人類のあの子のように、葛藤を抱く間もなく、不安に怯える事もない。代わりにに私達新人類が得たのは、虚しさだ。

「先生はさ、やっぱ親世代みたいに算盤否定派なの?」

「どっちでもない。便利に使えばいい、見えてる方が都合がいい時もあるし、見えなくて不便な方がいい時もある」

 釈然としない私の表情を見て、教師が口を開く。

「ラーメンでも食べに行くかね」

「は?」

「もう遅い時間だろう、どうせ私も今から帰るんだ。奢ってやろう」


 歓楽街の路地裏、古風なラーメン屋の屋台がある。映像記録の中でしか見たことのないそれは、小綺麗なビル群の影にひっそり潜むレジスタンスめいている。

「ラーメン2つ、あとビール」

 教師は慣れた様子で注文を済ます。並んで座って、滅菌されているかも怪しい水をグラスに注ぐ。不衛生な環境よりも、アルコールなんて提供している店があることの方に驚いた。

「自己保存を諦めてらっしゃる」

「いや、メンタルヘルスの保全のためさ。見たくないもののほうが多いこの国で、簡単に手に入って、現実を希釈することができるのはアルコールだけだ」

「今すぐ教員免許を剥奪した方がいい……。というか、いいんですかこんなの。公私は分けるべきでしょ、公務員なんて逐一記憶ログチェックされるんだから」

「更生活動の一環と言えば無罪放免になるそうだよ、受け売りだがね」

 さっき盗み見た記憶を思い出す。先生は過去をなぞっているだけだ。かつて自分がされたように。

 そんな眼差しに気づいて、先生はニヤリと笑った。

「どう映る?」

「……悲哀?」

「表記上はね。でもきっと正しくは哀愁」

 店主が無言で丼を提供する。店主の感情は見えなかった、彼は錆びついた機械だ。

「感情は卵みたいなものだと思っていてね」

「何すかいきなり」

 先生は丼に浮かぶ味玉を指した。油にまみれた薄茶色のスープに浸かったそれは、屋台の薄汚い照明を受けて、わざとらしいくらいに照っている。

「親世代のそのまた昔、何とかってテレビドラマがあったんだと」

 事実上ノーヒントじゃん。

「オープニングで卵の殻が割れるんだ。でも出てくる黄身は黄色くない」

 それはもう黄身と呼べるのだろうか。

「中が何色か分からないから面白くてね。その部分だけずっと記憶に残ってる」

 先生は箸で卵を挟み、圧をかける。弾力を持った白身に箸が沈む。

「心なんて、周りの影響で色を変えてくもんだろう? 他人の中なんて分かりゃしない。触れれば自分が壊れかねない、自分が何色かもわからない。旧世代はそんな曖昧な不安に揉まれて生きていたんだよ」

 圧に耐えきれなくなった白身が裂ける。半熟の黄身が漏れ出して、薄茶色のスープと混ざり、溶けてゆく。

「でも私はそれが面白いと思ったんだ。開けるまで何色か分からない。驚嘆しているようで落胆しているのかも、嘘が嘘たり得た最後の時代」

「まさかそれ言うためだけにラーメン屋に連れてきたんじゃないでしょうね」

「君の感情ログデータの一点にね、平穏から無力への起伏があった。こいつはしっかりモノを見て、捉えて、きちんと考えられるやつなんだなと感心したよ」

「無力」

「思うに、旧世代への憧憬だろ。他人の心が透いて見えるのに、見えずに藻掻く行き方なんて、今の私達には到底できない」

 言葉にされて初めて理解する。あのときの私は、未知に踏み出す浅はかな旧人類の登場人物を羨んだのだと。

「別に使うなとは言わないよ。皆使ってる、私だって記録の改竄を平気で行ってるし、偉そうに言えたもんじゃない」

 味玉を口に運び咀嚼する彼女の色は、教職や親に多いナチェス──子の成長を喜ぶものだった。ビールを呷った瞬間、その色が瞬時に感覚的な快楽の色に変わる。

「………………癪だな〜」

 算盤を遮断。自分の感情も、先生の色も、何もかもが見えない。純粋な視界のみが映す映像を、私は久しく見ていなかったと思う。

 先生に倣って、卵を裂いてみる。

 目を剥いた。先生は隣で驚嘆の声を上げる。

「すごいな。当たりだ」

 緑色の黄身が薄茶色のスープと混ざって、黒く……。

「当たりとかあんの……視覚的にはハズレでしょこれ……」

 まあ食べるんだけど。

 レンゲに載せた卵を口に運ぶ。鶏ガラ出汁の醤油スープが程よくまろやかな口当たりになって、思わず顔がほころんだ。

「な、今の私は何色に見える?」

 そんな私の姿に、先生はからかい混じりに問を投げた。見えるわけがない。でもまあ、抱いていた空虚さは、少しだけ薄れたような気がする。

「さあ……多分、平穏です」

「そうだね、今のお前も同じ色だよ」

 先生は満足そうな笑みを浮かべた。貴女の記憶の中にあった誰かと瓜二つの。

 なんだか、少し癪だ。

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感情算盤 熾火灯 @tomoshi_okibi

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